2018/08/22

コースを学ぶのはなぜ

私の死生観いついて書いてみたいと思います。

私は、死を迎えるときとは神の国(天国)に帰るときなのだと思っています。

この自分だけにかぎらず、
だれもが肉体の死を迎えたなら神の国に帰るのだと思っています。

もちろん、そこには輪廻転生というものはありません。
以前は、そのようなことも信じていましたが、
今ではそういう概念が私(の中)から消えてなくなっていることに気づかされます。

だれもが肉体の死とともに、自我の死を迎え、
そして、この世界とともにただ無へと帰すだけなのだというふうに捉えているということです。

だれもが自我の象徴である「肉体」から解放されたなら、
自我の見ている夢から目覚めて、真の自己に目覚めるのは当然のことだと。

つまり、この私にとって、「肉体の死」=「自我の死」だということです。

ゆえに、だれもが肉体の死を迎えたなら、自我から解き放たれ、神の国に帰るだけだと。

もっと言うならば、「肉体の死」=「自我の死」=「この世界の消滅」であり、
自分が死ぬとき、その反映でしかないこの世界も一緒に終わる(消える)ということです。

逆に、自分が死んでもこの世界は存在し続けるという観点でみるならば、
肉体の死を迎えても自分(魂)は存在し続けると想うのは当然のことで、
ゆえに輪廻転生という概念があり得るようになるということになります。

輪廻転生とは、分離した心の記憶の断片の集まりであり、
それをあたかもリニアな時間軸上で経験しているかのように捉えた概念にしかすぎません。

輪廻転生とは、分離した心ゆえにあり得る概念だということ。

わたしたちは、「分離した」という夢を見ているだけで、
肉体(自我)が終わったなら、その夢も終わるだけのことです。

では、死を迎えたとき、だれもが神の国(天国)に帰るのだとわかっていて、
なぜこの私はコース(ACIM/奇跡講座)を学び実践しているのでしょう?笑

なぜ、コースを学ぶのか?というとき、
正直、そこには理由などない、わからないというのが正直なところです。
結局は、コースを学んでいようがいまいが別にどうだっていいってことです。

ただ、強いて(理由付けして)言うとするならば、
この道を歩むことになっていたとも言えますし、
この道を歩むこと以外にもうこの世界ですることがない、
この道を歩むこと以上にこの世界に価値あるものがあるとは思えない、
といったところでしょうか。

そう、コースを学ぶ正当な理由として思いつくのが、
コースの以下の言葉をはじめて目にしたときに、
私の心がわけもなくトキめいたのを思い出すのです。

この世界は死によって去るのではなく、真理によって去るのである。

- 『奇跡講座』テキスト第3章より  -


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2018/07/21

マイティコンパニオン(力強い仲間たち)

最近、ふと気づいたことがあります。

私の目の前に現れるコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学習者の方々が、
コースの学びに本気で取り組んでいる方々になってきたということです。

この世のものより神の国を第一に求めコースを学び実践している方々を
私が目にするようになってきたということです。

それは、あきらかに私自身がそうなってきたことの証だと思います。
なぜなら、彼らは私自身の心の反映であるからです。

それは、私自身にとってとてもうれしいことでありました。

以前であったなら、
「自分はまだこの世の何々については手放したくはありません、、、」
「自分はまだこの世的に幸せになりたい、、、」
というふうなことを言ってくる方がいたり、
この世に対する(個人的な)願望を求めながらコースを学んでいる方々が、
私の目の前に多くおられたように思います。

たぶん、、、ではなく、まさに、以前の自分がそうだったのでしょう。笑

もちろん、コースはこの世で幸せになってはいけないものではありません。
ただ、コースを学んでいく目的は、そういうものではないということです。
妥協しながらコースを学んでいったところで、赦しなんて出来るわけがありませんし、
余計に苦しくなるばかりで平安や幸せを体験(体現)していくことはあり得ません。
そういう方はコース向きではないといえますし、無理に学ぶ必要はないと思います。

