2018/02/22

二元性世界からの脱出法

二元性の世界を知覚しているかぎり、否応なしに攻撃の対象を作り出してしまいます。

それは、この(二元性)世界においては決して避けることは出来ません。

この世界において「知覚する」ことそのものが、攻撃することを意味するからです。

それが二元性世界であり、この世界なのだといえます。


攻撃の対象を作り出すことを「投影」と言います。

本当は、ただ自分自身に向かって攻撃しているにしかすぎません。

攻撃するためにこの(二元性)世界は作り出されたと言っても過言ではありません。

そうすることで、この世界での時間の旅を続けさせようとしているのです。


自らを分裂(分離)させておくゲームを続けていたいのです。


それが、この世界です。

それゆえ、心休まることがありません。

それは、どこにもたどりつくことのない無意味な時間の旅ようですらあります。


分離したままの孤独な時間の旅を続けていたいのか?

それとも、真実なるワンネス(一なる心)へと帰りたいのか?


それを決断する力は、今この瞬間に、わたしたちに与えられています。

むしろ、孤独な時間の旅を続けることを選択し続けていることをわたしたちは自覚する必要があります。


この私自身の心のなかをみても、攻撃の対象を作り出そうとする誘惑にかられることがよくあります。

自分の思考がこの世界を作り出しているというのに、あたかもその被害者であるかのように振る舞ってしまうのです。


ときに、それがエゴ(自我)のトリック(罠)だと気づくとき、自分はこれまで無意味な戦いを続けてきたと気づかされます。


日々の日常の中で、それに気づいていくこと。

それによって「投影」することが終わり、心は内側へと向かっていくことができるようになります。

そうなっていくとき、わたしたちはこの世界の被害者ではなくなっていきます。


赦し(ゆるし)とは、そういうものだといえます。


IMG_2497.jpg

・・・・・・・・・・・・・

■お知らせ■


スカイプACIMウェブスタディ会

 2018年2月25日(日) 13:30~15:30ころまで

 お申込み受付中。詳細はこちら


2018/01/29

無条件の愛

だれもがいずれ天国に還ることになっています。

どんな人であろうが必ず、天国に、父のもとに還ることになっています。


もっと言えば、非二元からいえば、天国はいまここにあります。

わたしたちは、このいまも父の腕に抱かれて愛されています。

わたしたちは、このいまも愛の中にいます。

愛と共に、愛の中で、愛としているのです。

ただ、わたしたちは、分離した夢を見ていいて、そのことを知りません。


たしかに、このいまもすべてが愛であり、そしていつのときも愛に包まれているとはいえ、

実際に、悲しみ、苦しみにいる人にそんなことばと言ったところで、

あまり意味をなさないように思います。


悲しいのなら、つらいのなら、落ち込んでいるのなら、泣きたいのなら、

怒っているのなら、イライラしているのなら、怖れや不安にかられているのなら、

それを感じていいのだと思います。


それでもわたしたちはどんなときもいつのときも愛されています。

どんな自分であってもいつも愛されているのです。


IMG_2503.jpg


2018/01/28

実在か?無か?

ゆるしとは、全的なものなのだと気づきます。


ゆるしは、オール・オア・ナッシング、全一だということです。


これこれが起きたことをゆるすとか、

これこれについてゆるすとか、

この人についてゆるすとか、

分離した部分部分の一つ一つをゆるしの実践の対象としてきたのですが、

そういうことではないのだと気づくのです。


はなっからすべてが自分が見ている夢でしかない、という自覚にあるとき、

すべては「無」でしかなく、そこに例外などありません。


夢であるものを夢とするか?夢ではないとするか?のどちらかです。


「無であるものをただ無とする」

それが「ゆるす(赦す)」ということなのだと思います。


ときに、ゆるしの実践において、

こういうやり方でやるのが正しいとか、それは間違っているとか、

ゆるしのやり方がよくわからないとか、

ゆるしはうまく出来ているのだろうか?とか、

そんなことについ固執しがちになったりしますが、

そういうことに固執する必要はないと思います。


実在か?無か?


