2017/06/04

すでに終わっている旅

わたしたちは、時間について、

過去から未来に直線状に流れている時間の中で旅をしているように捉えています。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、その時間の外側に出て、

”いまこの瞬間”のプレゼンスに帰っていくための道だと言うことが出来ます。


時間を超えたところからみるならば、もうその旅は終わっています。

その旅はすでに完了されているのです。

わたしたちは、すでに終わった旅をこの時間の中でただ体験しているにすぎません。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、

私は、ただ過去だけを見ている。I see only the past. (ワークブック Lesson7)」

というふうに表現されています。


これから起きることも、自分の心の中で思考することもイメージするものすらも、

ただ過去をみているにすぎないのだと云っています。

それらは、すべてすでに起きた過去なのだと。


過去も未来もなくそれらすべての時間を超えていく道が示されているのが、

純粋非二元論のスピリチュアリティの道の特徴であり、

コースはそのなかの一つの道だということができます。


究極は、この時間の世界の中で、だれもが(コースに限らずとも)

純粋非二元論のスピリチュアリティにたどり着くのだということです。

だれもがその準備が整ったときに、我が家へ帰る道へと導かれていくのだと。


だとするなら、それがいつなのか?ということのちがいなだけです。


だれもが、それぞれのプロセスを辿って我が家へ向かっているのであり、

だれもに、いずれその道を選択するその時はやって来るのです。


もし、あなたがコースの教えに惹かれるのならば、

あなたにとってのその時とは、この今だ、といえましょう。


そして、すでにコースの学びをしているのならば、

あなたは、もうこの(時間の)旅の終盤にさしかかっているということです。


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2017/06/02

純粋非二元のスピリチュアリティとは

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、

純粋非二元のスピリチュアリティという呼ばれ方で位置付けられています。

他の一元論的な教えや非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと

区別するために、私もそのような呼び方をしています。


また、コースでは、日々の中での赦しの実践として、

原因のレベル、つまり、心の無意識の闇の部分に取り組んでいくことをしていきます。


さて、ここから本題ですが、


純粋非二元のスピリチュアリティとは?

非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと、何がどうちがうのか?


そんな疑問を感じている方もおられると思います。

さらには、そもそも真理からみるならば、

「この世は幻想である」「すべてみんな大丈夫」「みんなそれでOK」なんだから、

なぜ?わざわざ心の闇の部分を掘り下げる必要があるの?

という疑問をお持ちの方もおられるかと思います。


私自身、ようやくそこのところがハッキリと明確になったので、

私なりのことばで書いてみたいと思います。


まず、「非二元]」と「純粋非二元であるコース(ACIM/奇跡講座)」のちがいで云うならば、

非二元(ノンデュアリティ)やその他の一元論の教えは、

真理に焦点を置いて、真理を探すことに焦点が当てられているように感じます。


一方、コース(奇跡講座/奇跡のコース)は、真理に焦点を置くのでなく、

真理を邪魔しているもの(思考体系)を取り除くことに焦点を置いています。

それによって、自ずと真理が顕現することになるということです。


コースのテキストでは、(真理を「愛」に置き換えて)こう述べられています。


あなたの為すべきことは愛を探し求めることではない。

あなたが自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、

見つけ出すことである。

真理であるものを探し求める必要はないが、

誤まっているものを探し出すことは確かに必要である。

ー『ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)』テキスト16章よりー


そして、非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティについて云うと、

真理(非二元)と二元性世界を知覚している者との間に、大きな隔たりがあり、

その隔たりをそのままに、その先に踏み込んでいくことはありません。

いわば、その隔たりは、分離、つまり二元性(半非二元)と云うことが出来ます。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、そこからさらに踏み込んでいくために、

その隔たりの橋渡しをしてくれる「赦しの実践」という道を示してくれています。


コースが、非二元のさらに踏み込んだ最終段階のスピリチュアリティとして、

純粋非二元のスピリチュアリティ」と呼ばれるのはそういうことです。


以上、私なりに、

非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと、

純粋非二元のスピリチュアリティとのちがいについて書いてみました。


わたしたちは、心の中の無意識の闇の部分すべてを意識化していく必要があるということです。

無意識のエゴの信念を掘り起こし、それらの非実在性をみることが不可欠だからです。

それは、信じてきたすべてのことを無効にする作業(ワーク)でもあります。


二元性の世界を知覚しているならば、そこはゴール(わが家)ではありません。

ゆえに、知覚が終わるときまで、その学習は続きます。

知覚が終わるとき、それは心(無意識)の闇がなくなるときです。

そのとき、投影が終わります、、、二元性世界の終焉です。


そのために実践的にワークをしていくのが、赦しの実践というものです。


もりGの個人セッションでは、そのサポートをしています。

「赦しの実践」を自分のものにしていきたいと思われる方は、ぜひセッションをお勧めします。


あなたの目覚めへの情熱に対して、心から感謝します。


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2017/05/01

ノンデュアリティ

スピリチュアルに興味がなくなったと云っている私でありますが、

スピリチュアルから無縁になったわけではありません。

日々をスピリチュアルに生きていることには変わりはないのです。


先日、たまたまノンデュアリティの方のYouTubeをふと目にしたのがきっかけで、

ちょっと思うところがあって、私は久しぶりにじっくりと観てみることにしたのでした。


ノンデュアリティのスピリチュアリティと、

コース(奇跡講座/奇跡のコース)のスピリチュアリティと、

どこがちがうのだろう?なにがちがうのだろう?

っていう想いがあったのです。


で、観てみて想ったのは、双方はやっぱり別ものだと思いました。


そのちがいをシンプルに云うならば、

夢の中で目醒める(Awake in the Dream)というものと、

夢から目醒める(Awake from the Dream)というもののちがいであると。


20代の頃から原始仏教やチベット仏教、そしてYOGAに触れてきた私にとって、

どちらも非二元のスピリチュアリティでありながら、

以前は、そのちがいがわからなかった。

むしろ、混同していたところがあった。


双方は似て非なるものだと。


今ではそのちがいがわかるからこそ、

コース以外のスピリチュアルに興味がなくなったともいえます。


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2017/02/25

悟りについて語る

悟りについて、それをことばにするなんてやっぱり無理である。


ことばにしている時点で、もう、すでに自分を欺いている。

さらには、そのことばに騙されて満足するような者たちをも欺いている。

ここに、二重の欺瞞がある。


自らの内に注意を払って本当に見ようとする者であるならば、

それはエゴの見え透いた欺瞞であると誰にとってもわかるもの。


そう、悟りについてことばを語るときは、それはエゴのことばのなにものでもない。


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2017/02/21

五十歩百歩

実相世界からみるかぎり、

この世界に生きているわたしたち全員が囚われ人である。


この世界に心が動かされているかぎり、

無明(無智)から完全に解放されいるわけではない。


この世界を現実だと思い込んでいるかぎり、

物理的に肉体としてこの世界にいるかぎり、

この分離の世界を知覚しているかぎり、

二元性のこの世界に囚われ続けているということ。


そこにはだれが悟っているとか、だれが霊的に進歩しているとか、

そんなことは五十歩百歩で、そのだれもにさほどちがいなんてない。


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ハワイ島マウナケア山頂(標高4205m)から見たマウイ島ハレアカラ山頂(標高3055m)