2017/11/10

幸せを選択する 3/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でフランシスさんがトークしたときのYouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness - Frances Xu ACIM 』の翻訳です。今日は、そのパート3(最終回)です。


パート1:幸せを選択する 1/3

パート2:幸せを選択する 2/3




今回は、『奇跡講座』テキスト第二十章「聖性の心眼」のセクションⅦ「手段と目的の一貫性」と関連しているところもありますので、ぜひそちらも読まれることをお薦めします。


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<幸せを選択する 3/3>


フランシス:

わたしが「放棄する」と言うとき、何を放棄するかというと、「決断のプロセスを放棄する」ということです。

自我の自己概念を基準に決断することを止めるのです。

あなたがあなた自身にとって最適だと思うことを基準に決断することを止めるのです。

自分が誰であるかを知ることなしに、わたしたちは自分自身にとって最適なものが何なのか知り得ません。

これは非常に単純で、非常に実践的です。

実際に実践する必要があり、すべてに応用する必要があります。

わたしは、聖霊が何を望んでいるか?についてたくさんの祈りの機会を与えられたことを喜ばしく思っています。

なぜなら、この身体、この口、この目、このヴィジョン(心眼)はすべて、聖霊のメッセージを拡張するために、聖霊によって使われるものだからです。

聖霊のプランに仕えるとき、そのような考え方を止めるような他の考えはありません。

考え方が一致しているとき、心は幸せです。

そこにはもう矛盾がないからです。

矛盾とは、欲求の中に存在します。

「自我の欲求」と「聖霊の欲求」が(心の中に)あるとき、わたしたちの本性ゆえ、100%自我でいることはできません。

「神の一部である」ということが、わたしたちに本来備わっているアイデンティティです。

それが、わたしたちが100%完全に自我でいることができない理由です。


わたしたちが自我にしがみついている間は、(「自我の欲求」と「聖霊の欲求」に)欲求を分裂させます。

そして、わたしたちは外側にその分裂と矛盾を知覚します。

わたしたちが心の中に矛盾を見ることができないので、外側に(投影して)知覚することになります。

そこに答えがあります。

そして答えはとてもシンプルです。

すべての決断に戻ってください。

考え方に戻ってください。

そして、考え方を聖霊が欲するものと一致させてください。

聖霊が欲するものは、あなたが欲するものです。

聖霊が欲するものは、あなたの幸せです。

聖霊が欲するものは、全体が幸せであることです。

あなたは、実際に誰かを放棄することなどできません。

なぜなら、その誰かはあなたの心の中にいるからです。

どうやって放棄できましょうか?

不可能です。

「それは不可能である」ということは、究極的に良い知らせです。

なぜなら、「誰かを放棄することは不可能である」ということが根本原理だからです。


わたしは、非常に実践的だと言いました。

すべてを理解することが最終的な目的ではありません。

何年も前に、ヨーロッパでのカンファレンスでデイヴィッドが言っていました。

「コースは、あなたが彼岸(向こう側)に達するまでは理解できませんよ」と。

わたしは、(そのことばを聞いて)ホッとしました。

形而上学を頑張って努力して理解しようとする必要がなくなったからです。

その後、わたしが気づいたのは、彼岸は未来の遠い先にあるわけではないということです。

彼岸は、実際には”いま”です。

あなたが聖霊から与えられた一歩を踏み出したとたん、そこは彼岸なのです。

なぜなら、手段と目的は同一だからです。

しかし、自我の心はそのようには考えません。

わたしたちは時間軸の中で考えています。

聖霊はわたしたちに、従うきっかけを与えます。

わたしたちが聖霊に与えられたそのきっかけに従うと目的地に着きます。

目的地に到着するのは、わたしたちが聖霊の導きに従った後のことです。

そこには、時間の要素が含まれています。


実際の経験で言うと、そうではありません。

(時間の要素はまったくないということです。一瞬のことです。)

手段は目的なのです。

あなたが手段に心を開いたとたんに、あなたは目的地にいます。

幸せは、まさに即時的なものです。

もし手段が与えられるなら、被害者の状態でいる場所などどこにもありません。

手段は自分で考え出すものではなく、毎瞬与えられているのです。

ときに、人々は、わたしにこう言います。

「私は幸せだけを望んでいます。私は神の平安を求めています。私はこれを求め、あれを求めています。でも、私は(聖霊が)私に与えられたことをしたくはありません。」(笑)

