2017/08/24

感情について

感情とは、分離した感覚から生じる代償物(弊害)だと言うことが出来ます。


ですので、分離した感覚がなくなっていくと、どんどん感情という代償物(弊害)も消滅していきます。

そして、そこに立ち現れてくるものが、心の平安というものです。

「感情が消滅する」という言い方をすると、一見虚無のようにも思われますが、実際はそうではありません。

その平安には、穏やかさ、静けさ、安心感、至福、歓び、自由、、、があります。

そして、心の平安として感じられるそれらの感覚は、この世のポジティブやネガティブといったもの(感情)ではない別のものだといことがわかります。


そう、分離した感覚が薄れていくと、感情という弊害が消え失せて、そもそもそこにあった心の平安が当たり前の状態だったと気づくようになります。

そして、さらにわかってくることがあります。


感情とは、動揺する心の状態のことであり、つまりは、感情とは苦しみでしかないと。

さらに、その苦しみというものは「無」でしかないのだと。

そうなのです。

感情というものは、本来は「無」であり、あり得ないものなのだということがわかるのです。


逆の言い方をすれば、「感情が動く」ということは、分離した感覚でこの世界を知覚している証拠であり、あり得ないことをあり得ると信じ込んでいる分裂した自分(自我)があるということです。

ゆえに、それを自覚したなら、その感情の奥に潜んでいる自我(想念/信念)と向き合って(見つけ出して)解放していく必要があります。


そう、その作業(赦しのワーク)をやっていくことで、ますます分離した感覚は薄れていって、この世界からより解放されていく感覚になっていきます。


それが、私が歩んでいる道であり、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)でジーザス(イエス・キリスト)が示した道だと言うことが出来ます。


さて、ところで、いわゆるノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリズムにおいては、感情については、こう捉えられています。

感情が起こっても、それにとらわれない(同一化しない)ようにすること、、、というようにです。

つまり、感情(心の動揺/苦しみ)というものを自分の中で感じながらも、「苦しみは無い」とか「苦しみは感じててもそれは消え去る」とか「感情を観照している自分は苦しんでいない」とか、自分の心の中に苦しみが存在することを認めることなく、感情についてそういういうふうに述べているノンデュアリティ・ティーチャーもおられます。


真理、非二元の教えからするならば、感情と観照意識が同時に存在していることそのものが、「二元性」以外の何ものでもないということは、一目瞭然です。

感情がありながら心は平安でいられる、というのはあり得ないということです。

「心の動揺」と「心の平安」とが共存できるわけがありません。

もし、あり得るとしたなら、二元性の世界ではあり得る、ということです。

つまりは、分離した心(分離意識)ではあり得るということです。


だとしたなら、その心の状態は、ノンデュアリティ(非二元)とは筋違いのものだと言えます。


光と闇が共存することは不可能です。

なぜなら、そうであるとき、闇は消滅して、ただ光だけがあることになるからです。


コースの教えでいうならば、ただ平安があるのみで、それ以外(感情)は無いのです。


感情というものは、分離意識から生じている誤った知覚でしかありません。


つまり、感情とは「動揺した心」のことであり、分離した感覚が無くなっていくならば、感情は無い(湧き起っては来ない)ものだということです。


コースの教えでは、決して、「感情は湧き起っては消えてゆくもの、過ぎ去っていくもの」というふうには捉えません。


コースという道は、そこには一切の妥協がないことを知っていただきたいと思います。


でも、そこには絶対なる確実なる平安があるということも知っていただきたいです。


以上、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)とノンデュアリティのスピリチュアリズムとの「感情」の捉え方のちがいについての私の見解です。


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2017/07/18

目覚めのシナリオ

「すべてはシナリオが書かれている」という言い方がされています。


ならば、目覚めることもシナリオで決まっているのでは?と言うこともできます。


でも、デイヴィッド・ホフマイスター(『覚醒へのレッスン』の著者)は、こう言います。


「エンライトメントは、シナリオの中にはない。それはシナリオの外にあるのであり、

つまりは、シナリオの外に出ることが目覚めである」と。


自分は、コース(奇跡講座/奇跡のコース)を学んで、

以前よりはずいぶんと楽になった、

ずいぶんと心が平安になった、

ずいぶんと目覚めてきた、、、などと言っても、

その自分とは、まだシナリオの中にいるのであって目覚めてはいないのだということです。


シナリオとは時間の中のものであって、

目覚めへと近づいていくシナリオは書かれていても、

目覚めはシナリオの中にはないということです。


それは、時間というシナリオの中にいるかぎり、

いつかそのうちに目覚めるということはないことを意味します。


つまるところ、

「いま」この瞬間に、真理(目覚め)を求めるその意志がやはり大事なのだといえます。


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2017/06/04

すでに終わっている旅

わたしたちは、時間について、

過去から未来に直線状に流れている時間の中で旅をしているように捉えています。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、その時間の外側に出て、

”いまこの瞬間”のプレゼンスに帰っていくための道だと言うことが出来ます。


時間を超えたところからみるならば、もうその旅は終わっています。

その旅はすでに完了されているのです。

わたしたちは、すでに終わった旅をこの時間の中でただ体験しているにすぎません。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、

