2017/08/17

学習が停滞しているときどうしたらいいの?

カースティンのトーク音声の翻訳です。


コースの学習は、形而上学的な概念を知的に理解することももちろん重要ですが、実際に、実践して経験していくことによってその理解がより深まっていくものだと言うことが出来ます。


カースティンは、コースの形而上学をある程度理解したならば、コースの教えを日々の実践へと応用していくことを薦めています。


いわゆる、実践と経験のプロセスへと移行していく段階があるということです。

それは、ACIM教師としての新たな学びのはじまりだと言うこともできると思います。


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質問者:

コースの学習への意欲がなくなってきました。熱心にやってきましたが、どこにもたどり着かない感じがしていて、このまま続けるのが難しくなってきています。一旦、学習を脇においてリラックスした方がいいように感じています。でもそうすると、また、どっぷりエゴへと戻っていきそうで、それも嫌ですし。どうしたらよいでしょうか?


カースティン:

行動を通して実践できるように、マインドフルネス(今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること:ウキペディアより)が役立つのではないでしょうか?

何かスピリチュアルな本を読むなどの知識的な学びを続けるよりも、明らかに、リラックスする方が良さそうですね。

自然に少しずつ難しくなってきたと感じていらっしゃるようですので、聖霊があなたを通して為すことができるところに統合するときではないでしょうか。


これは、実際に何をするかを聖霊に聞いたり、感じたりするという意味ではありません。

それは、日々の生活の中にもっともっと実践を取り入れるという意味です。

例えば、散歩のとき、自転車にのるとき、車を洗うとき、ご飯を作るとき、等々、何をしていてもいいのですが、、、、

それらをマインドフルネスのために、または、マインドトレーニングのために、あなたを通して聖霊に行ってもらうように実践していくのです。


ただ、doer(何かをしていないと気が済まない自分)がやってきたり、個としての自分がやってきたり、ゴールがあるかのように押し進めたり、始めたときにはなかった時間的なゴールを設定したり、と、そのようなことには十分に気をつけてください。

どこかの時点で、エゴが入り込んで来て、完璧主義や時間の制限が乗っ取ってしまうと、あなたの聖霊への自覚をブロックしはじめます。

祈りと共にポウズ(一旦立ち止まる)して、聖霊と常に繋がるという実践のためにガイドに導かれるままに行動する、ということをやってみてください。


それはちょうど、スピリチュアルコミュニティーでのわたしたちの過ごし方でもあります。

わたしたちは、すべてをこの実践のために使っています。

実際にコミュニティーの生活では、コースの話はほとんどしませんし、本を読むことさえほぼしません。

わたしたちは、すでに形而上学を理解していますから、学習というよりも、コースの教えを日々の実践へと応用しています。

それは、心の中に、喜びをブロックするエゴのパターンが現れるのを注意深く見ながら、どれだけ実践を深めていくか、ということになります。

~中略~

イエスは、コースの中で「今年一年をすべて同じにすることで、これまでとは違った年としなさい。」(テキスト15章Ⅺ.10.11)と言っています。

何をしていようとも一日を通して、あなたの価値ある黄金の経験のために過ごし、一日をすべて同じにすることで、これまでとは違った一日としてください。

一日中祈りとともに過ごしてください。


『Consistent Connection through Purpose 29 Jul.2017』より一部抜粋

https://www.spreaker.com/show/kirsten-buxton_2


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2017/08/13

身体的な老化のプロセスにどう対応するか?

カースティンのトーク音声の翻訳です。


今回は、身体的な老化のプロセスにどう付き合っていくか?という質問に関するカースティンの応えを抜粋してみました。


そして、関連する資料として、どうぞ『奇跡講座 ワークブック』レッスン294をお読みいただくことをお薦めします。


Lesson 294

My body is a wholly neutral thing. 

