2017/09/18

Let go and forgive 6/6

フランシスさんのトーク「Let go and forgive(解放とゆるし)」の翻訳のパート6(最終回)です。


パート1:Let go and forgive 1/6

パート2:Let go and forgive 2/6

パート3:Let go and forgive 3/6

パート4:Let go and forgive 4/6

パート5:Let go and forgive 5/6



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先週、「ザ・ギフト」という映画を観ました。
映画に描かれていたことの一つに、何であれ隠しているものがある場合、それは癒されないものとなり得る、というものがありました。
隠しているものは癒されないのです。
それは、外側に投影されます。
なぜなら、あなたが投影を求める(無意識に隠したままにしておきたい)からです。
起こっているように思えるすべてのことは「罪悪感の投影である」と言えると思います。

これは何年も前のことですが、わたしがとても怒ったときのことです。
わたしはデイヴィッドに対してその怒りをぶつけていました。
しかし、彼はただ「それは罪悪感ですね」と言っただけでした。
彼はわたしの直接的な攻撃には答えず、「あなたの心の中の罪悪感ですね」とだけ言いました。
わたしは驚き、立ち止まり、「違う、これは罪悪感ではない。わたしは罪悪感など感じていない。わたしは怒っているんだ」と思いました。
しかし、彼が何を言っていたのか?何が起きていたのか?というと、それはただ”罪悪感”(が湧き起こっていたという)だけで、つまりは、罪悪感を感じている人だけが怒るということです。
罪悪感がある人だけが、攻撃することができ、攻撃を知覚することができます。
攻撃する人と攻撃される人どちらでさえも、あなたの外側にいます。
苦しんでいる誰かや非難すべき誰かを知覚するのは、罪悪感を抱えた人だけで、罪悪感を感じている人だけがそれらを見ることができます。
罪悪感を感じている人は、攻撃する人という役割を演じることができるし、もちろん被害者という役割も演じることができます。
これは容易に見受けられます。

このことによって、わたしたちは、違う種類の感情があるわけではないことを知るので、とてもシンプルに考えられます。
ただ一つ、心の中の罪悪感というところに戻ればいいだけです。
もちろん、それは意識的には認識できないほど(無意識の)深い深いところに埋められています。
なぜわたしたちはこんな罪悪感を感じているのか。
知的に、もしくは形而上学的には、それは神から離れたからだと知っています。
しかし、意識的なところでは「なぜ罪悪感を感じるのか」わかっていません。
ゴール(目的)は、わたしたちが(その罪悪感を)暴きさらけ出すこと、そして聖霊にその罪悪感を翻訳し直してもらうこと、その根底を見て、その根底には何もないということを見る、つまりはそれがゴールなのです。
心の中に幾重もの層や特定の何かをわたしたちが保っている限り、聖霊が根底まで辿り着き、そこにある無垢性を明らかにすることを妨げることになります。
そうなると、罪悪感は永遠に心の中に隠されたままとなります。
その結果として、苦しみを知覚し、攻撃を知覚し、病気を知覚することになります。

ここで基本に戻ることが大切だとわたしは思います。
そして、わたしたちのここでの役割はわずか(ささやかな意欲だけ)であることを悟ることも大切だと思います。
自我は、生き延びるために悪戦苦闘してきました。
自我は、それ自身をまたは他の者を癒そうと、ヒーラーという役割を持とうとします。
しかし、そこには自我が持てる役割はありません。
わたしたちは、聖霊に真新しく教えてもらうようにしなければなりません。
どのように癒すか?あなたが自分で知っていると思っているものを手放すのです。
長い間勉強してきたものでさえも手放すのです。

ここが、わたしたちがみな一緒にスタートできる地点だとわたしは思います。
「わたしたちは自分では何もわかっていないのかもしれない。
聖霊に来てもらい教えてもらおう。
(テーブルを指しながら)これはどういう意味ですか?
(マグカップを指しながら)これはどういう意味ですか?
このシナリオはどういう意味ですか?
攻撃とはどういう意味ですか?
すべてについてどういう意味ですか?」
そのようにして、心に無垢性を呼び戻しましょう。

