2019/01/13

警戒していなさい

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この世界で幸せと感じるのも、
この世界が苦しいと感じるのも、
自分を欺いているという意味ではどちらも、同じ、だと気づきます。

この世界で幸せを感じるということ自体が狂ってると思うし、
むしろ、この世界に居心地の悪さ(違和感)を感じていることのほうが当然のことなのだと、
今の私はそんなふうに思いながら赦しを実践している状態です。

ただ、そんなふうなことを言いますと、
まるで私が絶望しているかのように思われがちなんですけど、
じつのところ、赦しの連続ではありますが、
それを実践していくことで、肉体(身体)である自分から夢を見ている自分へと
アイデンティティーをシフトしていく訓練としましては絶好のチャンスといいましょうか、
むしろ、聖霊のレッスン(導き)とさえ感じられている次第なのです。

警戒していなさい!

神と神の国を守る為だけに警戒していなさい。
~奇跡講座テキスト第6章 「愛のレッスン」より~

まるで聖霊からそう促されているように感じています。

というのも、「自分は本気でこの世界から出たいので、自我(幻想)を直視します」と
私はそう自ら強く意図したせいでもあるからだと自負しているので、
ただそれが促されているだけなのだと思って赦しを実践している次第です。

そうなんです。
ただ赦しをしていくだけ。

赦しとは、
原因に立ち返って、その原因のレベルで訂正をしていくということ。
そこにいくら不快な感覚があろうが、
自分でどうのこうのする必要はなく、それをただ聖霊のもとに運んでいくだけ。

それをしていくと、たしかに聖霊は応えてくれます。
すぐに応えてはくれなくとも、必ず、応えてくれるのがわかります。

それは幸せに目を向けてそして幸せだけを求めていくような道ではありませんが、
幸せのその反対の苦しみといったものがない世界(実相世界)を
たしかに聖霊は垣間見せてくれます。

それは、これは愛であれは愛じゃないというような世界ではなく、
一なる世界であり、やはり、自我(錯覚)の向こう側にみえる世界なのです。

コース実践者にもいろんな実践のやり方があるとは思いますが、
せめて、私が実践しているコース(ACIM/奇跡講座)はそういう道です。

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2018/11/16

まったく別の考え方の道

IMG_2739.jpg先日、関根勤さんとカンニング竹山さんがロケをしているところに遭遇しました

(ちなみに、おとといは、近所の海岸を散歩しているときに野性爆弾くっきーさんとガリットチュウ福島さんにも遭遇しました、笑)



前回の記事で「洗脳」という言葉が出てきたのですが、

そのことについてもう少し書いてみたいと思います。


たしかに、普通一般的にいえば、

「洗脳」という言葉はあまり好ましくない言葉として捉えがちです。


ただ、そこにイイ、スバらしい、などといった価値判断をなくして、

先入観をなくしたところからありのままにみるならば、

たしかに、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、

ある一つの考え方(思考体系)なのだといえます。


「これまでの(従来の)考え方とはまったく別の考え方がある」ということ。


そして、そのまったく別の考え方(思考体系)を示したものが、

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)だということです。


コースのその考え方(思考体系)へとシフトしていくならば、

これまで自分がみていたのは、まったくあべこべにみていたのだなぁ、

ということがわかってきます。


そうなんです。

コースは、これまでとは別の考え方をしていくようにカリキュラムされた道なのだといえます。

そのカリキュラムに沿って自分で自分自身を洗脳させていく道なのだと捉えることができます。

まさに洗脳なのです。笑


しかも、それは、非二元の知覚へと導いてくれるものであり、

悟りの境地へと導いてくれるものなのですから、

「幸福になりますよ」というようなものではない究極の洗脳の道だということです。


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ちなみに、「洗脳」について、

今日の午前中、パームチャーチにて沖縄のACIMの仲間たちと勉強会をしたのですが、

そこでもその話題になり、もりGのブログを愛読していただいているみっちゃんが、

洗脳についてこのようにコメントされたのでした。


「洗脳(せんのう)という漢字は、脳を洗う、と書くのだから、

コースを学ぶことは、やっぱり”洗脳””ですよね。

脳を染めていく(染脳/せんのう)のではなくて、脳を洗っていくわけですから」


そんなコメントをしていただき、なるほどぉ、と思わず納得してしまいました。

その通りだと思います。


別の考え方があるはず。別の道があるはず。


コースというものは、そもそもがそこを原点として口述されたものであります。


コースの中にも書かれてありますように、

自らの考え(思考)を疑うことから、その道ははじまります。

むしろ、自分の考え方が正しいと思っているあいだは、その道を歩みだすことは出来ません。


自分はどうやったら幸せになれるのか?自分にはわからないのだということを認めて、

これまでとはまったく別の考え方をしていきたいと望むことからそれははじまります。


それは、これまで自分が学んできたものを、自分自身に教え込んできたものを、

誤って自分自身に洗脳してきたものを手放す道なのだということ。


そして、その具体的な道が、

ここ(コース/ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)に示されているということです。


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2018/10/26

それは実践的で確実な道である

当たり前といえば当たり前なんですけど、
コース(ACIM/奇跡講座)を学べば学ぶほど、
ノンデュアリティ(のスピリチュアリティ)に近づいていっている自分を感じます。

