2017/10/15

ラマナ・マハルシと聖霊に導かれて

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


今回は、フランシスさんが自身の歩んできたスピリチュアルな道について語っています。



以前、フランシスさんを紹介した記事でも述べましたように、彼女は、私(もりG)から見て、まさに「智慧の人」という印象があります。

YouTubeではじめて彼女のトーク内容に触れた時、ノンデュアリティのスピリチュアルを学んできた方や、または、それを経由してコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)にたどり着いた方々に、ぜひお薦めしたい、シェアしたいと思ったのは事実です。

それほど、彼女のトークの内容は、じつに明晰で分かりやすく、東洋の非二元の教えにかなり精通している人だという印象を受けたのを覚えています。

今回のこのトークで、彼女は、実際にラマナ・マハルシの教えを学んでいたということを知って、なるほど、と私はすごく納得できました。


フランシスさんから出てくる言葉の鋭さは、ノンデュアリティのスピリチュアリズムを探究してきたがゆえのものだと。


興味のある方は、どうぞご覧ください。


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<ラマナ・マハルシと聖霊に導かれて>


フランシス:

コースを始めた頃と時を同じくして、わたしは、非二元の教えにもものすごく引き込まれていました。このコミュニティーに来る前の話です。

最初の頃は、実際に非二元の話の方がとても純粋だと感じていて、二つの教えに引き裂かれていました。

ラマナ・マハルシが大好きで、彼の本やオンラインで入手できるあらゆる彼についての文書を、すべて読みました。

そして、ラマナ・マハルシの教えの方がシンプルだし簡単な方法だ、と内心は思っていました。

ラマナ・マハルシが言っているのは、”I Amness(アイアムネス)”にとどまりなさい、その心の状態にとどまりなさい、ということです。

なぜなら、誰もいないし、苦しみは無い、すべては幻想であり、全部作り話である、「私は誰か?」と問うてそこにとどまるだけだと言います。

わたしはこの教えが大好きでした。


しかしこれは、わたしのカリキュラムではありませんでした。

なぜなら、同時期に、聖霊はわたしをコースへと推し進めるよう導いたからです。

その道の歩みは、初めはまるで自分の外側から、イエスや聖霊について語られるというものでしたが、次第に自分の外側からではない体験へと変わっていきました。

わたしがしなければならないことは、瞑想して空っぽの状態にとどまることではありませんでした。

自分では、その時の自分の状態よりももっと進んでいると思っていて、わたしはすでに”I Amness(アイアムネス)”に留まっているし、彼の言っていることにとても深く共鳴しているし、すべて理解できていると思っていました。

しかし実際には、わたしの心はその準備ができていなかったということです。

結局、わたしの旅は、幾重にも重なった層を露呈し、闇を浮上させ、さらけ出し共有し声に出して伝え、そして聖霊に従うという旅へとなっていきました。


今のこの地点から振り返ってみると、自分だけではどうやったとしても、ここまで来ることはできなかったと思います。

聖霊がもたらされることなく、少なくとも聖霊というアイディアに心が開かれることなく、ここまで来ることは不可能だったと思います。

きっと、今わたしが経験していることを経験することは、決してなかったでしょう。

なぜなら、幾重もの層となった心の闇があることに、まったく自覚がなかったからです。

そして多分、一度に一歩ずつというようなペースで進んでいくことは、たくさんのプライドを認めざるを得なかったように思います。

心は、どうしても近道をしたくなったり、簡単な道を選びたくなります。

しかし、心はどう行ったらいいかもわからないし、実際に何を欲しているかもわからないし、最善の利益もわかりません。

自我の心が、最善の利益など知る由もありません。


これはわたしの経験によって裏付けられていることなので、ここで話したいと思いました。

そして、感謝の気持ちとともに言うことができます。

わたしは今も、非二元の教師にとても感謝していますし、尊敬もしています。

非二元の講話は今もとても好きですし、共鳴もします。

それでも、聖霊によって示されたこの自分が歩んできた道も、感謝とともに、完全に心から受け入れています。

そしてまた、あちらこちらの教えに飛び回って時間を無駄にすることを、わたしに与えなかったこの道に、心から感謝しています。


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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2017/10/13

