2018/10/13

特別な教師

このスピリチュアル・ジャーニー(霊性の道)において、

もうこの今となっては、自分の外側に教師は必要ないと感じています。


そんなふうに感じる今だからこそ思うのですが、

(矛盾した言い方になりますが、)

自分の外側に教師を必要としなくなるまでは、やっぱり教師は必要である、

ということは否定できません。


なので、自分の外側に教師を求めるなかれ、とはけっして言えないどころか、

自分にとって必要な教師は必要なときに与えられているわけで、

教師を求めることについて、それはそれでいいのだと思ったりします。


これまでもそうだったように、これからも次から次へと

いろいろなスピリチュアル・ティーチャーやノンデュアリティ・ティーチャー、

ACIMティーチャーといった教師たちがこの幻想世界に登場してくるのだと思います。


ただ、この自分は、もう自分の外側に教師を必要しなくなった、というそれだけのことです。


もっと正確な言い方をするなら、

「この自分は、この幻想世界に特定の(特別な)教師を作り出す必要がなくなった」

と言い換えることができます。


それは、「もう教師は必要ない」と言いながらも、

出会う人(兄弟)だれもがこの自分にとっての教師であるとも言い換えられます。


教師とは、どこにでもだれでもがそうだと。


そこにはたった一人の教師(聖霊)がいるのであり、

そしてたった一人の教師で十分なのだということを深く理解する次第です。


この自分にとって、この残りの旅路は、

兄弟たちと出会って関わっていくということ自体が、そのようなものになっていくのでしょう。


IMG_2689.jpg

近所の散歩道

2018/08/27

この旅路がはじまった場所へ

IMG_20180124_203841_414.jpg

この旅路が終わる場所とは、この旅路がはじまった場所でもある。

そのときとは、日暮れのようにも見えるし、夜明けのようにもみえる。

夜が明けるとき、闇に光が差し込むのをあなたは見るだろう。

そのとき、あなたに目覚めのときはやって来る。

そのときは、必ずやって来る。

そしてそのとき、
あなたはけっして脆く弱く卑小で孤独な存在ではなかったことを思い出すだろう。

2018/08/18

いったいだれが目覚めるのか

自分は、よほど目覚めたくはないんだろうなと自覚します。


神のもとによほど帰りたくないのだなって。


でなければ、とっくに神の国を選択し直しているはずで、

この世界を知覚していることはないはずです。笑


神の国か?この世界か?しか選択はなく、

この世界をまだ選択しているということは、

神にのもとに帰りたくない、神を避けていたいのだということです。


そんな自分を自覚したりするのですが、

それと同時に、ふと、気づくことがあります。


その自分とはいったいだれなのだろう?と。


というのも、

この「自分」が神のもとに帰るのだと想っているということです。


そうなんです。

この「自分」だと想っている自分は、

神のみもとに帰るときにはこの世界と共に「無」へと帰していくだけなのであって、

この「自分」が目覚めるのではないのだということです。


この「自分」は、神の国に帰るその瞬間、この世界と共に消えるのです。


この「自分」とは、そういうものであるということです。


IMG_1865.jpg


2018/06/09

いま知覚しているところから

ノンデュアリティだの、真理だの、いくらわかったつもりでいても、
それがわたしたちの目的とするところではありません。

わたしたちがしていくことは、
真理を邪魔しているものを正視(直視)して、そして「赦し」をしていくだけです。

自分は、まだ分離した意識でこの世界を知覚しています。

自分は、まだこの世界をリアルに捉えています。

自分は、この身体がリアルに自分だと思っています。

自分は、この身体が重要だと思っています。

自分は、まだ他者がいるというふうに知覚しています。

自分は、この自分が生ていると思っています。

自分は、自分で決断できると思っています。

自分でどうにかできる、自分でどうにかしなきゃと思っています。

自分は、まだこの時間と空間の世界の中にいると思っています。


本当はどこへも向かっていないし、時間も空間も幻想でしかないとはいえ、
時間と空間のこの世界を知覚している限り、
やっぱりわたしたちはこの道を前へ歩んでいく必要があります。

その歩みは、いま知覚しているところから、そこからしかはじまりません。
自分の知覚しているものに正直になっていくこと。
赦しの実践は、そこからはじめる必要があるということです。

IMG_2361.jpg

2018/05/25

これは奇跡の道なのだ

これは奇跡の道なのだとあらためて気づきます。

それは、奇跡を体験していくための道であるということです。
そして、体験していくことでそれは確信となっていくのでしょう。

自分は、その道に踏み込んだのだと気づきます。

奇跡はいまここにあることを当たり前に体験していく、、、そのはじまりを予感します。
それと同時に、自分はこれまでどれだけ奇跡を制限、抑圧していたかにも気づかされます。

奇跡というものは、本当は当たり前のことなのだと思います。

それを制限しているのが不平や不満であり、
その不平や不満の心でもって見ている世界がこの世界だと言えます。
この世界とは、その心のままがただ反映された世界である、というふうにも言い換えられます。
そのことを深く理解するとき、本当にこの世界は無いのだということが腑に落ちてきます。

不平や不満はこの世界にはつきものだということ。
自我とは、この世界とは、そういうものだということ。
そして、そうやってわたしたちはいつも奇跡を制限しているということです。
もっと言えば、そうすることで奇跡を隠すことが出来るのです。

幻想の裏側に真理があるように、
「不平や不満」の裏側に「奇跡」が隠されているということ。

さらにいえば、その幻想(不満)を直視しないかぎり、
真理(奇跡)は隠され続けるのだということです。

ということは、自分の心の不平や不満を明らかにしていくならば、
そこに不平や不満を見つけたならば、
それが奇跡と入れ替わるチャンスだということが出来ます。

この時間と空間の中にいるあいだ、
私は、これから奇跡を体験しながら神のもとに帰っていくのでしょう。

そう、これは奇跡の道なのだと、あらためて自覚するのです。
そして、それはもうはじまっていると気づく今日この頃です。

IMG_2290.jpg