2017/09/06

インナーインクワイアリー・ワークについて

もりGが提供するサイコセラピーセッションでは、「Inner Inquiry (インナー・インクワイアリー)」という作業(ワーク)を行っていきます。


Inner Inquiry (インナー・インクワイアリー)という言葉について説明しますと、ふつう、Inner Inquiry を日本語では、スピリチュアル用語として「内的探究」と訳されています。


ただ、私から言わせてもらうと「探究」という言葉は、何かとりとめのないものを探すような意味合いをイメージしがちで、あまり、しっくりとする日本語訳とは思えません。


どちらかと言いますと、Inner Inquiryのワーク(作業)は、自分の無意識の心の中を「調べ上げる」といった感じに近いと言えます。

普段はまったく意識していない心の中の領域に目を向けることをしていくということです。


なので、Inner Inquiry (インナー・インクワイアリー)を日本語で表現するとしたら、「内観」という言葉の方がピッタリと来るように感じます。


だた、「内観」と言いましても、もりGならではの聖霊の直感に従っていく手法で無意識の中を掘り下げていくその深さは、「真我(神意識、普遍意識)」に到達するまでアクセスしていきますので、通常の内観とはまるでちがうものだということを体験していただくことになると思います。


いわゆる、Inner Inquiry (インナー・インクワイアリー)ワークは、自分の内側を内観しながら、心の中を整理していくものだと捉えていただくといいと思います。

それは、無意識に押し込まれた感情、記憶、思考(想念)、信念などを明るみにしていく作業(ワーク)でもあり、またそれは、スピリチュアル用語で言い換えるなら、ちょうど「カルマをクリアリング(取り消し)していく作業」というふうに言い換えることが出来ると思います。


また言い換えるなら、無意識の中に押し込めた闇の部分に光を当てていくようなものだと思っていただけたらいいと思います。

闇に光を当てることで、闇は何も無かったかのように止滅していきます。

そのプロセスにおいて、気づき、癒し、赦し、解放(知覚の訂正)といったことが起きていきます。


心が変わるだけでなく、知覚そのものも、より軽やかで穏やかなものへと変容していきます。


自分人生の謎が紐解かれていくとともに、この宇宙の神秘の謎も紐解かれていきます。


それは、あなたにとってのスピリチュアル・ジャーニー(スピリチュアルな旅)となることでしょう。


それと同時に、あなたが望むならば、その旅はこの時間の中での最後の旅にもなっていきます。


あなたが真摯に自分自身に正直になっていくならば、必ずやあなたは真の自由、真の幸福へと導かれていくことになります。


それが、私がセッションで行っている「Inner Inquiry (インナー・インクワイアリー)」というものです。



【もりGプライベートセッション】


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2017/08/20

分裂した心のままでは

自分の内側をよくよく内観(Inner Inquiry)するならば、自分の心の中に「真理を求める自分」と「真理を怖れている自分」の矛盾する両方の心があることが、はっきりと認識されます。


つまり、それこそが「心の分裂」というものであり、わたしたちがこの分離の世界を、この二元性の世界を生み出す原因となるものだと言えます。


「真理」を「神」という言葉で置き換えてもいいです。


わたしたちは、神を求めていながら、神のもとに帰ろうと試みながらも、同時に神を怖れているがゆえに神に抵抗している、神と戦っている、、、ということが起きているのです。


さらにまた、「真理」「神」という言葉を、平安や幸せという言葉で置き換えてもいいです。


もし、あなたが、自分はなぜ不幸なのだろう?どうして、自分は幸せではないのだろう?なぜ、自分は幸せになれないのだろう?と感じているのならば、つまりは、そういうことだと言うことが出来ます。