聖霊に解釈してもらうことについて 2/2

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』の抜粋翻訳です。


テーマ「聖霊に解釈してもらうことについて」のつづき(後半)です。




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前半のつづき


この質問の背後にあるものは、幸せと神の平安を欲する呼び声だとわたしは感じます。

このことについてどのように向き合っていくかというと、正直に「わたしは神の平安を望んでいません」というところから、見ていくことです。

「わたしは神の平安を望みます」ということが何を意味しているかというと、「わたしはすべての幻想を放棄します」ということです。

「わたしは神の平安を望みます」と「わたしはすべての幻想を放棄します」は、完全に同一のものであり、何一つすらもしがみつかないということです。

ということならば、「わたしは神の平安を望んでいません」ということは「わたしは特定の幻想を大切にしています」という意味に違いありません。

どんな理由にしろ、「この幻想がわたしに何か与えてくれる」と信じているということです。

ここが実際にわたしたちが始めることができるところです。

ここで正直に、「どんな幻想の部分を、幻想の何を自分は大切に思っているのか」よく見つめてワークを始めることができます。

「わたしは、どんな幻想が自分に何かをもたらしてくれると思っているのだろう?」ということです。


わたしは人々が「わたしは正直、まだすべてを差し出す準備ができていません」と言うのを聞きます。

「たとえば、美味しいもの。わたしは美味しいものを食べることが楽しみなのです」と。

わたしたちがそれを楽しむ理由は、確かに恩恵を受け、何かを得ていると信じているからです。

美味しいもの、素晴らしい味、刺激などが、愛を感じる以外にわたしたちに与えることができるものとは何でしょうか?

それは、愛の代用品ではないでしょうか?

わたしたちはどういうわけか、心の中で、すべてのものを愛の代用品としてしっかりと握りしめて見ています。

もちろん心は、愛の代用品として見ているものや、たとえ一時的であれ、愛の代用品として体験しているものを、明け渡す用意はできていません。

心がたくさんの欠乏や恐れや罪悪感を感じていたり、幻想のどこか一部分にしがみつくことで神の愛を一時的にでも感じることができると思うとき、「わたしはすべての幻想を放棄します」と言ったとしても、何の意味もありません。

わたしたちが”実践への応用”と言っているのは、心から正直にこの瞬間どんな幻想を自分が大切に思っているのか、心から正直にそれが何を自分にもたらしてくれると思っているのかを、兄弟に向かって、誰かのためではなく自分のために明確にし、表現しさらけ出しましょう、ということです。

もしわたしたちが、そのようにオープンで正直に、聖霊を招き入れガイドしてもらうならば、聖霊は違った概念を示し、違った経験を示してくれるでしょう。

そしてそれは、示されなければなりません。

「このような幻想は、わたしたちが欲している愛をもたらすことはない」ということを、わたしたちは体験的に示されなければなりません。


わたしたちは、聖霊のカリキュラムに従わなくてはいけません。

どうのように聖霊のカリキュラムに従うかというと、この今ここにあるものにフォーカスすることです。

なぜなら、今ここにあるものがカリキュラムだからです。

まさにそれが物事が起きている理由です。

この今起きていることは何でも、心を開かせるためです。

これが、物事が起きているただ一つの目的です。

究極的には、「この世界の状況も人々も出会いもすべては、心を開くことを助ける」というただ一つのゴールのために起きています。

もしわたしたちがこれを理解できるならば、本来尋ねるべき質問は「どうのように見たらいいですか?」となります。

そして、起きているどんな状況でもそれは自分のためであり、わたしの心のためであるという信頼を育てていくことになります。

正確な意味においては、人格を持った個人の自分のためではなく、本来のあなた、人格を持つ個の後ろに隠れている本来の<わたし>のためであり、実在の心が幸せと融合を経験するためであり、隠れた心が癒され、リラックスし広がり拡張するために、物事は起きているということです。


