2017/12/05

Form vs Content (形態 vs 内容)

今日は、デイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声『 Form versus Content: Desire Content beyond forms(形態 vs 内容) 』の翻訳です。


ここでいう「形態(form)」とは、表面的なレベルで知覚しているもの(かたち)とういうふうに理解していただけると分かりやすいかと思います。

それと対比して、「内容(content)」とは、形態の奥にある本質という理解でいいと思います。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んで実践しているわたしたちにとって、かなり参考になることも述べられていますので、どうぞご覧ください。


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<Form vs Content  (形態 vs 内容)>


今夜は「形態と内容」について話したいと思います。

なぜなら、真理を経験するために心を開きハートを開くことがシンプルであることを共有することや、真理を経験するためのはっきりとしたまっすぐで直接的な道を示すことは、とても役立つことだからです。

「形態と内容」についてまずはじめに、「形態とは、自我によってでっち上げられ、引き起こされ、捏造されたものである」と言っておきます。

すべての形態(form)、厳密に言えば複数形で表される形態(forms)は、間違いが投影されたものです。

深遠である真理の中で、愛は神聖なるものであり、抽象的なものであり、光です。

形態は、歪んだ知覚の一部であり、間違いの投影であり、真理から隠れるため、光から隠れるための企てです。

形態への執着は、形態への信念であり、形態を重んじているということです。

真理に形態はありません。

ワンネスに形態はありません。

抽象に形態はありません。

神を重んじ、愛を重んじることは、複数の形態は不可能であるということを理解することです。

形態は詳細を持ちますが、真理はひとつです。

聖霊やイエスは、(わたしたちが)愛の実在への気づきを阻むものを手放すために、自我が作り上げた具体的なものを使います。

言いかえると、形態は決して重要ではありません。

形態は、実例や指針として用いられます。

言葉は形態です。

そしてそれらの形態は、聖霊によって使われます。

神からの分離という信念を取り消すために使われます。

線形的な時間への信念や、具体的な形態への信念を取り消すために使われます。


内容(Content)は愛です。

形態を知覚することは、内容への気づきを曖昧にします。

コースの中でイエスはわたしたちにこう教えています。

「形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。」(T-22.Ⅲ.6:7-8)