そう、わたしたちは、平安や幸福を求めているつもりでいますが、じつは、わたしたちは、本来が平安で幸福であるのに、そのことに自らで抵抗しているということなのです。


その分裂した心のまま、平安や幸せになることはあり得ないのです。


その自覚なしにいくら真理を追い求めても、真理に到達するということはあり得ません。

むしろ、真理へ向かおうとするのを邪魔する自分と悪戦苦闘することになります。


たぶん、かつての真理の探究者たちは、修行の名のもとに、そのことに計り知れないほどの時間と労力を費やしてきたのだといえるでしょう。


でも、もう、そういう時代も終わりです。


これからのわたしたちは、そのことを認識し、自覚することで、はじめて、自分の内側を統合、整理していかねばならないことに意識が向かうようになるでしょう。

それは、修行や探究といったものではなく、ただ自分の内側を整理していくだけのことだということです。


まさか、自分の中に、自分が幸せになることを咎める自分がいるとは、思えないことでしょう。


とくに、スピリチュアルの探究者たちは、自分の中に真理から遠ざかりたい自分や、真理に抵抗している自分がいることを認めたくはないかもしれません。


真理を咎めている自分、神に抵抗している自分、、、それを、自我(エゴ)と呼びます。


その自我と向き合っていくことだけが、真理に到達する道であり、神のもとに帰る道だと言えます。

その道は、けっして、自我を無視したまま真理へと、神へと向かうものではありません。

もし、そうであるならば、それは自我と戦うということであり、その戦いに終わりはありません。


自我と向き合うとは、自我に光を当てることによって、自我を癒し、赦していくということです。

それによって、分裂した心や、あらゆるものとの分離が無くなっていきます。


心は、シンプルに、純粋無垢に、無へと向かっていきます。


そして、そのすべてが無に帰することが、わたしたちがいづれ帰るところです。


私が、歩んでいる道とはそういうものだということができます。

そして、私がしている心理セラピーもそういうものだと言うことができます。


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2017/08/02

平安へ到達するためのツール

セッションで心理セラピーを施すとき、その人が今現在抱えている問題をテーマに、

それをきっかけにして、その人の心の中を調べていくことをしていきます。


なぜなら、その問題の原因となるものといいましょうか、その解決法(答え)は、

その人の心の中にあるからです。


ちなみに、「その人の心の中」と言いましても、

この私も、その人と一緒に心の中を掘り下げていく作業(ワーク)をしていくので、

自分の心の中を内観(内的探索)しているような感覚になります。

そこには、その人の心も、私の心も、区別がなくなってしまうのです。


そのワークのプロセスにおいて、

癒し、赦し、気づき、解放(知覚の訂正)といったものが起こるべくして起きていきます。


かつて(ジーニーと呼ばれていた頃)は、そのプロセスを「自分の整理」と呼んでいました。

自分の内側がどんどん整理されていくにつれて、

真我が開かれていって、神の平安たるものが自分の心を占めていくようになるのです。


そのようなセラピーを施していくことを通して、

私は、深層心理たるもののメカニズムを深く理解していきました。

そして、その理解をベースに独自の心理セラピーは構築されていきました。

私は、自分なりに「(自我の)心のメカニズム」を感覚的に理解していました。

ただ、その理解はあくまでも「感覚的なもの」であって、誰に説明する必要もなく、

自分の中だけでの理解に収まったままでいたのでした。


ちなみに言いますと、その「自分の整理」という心理セラピーは、

自分自身で自己の心の中を内観(内的探索)していきたい方にとっては、

とても有益なものではあったものの、

自分自身以外の他の誰かによって癒してもらうことを求めている方や、

自分以外の誰かに解決(答え)を教えてもらうことを望んでいる方々にとっては、

そのセラピーはあまり価値を見い出されることはありませんでした。

(今では、自分の心の中へと向かう方向こそ、

 つまり、内観(内的探索)していくことこそが真の赦しに至る唯一の道だと言い切れます)


そう、私は、「自我のメカニズム」を感覚的には理解しつつも、

はっきりと概念的な理解として確信したのが、

デイヴィッド・ホフマイスター(著)の『覚醒へのレッスン』を読んだときでした。

そして、

それが今現在のサイコセラピー・セッションに繋がっていくきっかけになったといえます。


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その本の後半部分の「心の5つのレベル」のセクションの箇所(p.511~p.536)は、

