2018/12/16

すべては同じ一つのことが起こっているだけ

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一見、自分の外側で起こっているように見えていることは、
そのすべてが自分の心のなかで起こっているのだなぁって、
いまさらながら腑に落ちていっています。

領土問題、国家間の経済対立、難民問題、国会内の与野党対立、テロ、紛争、殺人、
世間でのゴシップ、、、老い、病気、死、、、
もっと身近なことでいうなら、ちょっとした怒り、攻撃心、咎める気持ち、、、
それらすべてが同一のことが起きているのであり、
それもたった一つのことがいろいろなバリエーションで、
すがた、かたちを変えて起きているだけなんだなぁって。

すべてが自分が望んだ夢であり、自分が作り出した夢だってことです。

そして、このいまもその夢を見続けたいと望んでいる自分がいると自覚するのです。

赦しの実践をしたくない想いや、赦しの実践をする気が無い想い、
赦しなんてどうでもいい、そして、ゆるせない、ゆるしたくないという想い、、、
そういった想いこそが、自我の抵抗であり、

まだまだ自分は目覚めたくない、この世界の夢を見続けていたい、
神のもとにかえりたいくない、

と、望んでいるのだということ。

そのたった一つの願望こそが、たった一つの原因なんだなってことです。
そこからみるならば、すべては同一なんだなって、わかります。

この世界に起きていることすべては、
この自分の心の中で起きていることと同一のことが起きているだけであり、
すべてはたった一つのことが起きているだけ。

だからこそ、その大もとの原因での訂正をしていくだけなのであり、
それが、真の赦しなのだといえます。

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2018/11/27

怖れを悟る

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この世界にいるわたしたちは、本当のところ神を怖れています。

それは、あまりにも当然のことで、
それでもって、わたしたち(探究者たち)は神のもとへ帰ろうと試みているということです。

その自己矛盾に気づくことなく、神のもとへ帰ろうとしている、、、
ということを自覚することは、なによりも重要なことだといえます。

言い換えるなら、もっとも重要なその部分を自覚することなくして、
はたして神のもとに帰ることがあり得るのでしょうか?ということです。

もし、そうだとしたなら、わたしたちはもうとっくに神のもとへ帰っているはずです。

そうではないからこそ、わたしたちは、
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)を学んでいるのだということです。

そうなんです。
わたしたちは、本当のところ神を怖れています。

神を怖れるとともに、神のもとへは絶対に帰りたくない
と思っている自分がいるということです。

だからこそ、コースを学んでいるのだということ。

コースを学んでいくならば、神への怖れが誤った知覚だということがわかりますし、
コースには、その怖れとどう向き合って知覚を訂正していけばいいのか、が示されています。

それが、赦し、というものです。

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神を怖れているということがピンと来ないならば、
わたしたちは、自分(自我)が消滅してしまうことを怖れています、
と、言い換えるとしっくりくるかもしれません。

「神を思い出すこと(目覚めること)」と「自分(自我)が消滅すること」は、
同じことだからです。

自分だと想っているこの(偽りの)<わたし>が消えるのですから、
そりゃ、怖くないわけがありません。

「時間と空間の中で、この身体が自分である」と知覚しているうちは、
そのことに正直にならねばbなりません。

自分は怖れているのだということに正直になるということ。

そして加えていいならば、じつのところ、自分はずっと怖れていたいのだということ。

怖れが誤った知覚ゆえの幻想だとわかるならば、
怖れる対象がなくなってしまうわけで、この世界がその意味をなくすことになります。

わたしたちは、じつは、それを一番怖れているのです。

怖れとは、ただたんに誤って知覚しているだけのことだということ。
そして、わざとそのように誤った知覚をするように自分で決めているのだということ。

もし、怖れが湧き起こってきたなら、どうぞそのことを思い出してください。

もう逃げない、もう騙されない、自分を欺く幻想ゲームはもうウンザリだと。

そのとき、あなたはきっと聖霊の祝福(サポート)を受け取ることになるでしょう。

それなしで、(真の)赦しはあり得ず、
それなしで、この世界から自由になる(解き放たれる)こともあり得ないということ。

怖れなど実在せず、すべてが神の愛である、
と、そうなるまで、わたしたちはただ赦しをしていくだけだということです。

でも、赦しをしていくならば、
神の愛以外になにもなかった、、、もっと言えば、、、
神の愛を自分から拒否していたのだ、、、、ということを悟ることでしょう。笑

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2018/11/24

「選択」について

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先日の記事「自らが願望したのだ」のつづきになってしまいますが、
「選択し直す」「決断し直す」ということについて、
さらにもう一歩踏み込んで書いてみたいと思います。

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)の中にも、
選び直す、決断し直す、といったことばがたしかに書かれてあります。

ただ、これはあくまでも私自身がコースの学びが深まってきて感じていることなのですが、
本当のところ、この自分には選択などできないのだということに気づかされます。

選択できない、というよりも、じつは、選択すらもあり得ないのだと。

正しい心(聖霊)は、そのことを知っています。
「自分は誤った心(自我)を選択をしたつもりでも、本当は、選択すらしてないんだよ!」
って。笑

神から分離するという選択などあり得なかったのだということです。

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ならば、選択し直すとはどういうこと?