最後に、『奇跡講座』付録Ⅰ精神療法ーその目的、方法そして実践ーから最後の文を引用して終わります。

「そして、神の道がいかに単純であるかを、忘れてはならない。光を求めるまで、あなたは世界の闇の中で道に迷っていた。それゆえに神は、あなたに光を与えるべく神の子を送ったのである。」(P-3.Ⅲ.8.11-13)『奇跡講座』「中央アート出版社」より

真新しいヴィジョンで! 真新しい目で!

真新しいヴィジョンで救世主を見出しましょう。
それが、わたしたちが考え付くすべての問題を解決するでしょう。
素晴らしいですよね。
このエピソードの中の問題もすべて解決ですね。

あとは実践するのみです!!

ーYouTube「Let go and forgive」より抜粋翻訳ー


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2017/09/17

Let go and forgive 5/6

フランシスさんのトーク「Let go and forgive(解放とゆるし)」の翻訳のパート5です。


パート1:Let go and forgive 1/6

パート2:Let go and forgive 2/6

パート3:Let go and forgive 3/6

パート4:Let go and forgive 4/6


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聖霊に来てもらうというのは、「わたしの人生にいつ聖霊がやってきてくれるのだろう?」というような謎めいた神秘でも何でもなく、それは、筋肉(*)を鍛えるようなものと言えます。


*(このエピソードの初めの方で、英語の発音についての話がありました。中国語で育ってきたフランシスがアメリカンアクセントで”a”を発音しようと試みたとき、今まで自分が中国語では使ったことのない頬や口周りの筋肉を使う必要があることに気づき驚いたそうです。そのことに気づくまでは中国語アクセントの"a"で発音していたことを自覚し、後天的に積み重ねられた慣習を保ったまま新しいものを付け加えていく、という古い学び方の良い例として、この筋肉の話を挙げられました。)


わたしは古い筋肉(思考)を使ってこの世界を見てきたし、古い筋肉を使って「すべては分離しているとか、誰も信用できない、何も信用ならない」と思ってきました。

自分の周りで起きていることはすべて、まるで防御や防衛への呼びかけでした。

それが古いやり方であり、長い間、「防御の筋肉」という古い筋肉を使って、何においても対応してきたのだといえます。


そして今、わたしたちがすべきことは、自分自身にこう伝えることです。

「もし、すべては聖霊から与えられていると信頼して一日を過ごしてみるならば、どんな一日になるだろう?」

ここにシフトがあります。

これがわたしたちに出来ることです。

わたしたちは”警戒”(T6.Ⅴ.C 参照)している必要があります。

今日、リサが、マインドトレーニングについて話していました。

心はフォーカスを必要とし、心は献身的な鍛錬を必要とします。

マインドトレーニング(心の訓練)が何を為すかというと、横道にそれたり、不信感、疑念が入り込むのをゆるす古い筋肉や古い習慣に向かって引き返さないようになるということです。

マインドトレーニングは、「私は聖霊の目を通してすべてを見ることを決心します」と言うことが出来る警戒した心へ最終的に導きます。

わたしが感知するすべての人は、ギフトです。わたしへのギフトです。

一日を通して起きるすべてのことは、わたしへのギフトです。

でももし、あなたがそれをギフトだと思えなかったら、ギフトだというフリをするのはやめてください。

「これはギフトだ。これはギフトだ。これはギフトだ。」と言ってアファメーションを繰り返す必要はありません。

わたしたちは”正しく”ありたいわけではありません。

それよりも聖霊に「あなたを招き入れさせてください。どうやったらこれがギフトだとみえるのですか?わたしの有限の思考では、これがギフトだと解釈できません。」と言いたいのです。

