2018/02/07

役割

この世界を眺めるとき、聖霊の視点から見るのと、自我の視点から見るのとでは、その心の状態も体験していく世界も大きなちがいがあります。


聖霊の視点から見るとき、だれもがそれぞれの役割を持って生まれてきていることがわかります。

わたしたちは互いにその役割を果たしながら神(目覚め)へと向かっているといえます。

ただし、自我(エゴ)の視点からは、そのようには見えていません。

なにせ、自我は、この世界でいかにこの身体を護っていくか、いかに得ていくかにしか心が向いていません。


ただ、聖霊は、その自我を使ってわたしたちを神(目覚め)のほうへと導いてくれています。

そして、その神の計画のもとに聖霊はわたしたち一人ひとりにその役割を与えてくれています。


だれもにこの世に生きている役割があります。

ただし、わたしたちは、自分でその役割を知ることは出来ません。

わたしたちは、自分が知覚しているもの(見ているもの、こと)について、なにもわかっていないし、わかることなどできないのです。

だからこそ、内なる衝動だったり、ワクワクだったり、本当の自分の心(気持ち)に従って導いてもらうほかないのです。


役割は、目に見える形態のレベルでのことを云っているのではありません。

それはどこで何をしていようと、どんなことをしていようと関係ありません。

形態のレベルで何をしているか、何かを成したかというものではありません。

むしろ、そういう形態のレベルにおいては、聖霊にゆだねてサレンダーしていくことのほうが、その役割を果たしていくことになります。

そのとき、歓び(Joy)と幸福感(Happiness)がわたしたちの心を満たしていくでしょう。

そして、歓び(Joy)と幸福感(Happiness)でいることがわたしたちの役割なのだということがわかるでしょう。


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2018/01/24

スピリチュアル・ジャーニー

スピリチュアル探究の旅。


私にとってその旅のはじまりは、かれこれ20代前半のときまで遡ります。

いや、もっと昔に遡るかもしれません。

物心がついた子どもの頃からだったと思います。

私は、「人は死んでもそれで終わりではない、その後も魂として存在し続けていく」とそう信じて生きてきたのです。

そう、私はずっと輪廻転生というものを信じていました。

むしろ、輪廻転生をしていると信じたほうが、私にとってはこの人生を生きていくのに意味があると思えたのです。

そうではないとしたなら、この人生はあまりに虚無で儚いと思えたのでした。


そして、20代前半の頃、私は心から「この人生で輪廻転生を終わりにしたい」と望んで、私のスピリチュアル探究の旅ははじまったのです。


この今では、私は、輪廻転生も一つの妄想(信念/観念)だったのだと気づきます。

死後の世界も無ければ、あの世も無い。

もちろん生まれ変わる魂というものもなければ、輪廻転生なども無いと。

それらは二元性のこの世に(さまよって)生きるわたしたち人間の想念よって妄想されたものでしかないということです。

それは、この世に生きるわたしたちに理解できるように表現された比喩であり、つまるところ慰めのためのものだったと思うのです。


わたしたちは唯物論でいうところの死んでそれで終わりというものでもなければ、だからといって、魂として時間の旅をしながら存在し続けるというわけでもありません。

それらは、この世に生きるわたしたちの信念(想念)にしかすぎません。

わたしたちは死んで物質的な身体から自由になったならば、ただ神のもとへと還っていくだけです。

この物質的な身体から解放されて、本来の大いなる自己(ワンネス)へと戻っていくだけです。


スピリチュアルな探究をしていようがいまいが、世俗的に生きようが、たとえ罪人であろうが、殺人者であろうが、みんな肉体を離れこの世を離れるなら、神のものと還っていくだけです。