これを最適な方法で言い換えるならば、「私は神の平安を求めていません」となります。

実際に、こちらのほうが、より良い言い方です。

なぜなら、そのほうが正直だからです。

内容が何であるかは問題ではなく、自分自身に対して正直であることのほうが良いのです。

あなたは心を統合させるよう訓練しはじめる必要があります。

一番重要なのは、「自分は知らない」ということではなく、わたしたちは自分自身に嘘をつき自分自身を騙しているというところです。

心を完全に統合させて、「私は手段を求めていません。私は目的に到達したくありません。」と言って訓練を始めたほうがより良いです。

そうすれば、心の中で、目的地に着きたいのになぜそれが与えられないのか?と葛藤する必要がなくなります。

わたしは、あらゆるものの被害者ではない状態を好んでいます。

イエスは、すべての人は呼びかけられている、と言います。

その意味は、すべての人は幸せになるための手段をすでに受け取っているということです。

そして、わたしたちはその手段を受け入れることによって、幸せになることを選択できる、ということです。


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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2017/11/09

幸せを選択する 2/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でフランシスさんがトークしたときのYouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness - Frances Xu ACIM 』の翻訳です。今日は、そのパート2です。


パート1:幸せを選択する 1/3



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<幸せを選択する 2/3>


参加者:(内容は短くまとめています)

コメントさせてください。わたしは、執着や失うことへの恐れや罪悪感などを放棄する必要がありました。しかし、人々にとって重要なことは、放棄するということを(形態のレベルで)文字通り受け取る必要はないし、また、幸せや安心を与えてくれる人を放棄しないといけないと思う必要もないと私は思います。

そうではなく、(心のレベルで)執着や恐れや罪悪感を放棄するのであって、大切な人と一緒にいるのかそうでないのかは聖霊に任せるしかないし、それは自分でコントロールできるものではないと理解することだと思います。


フランシス:

それはいいポイントですね。

それについて話したいと思っていました。

この(スピリチュアルな)旅は、けっして犠牲の旅ではありません。

人々はわたしにこうたずねました。

「あなたはいろんなものを放棄してきたようですが、その後困難なことはありませんでしたか?

後悔はありませんでしたか?」と。

その時、わたしはそのことについて考えました。

わたしの人生は、完全に後悔の連続となって後ろを振り向くようになるか、もしくは、この人生はイエスの証としてとても奇跡的なものになるか、わたしは自分自身で見つけ出さなければならないと思いました。

形態の中でこれがこうなるか?ああなるか?という質問への本当の答えはありませんし、はっきりとした言葉でのメッセージもありません。

答えは、経験の中にしかありません。


実際に、コースの中でこのように云っています。

これは先ほどの参加者のコメントに対する答えでもあります。

「眠りは退避することであり、目覚めはつながることである」(T-8.Ⅸ.3.6)

(テキストでは、この文章の後にこう続きます。「夢とは、つながり合うという幻想である。なぜなら、夢は、つながるとはどういうことかについての自我の歪んだ考え方を反映しているからである。」)

わたしたちが放棄することについて話す時、自我の解釈では、放棄することは、「避ける」とか「つながりをブロックする」というふうになります。

それは、放棄することについての聖霊の解釈ではありません。

なぜなら、聖霊は常に手を差し伸べ、繋がり合い、関係性を持ち、心を開くことを目的としているからです。

聖霊の解釈を受け入れると、聖霊のガイダンスがやって来ます。

わたしたちが聖霊のガイダンスに従い、そして聖霊のガイダンスに従うことによって決断をするならば、何かに背を向ける選択をしなければならないことがあります。

あなたが何に背を向けなければならないかというと、それは、「自我のやり方で人と関わる」、「過去との関連を基盤に決断を下す」、「妥協を基盤に決断を下す」、「自己概念を維持することを基盤に決断を下す」というものです。


コースの形而上学は、ものすごく深く深遠なものだということを言っておきます。

心の働きやその複雑さを説明するためにたくさんの言葉が使われています。

しかし、解決や実用性においては、非常にシンプルです。

多くの人々は、彼らの心の中で非常に複雑にしてしまっています。

わたしたちが答えが分からないのは、それが理由です。

非常にシンプルです。

シンプルな答えは、聖霊のガイダンスに従って決断するということです。

そして、わたしは自分の経験からここにさらにもう一つの答えを加えたいと思います。

それは、あなたの心が「自分に役立つものは何ですか?」というこれまでの考えからより上へと飛び越えて、「What serves the whole?(全体に役立つことは何か?)」という考え方ができる段階へと心を開いていくということです。