私は、ただ過去だけを見ている。I see only the past. (ワークブック Lesson7)」

というふうに表現されています。


これから起きることも、自分の心の中で思考することもイメージするものすらも、

ただ過去をみているにすぎないのだと云っています。

それらは、すべてすでに起きた過去なのだと。


過去も未来もなくそれらすべての時間を超えていく道が示されているのが、

純粋非二元論のスピリチュアリティの道の特徴であり、

コースはそのなかの一つの道だということができます。


究極は、この時間の世界の中で、だれもが(コースに限らずとも)

純粋非二元論のスピリチュアリティにたどり着くのだということです。

だれもがその準備が整ったときに、我が家へ帰る道へと導かれていくのだと。


だとするなら、それがいつなのか?ということのちがいなだけです。


だれもが、それぞれのプロセスを辿って我が家へ向かっているのであり、

だれもに、いずれその道を選択するその時はやって来るのです。


もし、あなたがコースの教えに惹かれるのならば、

あなたにとってのその時とは、この今だ、といえましょう。


そして、すでにコースの学びをしているのならば、

あなたは、もうこの(時間の)旅の終盤にさしかかっているということです。


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2017/06/02

純粋非二元のスピリチュアリティとは

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、

純粋非二元のスピリチュアリティという呼ばれ方で位置付けられています。

他の一元論的な教えや非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと

区別するために、私もそのような呼び方をしています。


また、コースでは、日々の中での赦しの実践として、

原因のレベル、つまり、心の無意識の闇の部分に取り組んでいくことをしていきます。


さて、ここから本題ですが、


純粋非二元のスピリチュアリティとは?

非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと、何がどうちがうのか?


そんな疑問を感じている方もおられると思います。

さらには、そもそも真理からみるならば、

「この世は幻想である」「すべてみんな大丈夫」「みんなそれでOK」なんだから、

なぜ?わざわざ心の闇の部分を掘り下げる必要があるの?

という疑問をお持ちの方もおられるかと思います。


私自身、ようやくそこのところがハッキリと明確になったので、

私なりのことばで書いてみたいと思います。


まず、「非二元]」と「純粋非二元であるコース(ACIM/奇跡講座)」のちがいで云うならば、

非二元(ノンデュアリティ)やその他の一元論の教えは、

真理に焦点を置いて、真理を探すことに焦点が当てられているように感じます。


一方、コース(奇跡講座/奇跡のコース)は、真理に焦点を置くのでなく、

真理を邪魔しているもの(思考体系)を取り除くことに焦点を置いています。

それによって、自ずと真理が顕現することになるということです。


コースのテキストでは、(真理を「愛」に置き換えて)こう述べられています。


あなたの為すべきことは愛を探し求めることではない。

あなたが自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、

見つけ出すことである。

真理であるものを探し求める必要はないが、

誤まっているものを探し出すことは確かに必要である。

ー『ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)』テキスト16章よりー


そして、非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティについて云うと、

真理(非二元)と二元性世界を知覚している者との間に、大きな隔たりがあり、

その隔たりをそのままに、その先に踏み込んでいくことはありません。

いわば、その隔たりは、分離、つまり二元性(半非二元)と云うことが出来ます。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、そこからさらに踏み込んでいくために、

その隔たりの橋渡しをしてくれる「赦しの実践」という道を示してくれています。


コースが、非二元のさらに踏み込んだ最終段階のスピリチュアリティとして、

純粋非二元のスピリチュアリティ」と呼ばれるのはそういうことです。


以上、私なりに、

非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと、

純粋非二元のスピリチュアリティとのちがいについて書いてみました。


わたしたちは、心の中の無意識の闇の部分すべてを意識化していく必要があるということです。

無意識のエゴの信念を掘り起こし、それらの非実在性をみることが不可欠だからです。

それは、信じてきたすべてのことを無効にする作業(ワーク)でもあります。


二元性の世界を知覚しているならば、そこはゴール(わが家)ではありません。

ゆえに、知覚が終わるときまで、その学習は続きます。

知覚が終わるとき、それは心(無意識)の闇がなくなるときです。

そのとき、投影が終わります、、、二元性世界の終焉です。


そのために実践的にワークをしていくのが、赦しの実践というものです。


もりGの個人セッションでは、そのサポートをしています。

「赦しの実践」を自分のものにしていきたいと思われる方は、ぜひセッションをお勧めします。


あなたの目覚めへの情熱に対して、心から感謝します。


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2017/05/01

ノンデュアリティ

スピリチュアルに興味がなくなったと云っている私でありますが、

スピリチュアルから無縁になったわけではありません。

日々をスピリチュアルに生きていることには変わりはないのです。


先日、たまたまノンデュアリティの方のYouTubeをふと目にしたのがきっかけで、

ちょっと思うところがあって、私は久しぶりにじっくりと観てみることにしたのでした。


ノンデュアリティのスピリチュアリティと、

コース(奇跡講座/奇跡のコース)のスピリチュアリティと、

どこがちがうのだろう?なにがちがうのだろう?

っていう想いがあったのです。


で、観てみて想ったのは、双方はやっぱり別ものだと思いました。


そのちがいをシンプルに云うならば、

夢の中で目醒める(Awake in the Dream)というものと、

夢から目醒める(Awake from the Dream)というもののちがいであると。


20代の頃から原始仏教やチベット仏教、そしてYOGAに触れてきた私にとって、

どちらも非二元のスピリチュアリティでありながら、

以前は、そのちがいがわからなかった。

むしろ、混同していたところがあった。


双方は似て非なるものだと。


今ではそのちがいがわかるからこそ、

コース以外のスピリチュアルに興味がなくなったともいえます。


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