2018/06/01

これは心の訓練をしていく道である

今日から6月です。
今日の福岡の空は朝から晴れていて、とても心地よい気候です。

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いよいよ今月でこの福岡を離れます。

今は、沖縄引っ越しに向けて所有物の整理をしています。
身の回りの物を少しづつ必要最小限に減らしていっておりまして、
住まいの部屋の中がずいぶんとシンプルな生活空間へと様変わりしていっています。

それはまるで自分の心の中が整理されていっているようでもあります。

ふつうは、所有物が減っていくと失っていくような感覚がしていくものなのですが、
むしろ、ますます心が軽くなっていくような感覚を感じています。

いずれにせよ、わたしたちはいつのときか必ず手ぶらになるのです。
というのも、それこそが本来のわたしたちなのですから。
自我はそうなることを怖れています。
その自我こそが、無(幻影)なのです。

とはいえ、形態(かたち)のレベルで手放していってもそうすることが目的ではありません。
それは、心のレベルでなされるものでなければなりません。

まだ必要とするものを、あえて手放す必要はないということです。
むしろ、それでは「犠牲」とか「あきらめ」というもので自分をごまかすことになります。
そして、聖霊はそうそういうことをわたしたちに望んではいません。
ましてや、聖霊はそのようなことを要求したりはけっしてしません。

ときに、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)というものを
そのようなもの(すべてをあきらめていくもの)として誤解しがちになったりしますが、
そのようなものとして学びを捉えるなら、それこそが自我の罠として気づかねばなりません。

そうやって、わたしたちはスピリチュアル探究をまるで修行のように捉えてきたのです。
そして、そこには何の救いも見出されなかったという経験をしてきたといえます。

たしかに、この世界にはわたしたちを本当の意味で幸せにしてくれるものは何一つありません。
だからといって、この世界を直ちに放棄しなさいというものでもありません。

真理からすれば、それはいまこの瞬間に、と言えますが、
そうなるにはマインドをトレーニング(心の訓練を)していく必要があるということです。

これは心の訓練をしていく道であるといえます。
それは、プロセスが必要だということです。
せめて時間と空間の中にいるということは、すべきことがあると。
これまでも、そしてこのときも、自我で生きているわたしたちにとって、
体験を通してこの世界を無(価値のないもの)としていく必要があるのだということです。

そのためにこの時間と空間の中にいるこの自分がしていくことは、
ジャッジしていたのを止めて、一歩下がって、
ただ聖霊に導かれて、明け渡して、ゆだねていくことだけなのだといえます。

それを、コースでは「赦し」といいます。


今の私自身のことでいいますと、
目で見える形態(かたち)のレベルでは、引っ越しのためにいろいろ整理していっていますが、
心のレベルでは、一旦、これまでのものを手放して終わる必要があるのだと思っています。

それは、赦しの実践のさらなる段階への移行であり、
今、私は、その準備を整えていっているのだと感じています。

その準備とは、聖霊に明け渡して生きる、という準備です。
その心の準備が整わずして、この世界を放棄する、というのはとうてい無理なことです。

そして今、私は、その実践の段階にきたことを自覚する今日この頃です。

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2018/05/29

聖霊という内なる教師

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びが深まっていくにつれて、
あらためて「聖霊」の重要性と不可欠性に気づかされます。

コースは、他のノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティと比べて何がちがうのか?
というならば、「聖霊」の概念が用いられているところだといえます。

「聖霊」とは、内なる教師のことです。

最終的にその内なる教師を自らの拠り所としていくことが、
わたしたちがこのコースを学ぶ目的だということが出来ます。

その内なる教師以外を信頼していくところに真の救いはないとさえいえます。
自分以外の誰かを教師とすることは、偶像崇拝となんら変わりありません。
そこに真の救いなどあるわけもなく、
それがいくら真理だのノンデュアリティ(非二元)だのと呼ばれたところで、
所詮、二元性(自我の範疇)でしかないということは明白です。

そう、コースは、真理について追求していくものではなく、
実際にその体験へと聖霊に導いてもらうための実践的な道だと言うことが出来ると思います。

聖霊(の概念)が重要不可欠なことについて、もう一つ言えるのは、
真理を求める者としては、自分が真理に到達するものだと思いがちで、
つい、自分で真理に到達しようとしますし、
到達するためのにはそういった努力や忍耐が必要だと思ってしまいがちなところです。

いわゆる、その自分こそが「自我(エゴ)」なのであり、
その自分(自我)を聖霊に明け渡していくことがわたしたちがしていくことでだといえます。

「聖霊」とは、
すべてが何も起きていない、何もしていない、
すべてが無である(実在しない)とわかっている大いなる自己だと言うことが出来ます。
また、神への帰り道を知っている自己を超えたマインド(心)とも言うことができます。

わたしたちは、どうしたら目覚められるのか?を知らないのです。
その道を知っている聖霊に従っていくほかに道はないのです。

正直なところ、聖霊について本当に理解するまでは、
聖霊は自分が目覚めていく上で補助的な役割ぐらいの程度にしか思っていませんでした。
今は、そうではなかったと理解します。
むしろ、聖霊なしで目覚めることはあり得ないということです。

そう、コースは、その聖霊とダイレクトにつながることを目的としています。

ときに、コースの形而上学を理解することに、そして教えることに
その目的がすり替えられることがあります。

そのような学びの段階もあるのでしょうが、
私にとってこの道の歩みは、内なる教師である聖霊と
もっとダイレクトにコンタクトしていく段階に入ったと実感する今日この頃です。
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大濠公園(福岡市)

2018/03/24

私が歩んでいるこの道は

私が歩んでいるこのコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の実践の道は、
自分の意識を高めていくようなスピリチュアリティでもなければ、
真理を追究していくようなスピリチュアリティでもありません。