そこに個人も個性もありません。

もちろん個人の魂、霊というものもありません。

わたしたちは、本来が一つなのですから。

わたしたちは、本来が一なる神の子なのですから。

わたしたちは、そこへ帰していくだけです。


あの世など無かった。輪廻転生も無かった。神だけがあるのみ。


ならば、この人生はどう生きても同じだといえます。

どのような人生であろうとそれでいいのだと思えます。


私はホッと荷が下りたような気がします。

もう気楽でいいんだと。

むしろ、これまで私の辿って来たスピリチュアル探究の旅は、一体何だったのだろうと。

なんだか笑えてきます。

なぜなら、私は輪廻転生というものがあってほしかったのですから。

輪廻転生をしているという前提でスピリチュアルの旅をしてきたのですから。


もう何かになる必要もなく、もう何かを求める必要もない。

何か探さなければならないものもなければ、何かしなければならないものもない。


もうどこにも行く必要もないと気づきます。

今、があるだけです。

今この瞬間へと還っていくだけです。

そこはこの世界を超えており、時間を超えたところでもあります。

そうやって時間が終わっていくことになるんだろうなと思います。


そう想うとき、このスピリチュアルな旅も終わりに近いと感じます。

そして、それは時間という名の旅の終わりでもあるのだと思います。


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2017/10/07

輪廻転生について

きのうの記事で「輪廻転生」という言葉が出てきましたので、そのことについて書いてみたいと思います。


率直に申しますと、輪廻転生というものはない、と私は捉えています。

輪廻転生とは、線形の時間と空間の世界に生きていると思い込んでいる自我の空想でしかないということです。


たしかに、セラピストとして心理セラピーを施していると、その人の心の奥深くに過去世らしき記憶が潜んでいることも多々あります。

もちろん、それを過去世として扱ってセラピーをした方がその人の癒しにとって有効な場合は、そうします。

ですが、私にとっては「過去世」とは、わたしたち夢見る者の記憶の想念にしかすぎず、それは、自分の記憶でもあり、だれかの(人生の)記憶をリピートしているだけのただの「想念」という見方で捉えています。


この世界は、一なる心が見る分裂した夢にしかすぎないのですから。

この世界での体験のすべては、その自分が見ている夢なのですから。


然るに、「魂」という考え方も、分離や個別性が可能とした想念ゆえに考え付くことのできる概念だということです。


そんなことを言うと、スピリチュアリスト(探究者)にとっては、味もそっけもないと思われるかもしれませんが、もう本当に、そういった二元性のスピリチュアリズムには何の興味もありません。


スピリチュアルというものに宇宙時空の壮大なドラマやロマンは要りません。

スピリチュアルな魂の旅のドラマやロマンも、もう、どうでもいいです。


結局のところ、かくいう私もそうなんですが、そういうことを感じはじめた探究者たちは、いつのときか、この道に導かれていくのだと思います。


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2017/09/07

終わりなき輪廻の旅から脱却する

この世界は、二元性の世界であるゆえ、やはり光と闇が存在しているのです。

それは、自分の内側にも光と闇があることを意味します。

そして、それこそが分離した世界を生み出しているということです。


そう、この知覚が終わるまで。

それは、この自分とこの世界が意味をなさなくなるとき。

それが、わたしたちの帰る場所です。

そこには一切の妥協がありません。

もし、妥協があるとするならば、この分離世界に居続けるということです。


私が、この世界を知覚しているかぎり、この二元対立の世界が終わることはないのだとあらためて気づく今日この頃です。

対立は、分離、分裂から生じるものであり、必ず苦しみを生み出します。

対立は、病を生み出します。

対立は、死を生み出します。

それはこの世界ではけっして終わることはないのだと、それは永遠に続くのだと、気づくのです。


この時間と空間の世界において、わたしたちは長い歴史の中で進化してきたように思っています。

その進化にともなって、この二元対立の世界の質を向上させてきたように思っているつもりでいますが、実質、光と闇の振れ幅がただ広がっただけのことであり、二元対立の形態は何一つ変わっていないと気づかされます。


ジーザス(イエス)は、「この世界から出て来なさい(Come out this world)」と、二千年も前からわたしたちに呼びかけています。


さらに、コース(ア・コース・イン・ミラクルズ/ACIM)の中でジーザスは、こう言います。

「この世界に見い出せるものは、病気、苦悩、そして喪失と死ばかりではないか。そんな世界になぜあなたがたは好んで居続けようとするのか。」と。


この私も、まだまだこの世界に歓びや楽しみを見い出そうとする自分(自我)がいることは否定できません。そういう誘惑にかられるときもよくあります。


そもそも私がこのスピリチュアルの旅(真理の探究)をはじめた理由は、「この世界は苦しみでしかない(一切皆苦)」というお釈迦さまの言葉に救い(光)を見い出したからだったことを思い出します。


私は、この世界から自由になりたい、終わりなきこの輪廻転生の時間の旅を終わりたい、と強く望んだことを覚えています。

あれから、もうかれこれ25年が経ちます。


天の王国を求めよ。


私の内なる声が、この今も私に強く呼びかけているのがわかります。

25年前に感じ取っていたあの声は、この今も変わらずこの私に語りかけているのがわかります。


「この世界を終わりたい」「この世界から自由になりたい」「この世界を超越していきたい」というあのときの欲求は間違ってはいなかったし、それでいいのだと、それこそがまとも(正気)だったのだと、今、あらためて思います。


そして、この私と同じように「この世界から自由になりたい」と強く望んでいる兄弟がいることもわかっています。


私は、そんなあなたに呼びかけているのです。


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2017/05/29

答えはシンプル

答えは、とてもシンプルです。


それが神の意志であれば、そうなるし、

それが神の意志でなければ、そうはならないだけのこと。


神は、わたしたちの救済を、そしてわたしたちがわが家に帰ることを望んでおられます。

それが、神の意志というものです。


つまりは、それが神の意志だからこそ、それは確実に成し遂げられるということです。


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