というのも、自分が気づいたことを言葉にして伝えようとするとき、
ノンデュアリティで云っているところの言葉になってしまいますし、
実際に、ノンデュアリティのティーチャーたちのおっしゃる通りだなって思うのです。
 (ときには、とんちんかんな悟りやノンデュアリティを謳うティーチャーもいますが、笑)

もうコースもノンデュアリティのスピリチュアリティも、一緒だなって。

あんまり変わりないじゃんって、今ではそんなふうに感じます。

ちがいがあるといえば、たしかに、あります。

でも、もうそこにこだわることもないなって思います。

以前はと言えば、
コースとノンデュアリティのちがいみたいなところにこだわっていた自分がいたわけですが、
それはきっと「コースこそがもっとも素晴らしい霊性の道である」と
言いたかった(主張したかった)んだと思います。

ただ、赦しの実践が日常になってきた今、なんだ一緒じゃんって思ったりするのです。

そういうことからいえば、コース(ACIM/奇跡講座)は、
ノンデュアリティ(非二元)へと橋渡しをしてくれる一つの道にすぎないと言えます。

とはいうものの、
コースは、「実践的な道、なおかつ確実な道である」と言うことは出来ると思います。

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2018/10/22

いまこの瞬間が選択のとき

腰痛は、痛みに慣れてきたのか?もしくは治っていっているのか?わかりませんが、
若干、ラクになってきているように感じます。

というわけで、最近はなんだか腰痛の具合の報告みたいになっておりますが。笑

病気といった身体の健康に関する不具合は、他とは比べようがないくらい深刻になりがちです。

だとしても、純粋非二元の実践においては、
どれも他の問題と等しく同じ形態のレベルのものとして扱って赦しをしていくだけです。

ここにこそ神の平安があります。
それ以外に本当の平安などあり得ないと今ではわかります。

自分の身に何が起きようとも、あるいは、兄弟の身に何が起きようとも、
すべては自分が望んで作り出している夢にすぎないのだということ。

もうそこには加害者も、被害者もいません。
そこにはただ夢を見る者がいるだけです。

その視点からこの世界を眺めようとするとき、
そのとき、わたしたちは聖霊を選択していることになります。

聖霊の視点か?
自我の視点か?
その両方を同時に選択することはできません。
かならず、どちらか一方をわたしたちは選択していることになります。

その一瞬一瞬が、その選択の決断を迫られているのだと気づきます。

この瞬間、瞬間を、聖なる瞬間にしていくことが自分のしていくことなのだと。

いつか自我を選択しなくなるそのときまで。
それは、選択すらなかったのだとわかるときなのだと思います。

そのときまで聖霊とともにただ赦しをしていくだけなのだというふうに思います。

実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。
ー『奇跡講座』よりー

その言葉の意味がとても腑に落ちる今日この頃です。

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2018/08/22

コースを学ぶのはなぜ

私の死生観いついて書いてみたいと思います。

私は、死を迎えるときとは神の国(天国)に帰るときなのだと思っています。

この自分だけにかぎらず、
だれもが肉体の死を迎えたなら神の国に帰るのだと思っています。

もちろん、そこには輪廻転生というものはありません。
以前は、そのようなことも信じていましたが、
今ではそういう概念が私(の中)から消えてなくなっていることに気づかされます。

だれもが肉体の死とともに、自我の死を迎え、
そして、この世界とともにただ無へと帰すだけなのだというふうに捉えているということです。

だれもが自我の象徴である「肉体」から解放されたなら、
自我の見ている夢から目覚めて、真の自己に目覚めるのは当然のことだと。

つまり、この私にとって、「肉体の死」=「自我の死」だということです。

ゆえに、だれもが肉体の死を迎えたなら、自我から解き放たれ、神の国に帰るだけだと。

もっと言うならば、「肉体の死」=「自我の死」=「この世界の消滅」であり、
自分が死ぬとき、その反映でしかないこの世界も一緒に終わる(消える)ということです。

逆に、自分が死んでもこの世界は存在し続けるという観点でみるならば、
肉体の死を迎えても自分(魂)は存在し続けると想うのは当然のことで、
ゆえに輪廻転生という概念があり得るようになるということになります。

輪廻転生とは、分離した心の記憶の断片の集まりであり、
それをあたかもリニアな時間軸上で経験しているかのように捉えた概念にしかすぎません。

輪廻転生とは、分離した心ゆえにあり得る概念だということ。

わたしたちは、「分離した」という夢を見ているだけで、
肉体(自我)が終わったなら、その夢も終わるだけのことです。

では、死を迎えたとき、だれもが神の国(天国)に帰るのだとわかっていて、
なぜこの私はコース(ACIM/奇跡講座)を学び実践しているのでしょう?笑

なぜ、コースを学ぶのか?というとき、
正直、そこには理由などない、わからないというのが正直なところです。
結局は、コースを学んでいようがいまいが別にどうだっていいってことです。

ただ、強いて(理由付けして)言うとするならば、
この道を歩むことになっていたとも言えますし、
この道を歩むこと以外にもうこの世界ですることがない、
この道を歩むこと以上にこの世界に価値あるものがあるとは思えない、
といったところでしょうか。

そう、コースを学ぶ正当な理由として思いつくのが、
コースの以下の言葉をはじめて目にしたときに、
私の心がわけもなくトキめいたのを思い出すのです。

この世界は死によって去るのではなく、真理によって去るのである。

- 『奇跡講座』テキスト第3章より  -


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