前者に関して言うならば、
自分を高めていけば、あるいは自分がより良い自分へと変わっていけば、
その延長に覚醒とか悟りとかがあると、あるいは神になれると信じていますが、
そうではありません。
自我がいくら意識(波動)を高めていったところで、自我はやっぱり自我でしかありません。
でも、ついスピリチュアルな世界を探究しているわたしたちは、
自分(自我)が覚醒していく、あるいは、悟りを得ていく、神になれると勘違いしがちです。
私自身もそのように勘違いしてまさにさまざまなスピリチュアリズムをたどって来たことは、
否定できません。

また、後者に関して言えば、
真理をこの幻想世界に持ち込もうとするのではなく、
むしろその真逆で、幻想を真理へと運んで明け渡していくのがこの道だといえます。
この世界を知覚しているわたしたちではけっして理解することのできない真理を、
言葉にして表現しようとして、わたしたちは真理をこの世界に持ち込もうとします。
自我は、つい真理をこの世界に持ち込もうとしたがるのです。
そもそも言葉にすることなどできないものを言葉にしようとするスピリチュアリズムに
自我は惹かれてしまうのです。
それはまるで、自分は檻の中にいるのに檻の外に出ようとはせずに、
むしろ、檻の出入り口で「檻から外の世界に出なさい」と語りかけているイエス(導き手)を
檻の中に引きずり込もうとしているようなものだといえます。
これまでの自分を振り返っても、そういうことをしていた心当たりがあります。

今、私が実践しているこのコースは、
そういうものをたどってきた旅路の果てにたどりついた道だと言うことが出来ます。

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2018/02/16

真理によってこの世を去る

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すべてを放棄して手ぶらになっていくというプロセスは、一見すると、死へと向かっていくプロセスにも似ています。


なぜなら、自分のものだと思っていたものや、手に入れたものすべてを手放すという意味では同じだからです。


まさに死とはそういうものであり、ひいては、「この世を放棄する」とはそういうものだと私は思い込んでいたことに気づきます。


正直に申しまして、「サレンダー(放棄する/手放す/ゆだねる)」の実践プロセスにおいて、私はある意味で死へと向かっているような心持ちでいたことを自覚するのです。


たしかに私自身、実際にこの道の歩みを「生きながらにして死へと向かう」というようなことばで表現していたこともありました。

それというのも、この世を超えていくために、この世への執着を手放すために、そのような捉え方をしたほうが私にとってとても都合が良かったのです。


ただ、今となっては、そういう考え方は誤った私の信念(観念)だということに気づくのです。

そういう考え方は、まさに自我にとっての都合のいい解釈でしかないと気づきます。


それは決して死へと向うようなものではない、ということです。

実在していると思っているものを放棄する、あきらめるのと、その中味(動機)がまったく異なります。


無であるもあるのは、無でしかないということです。

もちろん、死というものも無いのです。


ちなみに、「死」を象徴(シンボル)としてみるならば、それはまるでまわりから、みんなから引き離されて独りになっていくプロセスのようにみえます。

「死」とは、まさにそういうものです。

それは、ワンネス(わたしたちの本来の在り方)とはまるで真逆です。


「孤立」「独り」とは、まさに自我の誤った解釈ゆえに知覚されるものだと言えます。

わたしたちは、ずっとその被害者になってきたということです。

わたしたちは、もちろんその被害者になる必要などありません。

被害者をやめて、そこから自由になることもできるのです。


サレンダーという名の道は、死に向かうものとはまるで真逆の方向だということです。

むしろ、この道は、栄光と祝福に満ちていくものであるということに私は自覚するのです。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、こう述べられてあります。


この世界は死によって去るのではなく、真理によって去るのである。

- 『奇跡講座』テキスト第3章より  -


それは死ぬことよりも本当は簡単なことなのだと言います。

死に向かってこの道を歩んでいると思っていたのは、まさに私の勘違いでした。笑


この気づきは、私にとって大きな気づきであったことは否めません。


2018/01/26

霊的な修行、成長、進化

スピリチュアルな学びには、霊的な修行、成長、進化、、、といったものがつきものですが、今想うのは、そういったものは本当に要らないのだなということです。


むしろ、そういったものから自由にとらわれなくなっていくことが、スピリチュアルの学びのゴールなのだということです。


ということは、はじめからそういうものを必要としないスピリチュアルとは無縁な人たちとは、はじめからスピリチュアルを学ぶ必要などない人たちなのかもしれません。


だれもが神に愛されています。

そして、そのだれもが神の子です。


スピリチュアルな探究をしていようが、それとは無縁な人たちであろうが、わたしたちは等しく神に愛されています。

同じ一つのスピリットです。

だれだれが天国に召されて、だれだれが地獄に落ちるなどというものもありません。

わたしたちは、一なる神の子なのです。


魂の成長、魂の進化とは、非二元からみれば一なる神の子が分離した夢を見ているにしかすぎないとわかります。


そして、私にとってスピリチュアル探究のその目的であった「目覚め」「悟り」といったものは、霊的に修行、成長、進化していくその先にあるのではなく、いつかどこかにあるものでもなく、「いまここ」にあると気づきます。


今この瞬間。

それ以外のどこにあるというのでしょう。

もうどこへも向かう必要などなく、なにもする必要もなく、何かになる必要もありません。


ならば、なぜ、私はコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学び、実践しているのか?


その問いに対して私なりに想うのは、


死によって、肉体を離れこの世を去って神のもとに還るのか?

生きながらにして、真理によってこの世を去って神のもとに還るか?


そのちがいだけです。

それくらいのちがいしかありませんが、されどそれほどのちがいがあるといえましょう。


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