形態についての討論、概念についての討論、信念についての討論が誤りであることを、あなたは理解できることでしょう。

分離の信念は、矛盾しています。

なぜなら自我は矛盾の源だからです。

そして、自我は、複数の信念を生み出します。

この世界の中では、人々が互いに矛盾しているように見えますが、実際には、心の中の自我の信念が互いに矛盾しているのです。

ただ一つの助けとなる信念は、赦しです。

赦しは、単純に、誤りを誤りとしてみます。

赦しは、具体的な信念が不可能であるとわかります。

そして、分離の信念から発生したすべての信念は誤りです。

この世界は、多様な世界であり、時間と空間と具体性の世界です。

そう、多様性の世界なのです。

なおさら、多様性は価値あるものとされています。

しかし、真理はひとつです。

そして、愛もひとつです。

多様性は自我の投影です。

自我のレンズを通してこの世界をながめるならば、たくさんの形態を知覚することになると言えます。

しかし、そこにはただ一つの訂正があります。

赦しによる訂正は、贖罪です。

それは、シンプルに、誤りを誤りとしてみます。

神はスピリットです。

スピリットが創造するのはスピリットです。

たくさんの形態は、実際にひとつであるもの、これまで常にひとつであったもの、そして永遠にひとつであるものを隠しているようにみえます。


知覚の世界は、マーヤ(幻)の世界です。

幻想の世界です。

歪曲された世界です。

実相の中には存在しない場です。

過去は、何度も何度も線形の世界の形態として、歴史や想像の未来として形作られ繰り返されています。

自我や恐れは実在しません。

肉体や世界や時間は、ただの一瞬も存在してはいません。

わたしたちが「内容(本質)」に目覚めることは、スピリットそして神聖なる愛に目覚めるということです。


コースの道は、非常に直接的な道です。

テキストを勉強し、ワークブックを実践し、教師のためのマニュアルの指示に従うという実践的な道です。

ワークブックの中にあるように、この道は、行きつ戻りつしながら言葉を超えたところへ行く道です。

真理は、言葉の中には見い出せません。

真理は、言葉で言い表したり説明できるものではなく、経験されるものです。

直接的な真理の体験への道を開けるために、言葉は捨て去られるところへ達します。


言葉は、神学理論にとってはとても重要です。

しかし、神学理論は、直接的な体験の中へ飛ぶ踏み板にすぎません。

平安について話し、形而上学について話し、平安という言葉について話すことは、指針の中で心が眠っているということです。

指針は核心ではありません。

象徴は核心ではありません。

言葉は象徴の象徴にすぎず、実相からは二重に隔てられています。

これらの言葉は、儀式化されるものではありませんし、現実の経験の代替となるものでもありません。

言葉に捕らわれるのは、この世の罠です。

そして、断片化した知覚に捕らわれることも同じです。

言葉や断片化した知覚に専念する心は、真理への恐れから生じます。

すべてが分離する必要はどこにもありません。

この世界の意見、この世界の個人性、この世界の自律性は、分離への欲求からきています。

しかし、もしあなたが、あなたの完全な欲求であるワンネス、一体化、愛、真理、繋がりにフォーカスするならば、それ以外のものはすべて自覚から突然消えてなくなるでしょう。

完全なる愛は、恐れを追放します。


ヴェーダンタ(インド哲学)におけるヴェーダ(究極の知識)は、「Not two(二つに非ず)」といえます。

とても深い最高の教え、最高の智慧は、ワンネスの実体験の中の教えです。

コースの先生や生徒が陥る主要な間違いは、幻想の中に真理を運ぼうとすることです。

愛やワンネスに対して封印を掲げることによって、その封印の背後で満足しようとしています。

分離した財団、分離した言葉、分離した本、分離したカンファレンス、違う版の『ア・コース・イン・ミラクルズ』、それらはすべて、誤りの投影であり、愛に対する防衛であり、ワンネスに対する防衛です。

真理はシンプルです。

「同一のものが異なっていることはあり得ず、ひとつであるものには分離した部分はあり得ない。」(T-25.Ⅰ.7:7)

これが真理です。


わたしからのアドバイスは、最大限にできる限り直接的にシンプルに、コースを読み実践することです。

まるで、聖霊があなたに直接語っているかのように、コースを読んでください。

できる限り明確に率直に直接的に、聖霊に応答し返答してください。

そして、ワークブックで指示されていたり出されているお題を実践するときは、献身そして専心と共に目覚めることを期待して実践してください。

コースをただの本のように扱わないでください。

ひどい嵐の海で上へ下へと人生が流されいてるようなとき、その嵐の海とは、訓練されていない心のことです。

大いに心の訓練を要しているということです。

フォーカスすることと注意を向けることをかなり必要としています。

コースが1日に1個以上のレッスンをしないように言うときは、その指示に従ってください。

そしてコースが、訓練を転移(応用)することや、1日を通してアイデアを応用すること、その日のレッスンに例外を作らないことを求めるならば、それを行ってください。

ただそれだけを行ってください。

とにかくシンプルなままに行ってください。

様々な意見に対して無関心さ(公平無私さ)を、分離した視点に対して無関心さを育てていってください。

なぜなら、欲求は、一体化した世界をみること、赦された世界をみること、そして幸せな夢を直に体験することだからです。

そして、幸せな夢の向こうへと運ばれていきましょう。

(ただ、)幸せな夢は、なお幻想であり、想像を伴ないます。

一元化していない知覚は真理ではありません。

しかし、幸せな夢は(真理への)入り口です。

赦しという心の訓練にフォーカスしてください。

時間や空間という考えによって遅らせないでください。


自分自身にとっての一つの責任は、贖罪を受け入れることです。

唯一の責任は、贖罪を受け入れることです。

それ以外には何もありません。

線形の時間の物事に注意を費やすことによって時間を無駄にしないでください。

というのも、時間は肉体や世界と同じくニュートラルだからです。

聖霊に明け渡してください。

それらは崩壊し消滅するでしょう。

形態に意味はありません。

これはワークブックの第1番目のレッスンによって強調されています。

「この部屋の中に見えているものには、何の意味もない。」(W-pⅠ.1)

代わりに、内容に開かれましょう。

内容の実例としては以下のとおりです。

私は神が創造したままの私である。」(W-pⅠ.94 , 110 , 162)

私は霊である。」(W-pⅠ.97)


アーメン


『Form versus Content: Desire Content beyond forms』より

https://www.spreaker.com/user/davidhoffmeister/form-versus-content-desire-content-beyon


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2017/11/28

人生と身体の目的とは?

