2018/09/18

心ごまかそうする自分にご用心

非二元(ノンデュアリティ/一元論)でいうところの

この世界は幻想(マーヤ)なんだよ、
この世界は神の戯れ(リーラ)でしかないんだよ、

だから大丈夫なんだよ、
深刻になる必要なんてないんだよ、
安心してゆだねていればいいんだよ、

ということをいくらわかっていたところで、

実際に日常の中で心が動揺した時には、
そんなことばで言いくるめようとしても、ホント無駄なんだなって実感します。

ようするに、そうやっていくら自分を言いなだめようとしたところで、
ただ抑圧、否認してるだけで、動揺している心(感情)はごまかせないってことです。

むしろ、
幻想なんだから、深刻になることはないよ、大丈夫だよ、
ということばがウソくさいといいましょうか、
たぶん、納得させようとしてくることばこそ自我のことばだと言っていいと思います。
(聖霊の声は、声というよりも愛の体験にちかいです)

そういう意味で、「自分の心に正直になる」ということは、ホント大事なんだと思います。

なにせ、自我は肝心なところを隠そうとしますし、それが自我の目的でもあるのです。

自我は、大丈夫だと納得させる根拠をそろえようとするか、
もしくは、さまざまな(感情解放の)テクニックを駆使したりして
動揺した心を平常に戻そうと何かをしようとします。

というのも、動揺している心のその向こう(奥)には、
神の平安、神の愛があるから、そこに目を向けさせないようにするのが自我の目的なのです。

怖れているなら、ただその怖れを認めて、聖霊と共に直視していく。
落胆しているのなら、ただその落胆を認めて、聖霊とともにそれを直視すればいいだけ。

そうやってただ「赦し」を実践していけばいいだけなのに、
そうはさせないようにするのが自我だと気づきます。

自我に気づいていくこと。
そして、その自我を聖霊と共に直視していくこと。

自我を直視せずに、自我(幻想)から自由になろうなんて、所詮、無理なはなしです。

赦しを実践していて、ホントそう気づきます。

自分の作り出したこの幻想世界(マーヤ/リーラ)から抜け出すには、
自我を直視していくことなしにはあり得ないと深く深く納得する今日この頃です。

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2018/09/17

知覚とは

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「知覚」ということばをいうとき、
わたしたちはつい五官の感覚による知覚のことをイメージしがちです。

ですので、「知覚が変わる」というとき、
五官で知覚する世界が変わるものと思いがちです。

攻撃してきていた人が優しくなったりとか、
うまくいかなかったものがうまくいきはじめたりとか、
目で見える状況が変わったり、とか、
たしかに、そういうこともあるといえばあるのですが、
「知覚が変わる」というのは、そういうことを言っているのではないということです。

ケネス・ワプニック博士は、
「見る」ということについて、すなわち、「知覚」ということについて

「知覚」とは、「解釈」のことである

と語っています。

つまり、「知覚が変わる」とは、「解釈が変わる」ということなのだ
というふうに受け止めると、わかりやすいし、納得がいきます。

なので、誤った知覚を聖霊に訂正してもらうことをお願いする(赦しの実践)とき、
「聖霊よ、どうぞあなたの視点で見させてください、別の視点で見させてください」
というふうな言い方で明け渡したりしますが、
「聖霊の視点で解釈させてください、別の視点で解釈させてください」
というふうな意味合いで明け渡すといいかもしれません。

http://www.jacim.com/jcm/?p=2010

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2018/09/16

笑いと深刻さ

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お笑い、いわゆる、コメディ、というものは、
深刻さと表裏一体なのだなって思います。

たとえば、この世界も、それが夢(妄想)だとわかっていたなら、
深刻であればあるほど滑稽にみえてくるといいましょうか、
あまりにも、バカバカしくみえて思わず笑ってしまうものです。