すると、あなたは聖霊のガイダンスを受け取るために心を開くようになります。


これは、正しい答えをみつけることが目的ではありません。

わたしたちが(全体に役立つことは?という)質問することを試みましょうというくだりに沿った考えについて話すたびに、あなたは正しい答えをみつけようとしますが、それは重要ではありません。

正しい答えをみつけなければ罰せられるということでは決してありません。

これは、考え方についてのことです。

これは、意志についてのことです。

「このライン上に沿った考えを始める」という意志です。

わたしたちが育ってきた中で誰も、何が全体に役立つか?を考えることについて訓練された人はいません。

わたしたちは、自分に何が役立つか?自分の直近の家族に何が役立つか?自分の身体に何が役立つか?自分の金銭事情に何が役立つか?自分の安全に何が役立つか?何が自分を気分良くさせるか?だけについて考えます。

そしてそれが決断の基準となっています。

そしてそれがすべての苦しみの基(もと)です。


わたしは、このスピリチュアルな旅はとても素晴らしいと思っています。

わたしは、この人生で一度も幸せではなかったことを自覚し、自分自身に認めたとき、それはとても憂鬱な瞬間でしたが、そのときを境にすべてが反転しはじめました。

今わたしは、正直に「すべては奇跡である」と言えます。

それは何かが開いたからです。

それはヴィジョン(心眼)です。

すべてを奇跡として見ることに開かれました。

ヴィジョンはわたしにたくさんの歓びと幸せをもたらします。

ヴィジョンがそこにある理由は、考え方が変化しはじめたからです。

何をして、何を言って、どのように決断するか?についての日々の考え方が変化しはじめたからです。


次回につづく


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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2017/11/08

幸せを選択する 1/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でのフランシスさんのトークをシェアしたいと思います。




3回に分けてご紹介しますが、後半部分は特に、『テキストの第二十章「聖性の心眼」Ⅶ:手段と目的の一貫性』と通底していて、とても興味深い内容です。

どうぞお楽しみください。


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<幸せを選択する 1/3>


フランシス:

以前、デイヴィッドがコースの教師、タラ・シンについての話をしていたことを覚えています。

タラ・シンは、クリシュナムルティの大ファンでした。

彼は、クリシュナムルティと話す機会を得るために世界中を旅していました。

その当時、クリシュナムルティは、世界中で真理を解いていたからです。

そしてある時、彼はクリシュナムルティと話す機会を得ました。

タラ・シンが、「5分間いただけますか?」と言うと、クリシュナムルティは、「はい、いいですよ」と言いました。

タラ・シンは、「私の人生にいろいろな問題があります。しかし、私は神を求めています。私は本当に神を求めています。私は神を経験したいのです。」と言いました。

クリシュナムルティは、たったの3語で答えました。

「What's stopping you?(何があなたを阻んでいるのですか)」

タラ・シンは、「自分はインドから来ていて大家族があり、その責任や義務や金銭的なことなど様々な問題がある」ということについて話しました。

すると、クリシュナムルティは、2語だけ言ってそのミーティングを終えました。

彼は言いました。

「Drop them.(それらを放棄しなさい)」


わたしは旅をしながらこのようなことについて人々に話すことがありますが、何かを放棄することに関する話になると、人々の心には恐れが生じるようにみえます。

恐れが生じるその理由は、それらのものがわたしたちにとって大いに価値がある(と思っている)からです。

わたしたちが確立しているそれらのものは人生と呼んでいて、自分自身として定義しているものであり、それらが幸せを生じさせてくれるものである、と思っています。

「それらを放棄しなさい」という意味は、自我にとっては「幸せと愛を放棄する」ということになります。

そしてそれは恐れを生じさせます。

しかし、そこには矛盾があります。


というのも、幸せとは何でしょうか?ここで幸せについてみていきましょう。

幸せは、たくさんの同義語があります。

幸せは、歓び、軽い心、平安、愛、と同義語といえます。

ふつうは幸せと結びつけないかもしれませんが、健康や人とのつながりも同義語かもしれません。

幸せは、夢を見ていることへの自覚やキリストとの同一化とも同義語です。

もし、わたしがキリストと自我の両方と同一化しているなら、わたしは幸せではありません。

幸せは、「わたしは分離した(個人的な)自分である」という信念の領域には存在しません。

わたしの仕事の中に幸せはあるでしょうか?

わたしの家族の中に、わたしの身体の健康の中に、幸せはあるでしょうか?