今日は、デイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声の翻訳です。


デイヴィッドはこう言います。

「目覚め」というものからみるならば、人生がうまくいっているときわたしたちは後退していて、むしろ、人生が崩壊しかけて見えるときのほうが心が開いているのだと。

それは、この世の考え方とは、まるであべこべです。


わたしたちは、そういう道を歩んでいるのだと言えます。


『What is the purpose of life and the body?(人生と身体の目的とは?)』


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人生のすべての目的は、この夢の世界から目覚めることです。

自我はあなたをこの世界に確かに存在していると信じさせていますし、

あなたは人生の中で目標を定めてそこに到達すべきだと信じさせています。

すべての教育や学びは、「もっともっと学ぶ」ということがベースになっています。

この世界の中のすべては逆で、あべこべになっています。

この世界であなたが進歩していると思っているとき、あなたは後退しています。

あなたの人生が崩壊していると思うとき、あなたのハートは開いているということです。


実際は、いつもそこに奇跡があり、そこにはいつも祝福があります。

自我は、リニアな時間というものをでっち上げたのです。

しかし、神は永遠しか知りません。

過去、現在、未来、というそれらは(自我による)トリックの一部です。

自我は、あなたは過去に罪を犯した、と言います。

そして自我は、これ(罪)はとてもちっぽけなことだと言いますし、あなたはそれを見ることができずに見過ごします。

そして自我は、(過去をただ繰り返しているだけなのに)未来は過去とはちがったものになる、と言うのです。


「もし、あなたの人生を正しく生きなければ、未来世において地獄に生れ変わる」と教える宗教もあります。

なぜなら、自我は、恐れ、怖がっているままにしたいのです。

自我は、今この瞬間から気を逸らすことで、あなたが(この世界から)脱出することが実現しないようにしているのです。

あなたの心を偽のアイデンティティーにしておくための自我のトリックなのです。


自我がどのようにそうするのか?見てみましょう。

まず最初は、身体と同一であると識別します。

自我は、あなたにこう告げます。

「天国はどこか遠くにあり、あなたがこの身体をより良く使うならば、そこに行ける」と。

自我は身体と同一化して維持することがとても重要なことなのです。

身体は真実ではない、と問いかけたりはしません。

身体は夢の一部なのです。

あなたは心の力で夢を作り出したのです。

あなたはあなたの心の力を否定したくはないのです。


あなたは、聖霊が身体をちがった用途で使いたいのを知ることができません。

自我は、プライド、快楽、攻撃のために身体を使います。

聖霊のために身体はたった一つの目的を持っています。

それは、コミュニケーションツールとして、です。

なぜ、あなたはコミュニケーションツールが必要なのかというと、

それは、あなた自身で知覚を延長していくためです。

なぜなら、あなたは身体を遥か超えていくからです。

知覚は身体との関係の中でとても制限されていますが、それはもっと偉大なのです。

あなたが霊的な(啓示)体験をするとき、あなたがどれだけ偉大かということを悟るでしょう。



YouTube『What is the purpose of life and the body? David Hoffmeister ACIM 』より

https://www.youtube.com/watch?v=mliAWzmnLqc&feature=em-subs_digest


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2017/11/26

探究の終焉、はじまりへの回帰

スピリチュアルの探究の旅は、自我(エゴ)の欲求によってはじまります。


幸せになりたい、、、目覚めたい、、、悟りたい、、、、と。


でも、その探究の旅において学びが深まっていくにつれて、探究そのものが自我の欲求でしかないことがわかってきます。

なぜなら、すでにいまここにそうであることがわかってくるからです。


どこにも向かう必要がなかった。

どこにも行く必要がなかった。


自我の欲求がはじまった地点へと戻っていくこと。

そこは、探究が終わる地点であり、

そこは、学んできたもの、信じてきたものすべてが「無」になる場所。

そこが、わが家であり、

そこが、わたしたちが帰っていくところであるということです。



あなたがこれまで学んできたことや信じてきたこととはまるで相反するような経験をしているとしたなら、それはターニングポイント(転換期)にあるということです。

あなたがスピリチュアルな文章を読んだり、規則通りに祈ったり瞑想したりすることが重要であるわけではありません。

それはすべて、エゴがはじめることのできるところから解けるこの地点へとあなたを導く手段にしかすぎません。

デイヴィッド・ホフマイスターのことばよりー


Once you experience something that contradicts everything you have ever learned or believed in, that’s the turning point. It doesn’t matter if you read spiritual text, pray or meditate regularly, it’s all meant to lead you to this one point where the unwinding from the ego can begin.

