2019/02/28

これは結果についてのコースではない

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「奇跡」と言った場合、
それは、あくまでも心のレベルにおいてのものだということを知っておきべきだと思います。

わたしたちは、つい形態レベルのものと履き違えてしまうことがよくあるからです。

まわりが変わったとか、人間関係が良くなったとか、環境が良くなったとか、
もっといえば、以前より怒らなくなったとか、心がより穏やかになったとか、、、

赦しを実践していると、そういうことはたしかにあり得ます。

だとしても、それらはすべて形態レベルに関することであり、
もっといえば、結果のレベルに関することであるといえます。

あくまでも、コース(ACIM/奇跡講座)は、
原因についてのコース(道)であるということを忘れてはなりません。

目的は何なのか?
コースを学んで実践していく上で、そのことに注意深くいることは大事だと感じています。

この世界の夢を見続けるのか?それともこの世界から脱出するか?

それは、自我を教師とするか?聖霊を教師するか?
という決断を今この瞬間もし続けているということです。

そして、無意識的に生きているわたしたちは、
そのほとんどを自我を教師としていると言えます。

ゆえに、わたしたちは、赦しの実践を通して、
聖霊を教師としていく必要があると言うことです。

赦しとは、そのための手段であり、
真のアイデンティティーを思い出していくための手段でもあるといえます。

この赦しの実践なしに、
いくら「この世界は幻影である」と理屈で理解していたとしても、
この世界を超えていくことはあり得ないといえるでしょう。

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2019/02/19

結果のために赦しをするのではない

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先日書いた記事(「赦しを実践していて気づいたこと」)において、


赦しは、心の平安を目的にするものではない、


という言い方をしましたが、

そことについてもう少し付け加えて書いてみたいと思います。


赦しをするとき、

わたしたちは、動揺した心(ネガティブな感情)をきっかけにして、

心の内側に戻っていくわけです。


そして、わたしもこれまでは赦しを実践することによって、

(ネガティブな感情などが取り消されて)動揺が平安に変わるという経験してきたのでした。


ただ、あるとき、その内側をよくよく直視したとき、

わたしは、心が平安になることを目的に「赦し」をしている自分に気づいたのです。


一見すると、そのことの何がいけないの?と思うかもしれません。


でも、そこには自我(の工作)が入り込んでいる、ということに気づくのです。


どんな自我が入り込んでいるかといえば、

「ネガティブな感情」「不快な感覚」に対して、

それらは避けたいものとして否定的な想い(信念)が入り込んでいたと言うことです。


いわゆる、心が平安でなくなったとき、

心が平安でないその状態を良くないもの、嫌なもの、としてジャッジしていたということです。


ジャッジすることで、

(本当は実在していないのに)実在させることに力を与えていたことになります。


そのことによって、(赦しをして平安になったとしても)

