聖霊の必要性
自分で生きていくのではなく、聖霊に動かされていく、、、
言い換えれば、もう自分でどうのこうのする必要はないのだということなんだと思います。
イエスと共に。ホーリースピリットと共に。神の平安に抱かれて。神の愛に包まれて。
わたしたちは、「この自分がいかに満たされていないか、幸せでないか」
ということにまったくと言っていいほど無自覚だといえます。
無意識的なところではそのことを常に感じているにも関わらず、
この世のものでそれを埋め合わせることに躍起になって、
そのことが不自然なことだとはだれも疑うことがありません。
本当は「幸せ」ではないのに、自分自身を欺いているということです。
まんざらでもない状態でそれなりに満足しているというか、妥協している
というのがわたしたちのしていることです。
もしくは、その状態にマヒしてしまっているといえます。
そんなわたしたちにとって、
「自分は満たされてはいない、自分は幸せでない、自分は不幸である」
と自覚することは真の幸せを求めるためにとても重要なことだといえます。
そして、もしあなたがそう感じているのなら、
ある意味でとてもラッキーだと捉えていいと思います。
なぜなら、その自覚によって真の幸せを求めるきっかけになり得るからです。
自分はまだ真に満たされてはいない、自分はまだ真に幸せではない、と、
わたしたちはもっともっと自覚的になる必要があるといえましょう。
その自覚こそが、真の幸福へと、神のもとへと帰るべく、
あなたをその旅へと誘うことになるでしょう。
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中のジーザスはこう言います。
その旅は、時間の中の旅における最後の旅路になると。
でも、この旅は、けっして一人で歩むというものではありません。
道を示してくれるジーザス(イエス)がいます。
共に歩んでくれる聖霊がいます。
自分は幸せでない、満たされてない、と感じる時、
それは、イエスからの、聖霊からの、聖なる呼び声だと理解していいでしょう。
どうぞ、静かになって、
ハートからの聖なるコーリング(calling/呼び声)にもっと耳を傾けてみてください。
それを試みるとき、あなたはきっとその声を受け取ることでしょう。
心が分裂している症状を統合失調症と呼びます。
以前は、精神分裂症という呼び方で呼ばれていました。
真理からみれば、わたしたちはだれもがみんな精神分裂症だということが出来ます。
例外なくだれもがみんな、です。
この二元性の世界を知覚しているかぎり、そうだということです。
自分の内側をよくよく内観(Inner Inquiry)するならば、
自分の心の中に「神を求める自分」と「神を拒否している自分」の
相矛盾する両方の心があることがはっきりと認識されます。
つまり、それは心が分裂した状態であり、
それこそがこの分離の世界を、この二元性世界を生み出す原因となるものだと言えます。
わたしたちは、神のもとに帰りたいと望んでいながらも、
同時に神を怖れている、神に抵抗している、神と戦っている、、、
ということが心のなかで起きているのです。
「神」という言葉を、「愛」といった言葉で置き換えてもかまいません。
さらにまた、「神」という言葉を、「平安」や「幸せ」という言葉で置き換えてもいいです。
もし、あなたが、自分はなぜ不幸なのだろう?
どうして、自分は幸せではないのだろう?
なぜ、自分は幸せになれないのだろう?と感じているのならば、
つまりは、そういうことだと言うことが出来ます。
幸せを求めていながらも、真に幸せになることを拒否しているということです。
そのように分裂した心のままでも幸せになれる、と信じているということです。
まさに、その分裂した心とは、狂気としか言いようがありません。
分裂した心のままいくら幸せ(神)を追い求めても、
幸せ(神)に到達するということは絶対にあり得ません。
というのも、いくら幸せ(神)を求めようとも、
幸せ(神)に向かおうとするのを邪魔する自分と悪戦苦闘することになるだけです。
たぶん、これまでのわたしたちは、スピリチュアルや宗教や修行という名のもとに、
そのことに計り知れないほどの時間と労力を費やしてきたのだといえるでしょう。
まさか、自分の中に、自分が幸せになることを咎める自分がいるとは、思えないことでしょう。
とくに、スピリチュアルの探究者たちは、自分の中に神(幸せ)から遠ざかりたい自分や、
神(幸せ)に抵抗している自分がいることを認めたくはないかもしれません。
神を咎めている自分、神に抵抗している自分、、、それを、自我(エゴ)と呼びます。
その自我に気づいていくことが、神に向かうための一歩になります。
そして、その自我を取り消していくことが、わたしたちが取り組んでいく道だといえます。
その道は、けっして、自我を無視したまま神(愛)へと向かうものではありません。
もし、そうするならば、それは自我と戦うということであり、その戦いに終わりはありません。
まずは、神(愛)に抵抗している自我に気づいていくことです。
そのために、自分の内面の無意識に取り組んでいく必要があります。
それによって、自我と同一化していたアイデンティティから解放されていきます。
私がしているセラピーとは、そういうものだと理解していただけたらと思います。