私の肉体は、完全に中庸(ニュートラル)なものである。

-ACIMワークブックー


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<カースティンのトーク>


コースの中でイエスは、肉体について、「聖霊から離れてしまったという信念、つまり分離の信念を癒す間は、肉体には機能(役割)がある」と述べています。

肉体は、コミュニケーションの道具として、聖霊の目的のために使われます。

その目的とは、心を癒すことですが、肉体を通して話し、ハグし、祈り、癒しのためのコミュニケーションとして使われます。

そして、よりその目的のためだけにわたしたちが肉体を使うならば、他の目的のために肉体を使うことを放棄することになります。

自我は肉体を、プライド・快楽・攻撃のために使うことを目的としています。

わたしたちは、肉体が傷つくまでは、まさか自分がプライド・快楽・攻撃のために肉体を使っているなど、考えも及びません。

もしくは、わたしたちがスピリチュアルの旅を始めて、「こんなふうに、プライド・快楽・攻撃のために肉体を使うのは時間の無駄だ。ずっとそうしてきたけれど、もうこれ以上、そんな目的のために肉体を使いたくない。」と思うまでは、肉体を自我の目的のために使い続けることになります。

これまで自分が、(健康のために)エクササイズをやったり、容姿を良くみせるために多くの時間をかけたりと、プライドのために肉体を使ってきたこと、そして、より良い自己像のために、見た目を良く保つよう頑張ってきたこと、などに気づくときが来ます。

そして、もうそんなことはどうでもいい、前ほど構わなくていい、と思える地点にきたときに、他のあらゆる肉体に関する自我的な目的も剥がれ落ちはじめることになります。

スピリチュアルな目的のコミュニケーションに近づけば近づくほど、肉体に対して、とても優しく穏やかになっていきます。

イエスは、コミュニケーションのためだけに肉体を使うならば、肉体が何かを感じることはできない、と言っています。

本当に、「自分が肉体である」という意識が失せるのです。

そして、完全に聖霊と同一の機能として在るとき、あなたは肉体の痛みを経験することはありません。

コミュニケーションと共に、光があなたを通してやってきます。

そして、もっともっとこのことがフォーカスされるならば、もはや、肉体への裁きや無理強いをこれ以上できなくなるところまで、ますます赦しが起きていきます。

肉体に対して、そんなに重圧をかけなくなっていくのです。


わたし自身、スピリチュアルな旅を始める前は、骨折とまではいかずとも、常に身体に瘤(こぶ)や青アザや切り傷をつくったものです。

よく怪我をしていたのは、無意識に頑張りすぎていたからでした。

しかし、たえず祈り、聞き、聖霊のガイダンスに従っている今、私が注意深く居る限り、聖霊がわたしを何かにぶつけさせたり、切り傷をつくらせたりすることはありません。

肉体は保護されるようになるのです。

~中略~

聖霊は、肉体を保護してくれます。

しかし、個としての自分は、"わたしは何かをする必要がある、しなければいけない、すべきである"と頑張らせるのです。

そんな時、聖霊は、「無理しないで。わたしに耳を傾けてよ。わたしにあなたをガイドさせてよ。」と話しかけています。


老化のプロセスに関してもそうです。

肉体を含めたこの世界のものはすべて、一時的なものです。

すべてのものは、いずれはその生命を完了させるときが来ます。

肉体も例外ではありません。

スピリチュアルなものは永遠ですが、一時的なものは終わりを迎えることになります。

その理解があれば、裁くことや、「わたし」は衰えてきている、「わたし」は老いてきている、「わたし」は状態が悪化してきている、と「わたし」と同一視することが減少するでしょう。


肉体は老化のプロセスをたどっていますが、常に答えとなるのは、「この今、わたしは何をするようになっていますか」ということです。

わたしたちが誰であるかを思い出させてくれる奇跡を呼び込む赦しを実践している間は、その答えは「魔術」と「奇跡」が入り混じったものとなります。

視力が落ちてくればメガネを用意するとか、他の何かのサポートを受けるなどといったガイダンスを受け取ることもあるでしょう。

すべては癒しにまつわることなので、その形(魔術)が何であれ裁きは必要ないということです。


『Consistent Connection through Purpose 29 Jul.2017』より一部抜粋

https://www.spreaker.com/show/kirsten-buxton_2


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自宅のベランダから見た夕方の西の空


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自宅のベランダから見た東の空に浮かぶ満月


2017/08/11

自分では何も決めない、聖霊に決めてもらおう!

カースティンさんのトーク音声の翻訳です。


わたしたちが『ア・コース・イン・ミラクルズ』(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んで目指しているところは、自分の内側の「聖霊」という教師から学べるようになることをゴールとしていると言えます。


「自分は一歩後ろに退いて、聖霊に聞き、聖霊に従う」とは、具体的にどのようにして実践していくのか?常に聖霊と共に在ることを日常生活においてどのように実践するか?