聖霊の解釈は、ある状況についてのたくさんの見方の中の一つではありません。

もちろん、物事にはたくさんの見方があります。

あなたが誰か他の人々に尋ねるならば、彼らは違った見方をしているでしょうし、違う誰かに尋ねても、また違った見方をしていて、それらは同じではないでしょう。

聖霊の解釈は、違った見方というものではありません。

なぜなら、聖霊の解釈は、恐れからではなく愛からきているからです。

自我の解釈は、分離や欠乏といったところからくることは避けられません。

一時的に良い状況であったり、自分にとって有益であったり、自分の好みに合うものであったとしても、自我の解釈は常に恐れや欠乏からきています。

結局、自我の解釈は、あなたの好みに合うものはあなたを幸せにし、あなたの好みに合わないものはあなたを幸せにせず、あなたの幸せは完全に自分の好みに合うかどうかの状況によって決まり、(それによって)あなたは欠乏の中にいるという信念を強めることになります。

あなたが信じている自我によるどんな解釈も、心の中の信念を促進し強めることになります。

それは、ループです。出口のないループです。


聖霊の解釈は、このループを壊してくれます。

その解釈は、すべてのものに対する完全に違った見方からきています。

すべての物事の中から、どのようにこれは有益であるか、どのようにこれはあなたにとっての最善の利益であるかを示してくれます。

もしその解釈が、個のアイデンティティーを信じている心や、「自分は肉体である」と信じる心へ応じるものであっても、それは問題ではありません。

聖霊はそれでも、あなたのいるところへ来て、あなたが一歩退くことを望むよう、信頼したいと望むよう、あなたが他の見方があることを信頼したいと望むよう、解釈をもたらします。

そして、何かにしがみつくことは望まないと。

これがゴールです。

赦しを助けてくれる、信頼を育むことを助けてくれる、妨害から一歩退いて心を広げていくことを助けてくれる、ということ以外に、わたしにとって聖霊の解釈が必要な理由はありません。


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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2017/10/12

聖霊に解釈してもらうことについて 1/2

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


「聖霊に解釈してもらう」ことについての質疑応答の部分を2回に分けて翻訳シェアします。


わたしたちが自分と思っている自分と、神に創造されたままのわたしとの間には大きなギャップがあり、そこに接点はありません。幻想と真理が同居しないのと同じです。

そして、形而上学を理解したからといって、いっきに神の抽象世界へと還れるわけではありません。

たとえ、啓示や一瞥という体験があったとしても、そこで赦しが完了するわけでもありません。

この世界を知覚している限り、すべてを赦す必要があるということをわたしたちは知らねばなりません。

今いる自分から、この世界を知覚しているところから、そして、今知覚している具体的な世界を「教室」にして神の抽象世界へと還るのです。

ですから、夢と実相の間の隔たりに橋を架けてくれている聖霊が、わたしたちには必要なのです。

聖霊が架ける橋を渡って還るしかありません。(参照:W-pII.7)


質問者は「聖霊の解釈はいらない」と言っていますが、フランシスさんは、わたしたちは聖霊に解釈してもらうことによって真理へ橋渡しをしてもらう必要がある、と言っています。それを、踏台(stepping stone)という言葉を使って表現しています。


興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。



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<聖霊に解釈してもらうことについて >


質問者:(※質問内容は短くまとめています。)

聖霊に解釈してもらうことについての質問です。

「解釈」という言葉の意味からすると、様々なものの見方のうちのある一つの見方、というふうに捉えられます。

となると、聖霊の解釈が真理ではないことも大いにあることになります。

わたしはただ真理を欲しているだけであって、ある一つの違った見方を提示してほしいわけではありません。

聖霊による解釈とはいったい何を意味しているのですか?