- David Hoffmeister -


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2017/10/03

Be Transported 2/2

デイヴィッド・ホフマイスターさんのトーク音声『Be Transported』の翻訳の後半です。


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前回(前半)の続き


実践的にいきましょう。

もし問題が具体的でなければ、~問題は決して具体的なものではありませんが~、そうするとそれは、「すべてが何のためにあるのか?わたしはわかりません」という意味になります。

そして、「自分にとって何が得策なのか?わたしにはわかりません」という意味にもなります。

それでは、そこからどこへいきましょうか?

問題は具体的なものではない、というところから事実上、どこへ向かったらいいでしょうか?

答えは、非常にシンプルです。

それは、ガイダンスです。

ガイダンスを聞くことは、わたしたちに焦点を提示してくれます。

ガイダンスを聞くことは、わたしたちに選択肢を提示してくれます。

「問題は具体的なものではない」とただ聞いて、それでわかりかけたところで、もし問題は(知覚している世界の中の)具体的なものだと信じたくなる誘惑に陥りそうになったらどうするのでしょう。

ガイダンスを聞くということは、心の中で贖罪へ導かれ、それを超えた抽象的な神の実在へと、愛の中へ真理の中へと導かれることを意味しています。

ガイダンスを聞く、ということが答えです。

問題が具体的であるように思われたときでも、またある状況で何かが欠乏しているように知覚したときでもです。

あなたが与えそこなったものが、あなたが欠乏しているものというだけのことが、あなたには見えません。

あなたが、外界において欠乏しているものを知覚するとき、外界に具体的な問題を知覚するとき、ガイダンスが答えです。


助けを求めることを習慣にすることはとても良いことです。

一旦立ち止まり、耳を傾け、「今、なに?」「今、ここで、何が役立つ?」と尋ねることを習慣にすることも良いことです。

どんな具体的な問題にも関わらず、このことがいかに実践的であるかわかりますか。

これが答えです。求めて、聞いて、ガイダンスを受け取るのです。

これが、歪んだ知覚からの脱出方法です。


それでは、次はどうしたらよいでしょうか。

次に何をするかは明らかになります。

コンスタント(習慣的)にガイダンスを受け取ることを求め、耳を傾け、ガイダンスに従うことが、歪んだ知覚から自由になるのに絶対に必要不可欠なことです。

ガイダンスが答えです。

外観上の状況や困難だと知覚するどんなことでも、いつもガイダンスが答えです。

わたしたちが、献身的な人生とか聖霊や神に人生を捧げると言うとき、それは単純に、ガイダンスに従順であろうとする意欲がある、ということを意味します。

聞いて、耳を傾けて、与えられたガイダンスに従順に従うという意欲です。

これは絶対に必要不可欠です。これを避けて通ることはできません。


キリスト教の伝統においての「神に、清貧・貞潔・従順の三つの誓いを立てる」ということを思い出すかもしれません。

これは「従順」の要素です。

「清貧」については、「所有しない」と解釈することができます。

「貞潔」については、「清らかな思考」「清らかな心」と解釈することができます。

どのようにこの「所有しない」とか、素晴らしく「従順」であり、素晴らしく「純潔」であれるかというと、それは聖霊への従順さを通して、耳を傾けることによって、と言えます。

内なる声を聞くということは、すべての自己概念を解放することによって幻想を真理に運ぶという意味なのです。

すべての自己概念、自己として信じられているすべてのイメージ、同一化しているこの世界のいかなるイメージをも明け渡し、幻想を真理に運ぶことで、すべてが解消され消滅します。

これが、『ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡講座)』の要となる教えです。

今日わたしが話していることについて、もしあなたがついてこれていて、どこに向かっているかはっきりと理解できるならば、このままわたしが何を言っているか聞き、そこにとどまってください。

そして、この道をたどる意欲があるならば、あなたはコースを超え、スピリチュアルな旅を超え、すべての段階やステージを超えていくでしょう。

これは時間の問題ではありません。

その意欲はありますか?

