2018/09/27

愛の延長

「赦し」がただ自分のしていくことだとわかっている今、
もはやセラピーの無意味性を認めざるを得ません。

真の「赦し」を実践している者にとって、
セラピー、ヒーリング、自己啓発といったものに何の意味があるというのでしょう!

心理セラピストととしてはもうやっていけないなと、もう無理だなと、そう想う次第です。

今の現状をみても、実質のところ、
セッションの相手はそのほとんどがコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)学習者です。

セッションの相手(クライアント)をコース学習者の方に限定しているわけでもないのですが、
結果的に、そうなってしまっていることに気づきます。

自分はもうだれかを癒す(セラピーを施す)必要がなくなったのかもしれません。
それは、もう自分の癒しが必要がなくなったことを意味しているのかもしれません。

私が心理セラピストとしてすることはもうなくなったということです。

心理セラピストとしてこの自分にできることはもうないなぁ、、、と。

と、そう思った瞬間、内なる声が私に語りかけてきたのでした。

それは、内なる声というよりも声なき声なのですが、
それを、あえてことばにするとこんな感じです。

「ただ在りなさい。
 あなたは愛でいればいいのです。
 あなたが愛でいるとき、その愛は延長されていくのです。
 あなたがしていくことはそれです。」

一言で言えば、それは、愛の延長、というもの。

その瞬間、あぁそうかぁ、、、自分にはそれができるし、自分はそれをしていくんだっけ、、、
と忘れていたものを思い出したような感覚でした。

愛を延長していくこと、それが自分の機能であったことを思い出した瞬間でもありました。

自分はもうなにかをする必要がないのだ。
神の愛の中で安らいでいればいいのだ。
なにをしていようと、だれといようと、どこにいようと、
愛と共に、愛でいればいいのだ。

それならば、心理セラピストとして自分にできることがある、、、と腑に落ちます。

たぶん、これからしていくものとはそういうものだろうと予感します。

ただそれはもう、
セラピーやコース(ACIM/奇跡講座)といった枠組みでなくてもいいいわけで、
どういった形態であろうが、どこにいようが、だれといようが、なにをしていようが、
私の機能はそういうものだと自覚します。

この自分が愛でいるだけで、それはこの自分が見ている世界に波及していくであろうと。

そう、愛を延長していくことが自分のできることであり、
それが、自分のしていくことであろうということです。

(自我の部分の)自分が、そのことをひどく納得するわけですが、
実際のところ、愛は「延長されていく」のであって、
この自分が愛を「延長する」のではないのだということです。
むしろ、この自分がなにかをするのをやめたときそれは延長されていくのだということであり、
やっぱり、この自分はなにもすることはなくなったのだと気づきます。笑

もはや、この私にとって、
「赦しをしていくこと」と「愛でいること」は同義語にすら感じられます。

それらは、同じ一つのことだったのだと悟る今日この頃です。

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近所の散歩道

2018/09/26

無理でしょ!笑

ヤバイです。笑

これといって深刻なわけではないのですが、
正直、心理セラピストとしてやっていくのはもう無理かもしれないと思っています。

というよりも、やっていけるわけがないと。

赦しを実践している人に対して、
セラピーとかヒーリングとか、はたして必要なのだろうか?

と思うとき、もはやそんなものなど必要がないのは明らかです。

百歩譲って、「赦し」というものを知らない人にとっては、
セラピーやヒーリングといったものを必要とすることはあると思います。

だとしても、
「赦し」以外に本当の癒しはあり得ないとわかっている私にとって、
セラピーとかヒーリングとか、そんなものにはやっぱり何の意味もないと気づきます。

そうなのです。
この私自身が、もう外側に自分を救ってくれる偶像など必要ないと思っているのですから、
この私だって、心理セラピストとしてやっていくのはいかがなものか?
と想う次第なわけです。

もう無理でしょ!笑

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近所の散歩道にて

2018/09/02

問題を問題としては見ない心理療法とは

先日、ある方から、
以前のようなセッション(スピリチュアルサイコセラピー)はもうやっていないのですか?
という質問を受けました。

それにお答えするならば、現在もやっております、という答えです。

現実的なものから、心理的なもの、スピリチュアルなものまで、
悩みや問題を解決したい、癒されたい、心を軽くしたい、ラクになりたい、
といった方々どなたでもセッションを受け付けている次第です。

たとえ、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)を知らなくても、
コースとは関係なくてもいっこうにかまわないというスタンスでやっています。

私自身はコースをライフワークとしているわけですが、
だれもがコースを学ぶべきであるとは思いませんし、勧めようとも思いません。

むしろ、コースはだれもが学ぶようなしろものではないと。
ゆえに、コースを学びたいという方のほうが稀だと思っています。

たしかに、以前の私で言うなら、
思い悩んでいる方やスピリチュアルな探究をされている方とかに対して、
コースを学んだらいいのに、、、ぜひコースを、、、という想いもありました。

でも、コースとはそういうものではないということを本当に理解すると、
その人がコースを学ぼうが学ばないがそういうことはどうでもいいことで、
この世界には他者などいなくて、この自分が学びを深めていけばいいのだ、
ということがわかってくるのです。

