2018/02/16

真理によってこの世を去る

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すべてを放棄して手ぶらになっていくというプロセスは、一見すると、死へと向かっていくプロセスにも似ています。


なぜなら、自分のものだと思っていたものや、手に入れたものすべてを手放すという意味では同じだからです。


まさに死とはそういうものであり、ひいては、この世を放棄するとはそういうものだと私は思い込んでいたことに気づきます。


正直に申しまして、「サレンダー(放棄する/手放す/ゆだねる)」の実践プロセスにおいて、私はある意味で死へと向かっているような心持ちでいたことを自覚するのです。


たしかに私自身、実際にこの道の歩みを「生きながらにして死へと向かう」というようなことばで表現していたこともありました。

それというのも、この世を超えていくために、この世への執着を手放すために、そのような捉え方をしたほうが私にとってとても都合が良かったのです。


ただ、今となっては、そういう考え方は誤った私の信念(観念)だということに気づくのです。

そういう考え方は、まさに自我にとっての都合のいい解釈でしかないと気づきます。


それは決して死へと向うようなものではない、とハッキリ自覚するのです。

同じ「放棄する」「あきらめる」というものでも、その中味(動機)がまったく異なります。

無であるもあるのは、無でしかないということです。

もちろん、死というものも無いのですから。


「死」を象徴(シンボル)としてみるならば、それはまるでまわりから、みんなから引き離されて独りになっていくプロセスのようにみえます。

「死」とは、まさにそういうものです。

それは、ワンネス(わたしたちの本来の在り方)とはまるで真逆です。


「孤立」「独り」とは、まさに自我の誤った解釈ゆえに知覚されるものだと言えます。

わたしたちは、ずっとその被害者になってきたということです。

わたしたちは、もちろんその被害者になる必要などありません。

被害者をやめて、そこから自由になることもできるのです。


サレンダーという名の道は、死に向かうものとはまるで真逆の方向だということです。

むしろ、この道は、栄光と祝福に満ちていくものであるということに私は自覚するのです。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、こう述べられてあります。


この世界は死によって去るのではなく、真理によって去るのである。

- 『奇跡講座』テキスト第3章より  -


それは死ぬことよりも本当は簡単なことなのだと言います。

死に向かってこの道を歩んでいると思っていたのは、まさに私の勘違いでした。笑


この気づきが、これから私の見ている世界にどのように反映されていくのか楽しみといったところです。


2018/01/26

霊的な修行、成長、進化

スピリチュアルな学びには、霊的な修行、成長、進化、、、といったものがつきものですが、今想うのは、そういったものは本当に要らないのだなということです。


むしろ、そういったものから自由にとらわれなくなっていくことが、スピリチュアルを学ぶ目的なのかもしれないと思うのです。


ということは、はじめからそういうものを必要としないスピリチュアルとは無縁な人たちとは、はじめからスピリチュアルを学ぶ必要などない人たちなのかもしれません。


だれもが神に愛されています。

そして、そのだれもが神の子です。


スピリチュアルな探究をしていようが、それとは無縁な人たちであろうが、わたしたちは等しく神に愛されています。

同じ一つのスピリットです。

だれだれが天国に召されて、だれだれが地獄に落ちるなどというものもありません。

わたしたちは、一なる神の子なのです。

魂の成長、魂の進化とは、非二元からみれば一なる神の子が分離した夢を見ているにしかすぎないとわかります。


そして、私にとってスピリチュアル探究のその目的であった「目覚め」「悟り」といったものは、霊的に修行、成長、進化していくその先にあるのではなく、いつかどこかにあるものでもなく、「いまここ」にあると気づきます。


今この瞬間。

それ以外のどこにあるというのでしょう。

もうどこへも向かう必要などなく、なにもする必要もなく、何かになる必要もありません。


ならば、なぜ、私はコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学び、実践しているのか?


その問いに対して私なりに想うのは、


死によって、肉体を離れこの世を去って神のもとに還るのか?

生きながらにして、真理によってこの世を去って神のもとに還るか?


そのちがいだけです。

それくらいのちがいしかありませんが、されどそれほどのちがいがあるということです。


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2017/12/07

サレンダー

私は、コース(ACIM/奇跡講座)を学んできて、自分はかなりコースを分かったつもりになっていましたが、まだまだ全然だなと気づかされます。


私が、わかったつもりになっていたのは、形而上学的な理解の範疇だったのだと。


だからといって、形而上学の理解がなければ、実践などあり得ません。


そういう意味で云えば、私はこれからようやく実践のスタートラインに立ったのだと思います。


学びとは、経験なのだといえます。


経験こそが、自分に確信させてくれるものであり、いくら形而上学を学んでいったとしても、確信に変わるものではありません。


私が、望んでいるものとは、確信、なのかもしれません。


確信を持って、この世界を放棄できるように。


そして、神の平安だけを望めるように。


確信を持って、この人生を神に明け渡すことができるように。


そして、100%完全にホーリースピリット(聖霊)にサレンダー(身を委ねる)することができるように。


それは、実践して経験していくことによって成されていくのだと思います。


そのことを強く自覚する今日この頃です。


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2017/11/17

夢見る者

わたしたちは、この「世界」についてどのように捉えているかというと、「この世界は、この自分がこの世に生まれてくる前から存在していた」とそう想って生きています。


そして、「この自分が死んでこの世を去っても、この世界はその後も存在し続ける」とも想っていますし、そう考えるのが、当たり前のことのように想っています。


それというのも、わたしたちは、誰かが死んでもこの世界は相も変わらず存続し続けているのを見て、「当然この自分が死んだその後も世界は在り続けるだろう」という考えになるわけです。


