2018/06/02

辻褄が合わない

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んでいくと、
もうその他のスピリチュアリズムにはまったく興味がなくなっていくのがわかります。

なぜなら、コース以外のスピリチュアリティには妥協があるのがわかるからです。
妥協、とは、例外があるということ。

コースの道だけが唯一優れているとはけっして言いませんが、
純粋非二元のスピリチュアリティには妥協がありません。
例外がありません。

二元性のスピリチュアリズムにも、ノンデュアリティのスピリチュアリズムにも、
まるで辻褄が合っていないのがみえます。
妥協しているからこそ、辻褄が合っていないのです。
興味が向かないのも、そういう理由からかもしれません。

辻褄が合わないスピリチュアリティに何の価値があるというのでしょう。

そんなことを想う今日この頃です。

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2018/01/11

なにも無い。


自分が考えているこの想いも「無」であるゆえ、

言葉も「無」である。


なにが正しいとがなにが正しくないとか、

なにがいいとかなにがよくないとか、

ジャッジする必要もなければ、

すべては自分が作り出した夢であり、

すべては自分が見ている夢である。


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2017/03/14

時間を超えたところからみれば

時間を超えたところからみれば、

この人生で起きていることもすでに起こったことを再生しているにすぎないのだという。


今ここに生きている自分は、これから何が起きていくのかを知らない。

でも、すべてはもうすでに起こったことなのだ。

終わったことなのだ。


たとえば、すでに試合結果を知っているスポーツの試合を観ていても、

ついハラハラドキドキしている自分がいたりすることに気づく。


今この人生で体験していることも、そういうことと同じなのだろうと思う。


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2017/03/12

スピリチュアルというものへの情熱

スピリチュアルに興味がなくなってしまったわけではない。

スピリチュアルというものが自分の中で相対化されたのだと思う。

それは、もはや特別なものではなくなったということ。

今それは生活と共にあり、人生と共にある。

それは生きることそのものとなっている。


たしかに巷のスピリチュアルへの情熱が失せてしまったことは事実である。


正直、そのどれもが稚拙なおもちゃにしか思えなくなったのは確かである。


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ハワイ島マウナケアにて


2017/03/08

ジャッジ

人の人生も、自分の人生も、そして、世の中で起きていることも、

どれもみんな同じパターンのことが起きているだけなのだなってふと思えるときがある。


攻撃しては、防御して、というパターンは、

ただ形態がちがうだけでどれも同じことが起きているのだと。


ときに、被害者であったり、加害者であったり、ということ。

きっと、輪廻転生と呼ばれているものは、そういう仕組みで成り立っているのだと思う。


お互いに投影し合っているのがこの世界である。

その誰を見ても、本当はみな自分なのだ。

みんながこの自分となんらちがわないと気づくとき、

そんな人たちをいちいちジャッジする必要もないし、

この自分もどんな生き方したっていいじゃないかとそう思うのである。


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