2018/04/16

分裂した心

心が分裂している症状を統合失調症と呼びます。

以前は、精神分裂症という呼び方で呼ばれていました。


真理からみれば、わたしたちはだれもがみんな精神分裂症だということが出来ます。

例外なくだれもがみんな、です。

この二元性の世界を知覚しているかぎり、そうだということです。


自分の内側をよくよく内観(Inner Inquiry)するならば、

自分の心の中に「神を求める自分」と「神を拒否している自分」の

相矛盾する両方の心があることがはっきりと認識されます。


つまり、それは心が分裂した状態であり、

それこそがこの分離の世界を、この二元性世界を生み出す原因となるものだと言えます。


わたしたちは、神のもとに帰りたいと望んでいながらも、

同時に神を怖れている、神に抵抗している、神と戦っている、、、

ということが心のなかで起きているのです。


「神」という言葉を、「愛」といった言葉で置き換えてもかまいません。

さらにまた、「神」という言葉を、「平安」や「幸せ」という言葉で置き換えてもいいです。


もし、あなたが、自分はなぜ不幸なのだろう?

どうして、自分は幸せではないのだろう?

なぜ、自分は幸せになれないのだろう?と感じているのならば、

つまりは、そういうことだと言うことが出来ます。


幸せを求めていながらも、真に幸せになることを拒否しているということです。

そのように分裂した心のままでも幸せになれる、と信じているということです。


まさに、その分裂した心とは、狂気としか言いようがありません。


分裂した心のままいくら幸せ(神)を追い求めても、

幸せ(神)に到達するということは絶対にあり得ません。

というのも、いくら幸せ(神)を求めようとも、

幸せ(神)に向かおうとするのを邪魔する自分と悪戦苦闘することになるだけです。


たぶん、これまでのわたしたちは、スピリチュアルや宗教や修行という名のもとに、

そのことに計り知れないほどの時間と労力を費やしてきたのだといえるでしょう。


まさか、自分の中に、自分が幸せになることを咎める自分がいるとは、思えないことでしょう。

とくに、スピリチュアルの探究者たちは、自分の中に神(幸せ)から遠ざかりたい自分や、

神(幸せ)に抵抗している自分がいることを認めたくはないかもしれません。


神を咎めている自分、神に抵抗している自分、、、それを、自我(エゴ)と呼びます。


その自我に気づいていくことが、神に向かうための一歩になります。

そして、その自我を取り消していくことが、わたしたちが取り組んでいく道だといえます。

その道は、けっして、自我を無視したまま神(愛)へと向かうものではありません。

もし、そうするならば、それは自我と戦うということであり、その戦いに終わりはありません。


まずは、神(愛)に抵抗している自我に気づいていくことです。

そのために、自分の内面の無意識に取り組んでいく必要があります。

それによって、自我と同一化していたアイデンティティから解放されていきます。


私がしているセラピーとは、そういうものだと理解していただけたらと思います。


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2018/04/09

兄弟との関わりを通して

兄弟と関わっていきたい、という私の想いは、どこからくるのだろう?と自分でも不思議です。

私がサイコセラピストとしてセッションをしているのも、
その想い(衝動)があってこそ続けていられるのだと思います。

そして、それについて答えるとするならば、
私が兄弟と関わるその目的といいましょうか、
セッションをしていくその理由は、「joining(結合、接合)」なんだと思います。