フランシスさん:

ワークブックのレッスンに「私は神の平安を望む」(W-pI.185)というのがあります。

このレッスンは以下のように始まります。

「この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。もしあなたが、ほんの一瞬でもそれを本気で言うことができるなら、もはやいつどこにいても、どんな形においても、あなたに哀しみはありえない。」(W-pI.185.1.1-3)

これはおおむね、「私は神の平安を望む」という言葉を本気で言うならば、誰しも癒しは必要なく、純粋な願いとともにこの言葉を心から言うことによって癒されている、ということを言っています。

本当は何を言っているのかというと、これはある意味、「私は神の平安を望む」と言いつつも、ただ神の平安を、あらゆるところですべての状況ですべてのシナリオですべての時間と空間の中で平安を経験していないのなら、実際のところ「私は神の平安を望んでいません」と言っていることを意味します。


わたしは、ここ(「私は神の平安を望んではいない」というところ)から始めることこそが役に立つと思っています。

なぜならそれが、コースが、「これが真理である」と究極の真理を言っていない所以であり、だからこそ、あなたの心は、正しい概念や正しい言葉をしみこませることができるのです。

「苦しみはない」「この世は幻想である」「愛のみがある」などの言葉は、その時々にあなたに思い出させるために出てきます。

言葉としては、時に二元的な言い回しをしています。それは、心が今あるところで、まだ信念を持っている心と符合するように、そのような表現となっています。

だけれども、最終的にそこはあなたが止まるところではなく、(二元的な表現は)道の途中での踏台でしかありません。

あなた自身を踏台に明け渡しきった後には、その踏台はもうあなたにとって必要ではなくなり、そのことについて考えることすらなくなります。

究極の心の状態を達成するところまで進んでいくだけです。


コースはとても実践的です。

なぜなら、コースは、「打つ手はない」とか「出口はない」とか「ただ何もせず待つしかない」とか「これは究極の真理だ」などと言わないからです。

実際に、コースは、「これは真実です。しかし、私(イエス)はあなたが理解できないことを知っています。あなたがやってみようとしなくてもそれでもOKです。ただここから始めましょう。あなたがいるところから始めましょう。」と言っています。


この時点で、スピリチュアルなサークルの中において、たくさんの言葉、たくさんの文章、絶対普遍の真理についてあらゆる言い回しで話すのを、わたしたちは耳にします。

それによって、わたしたちは段階を踏むことに対して忍耐強くいれなくなり始めています。

心はまだ「神の平安だけがわたしのゴールです」と十分本気で言う準備は出来ておらず、そのような体験も十分にしていないことが、提示されている段階に忍耐強くいれないようにしています。

実際にそれを飛び越えて、「自分は究極のゴールを知っている、なぜなら、真理について聞いているし、心に描くこともできるし、概念もよく知っている」と言いたくなります。

そして、「真理に到達したい」と欲して、自分はまだそこには至っていないということを強化し続けています。

「真理に到達したい」と欲して、欠乏感を保持し続けていますし、欠乏感を強化しています。

そのかわりに、忍耐強く次のように言うべきです。

「聖霊は、今自分がいるところにやって来て、(そこで)自分に答えを与えてくれたり、解決を与えてくれたり、この心が理解して受け入れることができる明らかな何かを与えてくれるだけでなく、聖霊は、心がそれを受け取れているかを確かめてもくれます。」と。

これが聖霊の仕事なのです。

もし心が、具体的なものだけしか理解しておらず、「時間と空間の中でいかにして人生を生きるか」だけしか知らないとしたなら、そして、もし聖霊が抽象的な世界しかわからないとしたなら、聖霊にどんな使い道があるというのでしょう。

もしそうだとしたなら、(わたしたちは聖霊と)どこで出会うというのでしょう。

聖霊が来てくれるというのは、良い知らせです。

聖霊は、心が理解できるレベルで話してくれます。

そして、見逃していないか確かめてくれます。

もしわたしたちが心を開いて受け入れるならば、明らかにあなたの目の前にあるものを見逃していないかを確かめてくれます。


次回(後半)につづく


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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2017/10/07