どのくらい革命的な教えに従う準備ができていますか?

どのくらい深いレベルまで掘り下げる準備ができていますか?

すべてはこういうことです。


わたしが「所有しない」と言うとき、それは「所有しない心の状態」ということです。

それは、コントロールしない、ということを言っています。

コントロールしないことは可能なのです。

これは、聖霊を信頼することを通してのみ、その状態に近づくことができます。

完全なる聖霊への信頼、神への従属、耳を傾け従うことへ頼ることです。

ときに、わたしは「100%直感で在る」と言い表すこともあります。

「あなたの本性は源から離れていない」と気づくことです。

あなたは神の摂理の中に在る、ということです。

あなたが知覚しているものすべては、この目覚めにおいてあなたに必要なものであり、提供されており、与えられています。

それは、努力することなく、無条件に備えられています。


わたしはあなたに、完璧な神の摂理の体験へと呼びかけています。

すべては非常にシンプルになります。

すべては与えられています。

すべては完璧に与えられています。

欠乏はありません。

この世界が変わる必要は一切ありません。

この世界に間違いは一切ありません。

世界は単純に間違って知覚されているだけで、もうそれは終わりました。

この経験の中では、あなたはこの世界に懸念はないことをみます。

なぜなら、世界はあなの外側にあるのではないし、世界は心の外側にはありません。

あなたが訂正を受け入れたとき、そこにはもう問題はありません。

そして、これまでも何も問題はなかったとわかるでしょう。

かまうことは何もありません。

心配もありません。

神の愛の中でくつろぎましょう。


アーメン


ーデイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声『Be Transported 』よりー


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2017/10/02

Be Transported 1/2

デイヴィッド・ホフマイスターさんのトーク音声『Be Transported』の翻訳です。


デイヴィッドは、自分の人生に起こるすべての問題は、知覚の問題だと言います。

わたしたちが問題と見るとき、知覚が歪んでいるがゆえに問題として見えているだけで、訂正すべきは自分の知覚の方であり、自分の心の方であると言います。


すべてのことが、あらゆるものが、同じ、に見えるまで。

それが「分離」が消滅するときであり、そこが、わたしたちが唯一の目的としているところだということをあらためて認識させられます。


デイヴィッドの言葉は、とても深淵です。

それと同時に、彼の言葉は、私の心をワクワクさせてくれます。


今回と次回の2回に分けて、『Be Transported』の翻訳をシェアしたいと思います。

興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。


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<Be Transported>


今日は、「運ばれる(Be Transported)」というタイトルで話していきましょう。

「引き上げられる」「上昇する(アセンド)」とも言います。

この世界を知覚している人間としての日々の普通の状態を超えて、聖霊が差し出す赦された世界、真の知覚、幸せな夢の景色へと引き上げられ、上昇しましょう。

幸せな夢へと運ばれましょう。

平常通り、シンプルに愛情あふれる心の状態で。

いつものように、この対話は、愛の臨在の認識への障害を取り除く、というところから始めます。

赦しのシンプルさに気づくよう、一なる自己を受け入れることや絶対的な贖罪のシンプルさに気づくように、まず始めに、最も重要なことから話しましょう。

それは、「それが何であるか直視される必要がある」というものです。

それとは、問題のように見えているもののことです。

なぜなら、もし心が問題を誤って定義しているなら、その解決や答えを受け入れてもそこには希望はないからです。

この世界の問題は、とても具体的であるようにみえます。

あなたは、経済的な問題、人間関係の問題、健康に関する問題、性に関する問題などについて話します。

この世界では、欠乏やお金に関する問題や依存への要求など、さまざまな類の葛藤が知覚されています。

それらはとても具体的であるようにみえます。

日々、人間として、具体的な問題が生じ、多くの問題が毎日発生しているように思えます。

睡眠に問題がある人は、その問題は夜発生すると知覚するでしょう。

悪夢を見たり、非常に疲れていたり、分離睡眠(睡眠障害)の人にとっては、具体的問題が夜に起こっているようにみえます。

日中は、肉体に関してや、人々の環境に関してや、具体的な心理的問題など、すべての類の問題に、心が自分は一個の人間だと信じて、それらの問題に立ち向かっているようにみえます。

人々は、問題や症状に診断が下されると、その問題や症状と同一化し、具体的な問題と同一化して行動します。

これが、わたしたちが話題にしているすべてです。

これはすべて、問題が誤って定義されたカテゴリーの下にあります。


問題の正しい解釈、正しい定義とは何でしょうか?