そんなふうに私自身が新たな思考システムへとシフトしていっているのを実感するわけですが、
心理セラピストの活動をしている私が言うのもなんですが、
自分が施しているセラピーですらも、
コースで言われているところの魔術であると捉えている次第です。笑

ちなみに、それはけっして「魔術」を否定するものではありません。

コースを着実に学んで実践していくならば、
その視点へとおのずと移行せざるを得なくなっていくということです。

この世界のすべてのものが「魔術」で成り立っているのであり、
つまりは、この世界のすべてが無意味な夢(幻想)でしかない
という視点でみるようになってくるということです。

なにせ、そのような視点でクライアントさんと接しているわけですが、
じつは、それこそが私がずっと理想としてきたセラピストとしてのスタンスだと気づきます。

そう、「問題を問題としては見ないところからセラピーは出来ないのか?」

それが、私がセラピストとして歩みはじめてからずっとテーマとしていた目標だったのです。

何とも皮肉なものです。

もう今やあまり自分ではセラピーとは意識しないでセッションをしているわけですが、
その自分こそが当時理想としたセラピーをしているのですから。笑

自分のしているセラピーを魔術だと自負しつつ、そんなことを想う今日この頃です。

ユリトリート
沖縄ACIMセッションルーム「Palm Church」のシンボル絵画

2018/04/16

分裂した心

心が分裂している症状を統合失調症と呼びます。

以前は、精神分裂症という呼び方で呼ばれていました。


真理からみれば、わたしたちはだれもがみんな精神分裂症だということが出来ます。

例外なくだれもがみんな、です。

この二元性の世界を知覚しているかぎり、そうだということです。


自分の内側をよくよく内観(Inner Inquiry)するならば、

自分の心の中に「神を求める自分」と「神を拒否している自分」の

相矛盾する両方の心があることがはっきりと認識されます。


つまり、それは心が分裂した状態であり、

それこそがこの分離の世界を、この二元性世界を生み出す原因となるものだと言えます。


わたしたちは、神のもとに帰りたいと望んでいながらも、

同時に神を怖れている、神に抵抗している、神と戦っている、、、

ということが心のなかで起きているのです。


「神」という言葉を、「愛」といった言葉で置き換えてもかまいません。

さらにまた、「神」という言葉を、「平安」や「幸せ」という言葉で置き換えてもいいです。


もし、あなたが、自分はなぜ不幸なのだろう?

どうして、自分は幸せではないのだろう?

なぜ、自分は幸せになれないのだろう?と感じているのならば、

つまりは、そういうことだと言うことが出来ます。


幸せを求めていながらも、真に幸せになることを拒否しているということです。

そのように分裂した心のままでも幸せになれる、と信じているということです。


まさに、その分裂した心とは、狂気としか言いようがありません。


分裂した心のままいくら幸せ(神)を追い求めても、

幸せ(神)に到達するということは絶対にあり得ません。

というのも、いくら幸せ(神)を求めようとも、

幸せ(神)に向かおうとするのを邪魔する自分と悪戦苦闘することになるだけです。


たぶん、これまでのわたしたちは、スピリチュアルや宗教や修行という名のもとに、

そのことに計り知れないほどの時間と労力を費やしてきたのだといえるでしょう。


まさか、自分の中に、自分が幸せになることを咎める自分がいるとは、思えないことでしょう。

とくに、スピリチュアルの探究者たちは、自分の中に神(幸せ)から遠ざかりたい自分や、

神(幸せ)に抵抗している自分がいることを認めたくはないかもしれません。


神を咎めている自分、神に抵抗している自分、、、それを、自我(エゴ)と呼びます。


その自我に気づいていくことが、神に向かうための一歩になります。

そして、その自我を取り消していくことが、わたしたちが取り組んでいく道だといえます。

その道は、けっして、自我を無視したまま神(愛)へと向かうものではありません。

もし、そうするならば、それは自我と戦うということであり、その戦いに終わりはありません。


まずは、神(愛)に抵抗している自我に気づいていくことです。

そのために、自分の内面の無意識に取り組んでいく必要があります。

それによって、自我と同一化していたアイデンティティから解放されていきます。


私がしているセラピーとは、そういうものだと理解していただけたらと思います。


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2018/04/09

兄弟との関わりを通して

兄弟と関わっていきたい、という私の想いは、どこからくるのだろう?と自分でも不思議です。

私がサイコセラピストとしてセッションをしているのも、
その想い(衝動)があってこそ続けていられるのだと思います。

そして、それについて答えるとするならば、
私が兄弟と関わるその目的といいましょうか、
セッションをしていくその理由は、「joining(結合、接合)」なんだと思います。

それは、この世の(かたちの)レベルでつながるというものとはまったくちがいます。

実相レベルでの  joining です。

ただそれだけなんだと。
本来、わたしたちは神の子として一つなんだと思い出したいのだと。

わたしたちは、実相では一なる心でつながっています。

あなたという存在のその奥に在る実相と、
私(もりG)という存在の奥に在る実相は、 同じものです。

一なる心でつながっていて、同じ一つのものです。

私は兄弟たちとそれを分かち合いたいのだと、自分なりにそう想います。

あなたと私との出会いがそういうものであったらいいなと思います。

私のこの想いが、あなたのもとへ届きますように。

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