2018/12/18

プロセスの途上である

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もし、幸せですか?

とたずねられたなら、たしかに、私は「幸せです」と答えるでしょう。

ただ、「幸せ」というとき、その言葉の定義が人それぞれによってちがうので、
もっと正確に言い換えるとしたなら、
以前と比べたなら幸せを感じる時間は増えてきていますが、
完全なる(絶対なる)幸せではない、ということです。

そういう意味で言うなら、
まだまだ動揺(平安ではない感覚)を感じる瞬間はありますので、
真の幸せではないと言うことができます。

私にとって「幸せとは?」というならば、
不安が無い、心配がない、迷いが無い、心を惑わすものが無い、煩うものが無い、など、
それをあえていうなら、穏やかさ、平安、静寂、、、と呼んだらいいでしょうか。

そして、その感覚は、確実に以前とは比にならないほど感じつつあります。

とは言っても、それもまた赦しのプロセスおける反映にしかすぎず、つまり途上だということ。

ゆえに、自分はもう学ぶ必要がないというわけではありません。

これからも赦しをしていくことに変わりはないということです。

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2018/12/06

苦しみとは覚醒への起爆剤

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(今年の)沖縄は、まだまだまるで晩夏の季節のようで、
一日中、半袖Tシャツのままでも過ごせるほどのあたたかさ(暑さ!?)です。

さて、変な言い方になりますが、「苦しみ」について想うのが、
ある意味、「苦しみ」というものを感じないと、
わたしたちは天国(神の国)には帰れないなって思ったりします。

というのも、この世界でそこそこに幸せであるなら、苦しいと感じていないのなら、
わたしたちは、真の幸せ(天国)への想いも湧き起こってこなければ、
それを望もうとすることもないからです。

むしろ、この世界がそこそこまんざらでもないなぁって思いながら、
この世界を手放して、天国(神の国)を求めることなんてはたしてできるのでしょうか?

この世界を超えていきたい、目覚めたいと、なぜ望むのか?といえば、
もうこの世界にウンザリしているからであって、
その想いはどこからくるかといえば、苦しい、と感じているからだと思うんです。

苦しみを感じるからこそ、ラクになりたいとか、幸せになりたいといったふうに、
わたしたちは望むことができるわけで、
そこそこそれなりに幸せであるなら、
わざわざこの世界を超えていこうと想う必要がないよな、って思ったりします。

そう、天国(神の国)は、望んでこそ、求めてこそ、その道は開かれるといえるからです。

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つまるところ、この世界はそのすべてがあべこべだなって感じます。

聖霊の思考システムからみるならば、
この世界は苦しみでしかないと思っているほうがまとも(正気)な考え方のようにみえます。

幸せでないと感じているほうが、まともだってことです。

まともに考えてみても、
この世界には真の(永遠なる)幸せなど無い、というのは一目瞭然です。

わたしたちはその真実にどれだけ無智なのでしょう。

「貧しき者こそ、幸いである」とは、イエスのことばです。

それは、「苦しみを感じている者こそ、幸いである」と言い換えることが出来ると思います。

だからこそ、真の幸せ、天国(神の国)に帰りたい、と望むことができるわけですから。

「求めよ、さらば得られん」とは、
望まなければ、天国(神の国)のほうから勝手にやって来ることなど無いということ。

もう、幸せに妥協はしたくない、
という気持ちこそが大事だと私は心からそう思うわけです。

自分は(真に)幸せではない、ということを自覚することが必須だということ。

そういう意味で、「苦しみ」は、目覚め(覚醒)への起爆剤であるといえるでしょう。

真の幸せ、天国、神のもとに帰るまでは、ただこの道を歩み続けていくだけです。

だとするなら、苦しみとは、聖霊の祝福だと。

その祝福を余すことなく受け取っていくこと。

そこにこそ真の幸せへの扉の鍵があると言えるでしょう。

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2018/09/07

この自分とは自我(幻想)である

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私は、コース(ACIM/奇跡講座)の学ぶが深まっていくとともに、
自分自身がどんどんと変化していっているのを実感する次第です。