じつに興味深く、しかも実用的な内容です。


そこには、「願望(欲求)→信念→思考(想念)→感情→知覚」という図式で、

(自我の)願望が知覚に至るプロセスが示されています。


それは、デイヴィッド・ホフマイスターが、ジーザス(イエス)から

インスピレーションによって与えられたものだと言います。


いくつもの心理セラピー・セッションを通して、

私が自分なりに「心のメカニズム」として捉えてきた考え方と、

そこに書かれてあることがまさにぴったりとハマったのです。


その図は、まさに、平安に到達するためのツールだと言えます。


通常のわたしたちの認識では、

この世界というものが存在していて、

そしてこの世界のなかの森羅万象を五感で知覚して、

それによって感情や想い(思考、想念)が動くのだと、、、

そう考えています。


しかし、真理からすれば、その認識はまったくのあべこべで、

わたしたちは、知覚したいものを知覚しているのであって、

そのために感情や想い(思考、想念)を生起させることで、

本当は実在しないこの世界があたかも存在しているかのようにでっち上げているだけ、、、

と言うことが出来ます。


自分の心が分離を信じていることを自分自身で気付くことがないように、

その真実を隠そうとしてしているのが、この世界なのです。

知覚の世界は、わたしたちから真理を隠すためにエゴによって作られたということです。


もし『覚醒へのレッスン』をお持ちならば、

その本の後半部分の「心の5つのレベル」のセクションの箇所(p.511~p.536)に、

ぜひもう一度目を通されることを私からお薦めします。

その「心の5つレベル」のセクションの箇所を本当に理解するならば、

コースの本編テキストの理解もかなり進むことになるでしょう。

そして何よりも、あなたの癒し(赦し)は、もっとスムーズなものになっていくでしょう。


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2017/07/23

自と他の区別を通り越して

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最近の私は、自分の知覚が変容してきているのを感じています。

どんなふうに変わってきているのかと言いますと、

自分と他者とが分離しているという認識がますますなってきているという感じです。


とくに、セッションにおいては、それが顕著に自覚できます。

そこには自分の心と相手の心とが別々に分離したものとしてあるのではなく、

ワンネス(一体性)なる一つの心として知覚して扱っているという感覚に気づきます。


そこには、一つの心しかありません。

そこには、一つの聖霊しかいません。

そこには、一つの自我しかありません。

そこには、あなたの「○○」とか、私の「○○」というものがありません。

そこでは、あなたと私は一つです。


以前はどんなだったかというと、

私の心とあなたの心は別々のものと認識していたところがあり、

(分離したこの世界では誰もみなそれが当たり前の感覚で知覚しています)

