2019/05/25

自らが作り出したのだから

幻想は自らが作り出したのだから、
自分以外のだれが幻想を取り消すことを選択することができるだろう?

幻想は自らが作り出したのだから、
自分で作り出した幻想をどうするのかは自分で責任を持つべきである。

自分で幻想を作り出したのだから、
作り出した幻想をちゃんと直視していくことは、自分の機能であるということ。

2019/05/24

怖れか攻撃か

「この世界は、怖れで作られた」
「この世界は、怖れを隠すために作られた」

と、コースの中のイエスはこの世界について云っている。

また別に言い方では、
「この世界は、攻撃するために作られた」
とも云っている。

怖れか、攻撃か。

怖れは防御へ、さもなくば攻撃へ、という具合である。

この世界で、私たちはなにをしているかというと、
 まさに、そのサイクルを繰り返しているということ。

それが自我がこの世界でしていることであり、
その自我を直視しなさい!ということなのだと思う。

2019/05/20

「普通」という感覚

比較、思い入れ、理由付け、、、それらすべてが解釈である。

そういったものは一切要らないのだ、と気づく。

自我は意味付けをすることでストーリー(物語)を好みたがる。

むしろ、それらは何の意味もない、つまり「無」でしかない。

それは「無」であるがゆえに、いちいち解釈する必要がない。

「無」であるがゆえに、平安でみることができるということ。

それは、「普通」という感覚である。

つまり、この世界においては、それを選択し続ける訓練をしていく必要があるということ。

それが、「聖霊を教師として選択し直す」ということであり、
そして、そのための手段が「赦し」なのだということ。

またそれが、聖霊の視点へと移行していく手段でもある。

この世界に意味があるとするならば、
それをしていくことのみが、唯一価値あるものだといえる。

2019/05/17

どっちを選びますか?

妥協なく赦しを実践していけばいくほど、
自我の抵抗があらわになってくるのがわかる。

それはまるで、
光に近づけば近づくほど、むしろ自我の抵抗が増大しているようですらある。

それゆえ、ますます「赦し」なしではいられなくなってきている。

それは、
イエス、聖霊なしでは生きてはいけなくなってきている、
というのと同じ意味である。

ますます、「赦し」が必要不可欠となってきている。

なぜなら、もうそれなしでは(平安では)いられないからである。

どっちを選びますか?

その選択を一刻一刻迫られているようですらある。

自我を教師とするか?聖霊を教師とするのか?

夢を見続けるのか?夢から目覚めるのか?

どっちを選びますか?と。

それは、妥協はゆるされない、というよりも、
妥協ができない、という言い方の方がもっともな感じである。

2019/05/15

機能でしかない

「この世界は幻想である」
としてしまうのは、明らかに否認、隠蔽である。

それよりも、
「この自分は、自らがこの世界を実在させているのだ(神からの分離を信じているのだ)」
と自覚していくことが、わたしたちのしていくことである。

前者と後者は、似て非なるもの。


同じように、

「この世界は価値がない」
としていくことも、まさに否認、隠蔽である。

すべてに価値がないこの世界において、
「唯一、価値があるものが、赦し、である」
としていくことが、わたしたちがしていくことである。

それらを自覚していくとき、
この自分は、その機能でしかないということがわかる。

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