2018/06/07

神秘の道

神の願望とはちがう願望を抱いていたならば、
わたしたちが不快な感覚や感情を抱くのは当然のことだといえます。
(「平安へ到達するためのツール」の記事を参照ください)

わたしたちは、それを怖れや苦しみとして知覚します。
その怖れや苦しみにこそ訂正されるためのヒントが隠されていると言えます。

ネガティブな感情や記憶がどんどん浮上してくるのは、すべて赦しのためだということです。

つい、わたしたちは、知覚する外観のほうに惑わされてしまいがちです。
その知覚しているものすべてが神の願望とはちがう願望を抱いた結果として
ただ経験しているにしかすぎません。

ずっと逃げてきた、避けてきた、内側の怖れや苦しみのほうに目を向けてみてください。

そこにあなたがこの世界から解放されるヒントが隠されています。

それは、まさに奇跡の道のはじまりとなるでしょう。

またそれは、神秘力を思い出すきっかけとなるでしょう。

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2018/05/26

奇跡の経験を通して

奇跡とは、あくまでも心のレベルのものです。

そこを履き違えると、この奇跡の道から外れていくことになります。

目的は何なのか?
この道を歩む上で、そこはいつのときも見失わないよう注意深くいることが
大事なのだと感じています。

奇跡とは、心のレベルで体験していくものである、ということです。

とはいいましても、その心がこの世界に反映されていきますので、
現実的なかたちのレベルにおいても奇跡を体験していくことになるといえます。

この時間と空間を知覚している間は、かたちのレベルでの奇跡も経験していくということです。

その経験を通して、
本当にこの世界は心の反映でしかないということが深く理解されていくのだと思います。

心で起こる奇跡が、同時に外側の世界でもそれが起こっていく。
私は、その経験(プロセス)に踏み込んだと感じています。

そのプロセスを通して、わたしたちはこの世界から自由になっていくのだなと思います。
そして、自分の本性を思い出していくのだと思います。
奇跡の経験なしに、いくら「この世界は幻影」だと形而上学的に理解していても、
この世界を超えていくことはあり得ないといえます。

これは実践的な道であり、実践を通して奇跡を経験していく道なのだと。

そのことをいまあらためて深く実感している今日この頃です。

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2018/05/13

誤りを直視しない限り真理に到達できない

これから自分がしていくことは何だろう?と思ったりするのですが、
結局のところ、自分に与えられた機能を果たしていくだけであり、
その与えられた機能(役割)とは、「赦し」しかないのだなと気づきます。

その実践は、どこにいようが、だれといようが、なにをしていようが、
かたちのレベルでのそういうことはまったく関係のないことであり、
むしろ日常の中で自分の目の前に現れるすべてについて
「赦しのレッスン」として実践していくことだけが、
唯一の目的としていくべきことなのだとあらためて強く思う次第です。

それは普通の暮らしのなかでも自学自習で実践できるのであり、
特別な教師や、人間関係や、環境がとくに必要なのではないということ。

むしろ、その暮らしは普通でよくて、特別なものである必要もなく、
ひいてはコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)のスピリチュアリティすらも
外に向かって表現していく必要もないのではないかと思ったりします。

世界を変えるのでもなく、
そして、自分も変えるのでもなく、
ただ観察者としてそれらを幻想(無)と見て、そして赦していくだけなのだということ。

ちなみに、「赦し」について、
JAICM(『奇跡講座』学習支援サイト)の別館HPにての最新記事(2018年5月3日)が、
私にとってすごくわかりやすく参考になりました。

「赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。
・・ただ見て、待つのみであり、判断はしない。」

何も変える必要はない。
ただ直視していくだけなのだと。

わかってはいるものの、それを再確認してさらに腑に落ちた感がありました。

ということで、私からぜひお勧めです。
JAICM別館のHPの5月3日の記事を、どうぞご覧ください。

V#26: 誤りを直視しない限り真理に到達できない

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2018/04/07

放棄するということについて

「放棄する」とか「手放す」というのと、「ゆだねる」ことは同じ意味をさします。


ですので、この世界を放棄しないまま、すべてをゆだねるということは、

まるで相矛盾していますし、無謀なことをしているといえます。


それは、ちょうどアクセルを踏みながらブレーキをかけているようなものです。

それでは、いつまでたっても自我は止むことはありません。

もちろん、それではゆだねるということなど不可能です。


放棄することのないまま、ゆだねる、ということが、いったいあり得るのでしょうか?


でも、自我は、そういうことができると思っています。

そして、自我は、そうやってでも存続しようとします。


正直なところ、これまでの私自身のことを顧みると、

自分はまさにそういうことをしていたのだと気づきます。


「放棄する」とか、「ゆだねる」とか、頭で理解していただけで、

実際のところ、私自身、まったくそれが出来ていなかったと気づきます。


自分がしていた「放棄」とか「ゆだね」というものは、部分的なものだったと気づくのです。


それは、ある部分ではこの世界は幻想だと放棄しておきながら、

他の部分においてはやっぱりこの世界を現実だと信じていたということです。


ただ、もう、そのような部分的な「放棄」といったものでは、うまくいかないと気づきます。


うまくいくわけがありません。

そう、この世界や、この世界のものを現実だと思いながら、

放棄する、手放すということをしても、不安、恐れから逃れられることは決してありません。


すべてに例外なく幻想であると見限っていく、価値のないものとして見切っていくほか、

本当の「ゆだねる」ということはできないのだと気づきます。


それは、全面的なもの、包括的なもの、でなければ意味がないということです。


そして、私にとって全面的な放棄の実践のはじまりだと自覚します。

ようやくそのスタート地点に立ったと感じています。


「放棄すること、手放すこと」とは、

幻想に価値を置かないで、神を選択していることと同じことです。

またそれは、内なるガイド(聖霊/イエス)の手にゆだねていくということなのだと、

あらためて気づく今日この頃です。


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2018/04/05

自分自身を赦す

意識を高めるとか、波動を上げるとか、魂を浄化するとか、
もうそういうことをする必要がないのだと気づきます。

そういうことは無意味だと気づくのです。

自分は変わる必要がないということ。

成長する必要もなければ、
いい人になる必要もなければ、
高潔な人になる必要もなければ、
聖人みたいになる必要もなければ、
どんな自分だとしてもそれでいいのだと。
もっといえば、そういうことはどうだっていいことなのだと。

自我の部分をみつけたとしても、
それをどうのこうの変える必要などなかったのだと気づきます。
自我は自我のままでいいのだと。
自我とは、偽りの自分でしかないのだから。
もっといえば、そもそも、実在しない、のだから。

そんな自我をジャッジする必要もなければ、
咎める必要もないと。
自我がより良い自我へとなっていったところで何の意味があるというのだろう?
むしろ、わたしたちは自分に対してそういうことをしてきたのだと気づきます。

自我の自分を変えようとする必要はなく、
その自分をジャッジすることなくただ傍観していればいいのだと。

赦しとは、実在しないものをただ、無、とすることだけなのだとあらためて気づくのです。

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