ただそれだけのことなんだと。

ゆるしとは、そういうことなんだと思います。


IMG_2504.jpg


2017/11/15

手ぶらで帰る

わが家に帰るときには、手ぶらで帰ることがわかっているのに、この自分は、手ぶらになることをひどく恐れています。


そう、この自分は、手ぶらになること、つまり、何も持たないことを恐れています。


お金、家族、愛する人、仕事、地位、名声、役割、知識すらも、、、この身体も、、、所有しているものを手放すことを恐れています。


たとえ、所有しようとするそれら一切すべてがこの自分を真に幸せにしてくれるものではないことをわかっていても、それらを手放したくないと想っています。


それは、神を求めているのに、神ではないものを大事にしようとしているということです。

それは、父(神)に保護してもらうことを、そして、父(神)に養ってもらうことを、自ら拒否しているということです。


わが家に帰るときには、手ぶらになることがわかっているのに、この自分は、手ぶらになることをひどく恐れているのです。


それは、わが家に帰ることをひどく恐れているといえます。

それは、わが家に帰りたくないともいえます。


まずは、わが家に帰ることを拒んでいる自分がいるということを自覚すること。


その自分を自覚することから、わが家への歩みは前進しはじめるのだと言えます。


IMG_2463.jpg


2017/11/06

投影するかそれともゆるすか

最近、私にとって「投影」の捉え方が変わったのを感じています。

以前は、投影というものを「他人は、自分の鏡である」とか、「この世界は、自分の心の投影である」といった具合に捉えてその投影の示す意味を探ったりしていました。

でも今では、捉え方がよりシンプルになったといいましょうか、対処の仕方もよりシンプルになったように思います。


単純に、投影は自我のトリック以外の何ものでもありません。

投影とは、心が内側に向かわないようにするためのまやかしにすぎないということです。

その自我のトリックに気づくとき、そのときはじめてゆるしが可能となります。


投影について、わたしたちがもっと注意深くいるならば、わたしたちは自我についてもっと理解することになります。


「投影」という言葉は、心理学用語でもあるのですが、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中でもよく使われている言葉です。

コースの実践者であるならば、その言葉の意味を理解していない人は一人もいないでしょう。

むしろ、「投影」という言葉を理解せずして、コースの実践などできるわけがありません。


「投影」を理解せずして、「ゆるし」などあり得ません。


ゆえに、ゆるしを実践する者であるならば、「投影」というものをしっかり理解しておく必要がありますし、投影というものにもっと自覚的にいる必要があると言えます。

というのも、投影というものを本当に理解するなら、「投影しても何の解決にもならない、そこには答えはない」ということを真に理解し、もう二度と投影しようとはしなくなるからです。


とはいえ、ときに投影したくなる誘惑にかられるときもあります。

気づけばつい、誰かや外側の何かに投影して、(一時的にでも)心を晴らそうとします。

つまりは、「心を訓練(習得)していくほかない」ということです。

そう、わたしたちは、「投影」というものにもっと注意深くなり、それを自覚したなら即座に投影を止めるといった心の訓練が必要なのだということです。

それが、ゆるしの実践、というものです。

ゆるしの実践とは、投影を止めることだと言い換えられます。

つまり、世界はない、他者はいない、、、すべてのことは自分の内側にあるものだと見ていく、というふうにです。

その実践は、かなりの心の訓練(トレーニング)を要すると言えます。

なぜなら、わたしたちは自我の二元性の思考システムに慣れ切ってしまっているからです。


この道は、実践あるのみです。

その道を歩むことは、そんなに難しいことを必要としているわけではありません。

その意欲さえあれば十分だと、コースの中のジーザス(イエス)は言います。

投影を止める、投影をしない、という意欲です。

まずはそこからです。


投影することで、わたしたちは自分の内側に意識を向けずにすみます。

でも、投影をしたままで、ゆるしはあり得ません。


投影するか?それとも、ゆるすか?

そのどちらかしかなく、それなくして、ゆるしの実践などあり得ないということです。


IMG_2461.jpg