それは、この世の(かたちの)レベルでつながるというものとはまったくちがいます。

実相レベルでの  joining です。

ただそれだけなんだと。
本来、わたしたちは神の子として一つなんだと思い出したいのだと。

わたしたちは、実相では一なる心でつながっています。

あなたという存在のその奥に在る実相と、
私(もりG)という存在の奥に在る実相は、 同じものです。

一なる心でつながっていて、同じ一つのものです。

私は兄弟たちとそれを分かち合いたいのだと、自分なりにそう想います。

あなたと私との出会いがそういうものであったらいいなと思います。

私のこの想いが、あなたのもとへ届きますように。

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2018/03/27

セラピストとしての進化の果てに

私のセラピストとしての歩みも、今年の4月で丸14年になります。

そのセラピストとしての道のりは、振り返ればそのときそのときで
必要なスピリチュアリティの学びの経歴と経験をたどってきたように思います。

私個人のスピリチュアルな学びの段階に伴って、
私が施すセラピーのその内容も変容とシフトを遂げてきたといえます。

たしかに、それを「進化」と呼べばその通りだといえますが、
最近では、私の施すセッションにおいては、
セッションのスタイルにかたちがなくなってきている次第でありまして、
もっと言えば、セラピーをしているという感覚すらなかったりする今日この頃です。

誰かを癒す、誰かが癒される、ということには興味がなくなってしまったのは事実です。
私がセッションをしているのはそういうところのものではなくなったということです。

じつは、そのようなことを私は一年ほど前くらいから感じていて、
一年前の自分の書いた「セラピストを放棄します」の記事を読み返すと、
まさに、そのような心境が述べられているのがわかります。

あれから一年経ってようやく、私の中でなんとなく符合していなかったものが、
ここに来て整合されてきたように感じています。

これからも(心理)セラピストとして活動を続けていくのか?というならば、
それに関しては、正直、もう神の思召しにゆだねているところがあります。笑
ニーズがあるならば(セッションを必要とする人がいるのならば)、
それは続けられていくだろうし、もし、ニーズがなくなっていくのであれば、
私が続けたくともその必要性がないということだけのことだと。

かたち(形態)のレベルでは、そういったことは関係ないということです。
なにをしていても、どこでだれを相手にしようとも、
このサイコセラピストというその機能は果たされていくだろうとさえ思えます。

なにせ、新たな局面の歩みのはじまりを予感しています。
それは、神の教師としての歩みのはじまりだと、私は自覚するのです。

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2017/11/25

ジャーナリングで「自分との対話」、セルフ・カウンセリング

何かに迷ったり、混乱しているとき 、カウンセラーやセラピストの助けを借りるという方法もありますが、自分一人でできるやり方がありますので、みなさんにご紹介しようと思います。


それが、「ジャーナリング」と呼ばれるものです。


ジャーナリングとは、自分の心に思い浮かんできたことをそのままノートにき書き出す、というものです。

ジャーナリングは、書いている時も、書き終わった時も、心が整理され、軽くなっていくという効果があります。

自分の内側を整理する方法として、私もとても有効だと感じています。


ジャーナリングは、セルフ・カウンセリングと言うこともできると思います。


ジャーナリングのやり方としては人の数ほどあります。

その中でも特に私がお薦めするのが、自分のネガティブな部分にフォーカスしていくやり方です。

自分自身のことで、誰にも知られたくないと思っている部分に光を当てていくやり方をご紹介します。


けっして人には言えない内容で、すぐにでも捨ててしまいたいと思う内容であれば、紙に書いて、すぐに捨てて頂いても結構です。

むしろ、書き捨てるつもりで、どんどん心の中のものを吐き出すつもりでやるといいと思います。


ハートで感じていることを書き出していくのですが、目的は、「書き出すこと」ではなく、「ハートで感じていることをあらわにする」ことに意味があるということです。


自分に話しかけるように書いてもいいですし、感じたことをそのまま書くのでも、どんなカタチでも構いません。

自然と思い浮かんできたことを書き出すようにして下さい。

むしろ、書きなぐる、と云ったほうがいいかもしれません。

そこには、感情的なことも書きなぐります。

不安や心配事があるのなら、そのまま不安や心配の言葉を、イライラしていたら、そのイライラをそのまま書き出して下さい。

そのとき、「感情の解放」が起きるとともに、「癒し」も起きますし、「気づき」も起きていきます。


また、それは「自分への告白」といったものになることもあります。

自分の中に隠し事をなくすのです。

それは、他の誰かに打ち明ける必要もありません。

自分自身に対して、素直に、まっすぐに、自分の中に隠し事をしないように書き出すのです。


それは、まるで「自分との本音の対話」のようですらあります。


「自分の内側と向き合う」「自分の心に寄り添う」という心の訓練(トレーニング)になります。

ですので、ジャーナリングは私からもとてもオススメです。


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2017/11/18

開かれた心で、ありのままであるということ

今日は、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを紹介したいと思います。


  「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  


  「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、『神の小屋』の著者であり、その著作は映画化もされています。