シフトが起きるかは、意欲次第です。

だから、聖霊を呼び、心に聖霊の目を招き入れ、わたしたちのために聖霊の筋肉を使ってすべてのことを解釈してもらうのです。


わたしたちは、そこから「例外はない」というところへ信頼を育てていきます。

わたしたちは、はじめのうちは「ある特定の人々は聖霊を象徴しているが、ある特定の人々はそうではない。ある特定の出来事は聖霊からもたらされているが、ある特定の出来事はそうではない」と例外を設けています。

しかし、”警戒”していることによって、最終的には「例外はない」となります。

確実にすべてに例外はありません。

起きているものごとに偶然というものは絶対にありません。

それは完全に知覚によって生じる、いわゆる解釈によって生じます。

わたしたちがそれをどうみるか?どう自分自身に伝えるか?だれの声を聞いているか?によるものです。


この部分は、他のだれかに代わってやってもらうことが出来ないところです。

どんなスピリチュアル・ティーチャーを支持していようが、何年スピリチュアルな実践をしていようが、どんな体制のスピリチュアリティに身を置いていようが関係ありません。

自分でやるしかありません。

あなたが心にシフトを起こさなければならないのです。

これは、ときにフラストレーションを感じることもあります。

わたしもフラストレーションを抱えていた時期を通り越してきました。

本当にだれかに代わってやって貰いたかったけれど、誰も代われる人はいませんでした。


次回に続く


ーYouTube「Let go and forgive」より抜粋翻訳ー


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2017/09/16

Let go and forgive 4/6

フランシスさんのトーク「Let go and forgive(解放とゆるし)」の翻訳のパート4です。


パート1:Let go and forgive 1/6

パート2:Let go and forgive 2/6

パート3:Let go and forgive 3/6


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ここで、『奇跡講座』付録Ⅰ精神療法ーその目的、方法そして実践ー から少し抜粋して読んでみたいと思います。

わたしたちがやっていることが美しくまとめられているところです。

癒しの定義」というセクションからです。


「病気は数多くの形をとるが、赦そうとしない思いも同様である。一方が纏うさまざまな形態は、もう一方が纏うさまざまな形態を再現しているにすぎない。というのも、それらは同一の幻想だからである。一方はもう一方へときわめて忠実に翻訳されるので、ある病気の形態を注意深く研究すれば、それに表象されている赦そうとしない思いの形態をきわめて明確に指摘できるだろう。しかし、これがわかったとしても、治療をもたらすことにはならない。治療は、ただ一つの認識によってのみ達成される。すなわち、赦しのみが赦そうとしない思いを癒し、赦そうとしない思いのみが、何らかの病気を引き起こすことができる、という認識である。

この認識が、精神療法の最終的なゴールである。それはどのようにして達成されるのだろうか?セラピストは、自分自身の中でまだ赦していないすべてを患者の中に見る。そして、それにより、それらを直視する新たな機会が与えられ、それらを再評価し赦すことが可能になる。」(P-2.Ⅵ.5-6:3)『奇跡講座』「中央アート出版社」より


素晴らしいですね。

どんな種類であれどんな形態であれすべての病気は、赦そうとしない思いの表れを指し示しています。

だから、わたしたちが、どんなに肉体や精神的病いを癒そうとしても、どんなに世界を救おうとしたり人々を助けようとしても、癒しは決して起こらないというわけです。

なぜならそれは、赦そうとしない心を指しているからです。

ここにこそ、わたしたちがすることがあります。

それは、人々に教えることではありません。

わたしたちの前に現れる人々は、神によって送られてきた人々です。

そして、彼らが送られてきた理由は、

「あなたの心の中にまだ赦そうとしない思いがあることが見えますか?」

「あなたはまだ何かが間違っていると知覚していますか?」

「あなたはまだ何か問題があると知覚していますか?」

「あなたはまだ病気を知覚していますか?」

と、あなた自身の心にある赦そうとしない思いを示すためです。

すべての出会いはそのためにあります。

どのような形態にしろ、ただそのためだけに、人々はわたしたちの前に送られてくるのです。

仕事場や家族、すれ違う人々、患者やセラピストなど、どんな人間関係でもそうです。

だからこそ、コースの道は、人間関係の道だと言われているのです。


これはとても広範です。

わたしたちの古い考えによって定義された人間関係だけにとどまりません。

一つ一つすべての出会いについて言っています。

身体的に誰かと共に居ることだけではありません。

誰かが心の中に出てきたり、頭によぎっただけでも、もしあなたがゴールを思い出すならば、その誰かは、あなた自身の赦そうとしない思いを見せることを目的としてあらわれているのです。


