2018/02/04

否定することなく

今日は、立春です。

一新した流れがはじまる日だともいえます。

今日の福岡の空は、朝から雪が舞っております。

ときには晴れ間もみせながら雪が降っております。

今日は、一日中降り続けると思われます。


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どうにかして人生をコントロールしようという気がない自分に気づきます。

人生をどうにかしようという気が起こりません。


なにかしたいことがあるわけでもない。

だからといって、なにかしなきゃいけないというわけでもない。

どうしようもありません。


もう、どうのこうのできるものでもないとわかっているところもあります。


それでも、自我(エゴ)はこうささやいてきます。


「そんなんじゃ、ヤバイよ。ダメだよ。

そんなんじゃ、どんでもないことになるよ。生きていけなくなるよ。

これからどうするんだよ。

この世界に希望をさがそうよ。さがしにいこうよ。」


不安や怖れとともに、そういう想いも湧き起こってきます。

そして、もっとこうしたらいい、ああしたらいいという想いも湧きますが、

それでも行動に移るほどの衝動までには至りません。

たとえ、それらの想いに従ったとしても、うまくいかないこともわかります。

なぜなら、もう本当の自分の心をごまかすことはできないからです。

そうしたとしても、これまでの繰り返しだということがわかります。

それは、ただ時間の先延ばしをしているだけのような気がします。


この自分を、この身体を、行動に駆り立てるものがない、といった状態なのです。

それでも自我と聖霊の両方の間で、私の心は行ったり来たりしながら揺れ動いています。


この世界を放棄していくほうへと私の心は導かれていっているように思われます。

ホーリースピリット(聖霊)がそっちへと誘っているように感じます。

よりジーザス(イエス)のプレゼンス(存在)を感じる時間が増していっています。


もう引き返せないと感じています。

この道を前に進むしかないという気持ちです。


自我と聖霊との心の葛藤はまだまだ続いておりますが、

それもまた一つ一つ否定することなく、ただ流れにまかせて従っていくしかありません。


2018/01/16

『神の小屋』を読んで

以前、このブログでもウィリアム・ポール・ヤングさんの紹介と共に、その著書『神の小屋』を紹介いたしました。


年末年始にかけて、その本を読みました。

それは私にとって、この時期に読むべき本だったのだと思いました。


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一応、物語ではあるのですが、主人公の「癒し」や「赦し」の体験プロセスは、著者自身が経験してきたことなのだということがうかがえる物語です。


それにしても私にとっては珍しく感動的してハートが開き、涙がこぼれそうになった本でした。

(泣きそうになったとはいえ、たぶん、映画だったら完璧に泣いていたと思います。笑)


私は、そもそもが物語やフィクションで書かれた本をほとんど読まない(興味がない)のです。

ですが、この本はさすがに感動しました。

この今でも、その本の中のシーンを思い出すと胸が熱くなってきます。


とても素晴らしい本だと思います。

とくに、主人公が癒され、赦していくプロセスのところは、じつに興味深かったです。


ぜひ機会がありましたら、この本を読んでいただいてもいいし、すでに『アメージング・ジャーニー』という日本語タイトルで映画化されていますので、そちらをご覧になってみてください。




2017/11/13

スピリチュアルをビジネスにすることについて

今日は、スピリチュアルをビジネスにすることについて、私が想うことを書いてみたいと思います。


それと言いますのも、そのことについての批判めいた記事を目にしたからです。

あるスピリチュアリスト(スピリチュアル・リーダー)の方が、とある悟りの教師(ノンデュアリティ・ティーチャー)に対して、「○○さんは、悟りをうたい文句にしてビジネスをしている」というようなことを書いておられるのを目にしたのです。


結論から申せば、私自身は、人がスピリチュアルをビジネスにしていようが、悟りをビジネスにしていようがいっこうに構わないと思っています。

私自身は、スピリチュアル・ビジネスにはまったく興味ありませんが、だからといって、それを否定する気もありません。

むしろ、そういうこは、どうだっていいことなのだと思います。


神聖なスピリチュアルや悟りを求めている人にとって、清らかさ、高貴さ、高潔さ、正しさをつい追究しがちになったりするのもよく理解できます。

ただ、肉眼で知覚する世界(形態レベル)のことはすべて、真の神聖さ(真理)とは一切関係がないということです。


かくいう私も、想い起こせば数年前、私が「ジーニー」と呼ばれていた頃の自分を振り返ると、自分で言うのも何ですが、その活動はまさにビジネスをやってなぁ、って想います。笑

たしかにその頃は、「2012年」だとか、「アセンション」だとか、「目覚め」「悟り」といったものが注目されて、スピリチュアル・ビジネスという言葉すら流行った頃であり、いかに集客するか?というものが(今もそうなのかもしれませんが)流行った時期でもありました。

当時の私も、その流れに乗ってビジネスをしていたなって正直そう想うのです。


さて、そんな当時、私はある方からこんなコメントをいただいたのを思い出します。

それは、「悟りをビジネスにしないでいただきたい」というものでした。

その当時の私は、正直、そのコメントに対して、何を言っているのだろう??と想ったのを覚えています。

悟りをビジネスにすることの何がいけないの?と。

というのも、私は、ビジネスのスタイルこそ健全なかたちだと思っていたからです。

(ちなみに、この今もそう思っています。)