いいえ、そこにはありません。

わたしには仕事がある、家族がいる、身体がある、という思い込みの中には幸せはありません。


わたしは、自分がこれまで一度も幸せではなかった、ということを認めたときのことを覚えています。

その自分を認めることは、わたしにとってとてもつらいものでした。

ときどき、わたしはこのことを人に話しますが、そうすると人はわたしにこうたずねます。

「あなたは子供の頃のトラウマ(心の傷)があるのですか?あなたは愛をもらわなかったのですか?あなたの両親はあなたを愛してくれなかったのですか?なぜ一度も幸せではなかったのですか?」と。

わたしは子供の頃のトラウマはありません。

わたしは一般的な子供時代を過ごしました。

しかし、わたしは、死の可能性があるということに苦しみました。

いつかは愛する人が死んでいく、いつかは愛する人が病気になる、いつかは見捨てられる、排除される、という様々な可能性があるということに苦しみました。

他の人が苦しむのを見ることになるかもしれないし、欠乏や制限を経験することになるかもしれないということにも苦しみました。

そもそもこんな中にいて幸せになれることなどあるでしょうか?

もし幸せになれないと思うなら、それらを放棄することの何がそんなにつらく困難なのでしょうか?


パート2につづく


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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2017/10/27

投影と赦し 3/3

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


<投影と赦し 2/3>のつづきです。


赦しのプロセスにおいて、わたしたちは最終的にどうなっていくのか?について、

フランシスさんが後半部分で述べられているところは、かなり興味深いです。


赦しが進んでいくとジャッジ(判断)も恐れも無くなっていくと言います。

そのときのわたしたちの感覚とはどんなふうになっていくのか?

興味のある方は、どうぞご覧ください。


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「赦しにおいてすべきことは何ですか?」という質問に対してのフランシスさんの話しです。


パート2のつづき

最終的に、自分自身について赦すというところへと導かれます。
あなたはこの道において、内側を深く探る許可を自分に与えれば与えるほど、赦しという目標とともに生じてくるものを見つめる許可を与えることになる、ということに気づいていきます。
そして、攻撃をしたくなったり投影をしたくなる状況をしっかり捕らえていくと、最後には、何か他のものを赦しているのではなく、自分自身を赦していることに気づくようになります。
そして、あなたは、自分が様々な状況において自動的に赦していたり、意図されることなくたくさんのことを赦していることに気づいていきます。
これは、形態のレベルで見るならば、次の段階と言えます。
その形態のレベルでは、心静かに、意図することなく会話はなされるままに、言葉は出てくるままに、身体は何をするにせよ動かされるままになります。
心はもはや何をするにしてももうコントロールすることを望まない状態です。
それは十分な信頼がある状態なので、「何をしたらいいか?」という質問は消えゆきます。
恐れもなくなります。
心が目覚めて、癒されていくのに、「何をするか?」は重要ではありませんし、身体がそれらをもたらすことはありません。

様々な状況においてあなたは、流れのままに行動するように、身体に許可を与えなければならないことがわかるようになります。そして、裁かないでいることもわかるようになります。
ひとたび、その許可が一つの(自分の)身体に与えられたなら、それはすべての(他者の)身体に与えられます。
あなたは実際に、この世界のすべて、起きていることのすべて、この地を歩いているすべての身体は、まるでプログラムされているかのようにただ特定のことを行っているだけだ、というふうに見るようになります。
そこには、何が良くて何が悪いとか、何が正しくて何が間違っているかというような判断をする術もありません。
心はただ平安にとどまり、すべてのシナリオをもっと大きな視点から眺めることになります。
自分にとってその状況が得なのか、人々は自分のことを敬っているのか、人々は自分に愛を表しているのか、自分の欠乏を満たしてくれる何かを与えてくれるのか、などという個人的な狭い視点から眺めることはなくなります。
この狭い視点から解釈することはなくなり、すべてを全体としてみるようになります。
このようにして、心は平安にとどまることができますし、これが赦しのプロセスです。
あなたの自覚の中で起きているすべてのことは、このゴールに達するためであり、このゴールに達するためにあなたにとってこの瞬間一番役立つことなのです。

ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


2017/10/26

投影と赦し 2/3

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


<投影と赦し 1/3>の記事のつづきです。


コースの学びを実践していく上で、赦しはどのようにやればいいのか?