すべての問題は、知覚の問題です。


では、知覚の問題とはいったい何でしょうか?

最も深く重要な愛のところから言うと、

もしあなたが、そこには無いものをみるという幻覚をみているならば、~具体的な何かを見るというより、この世界、宇宙、一片や一部、分離、分裂した外観という線形の宇宙を見ているという意~、もしあなたが、この世界を断片的に知覚しているならば、そこには無い何かを知覚しているならば、そのことを、わたしたちは「幻覚を見ている」と呼びます。

これは、先にも言ったとおり、抽象的な実在からの断絶という精神異常でもあります。

もし、神が実在ならば、もし愛が実在ならば、この断片的な世界の知覚や、分離したもの、分離した人々、分離した場所、分離した状況という空想の歪んだ知覚は、ワンネスという実在からの断絶です。

そしてまた、たくさんの人々、たくさんの声があるようにみえ、たくさんの信念体系、たくさんの視点、たくさんの国々、たくさんの様々のものがあるようにみえますが、これもすべて歪んだ知覚の一部です。


もし、あなたが栄光なる心の状態へと運ばれる、あるいは引き上げられるなら、それは、統合された認識であり、それが赦された世界であり幸せな夢です。

あなたは、「問題は知覚の問題である」ということを認めることから始めなければなりません。

問題はこの世界の中にはありません。問題は心の中にあります。

歪んでねじれた知覚を投影したこの分離した世界は、想念です。

歪んだ知覚は単純に想念であり、概念は解放されるべきです。

聖書コリント人への手紙の中で、「わたしたちは今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」と言っていますが、これが、歪んだ知覚のことです。

それは単純に、「見る」ということが歪んだ知覚ということです。

この世界を断片的に見るということが、知覚の問題なのです。


どんな問題でも具体的に定義することは、的外れであり、それは知覚の問題だということです。

世界がどのように見られているか、世界がどのように知覚されているか、それが問題なのです。

それはまるで、歪んだレンズを通して見ているようであり、何もクリアにみることができません。

あなたが、引き上げられ、運ばれたとき、そのレンズはクリアですべてをはっきりと見ることができます。

それが、具体的な問題という歪んだレンズから、クリアで訂正されたレンズへのシフトです。

そして、あらゆるものが同じであると見ることになります。

すべては完全に同じなのです。

コースの中でイエスが「同一のものが異なっていることはあり得ず、ひとつであるものには分離した部分はあり得ない。」(T-25.I.7.7)と教えています。

とてもシンプルです。

コースがたくさんの章やたくさんのレッスンや教師のためのマニュアルまであるそのただひとつの理由は、覆いかぶされていて、重く守られている問題へのシンプルな定義が、正確にそれが何であるか、そしてありのままに見られる必要があるからです。


一旦立ち止まって、わたしと共に、問題は具体的なものではないという実際の体験を共有してみてください。

具体的な問題はありません。

もしあなたが何かの問題を抱えているとしたら、それは知覚の問題です。

今一度、下記を思い出すことが役に立つでしょう。

「私は自分で考えているような理由で動揺しているのではない。」(W-pI.5)

「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」(W-pI.6)

「私は過去だけを見ている。」(W-pI.7)

「私の心は過去の考えにとらわれている。」(W-pI.8)

これらはすべて、知覚の問題を言い表しています。

”過去の考え”や”過去の考えにとらわれること”は、知覚の問題の一部であり、ただ一つの問題です。

わたしたちが、運ばれていくことを望んだとき、自分たちの視覚に対して十分な責任をもつことを望むことになります。

それはどういう意味かというと、ただ聖霊とともに、ただ正しさとともに、ただ無垢性を通して見るということであり、愛が呼び覚まされ、癒された世界を見るということです。


次回(後半)に続く


ーデイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声『Be Transported 』よりー


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