そのことについて、カースティンのお母さんが、聖霊と共に買い物をするようになったときのことを例にあげて話されています。(カースティンのお母さんもコースの実践者です)

その話から、普段のわたしたちがどれだけ無意識的な信念によって価値判断して過ごしているかもよく自覚することが出来ます。


(とくに、ACIM教師たちにとっては、)かなり参考になると思います。


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母は、以前、普通の人と同様に’自我的な理由’のもと、食料品の買い物をしていました。

その理由とは、「肉体に食べ物を与える必要がある」というものです。

そして、「何を買うか?」についても、さまざまな判断や判断基準を持っていました。


コースの教え通り、例外を作らないということ意志するならば、

「この買い物リストは、山のような判断と攻撃の想念を持っていないだろうか?(この買い物が)神からの贈り物だとしたなら、どんな感じだろうか?」と、すべてに例外なく同じ目的を持つようになるまでは、それがもたらされるよう進んで意識的にいるようになります。

喜びのために買い物へ行こう!

神聖なる出会いのために買い物へ行こう!

聖霊と繋がる体験のために買い物へ行こう!

もし、祝福されている感じがしなかったら、進んで買い物へ行かないことにしよう!

といった感じです。


母が買い物に行って気づいたことは、まず、オーガニック食品のみを買うことを常としていたことです。

オーガニック食品にまつわるさまざまな信念を解き、それらは本当にガイドされているものか?と聞かなければなりませんでした。

次に、判断基準として彼女が認識したのは、お金についてです。

梨やリンゴを見て、「まぁだいたい同じようなものだから、安い方を買っておこう。今週は梨、来週は安くなるリンゴを、、、」といった具合です。

とても合理的で、論理的で、分別のある買い物ですね。

しかし、彼女は、それらも喜んで手放すことにしました。

リンゴのそばを通ったとき、「リンゴを買いますか?」と感じてみて、もしイイ感じがしたら買うことにしました。

次にリンゴを選ぶとき、一つ手に取ってみてイイ感じがしたら買う、、、二つ目も手に取ってみてイイ感じがしたら買う、、、三つ目を手に取ってみて「いや、もう要らない」、、、といった具合に、すべてをフィーリングによって為されるよう任せたのです。

瞬間瞬間の引き寄せられるフィーリングに任せるのです。

次に、ジャムや蜂蜜やピーナッツバターの売り場に来たとき、「そう言えば、もうすぐジャムがなくなるから買わなきゃ」と思います。

それって、聖霊から促されているのでしょうか?

本当に買いたいものなのでしょうか?

ただの習慣として、または無意識に、やらなければならないこととして完結するのではなく、買い物も思いがけないもの、驚きに満ちたものにさせるのです。


これは素晴らしいトレーニングです。

わたしたちは、たくさんのことを、欠乏感を基準に、またはお金を基準にしています。

山ほどのお金にまつわる信念や欠乏感を、このような母の経験を通して私も見ました。

しかし、ときにわたしたちは意味不明なこともします。

あなたは、こっちでお金を節約してあっちで高価なものを買うのです。

なぜなら、あなたにはその価値がある、と思っているからです。

犠牲を払わなくていい、という価値をです。

あなたは、安い食料品を買うことで’5ドル節約した自分を正当化し、この世で一番高価なモイスチャークリームを買うのです。

本当に馬鹿げていますね。(笑)


