2018/05/13

誤りを直視しない限り真理に到達できない

これから自分がしていくことは何だろう?と思ったりするのですが、
結局のところ、自分に与えられた機能を果たしていくだけであり、
その与えられた機能(役割)とは、「赦し」しかないのだなと気づきます。

その実践は、どこにいようが、だれといようが、なにをしていようが、
かたちのレベルでのそういうことはまったく関係のないことであり、
むしろ日常の中で自分の目の前に現れるすべてについて
「赦しのレッスン」として実践していくことだけが、
唯一の目的としていくべきことなのだとあらためて強く思う次第です。

それは普通の暮らしのなかでも自学自習で実践できるのであり、
特別な教師や、人間関係や、環境がとくに必要なのではないということ。

むしろ、その暮らしは普通でよくて、特別なものである必要もなく、
ひいてはコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)のスピリチュアリティすらも
外に向かって表現していく必要もないのではないかと思ったりします。

世界を変えるのでもなく、
そして、自分も変えるのでもなく、
ただ観察者としてそれらを幻想(無)と見て、そして赦していくだけなのだということ。

ちなみに、「赦し」について、
JAICM(『奇跡講座』学習支援サイト)の別館HPにての最新記事(2018年5月3日)が、
私にとってすごくわかりやすく参考になりました。

「赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。
・・ただ見て、待つのみであり、判断はしない。」

何も変える必要はない。
ただ直視していくだけなのだと。

わかってはいるものの、それを再確認してさらに腑に落ちた感がありました。

ということで、私からぜひお勧めです。
JAICM別館のHPの5月3日の記事を、どうぞご覧ください。

V#26: 誤りを直視しない限り真理に到達できない

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2018/04/07

放棄するということについて

「放棄する」とか「手放す」というのと、「ゆだねる」ことは同じ意味をさします。


ですので、この世界を放棄しないまま、すべてをゆだねるということは、

まるで相矛盾していますし、無謀なことをしているといえます。


それは、ちょうどアクセルを踏みながらブレーキをかけているようなものです。

それでは、いつまでたっても自我は止むことはありません。

もちろん、それではゆだねるということなど不可能です。


放棄することのないまま、ゆだねる、ということが、いったいあり得るのでしょうか?


でも、自我は、そういうことができると思っています。

そして、自我は、そうやってでも存続しようとします。


正直なところ、これまでの私自身のことを顧みると、

自分はまさにそういうことをしていたのだと気づきます。


「放棄する」とか、「ゆだねる」とか、頭で理解していただけで、

実際のところ、私自身、まったくそれが出来ていなかったと気づきます。


自分がしていた「放棄」とか「ゆだね」というものは、部分的なものだったと気づくのです。


それは、ある部分ではこの世界は幻想だと放棄しておきながら、

他の部分においてはやっぱりこの世界を現実だと信じていたということです。


ただ、もう、そのような部分的な「放棄」といったものでは、うまくいかないと気づきます。


うまくいくわけがありません。

そう、この世界や、この世界のものを現実だと思いながら、

放棄する、手放すということをしても、不安、恐れから逃れられることは決してありません。


すべてに例外なく幻想であると見限っていく、価値のないものとして見切っていくほか、

本当の「ゆだねる」ということはできないのだと気づきます。


それは、全面的なもの、包括的なもの、でなければ意味がないということです。


そして、私にとって全面的な放棄の実践のはじまりだと自覚します。

ようやくそのスタート地点に立ったと感じています。


「放棄すること、手放すこと」とは、

幻想に価値を置かないで、神を選択していることと同じことです。

またそれは、内なるガイド(聖霊/イエス)の手にゆだねていくということなのだと、

あらためて気づく今日この頃です。


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2018/04/05

自分自身を赦す

意識を高めるとか、波動を上げるとか、魂を浄化するとか、
もうそういうことをする必要がないのだと気づきます。

そういうことは無意味だと気づくのです。

自分は変わる必要がないということ。

成長する必要もなければ、
いい人になる必要もなければ、
高潔な人になる必要もなければ、
聖人みたいになる必要もなければ、
どんな自分だとしてもそれでいいのだと。
もっといえば、そういうことはどうだっていいことなのだと。

自我の部分をみつけたとしても、
それをどうのこうの変える必要などなかったのだと気づきます。
自我は自我のままでいいのだと。
自我とは、偽りの自分でしかないのだから。
もっといえば、そもそも、実在しない、のだから。

そんな自我をジャッジする必要もなければ、
咎める必要もないと。
自我がより良い自我へとなっていったところで何の意味があるというのだろう?
むしろ、わたしたちは自分に対してそういうことをしてきたのだと気づきます。

自我の自分を変えようとする必要はなく、
その自分をジャッジすることなくただ傍観していればいいのだと。

赦しとは、実在しないものをただ、無、とすることだけなのだとあらためて気づくのです。

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2018/03/26

どちらに「信」を置いているか

「自分は神を信頼できない」と言葉にするとき、
それは、「自分は神じゃないものを信頼しています」と言うのと同じことを意味します。

それは、「信」があるとかないとか、そういうことではないということです。

神か?神じゃないものか?
実在か?実在しないものか?
そのどちらかしかなく、
いずれにせよ、わたしたちは、そのどちらかに「信」を置いているのだということです。

自分は神に対して、「信」がない、「信」を置くことができない、
と思うのなら、
その自分は、この世界に、そして自我である自分に、
「信」を置いているだけのことだといえます。

神に「信」を置けるようになるために、まずその前に、
自分は、この世界に「信」を置いている、
自分は、この幻想に「信」を置いている、
ということを自覚し、認めていくことが大事なのだといえます。

この道の歩みは、そこからはじまるのであり、
そこからしかはじまらないのだと言うことが出来ます。

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2018/03/15

全面的な放棄、と、全面的な委ね

「人生のコントロールを放棄すること」と「聖霊を信頼すること」は、
どちらも同じ意味で、表裏一体なのだと気づきます。

自分で人生をどうにかコントロールできると思っているならば、
それは、聖霊を信頼していない、ということです。

実在をどこに置くのか?なんだと思います。

この世界を実在(リアル)とするのか?それとも、この世界を幻想とするのか?
そのどちらかしかないのだと。

そして私は今、後者の視点へとシフトしているその真っ只中にいるような状態です。

これまでの自分は「この世界は幻想である」と頭ではわかったようなつもりでいたけれど、
実際のところ、この世界をそのようにはみていなかったということです。
まったくのところ、この世界をリアルにみながら赦しをしていたということに気づくのです。

ようやく本気で「この世界は幻想なのだ」と捉えるようになったということです。
それは、もうこの世界を実在するものとは見なくなってきたことを意味します。

かたちの世界であるこの世界が、薄いベールのようなもののように知覚されています。

全面的な放棄、と、全面的な委ね。
ようやく私の心にそれを受け入れる準備ができたと感じています。
そして、そこにはこれまでの人生で生きてきた中ではなかった安心感と信頼感があります。

全面的な赦し、しかない、、、とそんな心境です。

自我で生きるのか?聖霊に仕えていくのか?
そのどちらかしかなくて、
今、私にその実践のはじまりのときがきたのだと感じています。

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