むしろ、コースを学ぶ方は、すでにその準備が整った方だということが出来ると思います。

気づけば、そんな力強い仲間たち(mighty companions)が
私のまわりに現れはじめたことにただただ歓びを感じる今日この頃です。

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2018/06/01

これは心の訓練をしていく道である

今日から6月です。
今日の福岡の空は朝から晴れていて、とても心地よい気候です。

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いよいよ今月でこの福岡を離れます。

今は、沖縄引っ越しに向けて所有物の整理をしています。
身の回りの物を少しづつ必要最小限に減らしていっておりまして、
住まいの部屋の中がずいぶんとシンプルな生活空間へと様変わりしていっています。

それはまるで自分の心の中が整理されていっているようでもあります。

ふつうは、所有物が減っていくと失っていくような感覚がしていくものなのですが、
むしろ、ますます心が軽くなっていくような感覚を感じています。

いずれにせよ、わたしたちはいつのときか必ず手ぶらになるのです。
というのも、それこそが本来のわたしたちなのですから。
自我はそうなることを怖れています。
その自我こそが、無(幻影)なのです。

とはいえ、形態(かたち)のレベルで手放していってもそうすることが目的ではありません。
それは、心のレベルでなされるものでなければなりません。

まだ必要とするものを、あえて手放す必要はないということです。
むしろ、それでは「犠牲」とか「あきらめ」というもので自分をごまかすことになります。
そして、聖霊はそうそういうことをわたしたちに望んではいません。
ましてや、聖霊はそのようなことを要求したりはけっしてしません。

ときに、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)というものを
そのようなもの(すべてをあきらめていくもの)として誤解しがちになったりしますが、
そのようなものとして学びを捉えるなら、それこそが自我の罠として気づかねばなりません。

そうやって、わたしたちはスピリチュアル探究をまるで修行のように捉えてきたのです。
そして、そこには何の救いも見出されなかったという経験をしてきたといえます。

たしかに、この世界にはわたしたちを本当の意味で幸せにしてくれるものは何一つありません。
だからといって、この世界を直ちに放棄しなさいというものでもありません。

真理からすれば、それは「いまこの瞬間に」と言えますが、
そうなるにはマインドをトレーニング(心の訓練を)していく必要があるということです。

これは心の訓練をしていく道であるといえます。
それは、プロセスが必要だということです。
せめて時間と空間の中にいるということは、すべきことがあると。
これまでも、そしてこのときも、自我で生きているわたしたちにとって、
体験を通してこの世界を無(価値のないもの)としていく必要があるのだということです。

この時間と空間の中にいるこの自分がそのためにしていくことは、
ジャッジしていたのを止めて、一歩下がって、
ただ聖霊に導かれて、明け渡して、ゆだねていくことだけなのだといえます。

それを、コースでは「赦し」といいます。


今の私自身のことでいいますと、
目で見える形態(かたち)のレベルでは、引っ越しのためにいろいろ整理していっていますが、
心のレベルでは、一旦、これまでのものを手放して終わる必要があるのだと思っています。

それは、赦しの実践のさらなる段階への移行であり、
今、私は、その準備を整えていっているのだと感じています。

その準備とは、聖霊に明け渡して生きる、という準備です。
その心の準備が整わずして、この世界を放棄する、というのはとうてい無理なことです。

そして今、私は、その実践の段階にきたことを自覚する今日この頃です。

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2018/05/29

聖霊という内なる教師

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びが深まっていくにつれて、
あらためて「聖霊」の重要性と不可欠性に気づかされます。

コースは、他のノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティと比べて何がちがうのか?
というならば、「聖霊」の概念が用いられているところだといえます。

