2019/02/13

久しぶりにデイヴィッドの動画を観て

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先日、本当に久しぶりになのですが、気まぐれな気持ちで、
なに気なくデイビッドのYouTube動画(日本語字幕付き)を観たのでした。

それを観ながら、自分でもびっくりしました。

デイヴィッドが何を云っているのか???、、、云ってることが、わからないのです。

というよりも、
自分が実践しているコース(ACIM/奇跡講座)とはあまりにも違うので、
思わず???となってしまって一瞬理解できなかったのでした。

その考え方(形而上学)がまったくトンチンカンなので、ビックリしました。

むしろ、ショックでした。

この自分は、コースと称して、かつて、こんな人からこんなことを学んでいたのか!?と。

それは、かつての自分はわかってなかったんだ、と気づいた瞬間でもありました。

わかってなかったからこそ、当時は、彼のことばをコースの教えだと信じてたということです。

その違いは、この今だからこそはっきりと明確にわかります。

コースじゃないじゃん、、、
それは、コース(ACIM)と言いながらも、まったく別のコースのように聞こえるのでした。

それは、デイヴィッドに対してだけではありません。
カースティンやフランシス、そして彼らのコミュニティに属している人たちで
教師みたいなことをしている人たちへの想いも同じです。

今となっては、彼らを咎める気持ちさえ出てきます。

それでも、その咎める想いこそ、自我のトリックなのだ、と気づきます。

ずっと昔からこの自分は同じところでこの自我のトリックに引っ掛かっては、
咎めることを繰り返してきたと気づきます。

ときに、それがスピリチュアル・ティーチャーであったり、
ときに、それがノンデュアリティ・ティーチャーであったり、
そして、今は、その投影の対象が彼らにすり替わっただけのことだと。

彼らを咎めたくなる想いとは、まさに、神を咎める想いであるということです。

これこそ、私自身にとって、赦しのテーマだと自覚するのでした。

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2018/10/16

外側に教師を必要としなくなった今

一年前の自分と言えば、
デイビッド・ホフマイスターやカースティンそしてフランシスといった彼らのサイトや動画で、
コース(ACIM/奇跡講座)を学んでいました。

やっぱりその当時の自分にとってはそのような教師が必要だったのだといえます。

今、あらためて想うのは、
彼らを教師として特別な存在として見ていたなぁってことに気づかされます。

というのも、最近、彼らの動画を見ていて気づいたのが、
もう彼らをそのようには(教師としては)見ていないし、
それは勘違いだったと気づくからです。

今となっては、教師というよりも同じ道を歩む近しい仲間に思えてきます。

彼らは、自分と何ら変わらないコース実践者です。

以前は、彼らのことを自分よりもずっと前を歩いている教師だと思っていたわけですが、
そんなことはないと今でははっきりわかります。

(むしろ、彼らの教えているコースは、ホントにコース(ACIM)なのだろうか?
とさえ思うこともあるのですが、、、そういうことはさておいて、)
コース学習者としてはなんら自分と変わらないのだということです。

そのまた逆も言えまして、
コースを学びはじめたばかりで、自分よりも後から歩んでいると思える兄弟たちに対しても、
自分と同じなのだ、と見えてきているということです。
彼らもこの自分と同じであり、同一で、異ならないのだと気づくのです。

さらにもっと広げて言うと、
コース(ACIM/奇跡講座)を学んでいようがいまいが、
スピリチュアルであろうがなかろうが、どんな兄弟であろうが、
そういったことはホントは関係ないのだ、同じなのだ、と思います。

コースじゃなくても、兄弟みんな同じじゃん、って。笑

この自分は、コース学習者としてその実践をしていくだけなのだと気づきます。

コースって、不思議なものです。

コースを深く学べば学ぶほど、これまでのコースの理解が壊れていくような感じがします。笑

自分の外側に教師を必要としなくなった今、
それは、この自分の学びが進んている証拠だと捉えていいのだと思います。

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2018/09/04

デイヴィッドや彼らについて今想うこと

先日の「カースティンそしてデイヴィッドたちについて」という記事の中で、

興味がなくなった

という表現をしました。

それで、自分でもいったい何がどう変わったのだろう?という想いがあって、
そのことについて自分自身に正直になって自分の内側を覗いてみたので、
そこで気づいたことを書いてみたいと思います。

まず、興味がなくなった、という大きな理由としては、
デイヴィッドたちの教えるコース(ACIM)よりも、
ケネス・ワプニック博士の解説するコース(ACIM/奇跡講座)のほうが、
今の自分にはしっくり感じているということです。

むしろ、ケネス・ワプニック博士の解説するコースを理解していくにしたがって、
同じコースでありながらそのちがいがはっきりわかるようになったと言ったほうが正しいです。

ケネス・ワプニック博士の解説するコースを学べば学ぶほど、理解が深まれば深まるほど、
赦しの実践において日常の中でより適用(応用)していくようになったと実感しています。

そんな今だからこそ気づくのは、
デイヴィッドの教えるコースは、コース学習へのモチベーションを高めてくれるものとしては、
当時の私にとってはとても必要だったとはいえ、それまでのものだったと位置付けられます。