輪廻転生について

きのうの記事で「輪廻転生」という言葉が出てきましたので、そのことについて書いてみたいと思います。


率直に申しますと、輪廻転生というものはない、と私は捉えています。

輪廻転生とは、線形の時間と空間の世界に生きていると思い込んでいる自我の空想でしかないということです。


たしかに、セラピストとして心理セラピーを施していると、その人の心の奥深くに過去世らしき記憶が潜んでいることも多々あります。

もちろん、それを過去世として扱ってセラピーをした方がその人の癒しにとって有効な場合は、そうします。

ですが、私にとっては「過去世」とは、わたしたち夢見る者の記憶の想念にしかすぎず、それは、自分の記憶でもあり、だれかの(人生の)記憶をリピートしているだけのただの「想念」という見方で捉えています。


この世界は、一なる心が見る分裂した夢にしかすぎないのですから。

この世界での体験のすべては、その自分が見ている夢なのですから。


然るに、「魂」という考え方も、分離や個別性が可能とした想念ゆえに考え付くことのできる概念だということです。


そんなことを言うと、スピリチュアリスト(探究者)にとっては、味もそっけもないと思われるかもしれませんが、もう本当に、そういった二元性のスピリチュアリズムには何の興味もありません。


スピリチュアルというものに宇宙時空の壮大なドラマやロマンは要りません。

スピリチュアルな魂の旅のドラマやロマンも、もう、どうでもいいです。


結局のところ、かくいう私もそうなんですが、そういうことを感じはじめた探究者たちは、いつのときか、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学ぶ道に導かれていくのだと思います。


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2017/10/06

ゲイリーレナードさんについて

ゲイリーレナードさんについて、カースティンさんが『Living Miracles』サイトのニュースレター8月号にて興味深い記事を書かれていたのでご紹介します。


ゲイリーレナードさんは、『神の使者』『不死というあなたの現実』『愛はだれも忘れていない』の著者で、コース(奇跡講座/奇跡のコース)の概念をわかかりやすく世界中に広めることに貢献している人です。

そして、かくいう私も、彼の著書をきっかけにコースに出会った一人です。


ゲイリーレナードさんは彼自身の著書で、彼はパーサとして転生するということになっていて、つまり、彼はこの人生においては目覚めない(で輪廻転生する)ことになっていました。

ようするに、彼はこの人生では「エンライトメント(悟り・解脱)」には至らないということになっていました。

ただ、彼は、「その(目覚めないで転生する)ことを放棄した」ということなのです。


それは、私自身にとって少なからずや衝撃的でした。

彼に対しての私の見方がシフトしたのも事実です。

それと同時に、私にとって何かの時間軸がシフトしたような気がしています。

タイムラインが変わった、、、シフトしたのです。

ノンデュアリティからみるならば、彼とは、まさにこの自分自身でもあるからです。


今年2017年の7月にアメリカのユタ州にてACIMの学習者たちが集った祝福イベントがあったらしいのですが、その際のゲイリーレナードさんがスピーチをしているときの話がほんの短くですが書かれてあります。


とりあえず、その記事をシェアさせていただきます。


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週末(のイベント)を、ゲイリーレナード、ジョンマンディ、ジェームス、マリアフェリップ、リッキー、エリックといった人たちみんなと過ごし、彼らの眩しいオンステージによってわたしたちは神の祝福を受けました。

(中でも)わたしは、ゲイリーレナードが話をしているその彼の周囲に光を見ました。

とりわけ彼が「この人生で目覚めない」ということがどのように放棄されたかについてシェアしている時に(その光は増していたの)です!


Over the weekend, Gary Renard, Jon Mundy, James Twyman, Maria Felipe, Ricki Comeaux, and Erik Archbold all blessed us with their light on stage. I saw light surrounding Gary as he spoke, particularly as he shared how his idea that he wouldn't wake up in this lifetime was being relinquished!


https://livingmiraclescenter.org/news-blog/newsletters/2017/august2017.html よりー


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