そういう考えこそが自我のトリックだと、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中のジーザス(イエス)は云います。


この世界は、自分が見ている夢にしかすぎません。

この世界は、自分がこの世に生まれてくるときに同時に自分が作り出した夢(幻想)です。

この身体が生じたときに、一緒にこの世界も生じたということです。

父も、母も、兄も、姉もこの世界の人々もすべてのものも、そのときに一緒に作り出したのです。

ゆえに、自分がこの世を去るときには、この世界も含めてそれらすべても無になるということです。

そう、もともと何も無かった「無」に帰するだけと。

自分が知覚しているこの夢の中では、すべての人たちが自分の見ている夢の中の登場人物であり、すべての状況が自分の見ている夢の中の出来事だとジーザスは云います。

また、コース(奇跡講座/奇跡のコース)では、そのことを「Dreamer of the Dream(夢見る者)」という言葉で表現しています。


そのような考え方は、まるで狂気のようにも思えますが、たしかにこの「世界」と呼んでいるものは、自分が主観的に見ている世界であり、それは、自分だけのオリジナル世界であり、つまり、自分だけのドラマをこの世界で体験しているだけと言うことが出来ます。

そして、それをわたしたちは「人生」と呼んでいるということです。

ということは、人生とは、かたち(形態)がちがうだけで、そのドラマの中身(内容)は、人や状況や出来事を変えて同じドラマの体験を繰り返しているだけというふうにも捉えられます。


コースを実践しているのならば、そのような視点で日々の日常を過ごされるのをお薦めします。


「世界それ自体が無である。」

世界は存在しない!これがコースが教えようとしている中心概念である。」

ー『奇跡講座』ワークブック レッスン132 よりー


「自分は、もともとあったこの世界に自分は生まれてきて、つかの間の人生を生きて、そして死んで去っていく存在である」という自己概念の考えを疑うことから、この世界から解放され自由になるヒントがある、とジーザスは云っています。


自分の見ているこの「世界」を疑いつつ、『奇跡講座』ワークブックのレッスン132をどうぞ読んでみてください。

「世界」についての考えが変わるとき、この「自分」の概念も大きく変わることでしょう。


Lesson 132
I loose the world from all I thought it was.
これまで自分がこの世界はこうだと思い込んでいたすべてから、私はこの世界を解き放つ。


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2017/11/05

『奇跡講座』を人生のすべてとしない

今日は、『奇跡講座』学習支援サイト(JAICM)別館から、2012年4月のケネス・ワプニック博士の講話をご紹介させていただきます。


V#19: 『奇跡講座』を人生のすべてとしない」参照

 http://www.jacim.com/jcm/?p=2540


タイトルの「奇跡講座を人生のすべてとしない」だけを見ると、んん??という気がするのですが、彼(ケネス・ワプニック博士)の話をよくよく聞けば言っていることのその意味が理解できます。



ときに、わたしたちは、自分はコース(奇跡講座/奇跡のコース)を学んでいるから「自分は神への道を歩んでいる」と思いがちになったりしますが、そこに落とし穴があるということです。

たしかに、コースを学ぶということは、その道の第一歩を踏み出したとも言えますが、かならずしも、それだけではその道を歩んでいるとは言えません。

そう、神への道を歩んでいるつもりが、じつは、コースの形而上学(概念)にばかりにかまけて、それで学んでいるつもりになっているケースはよく見受けられます。


コースの形而上学(概念)を学ぶことは、たしかに、この道を歩んでいく者にとって最低必須条件だと言えます。

ただ、形而上学(理屈)を理解していったところで、それそのものを自分の人生に応用して実践していかなければ何の意味もないということです。

ましてや、実践なくして体験はあり得ず、体験なくしてその形而上学を真に理解することはありません。


もちろん、形而上学を理解していなければ、実践などできませんから、形而上学(概念)を学ぶのはそのためのものであるというふうに捉えるべきだと思います。


ケネス・ワプニック博士の話す言葉の中でも、「コース(奇跡講座/奇跡のコース)は、コースそのものを必要としなくなることが目的である」というフレーズは、とても印象深いです。

「エンライトメント(悟り)は、悟りを求めることを止めたときにある」という言い方をしますが、それと似ています。


学びが終わるとき、それは求めることが終わるときであり、つまり、そこがわたしたちコースを学ぶ者たちのゴールだということがわかります。


コースは学んでいけばいくほど、これまで学んできたものを手放していくことになります。

そういう意味で、コースを学ぶ(learn)ことは、むしろ学んできたものを捨て去る(unlearn)ためのものだと捉えられます。

そして、そこが、「コースは、他のスピリチュアルの学びとは別物」と呼べる所以です。


私はこの今も、その手放しは進んでいっています。

本当に何も要らないのだと、何も自分でする必要はないのだと、、、

学べば学ぶほど、もうシンプルでいいのだと、無でいいのだと、、、

自分はその”無”へと、自分は何も無いそこへと向かっているのだと、それを受け入れていっています。


ただ、私にとってコース(奇跡講座/奇跡のコース)を手放すのは、まだまだ先のことです。笑


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