あなたは、目の前に見せられるすべてのものから「黄金の体験」を得たいのですよね。

わたしたちは、自分に必要なものはすべて持っています。

それが、ただ在る(presence)という状態です。

わたしたちが持てるものは、私たち自身であり、神との繋がりだけです。

そして、わたしたちがそれを持ったとき、「すでに自分はすべてを持っている」という”気づき”がやって来ます。

わたしたちが神と繋がっていないとき、わたしたちは何も持っておらず、(ゆえに)自我と共に裁こうとし始めるのです。

それだと何も変わりませんし、シフトもありません。


これは、深く掘り下げて見ていくには素晴らしい題材でしたね。

わたしたちは、常に神と共に在るという体験をしていくに違いないでしょう。


『Consistent Connection through Purpose 29 Jul.2017』より一部抜粋

https://www.spreaker.com/show/kirsten-buxton_2


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2017/08/04

心の五つのレベル

カースティンさんのトーク音声の翻訳です。


今回は、内観(内的探索/Inner Inquiry)の重要性が述べられるとともに、内観するツールとして役立つ「心の五つのレベル」についても説明がなされています。


神の意志とは異なった欲求を自分が意志するとき、文字通りに心は分裂します。

そして、この(二元性の)世界にいるわたしたちがまさにそういう状態なのだと言います。


わたしたちは、自らの内側を深く掘り下げていくならば、いかに自分は誤った欲求や信念を抱いてきたか?を心の深いレベルで理解することになります。

そして、その自覚(気づき)こそが、「赦し」をもたらすことになります。


そう、自らの心の中を内観(内的探索)することなしに、赦しはないと言うことが出来ます。


「心の五つのレベル」について申しますと、心理セラピストとして”心”というものに携わってきた私自身にとってはとてもしっくりくるものでありますが、多くの方々にとってはあまり興味のないものに思えるかもしれません。

でも、赦しの実践をしていく上では、この「心の五つのレベル」を知っておくことはとても役に立つものだと私からもお伝えしたいです。


ちなみに、『覚醒へのレッスン』(デイヴィッド・ホフマイスター著/ナチュラルスピリット)の本をお持ちならば、後半部分(p.511~p.536)にも「心の五つのレベル」について説明されていますので、興味のある方はご参照ください。


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<カースティンさんのトーク音声より>


【心のレベル図】欲求が知覚に至るプロセス

Instrument for Peace

DESIRE:欲求 → BELIEF:信念 → THOUGHT:想念 → EMOTION:感情 → PERCEPTION:知覚


心の五つのレベルを表す図表は、とても役に立ちます。

これは明確に奇跡講座に基づいたものです。

デイヴィッド・ホフマイスターがイエスとともに自分自身を内観(内的探索)していたときに与えられた図表です。

「見えるかたちにしたい」とデイヴィッド・ホフマイスターが言ったときに、イエスのガイドを受けてこのような円を描いて表されました。

形而上学的にみていくと、「知覚」は円の一番外側にあります。

ご存知の通り、この知覚している世界は、わたしたちの想念が映し出されたものです。

通常、あなたが感情的になっていたり、何かについて混乱しているとき、世界が原因となってそのような感情を感じているように体験しています。

❛もし、世界がこうでなければ、私がこんな想いをすることはない❜と。

しかし、コースの形而上学で知っての通り、内側へと探索していくことは、まったくこれとは真逆なのです。


心の芯(中心)にあるのは、「欲求」または「祈り」です。

すべてのものは、その中心にある欲求や祈りから来ているし、わたしたちが知覚しているこの世界も、すべて欲求や祈りから来ています。

今日のこの集まりは、

「真理は、あなたの欲求を通して取り戻される。それは、あなたが真理以外の何かを欲することにより失われたからである。」(テキスト第20章Ⅷ.1.2)

というところから始まりましたね。


わたしたちの「欲求」や「祈り」がただ一つであり、純粋に神のみを求めるとき、それがわたしたちが体験することとなります。

私が、神の平安を欲し、ただ神の平安だけを求めるならば、神の平安のみを知ることになるでしょう。

もし私が、それ以外の経験をしているのならば、私は何か他のものを欲しているに違いないのです。

ここが、わたしたちが決断できる場所なのです。

わたしたちは、選択することが出来ます。

わたしたちは、思考の方向性を選択することを、自分でコントロール出来るのです。

これだけが、わたしたちがコントロール出来ることです。

重要な点です。

外側の世界については、コントロールすることが出来ません。

なぜなら、それは心の奥深いところにあるものをただ映し出しているだけだからです。

もし、神よりも他のものを望んだとしたならば、例えば裕福なビジネスマンになる、、、など、それはあなたの欲求を分裂させることになります。

あなたは、一方で神の平安を望み、一方で裕福なビジネスマンを望むのです。

それは、欲求の分裂であり、心の分裂とも言えます。

あなたの心が矛盾を抱えている、ということです。

なぜなら、あなたは二つの対抗した願いを求めているからです。

神からのものを求め、同時に、エゴからのものも求めているのです。

一見するとそれは全く関連性のないものに見えます。

しかし、あなたは分裂した心の矛盾が映し出された世界をみる(受け取る)ことになります。

‛お金’や‛裕福なビジネスマン’を信じ込むならば、外側の知覚する世界に裕福さと貧困を見ることになります。

あなたの心の中の信念や欲求により、あなたは二元性を見ることになるのです。

お金のある世界とお金のない世界を見るのです。


そこで、自分の心がどういうふうに関係しているのか?を紐解くことができます。

あなたは、あなたにとって価値のないものを知覚していることを信じられますか?