「自分はこの世界にいる、自分はこの身体である、自分は人間である」

というアイデンティティーに引き戻されてしまっていると。


いわゆる、赦しを、「この世で気持ち良く過ごすためのスキル」にしていたと気づくのです。


もう一点気づいたのは、

赦しによってもたらされる心の平安というものは、

あくまでも赦しをした結果そうなるのであり、

結果のために赦しをするのではないということです。


つまりは、心の平安を目的にするものではないと気づくのです。


「心が平安になることを目的にする」ということは、

ネガティブな感情や不快な感覚が消えることを目的に赦しをしていたということです。

それは、たとえば痛みがあったら、その痛みが消えることを目的に赦しをしたり、

あるいは、病気だったなら。病気が治ることを目的に赦しをすることと

なんら同じことだと気づくのです。


赦しは、そういうものではありませんし、

コース(ACIM)の実践は、結果を求めていくようなものではないということです。



ネガティブな感情をみる、ということを聞くと、多のの人々は、

それを消すために見る、あるいはポジティブに変えるために見る、と考えがちです。

ですから、他のセラピー的なテクニックを重ね合わせてしまったりすることもあります。

けれども、赦しのこの段階で行うことというのは、そういうことではないのです。

ネガティブな感情そのものを消すこと自体が、目的なのではありません。

ー小冊子『思考の逆転』加藤三代子(著)P.88 よりー



そのことに気づいてからというもの、

わたしはもう心が平安であることすら手放した感があります。


むしろ、この世界では、本当の平安などあり得ない、

ということを受け入れたと言ったほうが正しいかもしれません。


ネガティブな感情や不快な感覚をどうにかしようとするのをやめようと。

むしろ、そのネガティブな感情や不快な感覚に居続けようと。


赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。ただ見て、待つのみであり、判断はしない。

だからあなたは何もせずにいなさい。

ー『奇跡講座』ワークブック 赦しとは何か よりー


本当は、心が平安であろうが、平安でなかろうが、どうでうでもいいんだって気づきます。

(むしろ、最近は、その方が心穏やかです)


この道は、結果を求めるコースではなく、源(原因)に戻っていくコースなのだと。


心が動揺しようが、しまいが、動揺したのなら、ただ赦しをするだけです。


心が動揺しているということは、真のアイデンティティーを忘れているだけのことであり、

それを思い出すための手段が「赦し」なのだと気づきます。


自分がこの世界を実在していると思っているということは、

誤った心を選択しているということであり、

分離があり得ると信じているということ。


聖霊はわたしにこう告げます。

「分離はあり得ない。想念はその源を離れない」と。


それを、受け入れるか?受け入れないか?


それは、夢を見続けますか?夢から目覚めますか?と尋ねられているようでもあります。


その選択はまさに今この瞬間にある、ということを自覚してきた今日この頃です。


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2019/02/16

赦しを実践していて気づいたこと

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私は、これまで「赦しの3つのステップ」に従って、赦しを実践してきました。
そして、赦しをするたびに平安がもたらされてきました。

ただ最近になって、赦しについて気づいたことがありますので、
そのことについて書いてみたいと思います。

というのも、私は、平安を取り戻すために赦しをしていたのだと気づきます。

(※ちなみに、ここで言っている平安とは、個人レベルの平安のことであり、
いわゆる、一なる心の平安のことを言っているのではなく、分離の中での平安のことです。)

ようするに、(一時的な)平安になることを目的に、赦しをしていたということです。

でも、コース(ACIM/奇跡講座)を実践しながらわかってきたことは、
赦しは、「自分は、<決断の主体>(=神の子)である」
ということを思い出していくための手段だったのだということです。

つまり、赦しは、真のアイデンティティーを思い出していくための手段であるということです。

でも、これまでのわたしは、赦しを「平安に保つための手段」にしていたのでした。

そうすることによって、
むしろ、平安でない状態(動揺している状態)をつい否定して捉えてしまっていた、
ということに気づくのです。

赦しの実践によってもたらされる平安について言えば、
<決断の主体>の自分へとアイデンティティーがシフトすることでもたらされるのであって、
「自分はこの世界にいる。(自分は肉体である。自分は人間である。)」
というアイデンティティーにまた戻っていくならば、
そこにたとえいくら平安があったとしても、
所詮、その平安は「神の平安」の一時的な代替(ニセモノ)にしかすぎないと気づきます。

小冊子『原因についてのコース』(P.81)では、
赦しを実践していくことでもたらされる結果として、下記のように書かれてあります。

模範解答的な答えとしては、「奇跡講座が約束しているのは心の平安であって、、、」

と書かれてありますが、
それはあくまでも赦しによってもたらされる結果にしかすぎないということであって、
今では、平安すらも手放してこだわらなくなってきた感があります。

このコースは、結果を求めていくものではなく、
やはり原因へと帰っていく道なのだなとあらためて納得する今日この頃です。

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2018/12/16

すべては同じ一つのことが起こっているだけ

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一見、自分の外側で起こっているように見えていることは、
そのすべてが自分の心のなかで起こっているのだなぁって、
いまさらながら腑に落ちていっています。

領土問題、国家間の経済対立、難民問題、国会内の与野党対立、テロ、紛争、殺人、
世間でのゴシップ、、、老い、病気、死、、、
もっと身近なことでいうなら、ちょっとした怒り、攻撃心、咎める気持ち、、、
それらすべてが同一のことが起きているのであり、
それもたった一つのことがいろいろなバリエーションで、
すがた、かたちを変えて起きているだけなんだなぁって。

