2017/04/21

放棄

私の中で心境の変化が起きています。


私は自分のセラピー能力に絶対なる自信と確信がありました。

私は、自分のセラピーで誰もを救えると思っていました。

そして、そこに使命感さえ感じていました。

でも、それってやっぱりちがうなって今は思います。

そこにはやっぱり「自分(ジブン)がしている」という想いがあったし、

もうこの世界には自分しかいないし、他人は自分の鏡だと思うのです。


ほんとうは自分がしているのではなく、神(聖霊)を通して起きているだけ。

自分はなにもしていないし、

そして、救われるべき存在とは、この自分自身だと気づくのです。


セラピーに対する自信みたいなその想いは今も変わりはないのですが、

その想いから、ついついエゴの部分の「自分がしている」という顔を出してしまいます。

でも、ほんとうはそうじゃない。

そういう想いは無いほうがいい。

むしろ、そういう想いが無い時の方が素晴らしいものがもたらされるのです。


先ほども申しましたように、

私は、自分のセラピー能力を神に与えられた才能だと思っていました。

その能力を使ってセラピーをしていくことが、自分のこの世での役割だと思ってきました。

でも、それによってアイデンティティを築き上げているのなら、

無意味なこと以外の何ものでもないと思うのです。

なにかがちがっている、、、思い違いをしていると。

むしろ、これまではその能力を武器にして、この世界を相手に戦っていたのかもしれません。

それは、生きていくために、この自分にとっては大事なものでした。

でも、もうその必要もないと内なる聖霊が伝えてきています。

ここから先は、その武器も置いていくことを選択するときに来ていることを察するのです。


「セラピスト対クライアント」という構図の心理セラピーは、

もうこの私から終わっていくのだと思います。

それは、心理セラピストとして生きてきた私にとっては死活問題ともいえるかもしれません。


「放棄」ということばが、私の脳裏に浮かんできます。

この武器を手放していくとしたら、どうなるのだろう?という想いももちろんあります。

それでも、聖霊に導かれて神の道を歩んでいくだけです。


心理セラピストとしての武器を置いて、

心理セラピーというものを手放して、

私は、新しいかたちへと移行していくつもりです。


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2017/04/06

セラピーというものについて今想うこと

心理セラピストとしての私からみると、

人と関わること自体がセラピーのように思えます。

もっと言えば、この世界と関わること自体がセラピーなのだと思うのです。


なぜなら、自分の一部である他者によって自己は救済されていっているといえるからです。

本来は、他者などいなくて、すべては自分が自分にしていることではあるのですが、

それこそがこの世界のしくみというものであり、

わたしたちがこの世界に生きているゆえんなのだといえます。


わたしたちは、癒されるためにこの世界に生きているのであり、

癒される必要がなければ、もうこの世界を必要としなくなるでしょう。


話を戻せば、生きている人生そのものがセラピーであるからして、

あえてセラピーという形態をとる必要もなく、

もはやセラピーというものすら必要ないとさえ思うのです。


だれもが、それぞれの人生を通してそれぞれのペースで神の元(源)に帰ろうとしている、、、


そこからみるとき、この自分はいったい何をしているのだろう?とさえ思えます。

セラピーとは、いったい何をしているのだろうか?


それは、他のあらゆることに対しても同じことが言えるかもしれません。

本来必要のないものをあえて意味ありげにそこに必要性をもたらして、

それをあたかも価値あることかのようにしてきたのがこの世界であると。


本来は、もっとシンプルなのだと思います。

本来は、もっとシンプルでいいのだと思います。


そういう意味でいえば、こんなことを言っていいのかわかりませんが、

心理セラピストとしての私にとっては、もうすることがないようにも思えるのです。


もし、することがあるとするならば、

ただ心を静かにして、ただ心を穏やかに、

この世界のそのままをゆるして、

この世界のあるがままを祝福して、

内なる神の平安の中に佇んでいることだけではないだろうかと思うのです。


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2017/02/12

心理療法について

心理療法家(心理セラピスト)としての私が云うのもなんですが、


癒されているのはだれか?

救われているのはだれか?