そこには、私の内なる声(聖霊)とあなたの内側の声(聖霊)がいる、

という感じでした。


もちろん、自我(エゴ)に対する認識の仕方も同様に、

「私の自我」と「あなたの自我」があって、

それらはそれぞれの内側に別々に個々のものとしてあると思っていました。

だから、セラピストである私は、クライアントであるあなたの内側の自我にアプローチして、

あなたの自我を赦して、あなたを癒しているという感覚でいました。


そう、私の認識では、私の心(内側)とあなたの心(内側)は別のもので、

私の心の方があなた(クライアントさん)の心よりも少しばかり癒しが進んでいて、

それゆえあなたよりも癒されている私(セラピスト)が、

まだまだ癒されていないあなたの心を癒すのだ、、、

というような想いがそこにはあったように思います。


でも、今ではまったくその認識がちがいます。

あなた(クライアントさん)の心が癒されるとき、癒されているのは私の心でもあるのです。

なぜなら、あなたと私は、同じ一つの心だからです。

誰々が癒されていて誰々が癒されていない、ということはありません。

すべての兄弟たちは自分自身であり、

もっと言えば、その自分はまだまだまったくと言っていいほど癒されていないと気づきます。

その自分はもっともっとたくさんの「赦し」、すなわち「癒し」が必要だと気づくのです。


私は、自分自身には癒されていない部分はまだまだたくさんあると感じています。

そう、他者を知覚しているかぎり、分離を知覚しているということであり、

分離を知覚しなくなるまで、まだまだ「赦し、癒し」が必要なのだということです。

そして、これからがその本格的な癒しと赦しのはじまりという気もします。


癒され、赦されていくのは、この自分です。


この自分とは、神の一人子であることを忘れてしまったあなたです。


私は、その神の一人子である自分をもっともっと癒していく必要があると心から感じています。

そしてそれは、兄弟によって、兄弟と共に、なされていくのだと自覚しています。

けっして、一人で癒されることはありません。

あなたが必要なのです。

私には兄弟が必要なのです。

あなたが癒されていくならば、癒されていくのはこの私だからです。


神の子は一人です。

それが、あなたであり私です。


あなた(クライアントさん)が、私の救済者なのです。


2017/07/15

神聖な関係のもとに

ここ最近の私は、

ずっとあるテーマに沿って自分の内側と向き合う作業(ワーク)をしています。

その作業は自分がしているというよりも、それが起きているといった方が正しいです。

というのも、自分に何が起きてるのか?は、はじめは理解できないものであり、

自分の内側と向き合っていくうちに、

次第にある一つのテーマがみえてくる(つながってくる)ものだからです。


そうやって、ここに来てようやく自分でもわかってきたのは、

そのテーマとは、これから出会っていく兄弟との関係性において、

「神聖な関係」へと移行するよう、そのための準備をしているように思えます。


つまり、これまでをいうならば、

私は「特別な関係」で兄弟と関わっていたと言うことができます。


それにちなんで、今、私自身の想いは、

聖霊(ホーリースピリット)との関係性のみが重要になってきおり、

むしろ、それ以外はもう何も要らないと感じているところすらあります。


そんな私は、ますます分離のない知覚へと移行していっている感もあります。


もう、他者がいません。


どこに他者など存在するのでしょう?

自分以外のだれが存在するというのでしょう?


日常の中でそれを実践してきた成果として、

私の知覚は、一なる心だけがあるかのように知覚されつつあります。


それは、ノンデュアリティ(非二元)の実践(心の訓練)をしていくならば、

然るべき知覚だとも言えます。


そのように知覚するようになってきてわかるのが、

これまでの自分は「特別な関係」で、

他者と、この世界と関わっていたことが、よくよく理解できます。


「特別な関係」をコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、
特別な憎悪の関係、特別な愛の関係と二つに分けていますが、
同時にこの二つは全く同じものであると強調します。
そのどちらもが、「特別な関係」であり、エゴの用いる最大の魔術と言うことができます。

それは、以前私が行っていたセッションについてもそうですが、
巷のセラピー全般やスピリチュアリズム全般についても同じことが言えます。
そのすべてが「特別な関係」で成り立っているということです。


「特別な関係」から「神聖な関係」へ。


そこには他者がいません。

そこには世界がありません。

そこには一なる心があるだけです。


この知覚の変容は、

これから私が行うセッションに大きく反映されていくにちがいありません。


もう、あなたと私の間に分離はありえません。

相違も分離もなく、あなたと私は一つです。

一つの心となって、聖霊の導きに従って、

一緒に一なる心の闇(自我)を取り消していく作業(ワーク)をしていくだけです。


神聖な関係の中に奇跡は流れ込んでくる、とコースでは云っています。


神性な関係のもとに行われるセッションは、

形態(見た目)のレベルでは以前とはなんら変わらなくとも、

私にとっては以前とはまったくちがったものになるということです。


それはどのようなものなのか?


どうぞ、この私と一緒に、あなたがその証人になっていただけたらと思います。


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