2018/04/29

何のための学びか

「スピリチュアルの学び」と「アウェイクニング(目覚め/悟り)」との関係性は、

どのように捉えたらいいのでしょう?


アウェイクニングについて言えば、

わたしたちは、魂を磨いていけば、魂を成長させていけば、

そこへ辿り着けると信じてスピリチュアルな学びをしてきたといえます。

ですが、本当は、いまここにあるのだということです。


魂とは、輪廻転生していると思われている個人的なスピリットのことですが、

それこそ、魂とは、時間の中を旅する分離意識ゆえの幻想でしかないと言うことが出来ます。


わたしたちの本質は一つです。

スピリットは一つです。

本当は、個別の「魂」というものがあり得るわけがないのです。


ゆえに、魂をいくら磨いていったところで、魂をいくら成長させていったところで、

いくら洗練していったところで、分離が終わるわけでもなく、学びが終わるでもなく、

ようするに、アウェイクニングとは一切関係がないといえます。


わたしたちはこの幻想の中で、幻想から目覚めようとしているわけで、

ある幻想からまたあるより良い幻想へなっていったとしても、幻想は幻想でしかありません。

幻想を実在しないものと見切って幻想から離れていくことでしか、

幻想からの目覚めはないということです。


アウェイクニングは、幻想とは一切関係がないということ。


スピリチュアルの学びというものについていえば、

学ぶということを終わっていくことがわたしたちの目的であることを忘れてはいけません。


わたしたちが最終的に帰っていくところとは、そういうものだということです。


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2018/04/17

聖なる呼び声

わたしたちは、「この自分がいかに満たされていないか、幸せでないか」

ということにまったくと言っていいほど無自覚だといえます。


 無意識的なところではそのことを常に感じているにも関わらず、

この世のものでそれを埋め合わせることに躍起になって、

そのことが不自然なことだとはだれも疑うことがありません。


本当は「幸せ」ではないのに、自分自身を欺いているということです。

まんざらでもない状態でそれなりに満足しているというか、妥協している

というのがわたしたちのしていることです。

もしくは、その状態にマヒしてしまっているといえます。


そんなわたしたちにとって、

「自分は満たされてはいない、自分は幸せでない、自分は不幸である」

と自覚することは真の幸せを求めるためにとても重要なことだといえます。


そして、もしあなたがそう感じているのなら、

ある意味でとてもラッキーだと捉えていいと思います。

なぜなら、その自覚によって真の幸せを求めるきっかけになり得るからです。


自分はまだ真に満たされてはいない、自分はまだ真に幸せではない、と、

わたしたちはもっともっと自覚的になる必要があるといえましょう。


その自覚こそが、真の幸福へと、神のもとへと帰るべく、

あなたをその旅へと誘うことになるでしょう。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中のジーザスはこう言います。

その旅は、時間の中の旅における最後の旅路になると。

でも、この旅は、けっして一人で歩むというものではありません。

道を示してくれるジーザス(イエス)がいます。

共に歩んでくれる聖霊がいます。


自分は幸せでない、満たされてない、と感じる時、

それは、イエスからの、聖霊からの、聖なる呼び声だと理解していいでしょう。


どうぞ、静かになって、

ハートからの聖なるコーリング(calling/呼び声)にもっと耳を傾けてみてください。

それを試みるとき、あなたはきっとその声を受け取ることでしょう。


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2018/03/20

戻りの旅路

私にとって、このスピリチュアル・ジャーニーもずいぶんと遠くまで来たなと感じています。

その旅も今や戻りの旅路をたどっており、その旅路の終わりの段階に向かっていると感じます。
この道の歩みを通して私が感じているこの安心感と信頼感がそのことを教えてくれています。
その安心感と信頼感はまだ完全なものではありませんが、
それでもこのスピリチュアル・ジャーニーにおいて、この道でいいのだ、という感覚は、
ますます確信へとなっていっているのを実感しています。

そもそものこの旅のはじまりは、私が20代前半だった頃に遡ります。
真理、悟り、覚醒(目覚め)といったものを求めて、
このスピリチュアルな探究の旅は始まりました。
この旅がはじまったきっかけや理由についてはいかようにも述べることはできますが、
そのどれもが二次的なものにしかすぎず、ただそうなることになっていたのだと思います。
衝動にかられるままに、促されるままに、流されるままに、
ただその流れに従っただけ、あるいは、従わされただけということです。

今から振り返って想えば、
真実を求めたいという衝動といいましょうか、その促しは必然だったのだと思えるのです。

そして、そんな今想うのは、
私が求めていたのは、真理や悟りや目覚めといったものではなく、
この安心感と信頼感だったのだと気づくのです。
その安心感と信頼感を「幸せ」という言葉で言い換えてもいいです。

そう、私は、幸せでありたかったのだと気づくのです。

それは、この世を超えたものからもたらされるものです。
それは、決してこの世のものでもたらされることはなく、
この世のものと引き換えになど、決してすべきではないものです。
でも、わたしたちは、この世のものと引き換えにしてしまったのです。
ゆえに、わたしたちは、この安心感と信頼感を見失ってしまったのです。

この安心感と信頼感と共に佇んでいる時、
時間というものがだんだんとどうでもよくなっていくのがわかります。
幸せであるならば、もう、それでいいのです。

このいま、幸せであること。
この今を、幸せで在ること。
私が、今も歩んで向かっている場所とは、幸せで在る、というそれなんだと気づきます。
神のもとに帰るとは、そういうことなのだと。

この私もまだこのスピリチュアル・ジャーニーを完了したわけではありません。

このスピリチュアル・ジャーニーが終わる時とは、
私にとって時間というものが必要なくなる時なのだといえます。
それは、いまこの瞬間へと帰っていくだけのことなのだと気づきます。