というのであれば、

その答えは、この私自身であると言えよう。


3次元的なところからいえば、

クライアントと施術者の両方が癒されている、救われているのだと言うことが出来るが、

非二元のスピリチュアリティからみるならば、

セラピーやヒーリングやカウンセリングにおいて、

癒されているのは、そして、救われていっているのは、

それを施している側のセラピストであり、ヒーラーであり、カウンセラー自身である。


というのも、本来はこの世界に他者など存在せず、

目の前に現われる他者は、自分の一部、あるいは自分の投影であるゆえ、

目の前のクライアントが癒されるとき、じつは、自分(の一部)が癒されているのである。


それをわかってセラピーやヒーリングやカウンセリングといった施術を施している者は、

本当に少ないと言えるだろう。

むしろ、それをわかって、そこから他者と接する者は、

存在しているだけですでにセラピストであり、ヒーラーであり、癒しを与える人なはずである。

それを職業としていようがいまいが、そんなことは一切関係ない。

なぜなら、そういう人はもはや分離した世界はかなり希薄なものになっており、

だれものなかにキリストをみているからである。


さらに踏み込んで言えば、

純粋非二元のスピリチュアリティからみるならば、

だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主である。

というのも、この二元性世界は、そのような原理になっているといえる。

われわれはお互いに関わり合いながら、

この世界から解放されていくよう、そのような仕組み(システム)になっている。

なぜなら、他者こそが、己を映す鏡であるからだ。


そもそもが、この世界がある、とか、他者がいる、というものは、

「すべては自分の投影である」というその真理を見誤っているだけのこと。

それに気づいて勘違いが修正されていくことは、もっとも自然な道理である。


そういうところから見るならば、この世界にセラピストなど要らない、

ヒーラーも要らない、他者を癒す専門家など要らないということになる。


だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主である。


ようするに、

われわれは他者を通してこの世界から救われていくようになっているということ。


だれもにとって、他者は自分自身にとってキリスト(救世主)である。

そして、自分自身が本当にこの世界から自由になっていくとき、

他者がキリストにみえてくるというのはまさにその通りである。


一般的にはそのようにはみえていないし、そのことは知られてはいない。

それは、それはわたしたちが分離されているという二元性の錯覚の中で生きているからだ。


救いは、他者からやって来る。

他者は己にとってのキリスト(救世主)である。

彼は、「この世は無価値である」ことを教えてくれようとしている。


他者をそのように見はじめるならば、

その者こそが、偉大なるセラピストであり、ヒーラーであり、救世主となっていくであろう。


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2017/01/28

pain 痛みについて

痛みとは、心的なものである。


肉体的な痛みにしろ、心理的な痛みにしろ、

それはすべて心に起因しているものであるということ。

もっと詳しく言えば、

もともと内在していた心の傷が、顕在化するとき、

それは痛みとして知覚(意識化)されるということ。


ようするに、身体的に傷つくことも、心理的に傷つくことも、

癒されていない心、つまりは、傷ついたままの心が、

癒されるべくして顕現しただけであるということ。


そう、

痛みとは、癒されていない心の叫びである、と言うことが出来る。


肉体的な傷は、目に見えるかたちで癒されるのがわかるが、

心の傷は、目に見えるわけではないので、痛みとして感じられないまま、

癒されきれないまま、無意識に追いやられてしまう場合がある。

その時に、トラウマ(心の傷)というかたちで心の奥底に刻み込まれることになる。

そしてそれは、意識化され癒されるまで、

トラウマとして本人のその後の人生や心のパターンに付きまとってくることになる。

心の傷は癒されるために、本人の意識上に顕在化させようとするのである。

それが痛み(pain)である。


痛み(pain)への対処法は、痛みを痛みとして感じ切ることである。

痛い、つらい、哀しい、苦しい、、、

その痛みを避けようと抵抗すればするほど、痛みの叫びは強くなる。

痛みを受け入れれば受け入れるほど、そこに癒しが起きていく。

癒しが起きたなら、その後に平安が訪れ、痛みは和らぐか、消える。


痛みとは、すべて心的なものである。

身体的な痛みにしろ、心的な痛みにしろ、

心の傷(魂の傷)が癒されるなら、痛みは消える、、、つまり、苦痛がなくなる。


ちなみに、心の傷、あるいは、その痛みにあまりに無自覚で鈍感な場合、

それは癒されるべく、物理的(身体的)に現象化(物質化)することになる。

それが、ケガであり、病気である。


結論的に云うならば、

痛みは、癒されていない心にのみに感じられるものであり、

癒された心には痛みを感じることがないと言うことができる。

そして、痛みに対して、たとえ身体上(病気)の痛みであろうと、

その癒しは、心において成されるべきであるということ。


そう、

わたしたちは、心の傷(魂の傷)を癒すためにこの時間の世界にいるのだともいえる。

時間とは、未来とは、そのためのものであり、それが輪廻である。

そして、癒しを必要とはしない、つまりは、時間を必要としない、

永遠の今、に帰ることがわたしたちのゴールだと言うことが出来る。


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2017/01/27

人間関係について

多くの人が悩んでいるのが人間関係です。

それは、仕事、家庭、恋愛、友人関係など、他者と関わるすべてにおいて関わってきます。


人間関係というものを非二元のスピリチュアリティからみると、

じつは、「すべての人間関係は、自分自身との関わり方の反映である」

ということができます。

なぜなら、他者はいないのであり、

すべての人が自分の心を投影してみているにしかすぎないからです。


正直な気持ちで以って、自分自身の内側と真摯に向き合っていくならば、

そのことが一目瞭然で明白になります。


自分自身と深く向き合っていける人は、他者とも深く関わることができる人です。

自分自身の本当の気持ちをうまくごまかしたり、あしらったりしている人は、

他者に対してもそういうことをしています。

なぜなら、自分の中の何かを隠したいから、それと向き合いたくないから、

無意識的にそこから避けようと、そういう態度をとってしまうのです。


さらに言うと、そのような他者との関係性のパターンをするようになった原因は、

そのほとんどが両親との関係性に起因しています。

人は、この世に生まれてきて一番最初に他者と関わっていく対象が、

母親であり、父親である両親です。

そう、自分と両親との関係性が、

自分のその後の人生における人間関係のパターンに大きな影響を与えているということです。


つまるところ、

自分自身の他者との人間関係のパターンをよくよくみるならば、

それは、両親との関係性のパターンであり、

ひいては、自分自身との関係性のパターンであり、

さらにいえば、神との関係性のパターンの繰り返しであることがわかります。


その己を知るならば、

この人生のしくみ、そして、この世のしくみまでがみえてくることになるでしょう。


結論的に云うと、

この世界における他者、あるいは、他者との人間関係は、

この自分自身がこれまでの古い自分から解放されていくために、

ひいては、真の自己へと、神へと帰っていくために、

まさしくそういうことのためにあると言うことができます。


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