2018/08/27

この旅路がはじまった場所へ

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この旅路が終わる場所とは、この旅路がはじまった場所でもある。

そのときとは、日暮れのようにも見えるし、夜明けのようにもみえる。

夜が明けるとき、闇に光が差し込むのをあなたは見るだろう。

そのとき、あなたに目覚めのときはやって来る。

そのときは、必ずやって来る。

そしてそのとき、
あなたはけっして脆く弱く卑小で孤独な存在ではなかったことを思い出すだろう。

2018/08/18

いったいだれが目覚めるのか

自分は、よほど目覚めたくはないんだろうなと自覚します。


神のもとによほど帰りたくないのだなって。


でなければ、とっくに神の国を選択し直しているはずで、

この世界を知覚していることはないはずです。笑


神の国か?この世界か?しか選択はなく、

この世界をまだ選択しているということは、

神にのもとに帰りたくない、神を避けていたいのだということです。


そんな自分を自覚したりするのですが、

それと同時に、ふと、気づくことがあります。


その自分とはいったいだれなのだろう?と。


というのも、

この「自分」が神のもとに帰るのだと想っているということです。


そうなんです。

この「自分」だと想っている自分は、

神のみもとに帰るときにはこの世界と共に「無」へと帰していくだけなのであって、

この「自分」が目覚めるのではないのだということです。


この「自分」は、神の国に帰るその瞬間、この世界と共に消えるのです。


この「自分」とは、そういうものであるということです。


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2018/06/09

いま知覚しているところから

ノンデュアリティだの、真理だの、いくらわかったつもりでいても、
それがわたしたちの目的とするところではありません。

わたしたちがしていくことは、
真理を邪魔しているものを正視(直視)して、そして「赦し」をしていくだけです。

自分は、まだ分離した意識でこの世界を知覚しています。

自分は、まだこの世界をリアルに捉えています。

自分は、この身体がリアルに自分だと思っています。

自分は、この身体が重要だと思っています。

自分は、まだ他者がいるというふうに知覚しています。

自分は、この自分が生ていると思っています。

自分は、自分で決断できると思っています。

自分でどうにかできる、自分でどうにかしなきゃと思っています。

自分は、まだこの時間と空間の世界の中にいると思っています。


本当はどこへも向かっていないし、時間も空間も幻想でしかないとはいえ、
時間と空間のこの世界を知覚している限り、
やっぱりわたしたちはこの道を前へ歩んでいく必要があります。

その歩みは、いま知覚しているところから、そこからしかはじまりません。
自分の知覚しているものに正直になっていくこと。
赦しの実践は、そこからはじめる必要があるということです。

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2018/05/25

これは奇跡の道なのだ

これは奇跡の道なのだとあらためて気づきます。

それは、奇跡を体験していくための道であるということです。
そして、体験していくことでそれは確信となっていくのでしょう。

自分は、その道に踏み込んだのだと気づきます。

奇跡はいまここにあることを当たり前に体験していく、、、そのはじまりを予感します。
それと同時に、自分はこれまでどれだけ奇跡を制限、抑圧していたかにも気づかされます。

奇跡というものは、本当は当たり前のことなのだと思います。

それを制限しているのが不平や不満であり、
その不平や不満の心でもって見ている世界がこの世界だと言えます。
この世界とは、その心のままがただ反映された世界である、というふうにも言い換えられます。
そのことを深く理解するとき、本当にこの世界は無いのだということが腑に落ちてきます。

不平や不満はこの世界にはつきものだということ。
自我とは、この世界とは、そういうものだということ。
そして、そうやってわたしたちはいつも奇跡を制限しているということです。
もっと言えば、そうすることで奇跡を隠すことが出来るのです。

幻想の裏側に真理があるように、
「不平や不満」の裏側に「奇跡」が隠されているということ。

さらにいえば、その幻想(不満)を直視しないかぎり、
真理(奇跡)は隠され続けるのだということです。

ということは、自分の心の不平や不満を明らかにしていくならば、
そこに不平や不満を見つけたならば、
それが奇跡と入れ替わるチャンスだということが出来ます。

この時間と空間の中にいるあいだ、
私は、これから奇跡を体験しながら神のもとに帰っていくのでしょう。

そう、これは奇跡の道なのだと、あらためて自覚するのです。
そして、それはもうはじまっていると気づく今日この頃です。

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2018/04/29

何のための学びか

「スピリチュアルの学び」と「アウェイクニング(目覚め/悟り)」との関係性は、

どのように捉えたらいいのでしょう?


アウェイクニングについて言えば、

わたしたちは、魂を磨いていけば、魂を成長させていけば、

そこへ辿り着けると信じてスピリチュアルな学びをしてきたといえます。

ですが、本当は、いまここにあるのだということです。


魂とは、輪廻転生していると思われている個人的なスピリットのことですが、

それこそ、魂とは、時間の中を旅する分離意識ゆえの幻想でしかないと言うことが出来ます。


わたしたちの本質は一つです。

スピリットは一つです。

本当は、個別の「魂」というものがあり得るわけがないのです。


ゆえに、魂をいくら磨いていったところで、魂をいくら成長させていったところで、

いくら洗練していったところで、分離が終わるわけでもなく、学びが終わるでもなく、

ようするに、アウェイクニングとは一切関係がないといえます。


わたしたちはこの幻想の中で、幻想から目覚めようとしているわけで、

ある幻想からまたあるより良い幻想へなっていったとしても、幻想は幻想でしかありません。

幻想を実在しないものと見切って幻想から離れていくことでしか、

幻想からの目覚めはないということです。


アウェイクニングは、幻想とは一切関係がないということ。


スピリチュアルの学びというものについていえば、

学ぶということを終わっていくことがわたしたちの目的であることを忘れてはいけません。


わたしたちが最終的に帰っていくところとは、そういうものだということです。


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