なぜなら、ビジネスというものは、与える側と受け取る側において互いに対等な立場で等価交換をしているわけで、その双方の了解のもとにそれは成立するものであり、双方に利をもたらすものであるからです。

ビジネスとはそういうものです。

それに比べ、むしろ、宗教やスピリチュアルにありがちな「ドネーション(お布施/寄付)」といったもののほうが、かなり曖昧だし、紛らわしくて、面倒くさい、怪しい、誤解を生みやすい、という感覚がありました。

(現在は、その見方も変わって、この私自身こそ、そのドネーションというかたちで心理セラピストの仕事をしているわけですが、、、そのことにつきましては、また別の機会に書きたいと思います。)


つまり、ビジネスというものほどスッキリしていて、明確で、健全なものはないと、私は思うわけです。


悟りをビジネスにするのも、スピリチュアルをビジネスにするのも、モノを売ってビジネスにするのも、何かサービスを売ってビジネスにするのも、何がちがうというのでしょう?


と言いましても、この今となっては、スピリチュアルをビジネスにしていたあの頃の自分を思い出すと、我ながら微笑ましい感じすらあります。

あの頃の自分の心の中をよくよく覗けば、ビジネスをするその原動力は「恐れ」からだったということがよくわかるからです。

心の奥底にある「恐れ」と向き合うことのないように、外側の世界に意識を向けていたということです。


もう今では、あの頃の自分に戻ろうとは思いません。

ビジネスというものに、さらさら興味もありません。

だからといって、スピリチュアルでビジネスすることを、あるいは、スピリチュアルでビジネスをやっている人たちを否定するつもりもありません。

むしろ、それの何がいけないのでしょう?という想いです。

この世界では、みんな同じなのです。

スピリチュアルを特別に、とくに、悟り、というものを特別にみる必要などありません。


もし、悟りやスピリチュアルをビジネスにすることに関して何か否定したくなる気持ちがあるとするならば、それこそ、その心の中にビジネスかお金か、もしくは他の何かにまつわる思い込み(信念、観念)があるということです。

あるいは、「悟り」とか「神聖さ」というものに対してある観念(空想)を抱いている可能性があると言えましょう。


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2017/06/15

今は亡き父を想う

自分が子どもだった頃のことを思い出すと、

私は、父にとって問題児だったと思います。


私は、世間的に見ても問題がある子どもでした。

父にとっては何をしでかすかわからない困った息子だったと思います。


私がなにか問題を起こすたびに、

私の父は、息子を責めるにも、自分もその親であることに責任を感じて葛藤していました。

一度、私が深刻な問題を起こしたときに、父が大泣きしたことがありました。

まだ子供だった私にとって、その光景は、

なぜ父が泣くのか?その意味はわからずとも、とてもショックだったのを覚えています。


今想えば、父は、私がどんなに世間的に問題のある子どもであろうとも、

この私を愛してくれていたように思います。

どうしようもない問題児であろうとも、

それでも自分の息子であるこの私を愛してくれていたのだと、今ではよくわかります。


そんな父は、私が18歳のときに、癌で亡くなりました。

2年間程の闘病生活の最期の頃は、「痛い、痛い」と苦痛を訴えてばかりいました。

父が息を引き取ったときには、息子の私にとって、

むしろ、父が痛みから解放されてよかった、ホッとしたという思いさえありました。


ただ、そのときから、私は胸にぽっかりと穴が開いたような空虚感を抱くようになりました。


生きるって、どういうことなのだろう?

死ぬって、どういうことなのだろう?

あの父の痛みは、何の理由でそうなったのだろう?


父の死をきっかけに、私は、本質的な問いを抱くようになったのです。

私の真理の探究は、そこからはじまったといえます。


私は、ずっと父を反面教師として生きてきたように思います。

私は、父と戦っていたのだと気づきます。

でも、戦ってきたその父とはまさにこの自分自身だったともわかります。


私は、父を赦すときがきたのだと思います。

それは、この自分自身が赦されるときでもあります。

今では、父に感謝しています。


父よ、私を愛してくれてありがとう。

そして、私もあなたを愛しています。


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2017/04/19

武器を置いて

今振り返れば、これまでの私と言えば、

心理セラピストとしての技量(と才能?)を最大限に活かしていくことに躍起になって、

それこそが素晴らしいことをしているつもりでいました。


でも、それは今になって気づくのですが、

それはただたんに自分がするセラピーの凄さをひけらし、

その技量を振りかざして、ある意味で強引なセラピーをしていたのだと気づきます。

それを良かれと思ってやっていたわけですが、

この今となっては、それは傲慢以外の何ものでもなかったと知るのです。


良かれという想いほど余計な想いはないと思います。

良かれという想いなどそういうものはいらない。

この世のすべてのあるがままを良しとすることが出来なかったのだと。


私は、戦っていたのです。

私は、武器を置いて、この戦いを終わりにしようと思います。


それは、心理セラピストとしての技量もスキルも手放すことになるかもしれませんが、

それでいいのだと思います。


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