そのすべてが自分が望んだ夢であり、自分が作り出した夢だってことです。

そして、このいまもその夢を見続けたいと望んでいる自分がいるなって自覚するのです。

赦しの実践をしたくない想いや、赦しの実践をする気が無い想い、
赦しなんてどうでもいい、そして、ゆるせない、ゆるしたくないという想い、、、
そういった想いこそが、自我の抵抗であり、

まだまだ自分は目覚めたくない、この世界の夢を見続けていたい、
神のもとにかえりたいくない、

と、望んでいるのだということ。

そのたった一つの願望こそが、たった一つの原因なんだなってことです。
そこからみるならば、すべては同一なんだなって、わかります。

この世界に起きていることすべては、
この自分の心の中で起きていることと同一のことが起きているだけであり、
すべてはたった一つのことが起きているだけ。

だからこそ、その大もとの原因での訂正をしていくだけなのであり、
それが、赦しなのだといえます。

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2018/11/27

怖れを悟る

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この世界にいるわたしたちは、本当のところ神を怖れています。

神に罰せられるのを怖れていると言ってもいいと思います。

わたしたちがこの世界にいるということは、
つまりは、それを怖れて、隠れていたいからだと言っても過言ではありません。

それでもって、わたしたち(探究者たち)は神のもとへ帰ろうと試みているということです。

その自己矛盾に気づくことなく、神のもとへ帰ろうとしているのですから、
そりゃ無理でしょ、ということです。

ゆえに、そのことを自覚することは、なによりも重要なことだといえます。

つまるところ、もっとも重要なその部分を自覚することなくして、
はたして神のもとに帰ることがあり得るのでしょうか?ということです。

もし、そうだとしたなら、わたしたちはもうとっくに神のもとへ帰っているはずです。

そして、そうではないからこそ、
わたしたちは、コース(ACIM/奇跡講座)を学んでいるということができます。

そう、わたしたちは、本当のところ神を怖れている、ということ。

神を怖れている、それだけではありません。
もっといえば、神のもとへは絶対に帰りたくない!帰らない!と決めている自分がいるのです。

そんな自分がいるからこそ、その自分を直視して(取り消して)いくために、
だからこそ、コースを学ぶ必要があるのであり、そして学んでいるのだと言うことができます。

コースを学んでいくならば、神への怖れは誤った決断によるものだということがわかりますし、
コースには、その怖れとどう向き合っていけばいいのか、が示されています。

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神を怖れているということがピンと来ないならば、
わたしたちは、自分(自我)が消滅してしまうことを怖れています、
と、言い換えるとしっくりくるかもしれません。

自分だと想っているこの(偽りの)<わたし>が消えるのですから、
そりゃ、怖くないわけがありません。

「時間と空間の中で、この身体が自分である」と知覚しているうちは、
そのことに正直にならねばなりません。

自分は怖れているのだということに正直になるということ。

この世界は、その怖れを隠す(紛らわす)ためにあるのだということ。

その怖れはどこから来ているのか?というなら、
じつのところ、自分は(神から分離して)怖れていたいと決めたのだということです。

自分が誤った決断をしたがゆえの幻想だとわかるならば、
怖れる対象がなくなってしまうわけで、この世界がその意味をなくすことになります。

わたしたちは、じつは、それを一番怖れているのです。

怖れとは、ただたんに真実を誤って知覚しているだけのことだということ。
そして、わざとそのように誤った知覚をするように自分で決めているのだということ。

もし、怖れが湧き起こってきたなら、どうぞそのことを思い出してください。

もう逃げない、もう騙されない、自分を欺く幻想ゲームはもうウンザリだと。

そして、聖霊とともにその怖れを直視してみてください。

聖霊とともに直視していくならば、
それは、平安を選んだということであり、平安からみることができます。

それが赦しであり、
それなしで、怖れから自由になる(解き放たれる)こともあり得ないということです。

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