この世界のものはすべて、「復讐の一形態である」(W-pⅠ.22)と、イエスは言っています。

ここでわたしたちが話している病気というのは、肉体の病のことだけでなく、戦争、苦痛、屠畜・屠殺など、世界を救いたい、動物を救いたい、人々を救いたい、自分自身を救いたい、この肉体を救いたいと言っているものすべてについてです。

そのすべては、自分自身の赦そうとしない思いを指し示しているという、とてもシンプルなものです。

そして、赦すために聖霊の助けを求めなければなりません。

自分でどうにかしようとする代わりに、助けを求めなければなりません。

この世界のことは自分にはわかっている、自分のことは自分がわかっている、どうしたらいいかも自分にはわかっている、これでは、何も為されることはありません。

古い枠組みは打ち砕かれなければなりません。

小さな自己は打ち砕かれなければなりません。

そして、聖霊にわたしたちのところへ来てもらうのです。


次回に続く


ーYouTube「Let go and forgive」より抜粋翻訳ー


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2017/09/15

Let go and forgive 3/6

フランシスさんのトーク「Let go and forgive(解放とゆるし)」の翻訳のパート3です。


パート1:Let go and forgive 1/6

パート2:Let go and forgive 2/6


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あなたがわたしたちのコミュニティーに訪ねて来たら、わたしたちがお互いに形而上学についての話をしていないことに気づくでしょう。

だれかが「私は感情が強烈に浮上してきています」と言っても、だれも「心の中で起きているだけよ」とは言いません。

わたしたちがそのように言わないのは、実際に心の中で起きているだけとはまだ経験されていないし、心は「心の中だけで起きているのだったら私は受け入れよう」と言って(その浮上してきているものを)抑圧しようとするからです。

ときどき人々が「私は受け入れます。私がするべきことはすべてを受け入れること。」と言うのを聞きます。

しかし、その中には、「本当は嫌だけど、私がすべきことは受け入れることなのだから受け入れよう。」という否定的な感覚があります。

実際のところ、それがある種巧妙な抑圧になります。

わたしたちがここですることは、「心の中で形作られているものを表面化しよう、どのように形作られているかを見よう、何が起きているかを正確に見よう」ということであり、それによって一つのパターンを発見することになります。


今日、わたしは、ある男性のフェイスブックの投稿記事を見ました。

「もしみんなが自我の暗い想いをシェアしはじめたら、それはうんざりすると思う。だって、みんな同じ想いを抱えているから。」と彼は言うのです。

しかし、わたしたちにとってはこういうことなのです。

「さぁ、隠し事なく透明で無防備であるようワークをしましょう」ということです。

わたしたちは、本来の無防備な状態に達して、すべてのものを明るみに出したいのです。


ある人がコミュニティーに来たのを思い出しました。

彼の滞在はほんの短い間でしたが、最初に到着した時とても居心地が悪かったそうです。

彼は、「信じられないほど普通過ぎる。あなたたちは形而上学的な話もしないし、(ノンデュアリティの教えでは「何も起きていない」というのが真理なのに)まるで本当に何か起きているように話しているし、料理したり、部屋を掃除したり、二元性だし、、、なんでそういった会話なの?普通過ぎて、ここに来る前に自分が考えていたのとは大違いだ。」と言いました。