ということが、コース学習者のもっとも知りたいところではないかと思います。


そのことについて、フランシスは、

「赦しのプロセスは、(自分の)内側を掘り下げて見ることが鍵」だと言います。

しかも、何であっても起こることに許可を与えること、生じてくるものを恐れずに見つめること、つまり、ジャッジすることなく(内側を)見ていくことだというふうに言っています。

しかも、それは、投影することに魅力を感じていることを自覚した上で、と述べています。

それはそれで構わないのだと。

だからこそ、わたしたちはこの道を歩んでいるのです、と。


興味のある方は、どうぞご覧ください。


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<投影と赦し 2/3>


「赦しにおいてすべきことは何ですか?」という質問に対してのフランシスさんの話です。


パート1のつづき


赦しのプロセスは、自分自身に対して感じている欠乏感はいったい何なのかを正直に掘り下げて見ることができるように、もとに戻って(引き返して)いくことです。

これが最終的には投影を止めることのできる唯一の方法であり、どんなことが起こっても恐れずに見つめることです。

わたしたちがある程度の期間赦しのプロセスを行っていった後には、正直で欲求も純粋なものとなり、何が起きても直視することを心が恐れることなく、他の人々に何かを押しつけたりすることなく、心に動揺や思考が湧き上がってもすぐにもとに戻ることができるようになるでしょう。

おそらく、すぐに自分自身を取り戻し、わたしは被害者であるということを信じても、それは自分をどこへも導かないということ、そして、外側にあると信じているあらゆる欠乏は実際に本当ではないし、それも自分をどこへも導かないということを理解できるでしょう。

理解することによって、それらは信じられることがなくなり、信じられていなければ、赦すことすら必要なくなります。

そもそも罪はなかった、ということです。

これは間違いなくいつか起きますし、必ずいつかはそのようになります。


しかしもしこの今、体験的にそうではなく、動揺が繰り返し起き続けているならば、この瞬間に赦しの必要があるということです。

それでも動揺が起き続けるならば、それは、心はまだ攻撃の思いや投影することに魅力を感じているということです。

心はまだ、湧き上がってくるものを見つめることを恐れているのであり、投影を必要としているということです。

そして、それはそれで構いません。

何かに失敗していると捉えることはないし、まさにだからこそ、わたしたちはこの道を歩んでいるということです。

このことを自覚したならば、わたしたちの心はまだそこまで達していないことを知った上で、口先だけで賛同したりアファメーションをしたりする必要はありません。

なぜなら、まだとてつもなく大きな恐れがあるからです。


わたしたちがしなければならないことは、まず、わたしたち自身へ、何であっても起こることに許可を与えることです。

わたしたちの心は、生じてくるものを恐れずに見つめることを始めなければなりません。

見つめれば見つめるほど、恐れを感じることはなくなります。

見つめなければ見つめないほど、恐れは増します。

隠せば隠すほど、恐れが増し、より投影するようになります。

一度、しっかりと見つめるという方向に進むようになると、見つめることにもっともっと心地良さを感じるようになります。

そして、根底にある本当に真実であり本当に素晴らしいものを見つけ出すことになるでしょう。

根底にあるものは、実に嫌なひどいものではありません。


許可することが鍵です。
内側を見ることが鍵です。
それらを促すものが何であっても、それは非常に役に立ちます。
もし、あなたの夫や他の誰かが自分の助けとなり、勇気や安全を与えてくれる助けとなって、内側を見つめることができると感じるならば、それがあなたがするべきことです。
もし、励まされていると感じれず、恐れを伴うようであれば、あなたがサポートを感じることのできる他の誰かを見つけることです。
それ(内側を見ようとすること)が本当の目指すところです。
目指すところは、人々にあなたがどう感じるかを伝えることではありません。
目指すところは決して、人々にあなたの感情を理解させることではないし、状況に対し罪悪感を感じさせることでもないし、あなたと同じ考えを持たせることでもありません。
目的は、起きていることを勇気を持って見つめることができ、そして、起きていることを深く見ることができるようになることです。
多くの場合それは、話すことや露わにすることを必要とします。
ジャーナリング(心に浮かんだことを書いていくこと)だったり、本当に信頼する友人だったり、透明性や正直さに価値を置き、自我を探索することに価値を置いている同じ道を歩む友人を必要とすることもあります。
わたしはこれが助けになることを望みます。
なぜなら、何をするか?というシナリオは常に変化するからです。
しかしもしあなたが、これは何のためなのか?ということについて明瞭な心であるならば、それはあなた自身を支えてくれるでしょう。
そして、起きていることは、内側のものが外側へ現れているだけだとわかるまで、心を開いてもっともっと進んでいったならば、もうそこには恐れはありません。
それが目指すところであるということを知って、聖霊や祈りによってあなたに助けがもたらされることを許すのです。
それが最善の対処であると言えます。


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー

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