あくまでも、それは「私にとって」という言い方しかできませんが、
デイヴィッドから学び続けてもきっと今の実践レベルまでには至らなかったであろうと。

言い換えるなら、
デイヴィッドが教えるコースを学んでいた頃の自分は、
まだコースを実践していく準備段階にいたのだったと自覚するわけです。

つまり、今から想うなら、デイヴィッドは、私が本当のコース学習者になっていくために
その橋渡しのような役割を果たしてくれた人だったと受け止めているということです。

それは、デイヴィッドだけにかぎらず、
カースティンやフランシスについても同じ事が言えます。

この今となっては、
コースを学ぶためのモチベーションを高めてくれる彼らのような
存在(偶像)はもう必要はなくなったとはっきり言えます。

そういう意味で、
ようやくいま私はコース学習者としての段階(スタートライン)に立ったのだと、
そう気づくのです。

さらに気づいたことといえば、
デイヴィッドらの教えるコースに傾倒していた頃の自分は、
彼らからコースについて学ぶことで、
自分はコースを学んでいる、ひいては理解していると勘違いしていたと気づきます。

もちろん、彼らを通して学ぶことで、
コースの学びを相当進めてくれたことはたしかで、
彼らの存在はこれまでの私にとって重要な存在だったと言うことはできます。

でも、先ほども申しましたように、
ケネス・ワプニック博士の解説するコースの形而上学を理解していくにつれて、
同じ「コース(ACIM)」でありながらそのちがいが見えてきたということです。

正直なところを打ち明けますと、
そのちがいがみえてくることで、デイヴィッドやカースティン、フランシスをみて、
彼らの教えているものはコースではないようにさえみえてきます。
コースの真意からはズレているようにも思えます。

デイヴィッドたちに関して言うと、私は、卒業だなと感じています。

なにせ、興味がなくなった、というのは事実ですから仕方ありません。

テキスト、ワークブック、マニュアルに触れるなら、そこにはイエスのことばがあります。
すでにそれはここにあるのですから、その道はここに示されているのですから、
本当はコースを学ぼうとするならそれで十分なのだと気づきます。

いつか、この蒼い本を必要としなくなるそのときまで、
この蒼い本以外を偶像化することはもうないだろうなと強く想う今日この頃です。

以上、デイヴィッドらに対しての心境の変化を、
どうしても書きたい(正直に打ち明けたい)という想いから、
感じているままに書かせていただきました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

デイヴィッドに感謝を込めて。

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2018/08/30

デイヴィッドさん、カースティンさん、フランシスさん、彼らのコミュニティについて

デイヴィッド・ホフマイスターさん、カースティンさん、フランシスさんついて申しますと、

2017年の頃は、彼らの動画やサイトでコース(ACIM)を学んでおりまして、

それこそそのときはコースをわかった気になっておりましたが、

その当初とは私自身の感覚も変わりまして、

正直に申しまして、

現在は、私が実践するコース(ACIM/奇跡講座)とは違うなと感じております。


ただ、正しいとか間違っているというものではないこともわかっています。


その段階では、私にとっては彼らの教えるコース(ACIM)がしっくりきていたし、

そのときは彼らが必要だったのだということです。


彼らに対してその違和感を感じるようになったのは、

ケネス・ワプニック博士の教えるコースで学ぶようになってからですが、

むしろ、それまでは、ケネス・ワプニック博士の解説するコースを

私が避けていたのだと思います。


もっといえば、自我の抵抗によって、

なかなかワプニック博士の解説でコースを学ぶ気になれなかったと今では言えます。


当時は、デイヴィッドたちの教えるコースのほうが親しみやすかったし、

彼らの教えるコースを学んでいればそれで充分コースを理解できると思っていたのでした。


ワプニック博士の教えは、なんとなく堅苦しく難しそうなイメージさえありました。


ただ、ワプニック博士の解説でコースを学んでいくと、

コースというものがどういうものか明確になってきて、

それによって、デイヴィッドや彼らのコミュニティで言っているコースはなにか違うぞと

わかるようになったということです。


コースの実践においては、赦し、がとても大事なのだということは言うまでもありません。


でも、デイヴィッドたちのコミュニティで教えられているコースは、

私の知る限りではそういうものではありません。


彼らは、ACIMの教師とされていますが、私の中ではとんでもないという気持ちです。


彼らの教えているコースは、コースではないと言いたいところですが、

せめてワプニック博士の教えるコースとは、まったくちがうものであると断言できます。


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2018/08/29

カースティンそしてデイヴィッドたちについて

カースティンさんが10月に来日して、イベントが開催されるそうです。

とは言いましても、
一年前、いや半年前だったなら、私はぜひ会いたいと思ったはずですが、
今となっては興味がないといいますかそんな気にならない自分に気づきます。

以前はあんなにデイヴィッドやカースティンに傾倒してコースを学んでいたにも関わらず、
今やほとんど彼らに興味がなくなってしまったというのが正直なところです。

いや、むしろ、彼らの言っているコースは、ちょっとちがうなとすら感じています。

それは、けっしてデイヴィッドやカースティンを否定するものではなく、
ただたんに私の学びが変わったのだといえます。

コースの学びを進んでいく上において、「踏み台」みたいなものがあるように思います。

そう、わたしたちはそれぞれのプロセスをたどって、それぞれの踏み台をたどりながら、
最終的には内なる教師(聖霊)だけを自らの教師とするところへと向かっていくのでしょう。

これまで彼らには私自身のコースの学びをとても進めてくれたと感じています。
そのことは事実で、今もとても感謝しています。

ただもう今となっては彼らを必要としなくなったと感じているということです。

タイミングのいたずらと言ったらいいのでしょうか。
ご縁があるとかないとかでいうならば、ご縁がなかったということになります。
不思議なものです。

カースティンさんのこんどの来日についてそんなことを感じている今日この頃です。

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