その映画は『アメイジング・ジャーニー』というタイトルで上映されて、最近日本でも話題になったばかりの映画です。

私も、その映画は気になっていて、知ってはいたのですが、いざその映画を観に行こうと思ったら、福岡では上映がすでに終了していたということもあり、観ることが出来ませんでした。

ですので、原作の『神の小屋』をこれから取り寄せて読もうと思っているところです。


なにせ、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを観て思ったのは、見事なまでに「自我」というものについて的確に語られているということです。

また、彼自身の体験を通しての「癒しのプロセス」について語られているところはじつに興味深いと思いました。

それによって、自分の内側と向き合っていくことがどれだけ重要かも感じましたし、そして「癒し」というものの重要性をあらためて思い直した次第です。


「彼は幼少の頃に性的虐待を受けていた」ということもありますが、それは、なんら他人事ではありません。

というのも、わたしたちはだれもが、心の中に少なからずや大なり小なり、程度の差はあれ、トラウマ(心の傷)というものを抱えているからです。

そう、だれもがみんな、自分を護るためにいくつもの仮面(ペルソナ)を被っています。

ただそれが自分の人生に支障をきたしているか?きたしていないか?の違いだけです。

あなたが、心にトラウマ(心の傷)などないとしたなら、あなたはすでに幸せを感じて生きています。

もし、そうだとしたなら、あなたは神(父)の愛をいつも受け取っているはずだからです。

そう、幸せを感じて生きてはいないとしたなら、癒されるべきトラウマを抱えているということです。

ただ、わたしたちはその自覚がありません。

わたしたちは、ほとんどの場合、自分はそれほどのトラウマ(心の傷)は抱えてはいない、と思っています。

自覚がないからこそ、それは心の奥底の無意識に追いやられてしまっているということです。

でも、たとえ無意識の奥底に追いやったつもりでいても、それは自分の外側の人生に投影として反映されていきます。

そして、それを知覚しているのがこの世界だと言えます。


この世界で起きていることは、すべて心の現れです。

もっと言えば、自分が作り上げたドラマです。

そこから解放されるためには、自分を護るために作り上げた「自我」を明るみにしていくことが必要です。


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、神のもとで秘密を明るみにしていくこと、隠しておきたい心(の闇の部分)をあらわにしていくこと、が大事だと言います。

そして、「癒し」とはそういうものだと。


わたしたちは、癒されるために、ここに生きていると言っても過言ではありません。

というのも、開かれた心で、ありのままであるとき、わたしたちは、神に愛されていることを思い出すことが出来ます。


神は、あなたが向き合おうとしない心の闇の扉の向こうで、あなたを待っています。


もし、自分の人生が行き詰ったと感じているのなら、あるいは人生に苦痛を感じているのなら、今こそが、内側の奥底に追いやっていた闇の部分(心の傷)が癒されるときにあるということです。


もし、自分はもっと癒しが必要だと感じているなら、もっと自己の内面と対峙して心を癒していきたいと感じているなら、今が自分の人生と向き合う時期だと感じたなら、心理カウンセリングや心理セラピーの助けを借りることを私からもお薦めします。


興味のある方は、下記のウィリアム・ポール・ヤングさんのトークをぜひご覧ください。


・「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  https://www.youtube.com/watch?v=ZjLRSnxIPn4&t=8s


・「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  https://www.youtube.com/watch?v=1eEJJURJ_ko&t=1s


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