それは、あなたの癒しのためなのです。

そして、自分が「真に欲するもの」まで戻っていって見る必要があります。


わたしたちが、神のみを「欲求」すれば、神の平安だけを経験します。

心のレベルの他の層も「欲求」と一致することになります。

わたしたちが、聖霊と心を一致させることのみを「信念」とするならば、赦しが信念となります。

その信念だけを、心が認識することになります。

「想念」が、ただ神のみと一致するならば、純粋な愛の想念、永遠なる想念、平安である想念、無垢な想念、神と共にいるという想念を聞き、感じ、経験することになります。

「感情」は、二つしかありません。

もちろん、一つは「愛」。

ただ、二つの感情ですが、もしあなたがエゴと一致するならば、「怖れ」という感情、いらだち、怒り、憂鬱、挙げると切りがありませんが、等々を感じることになります。

あなたが神と一致するならば、感情は平安、楽しみ、幸せなどの言葉で表現される愛を感じるでしょう。

あなたが、統一した世界の知覚を欲求するなら、知覚するこの世界は統一された世界となります。

あなたが見るのは、癒された心の反映となります。

これが、幸せな夢です。

悪夢の反対として幸せな夢を知覚します。


心の大半は、分裂した「欲求」によって生じた結果を経験しています。

そこで、「自分の内側を知る」ー私は見たい。私は、私が何を欲しているのかを見たい。そうすれば、私は自分が真に欲しているものを見ることが出来る。ーという内観(内的探索)が重要となります。



『Inner Inquiry: Conditions and Flow, Levels of Mind in Holland  14 Apr.2017』より

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2017/08/01

まず、天の王国を求めよ!

カースティンさんのトーク音声の翻訳です。


今回は、「神にゆだねる、聖霊にゆだねる」ことの重要さをテーマに述べられています。

そこにしか完全な歓びや普遍なる平安がもたらされることはない、とさえ言っています。

わたしたちに求められているものとは、まさに、「信(faith)」なのだと思います。


日本語の翻訳に関しては趣味の域ですので、どうかご容赦くださいませ。


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「まず、天の王国を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」

これは、聖書の中の私の好きな言葉です。

そしてまたこれは、これまで私が体験してきたことでもあります。

「まず、天の王国を求めよ」

「まず、実在の平安を求めよ」

「まず、愛を求めよ」

この愛は、欠乏を満たすための小さき愛のことではなく、もっと偉大なる愛、実在のことです。

「そうすれば、すべて添えて与えられるであろう」

なぜこの言葉が真実であるかというと、あなたのための神の計画を受け入れることをあなたが求めているとき、神の恩寵である宇宙の意志と心を一致させることになるからです。


想像してみてください。

「私には、あなたのための計画がありますが、あなたにはこれが遂行できないかもしれません」

「私の計画を達成させるために必要なものを、あなたは手に入れることができないかもしれません」

こんなことを神が云うと思いますか?

それより、「何を置いてもどうか私にみせてください、どうか私を導いてください」と毎瞬毎瞬あなたが言葉にするならば、神の計画を達成するための手段が、常に表れてくることになります。

これが、これまで私が経験してきたことです。


この世界の考え方とは真逆のものです。

この世界では、まず自分に必要なものを受け取ったならば、その証拠をもとに信用する、そして一歩踏み出す、と考えます。

でも、もし必要なものが与えられるまで長い長い時間がかかってしまったら、そのうちにあなたは興味を失って、一歩も踏み出すことをしない、という結末になりますよね。

これは、常にこの世界で起きていることです。

結局は、つまらない人生を送り、妥協し、「人生なんてこんなもんだ」などということになります。


ここから方向転換をして、信頼を深め、信を深め、深く導きに従うことを大切にする方へと向かうのです。

そして、自分のやり方を主張する代わりに、子供のように喜びを持って「私は、私自身をあなたの手にゆだねます」と言うのです。

なぜなら、自分のやり方では、完全な歓びや普遍なる平安がもたらされることはない、という地点に、いつか必ず行き当たることになるからです。



『Seek Ye First Love!-Holland Clips3- 26 Apr.2017』より翻訳

ご興味のある方は、下記に音源のリンク先に貼っておきますので、そちらをお聞きください。

https://www.spreaker.com/show/kirsten-buxton_2


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