「聖霊」とは、内なる教師のことです。

最終的にその内なる教師を自らの拠り所としていくことが、
わたしたちがこのコースを学ぶ目的だということが出来ます。

その内なる教師以外を信頼していくところに真の救いはないとさえいえます。
自分以外の誰かを教師とすることは、偶像崇拝となんら変わりありません。
そこに真の救いなどあるわけもなく、
それがいくら真理だのノンデュアリティ(非二元)だのと呼ばれたところで、
所詮、二元性(自我の範疇)でしかないということは明白です。

そう、コースは、真理について追求していくものではなく、
実際にその体験へと聖霊に導いてもらうための実践的な道だと言うことが出来ると思います。

聖霊(の概念)が重要不可欠なことについて、もう一つ言えるのは、
真理を求める者としては、自分が真理に到達するものだと思いがちで、
つい、自分で真理に到達しようとしますし、
到達するためのにはそういった努力や忍耐が必要だと思ってしまいがちなところです。

いわゆる、その自分こそが「自我(エゴ)」なのであり、
その自分(自我)を聖霊に明け渡していくことがわたしたちがしていくことでだといえます。

「聖霊」とは、
すべてが何も起きていない、何もしていない、
すべてが無である(実在しない)とわかっている大いなる自己だと言うことが出来ます。
また、神への帰り道を知っている自己を超えたマインド(心)とも言うことができます。

わたしたちは、どうしたら目覚められるのか?を知らないのです。
その道を知っている聖霊に従っていくほかに道はないのです。

正直なところ、聖霊について本当に理解するまでは、
聖霊は自分が目覚めていく上で補助的な役割ぐらいの程度にしか思っていませんでした。
今は、そうではなかったと理解します。
むしろ、聖霊なしで目覚めることはあり得ないということです。

そう、コースは、その聖霊とダイレクトにつながることを目的としています。

ときに、コースの形而上学を理解することに、そして教えることに
その目的がすり替えられることがあります。

そのような学びの段階もあるのでしょうが、
私にとってこの道の歩みは、内なる教師である聖霊と
もっとダイレクトにコンタクトしていく段階に入ったと実感する今日この頃です。
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大濠公園(福岡市)

2018/03/24

私が歩んでいるこの道は

私が歩んでいるこのコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の実践の道は、
自分の意識を高めていくようなスピリチュアリティでもなければ、
真理を追究していくようなスピリチュアリティでもありません。

前者に関して言うならば、
自分を高めていけば、あるいは自分がより良い自分へと変わっていけば、
その延長に覚醒とか悟りとかがあると、あるいは神になれると信じていますが、
そうではありません。
自我がいくら意識(波動)を高めていったところで、自我はやっぱり自我でしかありません。
でも、ついスピリチュアルな世界を探究しているわたしたちは、
自分(自我)が覚醒していく、あるいは、悟りを得ていく、神になれると勘違いしがちです。
私自身もそのように勘違いしてまさにさまざまなスピリチュアリズムをたどって来たことは、
否定できません。

また、後者に関して言えば、
真理をこの幻想世界に持ち込もうとするのではなく、
むしろその真逆で、幻想を真理へと運んで明け渡していくのがこの道だといえます。
この世界を知覚しているわたしたちではけっして理解することのできない真理を、
言葉にして表現しようとして、わたしたちは真理をこの世界に持ち込もうとします。
自我は、つい真理をこの世界に持ち込もうとしたがるのです。
そもそも言葉にすることなどできないものを言葉にしようとするスピリチュアリズムに
自我は惹かれてしまうのです。
それはまるで、自分は檻の中にいるのに檻の外に出ようとはせずに、
むしろ、檻の出入り口で「檻から外の世界に出なさい」と語りかけているイエス(導き手)を
檻の中に引きずり込もうとしているようなものだといえます。
これまでの自分を振り返っても、そういうことをしていた心当たりがあります。

今、私が実践しているこのコースは、
そういうものをたどってきた旅路の果てにたどりついた道だと言うことが出来ます。

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