そう、この世界こそ、まさに妄想を信じてしまっている夢だということが出来ます。

そもそもが不可能なことを、
「もしも可能だったら、、、」という設定のコントででっち上げたようなものだということ。

ホントは、このいまも神の一体性の中にいるのに、神の愛に抱かれているのに、
もしもそうじゃないことがあり得るとしたら、、、という妄想の夢をみているだけなのです。

ホントはその妄想の夢の中で起きていることに影響される必要はないのに、
それを深刻にしてしまった(幻想を信じた)ことがそもそもの誤りなのだということ。

この世界にいくら心が動揺させられようとも、それはそれでいいのだってことです。

そのことに深刻になることが、それをリアルにしてしまうのであって、
それも夢の中で起きているのであって、ホントは、何も起きていないのだということ。

そう、たとえば劇場の映画を観て心動かされようとも、だれもそれを深刻にしたりはしません。

聖霊は、そのことを知っています。

深刻になることはないよ。
大丈夫だよ。
妄想の夢をみているだけだよ。

そうやっていつも聖霊は語りかけてくれています。

そう、だから聖霊とともにただ「赦し」をしていくだけなんだなって想います。

いつか、この世界のすべてを微笑みながら見れるように。

そうなりますように。

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2018/09/15

自分に優しくなろう

自分に優しくなろうって、最近はそう思います。

「優しくなる」とは、どういうことか?と申しますと、
自分を裁いたり、咎めたりするのをもうやめて、
どんな自分であったとしてもあるがままでいようってことです。

この外側の世界に影響されて動揺している自分がいたとしても、
それでいいってことです。

怖れたり、怒ったり、不安になったり、落胆したり、みじめな想いになったりしても、、、
それでいいんだってこと。

なぜなら、その動揺している自分は、
本当の自分(真の自己)とは、一切関係がないのですから。

本当の自分(真の自己)は、一切影響されていないのです。

これまでの自分と言えば、
動揺している自分を咎めてた、裁いてたってことに気づくのです。

「動揺している自分をどうにかしなきゃ」とか
「この動揺している気持ちをどうにかしよう」っていう想いが要らないってこと。
そうやってありのままの自分を裁いていたなぁって気づきます。

たとえば、攻撃したくなる自分(自我)に気づいたとして、
その自分(自我)を咎める必要はないんだなって。

そして、攻撃したくなる気持ちも、それにただ気づいていればいいだけで、
咎めずに、そのままに(自由に)してあげればいいんだってことです。

その気持ちをどうにかしよう、その自分(自我)を変えようとすることは、
むしろ、自我を強めていく(リアルにしていく)ことなんだなって気づくのです。

ただ気づいているだけ。
そこから聖霊と共にただ正視するだけ。
あとは何もしない。咎めない。裁かない。

赦しは、静かにじっとしていて、何もしない。
 、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
 ー「ワークブック 赦しとはなにか」よりー

気づいているだけ、、、それでいいんだなって思います。

あるがままに。

なるがままに。

自分にそうさせていくなら、
きっと他者に対しても、世界に対してもそうなれるのだと思います。

もっと自分にやさしくなろう。慈しんでゆこう。

そんなことを想う今日この頃です。

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2018/09/14

聖霊とともに戦場の上から眺める

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不動の心。

それは、この世のものに一切揺るがされることのない心のことをいいます。

真理探究の道を歩みはじめた当初は、
「不動の心」というとき、弱い心を克服したり鍛錬していくことで、
心が強くなっていってそうなるものだと思い込んでたなぁって気づきます。

でも、そういうことじゃなかったんだって、今ではわかります。

心を強くしていくようなものでななくて、そういうこととは一切関係がないんだってこと。

変化する自分(動揺する自分)とはまったく別に、
変わることなくただ在り続けている本当の自分がいるのだということ。

たとえ、この自分は心揺るがされて影響を受けたとしても、
その自分(だと想っている自分)こそが本当は実在なんかしていなくて、
真の自己(神)は一切影響を受けていないのだということ。

そして、そっちが本当の自分だってことを思い出すだけでいいのだということです。

ようするに、心動かされてる自分は、「本当の自分」じゃないのだから、
つまり、その自分(自我)をどうのこうのしようとする必要はないってことです。

むしろ、その自分を変えよう(より良き自分になろう)とすること自体が、
自我の幻想(トリック)に付き合っているということであり、
それによって自我をリアルに(実在するものと)してしまっているということです。

そう、自分の内には、その真実を知っている聖霊がいます。

聖霊とは、神の記憶を覚えている「正しい心」の部分だといえます。

自我に気づいていくこと、そして聖霊と共にその自我を直視していくこと。
それが、わたしたちがしていくことだといえます。

コース(ACIM/奇跡講座)の中のイエスはこう言います。

赦しは、静かにじっとしていて、何もしない。
、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
ー「ワークブック 赦しとはなにか」よりー

あらためてこのことばが深く腑に落ちます。

そして、ワプニック博士のこのことばにも頷かされます。

「赦しが何をするかと言えば、この「戦場を超えたところ」に戻ってくるだけで、、、
あとは何もしないのです。
なぜなら、存在してもいないものについて為すべきことなど何もないからです。」

不動の心とは?
そして、赦しとはなにか?

今になって、そのことがよーくよくわかる今日この頃です。



http://www.jacim.com/jcm/?p=3495