戻りの旅路をたどっているのを直感的に感じる今、
私にとってのゴールは、もはや真理や悟りや目覚めというものではなくなってきています。

それは、もっとシンプルなものだと気づきます。

そう、それは、

いま幸せであること、
いま幸せでいること、

ただそれだけなのだと想う今日この頃です。

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2018/02/07

機能

この世界を聖霊の視点から見るのと、自我の視点から見るのとでは、

その心の状態もそして体験していく世界も大きなちがいがあるといえます。


聖霊の視点から見ようと(意図)するとき、

この世界を自分が目覚めていくための「教室」としてみていることになります。

それは、この世界をもはや実在する世界としてはみていないことを意味します。


ただし、自我(エゴ)の視点からは、そのようには見えていません。

なにせ、自我は、この世界でいかにこの身体を護っていくか、とか、

得ること、所有すること、コントロールすること、といったものにしか心が向いていません。


ただ、聖霊は、その自我を使ってわたしたちを神(目覚め)のほうへと導いてくれています。

そして、その神の計画のもとに聖霊はわたしたち一人ひとりにその機能を与えてくれています。


この世に生きているだれもにその機能は与えられています。

わたしたちは、その機能を果たさない限り本当に幸せになることは出来ません。

むしろ、その機能を果たしていくならば、本当の幸せがもたらされるということです。


わたしたちは、そもそも自分が知覚しているもの(見ているもの、こと)について、

なにもわかっていないし、わかることなどできないのです。

なにが自分にとって幸せをもたらすものなのかわからないのですから、

これが自分にとって幸せをもたらすものだと信じ込んでいるものを手放し、

赦し、明け渡していくことがわたしたちの機能だといえます。


「機能」とは、目に見える形態のレベルでのことを云っているのではありません。

それはどこで何をしていようと、どんなことをしていようと関係ありません。

形態のレベルで何をしているか、何かを成したかというものではありません。

むしろ、そういう形態のレベルにおいては、

聖霊にゆだねてサレンダーしていくことが、その機能を果たすということです。


そのとき、歓び(Joy)と幸福感(Happiness)がわたしたちの心を満たしていくでしょう。


そして、歓び(Joy)と幸福感(Happiness)でいることが、

わたしたちの機能なのだということがわかるでしょう。


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2018/01/24

スピリチュアル・ジャーニー

スピリチュアル探究の旅。


私にとってその旅のはじまりは、かれこれ20代前半のときまで遡ります。

いや、もっと昔に遡るかもしれません。

物心がついた子どもの頃からだったと気づきます。

私は、物心がついた幼少の頃にはすでに、

「人は死んでもそれで終わりではない、その後も魂として存在し続けていく」と

そう信じて生きていたように思います。

そう、私はその頃からずっと「輪廻転生」というものを信じていきてきたということです。

むしろ、魂として輪廻転生していると信じたほうが、

私にとってはこの人生を生きていくのに意味があると思えたのです。

そうではないとしたなら、この人生はあまりに虚無で儚いと思えたのでした。


そして、20代前半の頃になって、

私は心の底から「この人生で輪廻転生を終わりにしたい」という衝動にかられて、

私のスピリチュアル探究の旅ははじまったのでした。


でももうこの今では、私は、輪廻転生も一つの妄想(信念/観念)だったのだと気づきます。

死後の世界も無ければ、あの世も無いと。

もちろん生まれ変わる魂というものもなければ、輪廻転生なども無いと。

そういったものは、二元性のこの世に(さまよって)生きるわたしたち人間の

想念(思考)によって妄想されたものでしかないと気づくのです。

それは、この世に生きるわたしたちに理解できるように表現された比喩であり、

つまるところ慰めのためのものだということができます。


わたしたちは、唯物論でいうところの「死んでそれで終わり」というものでもなければ、

だからといって、「魂として時間の旅をしながら存在し続ける」というわけでもありません。

それらはどちらも、この世に生きるわたしたちの信念(想念)にしかすぎません。


わたしたちは死んで物質的な身体から自由になったならば、

ただ神のもとへと還っていくだけです。

この物質的な身体から解放されて、

本来の大いなる自己(ワンネス)へと戻っていくだけです。


スピリチュアルな探究をしていようがいまいが、世俗的に生きようが、たとえ罪人であろうが、

殺人者であろうが、みんな肉体を離れこの世を離れるなら、神のものと還っていくだけです。

そこに個人も個性もありません。

もちろん個人の魂、霊というものもありません。

わたしたちは、本来が一つなのですから。

わたしたちは、本来が一なる神の子なのですから。

わたしたちは、そこへ帰していくだけです。


あの世など無かった。輪廻転生も無かった。実在(神)だけがあるのみだと。


ならば、この人生はどう生きても同じだといえます。

どう生きたっていいんだと思えます。

どのような人生であろうと、そういうことはどうでもいいのだと思えます。


私はホッと心の荷が下りたような気がします。

もう気楽でいいんだと。

むしろ、これまで私の辿って来たスピリチュアル探究の旅は、一体何だったのだろうと。

なんだか笑えてきます。

今までの私は「輪廻転生」というものがあってほしかったのですから。

輪廻転生をしているという前提でスピリチュアルの旅をしてきたのですから。


もう何かになる必要もなく、もう何かを求める必要もない。

何か探さなければならないものもなければ、何かしなければならないものもない。


もうどこにも行く必要もないと気づきます。

今、があるだけです。

今この瞬間へと還っていくだけです。

そこはこの世界を超えており、時間を超えたところでもあります。

そうやって時間が終わっていくことになるんだろうなと思います。


そう想うとき、このスピリチュアルな旅も終わりに近いと感じます。


それはまた、時間という名の旅の終わりに近づいているということなのだと思います。


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