ずいぶんと感覚が変わって来たなと。

ただ、ここではっきりと言えるのは、
その自分がいくら変化したとして、その自分とは自我であり、
その自分がどこまで変化していっても、自我でしかない、ということを忘れてはなりません。

変化するということ自体が幻想の証であり、
変化する「自分」というものは、つまるところ実在しないもの(幻想)だということです。

つまり、変化しているその「自分」とは、自我、であるということ。

一方、変わることなくずっと在り続けているものがあり、
ソレこそが、本当の自分(真の自己)なのだといえます。

ソレは、この世界の影響も受けることもなければ、
ソレは、この世界とは一切関係がありません。

変わることなくこのいまも在り続けているソレだけが、唯一実在するものだと。

私は、ソレを神と呼んだり、実相と呼んだりしています。

そして、ソレ以外はすべて幻想(夢)、つまり、無、でしかないのだということです。

ようするに、実在か?幻想か?ということであって、
ゆえに、変化していると思っているこの「自分」とは、幻想(自我)なのだということです。

そのどちらかでしかなく、その中間みたいなものはないということ。

この自分がソレ(神)になるのではありません。
この自分は、自らの本性を偽っているからこそ自分(自我/偽我)でいられるのですから。

ただそれだけなのだと、あらためて強く自覚する今日この頃です。

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2018/08/18

いったいだれが目覚めるのか

自分は、よほど目覚めたくはないんだろうなと自覚します。


神のもとによほど帰りたくないのだなって。


でなければ、とっくに誤って決断したことを選び直して神の国に帰っているはずで、

この世界を知覚していることはないはずです。笑


神の国か?この世界か?しか選択はなく、

この世界をまだ選択しているということは、

ようするにこの自分は、神にのもとに帰りたくない、神を避けていたいのだということです。


そんな自分とこれからも歩んでいくしかないなと想うわけです。


そんなことを想ったそのとき、ふと、気づいたのですが、


その自分とはいったいだれなのだろう?と。


というのも、

この「自分」が神のもとに帰るのだと想っているということです。


そうなんです。

この「自分」だと想っている自分は、

神のみもとに帰るときにはこの世界と共に「無」へと帰していくだけなのであって、

この「自分」が目覚めるのではないのだと気づくのです。


この「自分」は、神の国に帰るその瞬間、この世界と共に消えるのです。


この「自分」とは、所詮、そういうものなんだってことですね。笑


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2018/05/25

不平や不満について

ふつう、わたしたちは不平や不満はないほうがいいと思っています。

でも、コース(ACIM/奇跡講座)学習者にとっては、
むしろ、不平や不満はこの世界にはつきものだと思っていたほうがいいように思います。

つまり、自分は身体(肉体)としてこの世界にいる、と思っている(信じている)限り、
不平や不満からは逃れられないものと思っていることのほうがまともだと。

自我とは、この世界とは、そういうものだと。

そもそもが自我と同一化してしまっているこの自分(自我)は、
不平や不満を手放したくはないのです。

そして、その自我の目的のためにでっち上げられたのがこの世界だということですから。

この世界をそのように捉えるとき、
不平や不満をどうにかする(解消する)必要がないのだということがわかってきます。

それらはすべて幻想だと知っている聖霊のものに運んでいけばいいということです。
そして、それが赦しでしていくことなのです。

ようするに、つい、わたしたちは不平不満をどうにか解消しようとするわけですが、
その必要はないのだと。

その不平不満にただ気づいて、「赦し」の実践に応用していくだけでいいのだと。

自我にパワーを与えない。
この世界を実在させたままにしない。

逆に、わたしたちはいつも自我にパワーを与えて、この世界を実在させてきたと言えます。
もっと言えば、そうやって自我を強めてきたということです。

ということは、そこに不平や不満を見つけたならば、
それが赦しのチャンスだということが出来ます。

不平や不満を咎めることなく、毛嫌いして隠蔽することなく、聖霊とともに正視する。

幻想は、幻想でしかあり得ないのですから。

赦しをただしていくこと。

これはこの世界から目覚めていくための道なのです。

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