これは癒しがどのように見えるかをよく表しています。

自分がまだ癒されていないのに、癒されているようなフリをすることではありません。

とくにスピリチュアルな様式、スピリチュアルな理解、スピリチュアルな概念のような特定のかたちを装って、スピリチュアルなフリをすることでもありません。

もしわたしたちが正直でいるなら、すばらしい話(真理についての話)をすることもできますが、それでもそこに動揺や不平不満や罪悪感があるならば、それは全く役に立ちません。


これはわたしからの招待ですが、オンラインを通してや、こちら(コミュニティー)に訪ねて来ていただいたり、もしくは、あなたが自分で学びを進めていくことを通して一緒になりましょう。

あなたがどこにいても、隠し事なく透明で無防備で「在る」ことを止められるものは何もありません。

自我にとっては、無防備であることはとても怖ろしいことです。

なぜなら、そこには防護があるからです。

自己概念でない限り、古い枠組みや古いシステムでない限り、自我が防護しているものはいったい何なのでしょうか?


次回へ続く


ーYouTube「Let go and forgive」より抜粋翻訳ー


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2017/09/14

Let go and forgive 2/6

フランシスさんのトーク「Let go and forgive(解放とゆるし)」の翻訳のパート2です。


パート1:Let go and forgive 1/6


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コースでは、「取り消し」することが強調されています。

なぜなら、わたしたちは何も付け加える必要がないからです。

古いやり方で学ぶならば、知的に把握しようとする方法を取ることは避けられません。

古い見方でこの世界を眺めるならば、それは堅固であり、「これは何々であるとか、これがどういうものかわたしは確実に知っている」という具合に、確固たるものとして物事を見ています。

新しいスピリチュアルな本や新しいスピリチュアルな道を手に入れ、それらは新しい概念を教えます。

「わたしは神聖なる神の子です」と。

わたしは神など見たこともないけど、わたしは神聖な神の子なんだ、と頭だけでその概念を付け加えようとします。

そして、アファメーションを通して何かがもたらされるだろうと期待する、ということが起きます。

しかし、それが何かをもたらすことはありません。


この道は、「取り消し」すなわち、解放の道なのです。

多くの人はこの話を知っているかもしれませんが、2012年にリトリート開催のため中国へ行ったときのことを思い出しました。

一人の男性がデイヴィッド(ホフマイスター)のところへ行き、こう言いました。

「わたしはあなたの上海でのリトリートに参加して、今またこの都市でのリトリートに参加しようとしています。でもわたしは、前回のリトリートで何も得るものがありませんでした。何でわたしが今ここにいるかもわかりません。今回わたしは何を得ることができるのでしょうか?」

するとデイヴィッドは、「もしあなたがわたしと十分に共に過ごすならば、あなたはすべてを失うように思えるでしょう」と返事をしました。

わたしはこの返答が気に入っています。

これは確実に起こり得ることでしょうし、感情を害させることもなく、形而上学的に正すわけでもなく、どこにも行きつくことのないことを理解しようともしない、そんな返答だったからです。


何かを失っていくように感じることが実際に起きていきます。

これは避けられません。

みんなが通る道ですし、ここにいるわたしたちみんなも通ってきた道であり、今もなお通っている道でもあります。

あなたが失っているように思えるものはすべて外側のものであって、実際には、心の中で解放が起きているのです。

損失を感じているように体験していますが、それは、解放のプロセスを心が調整しているということです。

たくさんの損失を体験しているように思えることは避けられませんが、その経験の中で、次第に知っていくこと、心が広がっていくことや拡張していくことを認識するようになるでしょう。

それは、その経験を通してでしか起こり得ません。

ただ話す、理解しようとする、常に本から引用する、形而上学から答えを得るなどの中では、それは起こり得ません。

現実的なプロセスの中でしか起こり得ません。

なので、そのプロセスはある種強烈ですし、心の闇を通り抜けなければいけない、とわたしたちは言うのです。

自我にとっては損失としか思えないという心の闇を、です。


次回に続く


ーYouTube「Let go and forgive」より抜粋翻訳ー


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