ということになりますが、
だからこそ、わたしたちは聖霊を必要とし、聖霊に明け渡せねばならないといえます。

「この自分が誤っていました」と認めることで、
その真実を知っている聖霊に自分の誤りを訂正してもらうのです。

自分は、選択し直すどころか、選択すらしていなかったのだ、ということです。

「聖霊よ。(わたしの中の正しい心よ。)
わたしは誤っていました。
わたしは神から離れるという選択ができるのだと信じ込んでいました。
わたしには選択などできるわけでもなく、
選択した(と信じていた)ことそれそのものがなかったのだと、訂正してください。
そして、このいまも神と一つであり、神の子であることを思い出させてください。」と。

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つまり、この自分は選択などできないということになるわけですが、
それがどういうことを意味するのかというと、
自分は、この人生でもそのような生き方になっていくということです。

選択することすら、自分がしているのではないというふうに、です。

それを、悟りや非二元のスピリチュアリティのことばで言うなら、
ただ起きることが起こっている、、、という言い方になるでしょうか。

コース(ACIM/奇跡講座)的に言えば、
この自分すらも、聖霊にただ動かされているだけ、、、ということです。

起きるままに、起こるがままに、
なすがままに、なるがままに、
ありのままに、あるがままに、、、

それは、形態レベルのことだけではなく、
自分の内側に湧き起って来る思考や感情においてもそうだということです。

ようやく、そのことが腑に落ちてきて、その実践がはじまったという感じです。

コースの実践がそのような段階にきたと感じている今日この頃です。

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2018/09/18

心ごまかそうする自分にご用心

非二元(ノンデュアリティ/一元論)でいうところの

この世界は幻想(マーヤ)なんだよ、
この世界は神の戯れ(リーラ)でしかないんだよ、

だから大丈夫なんだよ、
深刻になる必要なんてないんだよ、
安心してゆだねていればいいんだよ、

ということをいくらわかっていたところで、

実際に日常の中で心が動揺した時には、
そんなことばで言いくるめようとしても、ホント無駄なんだなって実感します。

ようするに、そうやっていくら自分を言いなだめようとしたところで、
ただ抑圧、否認してるだけで、動揺している心(感情)はごまかせないってことです。

むしろ、
幻想なんだから、深刻になることはない、大丈夫、
ということばがウソくさいといいましょうか、
そうやって納得させようとして出てくることばは自我のことばだと言っていいと思います。
(ちなみに、聖霊の声は、声というよりも愛の体験にちかいです)

そういう意味で、「自分の心に正直になる」ということは、ホント大事なんだと思います。

なにせ、自我は肝心なところを隠そうとしますし、それが自我の目的でもあるのです。

自我は、大丈夫だと納得させる根拠をそろえようとするか、
もしくは、さまざまな(感情解放の)テクニックを駆使したりして
動揺した心を平常に戻そうと何かをしようとします。

というのも、動揺している心のその向こう(奥)には、
神の平安、神の愛があるから、そこに目を向けさせないようにするのが自我の目的なのです。

怖れているなら、ただその怖れを認めて、聖霊と共に直視していく。
落胆しているのなら、ただその落胆を認めて、聖霊とともにそれを直視すればいいだけ。

そうやってただ「赦し」を実践していけばいいだけなのに、
そうはさせないようにするのが自我だと気づきます。

自我に気づいていくこと。
そして、その自我を聖霊と共に直視していくこと。

自我を直視せずに、自我(幻想)から自由になろうなんて、所詮、無理なはなしです。

赦しを実践していて、ホントそう気づきます。

自分の作り出したこの幻想世界(マーヤ/リーラ)から抜け出すには、
自我を直視していくことなしにはあり得ないと深く深く納得する今日この頃です。

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2018/09/15

自分に優しくなろう

自分に優しくなろうって、最近はそう思います。

「優しくなる」とは、どういうことか?と申しますと、
自分を裁いたり、咎めたりするのをもうやめて、
どんな自分であったとしてもあるがままでいようってことです。

この外側の世界に影響されて動揺している自分がいたとしても、
それでいいってことです。

怖れたり、怒ったり、不安になったり、落胆したり、みじめな想いになったりしても、、、
それでいいんだってこと。

なぜなら、その動揺している自分は、
本当の自分(真の自己)とは、一切関係がないのですから。

本当の自分(真の自己)は、一切影響されていないのです。

これまでの自分と言えば、
動揺している自分を咎めてた、裁いてたってことに気づくのです。

「動揺している自分をどうにかしなきゃ」とか
「この動揺している気持ちをどうにかしよう」っていう想いが要らないってこと。
そうやってありのままの自分を裁いていたなぁって気づきます。

たとえば、攻撃したくなる自分(自我)に気づいたとして、
その自分(自我)を咎める必要はないんだなって。

そして、攻撃したくなる気持ちも、それにただ気づいていればいいだけで、
咎めずに、そのままに(自由に)してあげればいいんだってことです。

その気持ちをどうにかしよう、その自分(自我)を変えようとすることは、
むしろ、自我を強めていく(リアルにしていく)ことなんだなって気づくのです。

ただ気づいているだけ。
そこから聖霊と共にただ正視するだけ。
あとは何もしない。咎めない。裁かない。

赦しは、静かにじっとしていて、何もしない。
 、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
 ー「ワークブック 赦しとはなにか」よりー

気づいているだけ、、、それでいいんだなって思います。

あるがままに。

なるがままに。

自分にそうさせていくなら、
きっと他者に対しても、世界に対してもそうなれるのだと思います。

もっと自分にやさしくなろう。慈しんでゆこう。

そんなことを想う今日この頃です。

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