2018/09/04

デイヴィッドや彼らについて今想うこと

先日の「カースティンそしてデイヴィッドたちについて」という記事の中で、

興味がなくなった

という表現をしました。

とはいうものの、自分でもいったい何がどう変わったのだろう?という想いがあって、
そのことについて自分自身に正直になって自分の内側を覗いてみたので、
そこで気づいたことを書いてみたいと思います。

まず、興味がなくなった、という大きな理由としては、
デイヴィッドの教えるコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)よりも、
ケネス・ワプニック博士の教えるコースのほうが今の自分にはしっくりくるということです。

むしろ、ケネス・ワプニック博士の教えるコースを理解していくにしたがって、
同じコースでありながらそのちがいがはっきりわかるようになったと言ったほうが正しいです。

ケネス・ワプニック博士の教えるコースは、
学べば学ぶほど、理解が深まれば深まるほど、より実践的になっていくといいますか、
赦しの実践において日常の中でより適用(応用)していくようになったのを実感しています。

そんな今だからこそ気づくのは、
デイヴィッドの教えるコースは、コース学習へのモチベーションを高めてくれるものとしては、
当時の私にとってはとても必要だったとはいえ、それまでのものだったと位置付けられます。

あくまでも、それは「私にとって」という言い方しかできませんが、
デイヴィッドから学び続けてもきっと今の実践レベルまでには至らなかったであろうと。

言い換えるなら、
この自分はまだコースを実践していく準備段階にいたのだったと自覚するわけです。

デイヴィッドは、つまり、私がブレないコース学習者になっていくために
その橋渡しのような役割を果たしてくれた人だったと受け止めています。

それは、デイヴィッドだけにかぎらず、
カースティンフランシスについても同じ事が言えると思います。

ただ、今となっては、
コースを学ぶためのモチベーションを高めてくれるような
外のだれか(偶像)はもう必要はなくなったということです。

そういう意味で、
ようやくいま私はコース学習者としての段階(スタートライン)に立ったのだと、
そう気づくのです。

さらに気づいたことといえば、
デイヴィッドらの教えるコースに傾倒していた頃の自分は、
彼らからコースについて学ぶことで、
自分はコースを学んでいる、ひいては理解していると勘違いしていたということです。

もちろん、彼らを通して学ぶことで、
コースの学びを相当進めてくれたことはたしかで、
彼らの存在はこれまでの私にとって重要な存在だったといえます。

ただ、先ほども申しましたように、
ケネス・ワプニック博士の教えるコースの形而上学を理解していくにつれて、
同じ「コース(ACIM)」でありながらそのちがいが見えてきたということです。

正直なところを打ち明けますと、
そのちがいがみえてくることで、デイヴィッドやカースティンをみて、
彼らを咎めようとしている自分がいることにも気づかされます。

そして、その咎める想いこそ、自我のトリックなのだ、と気づくとともに、
(もし過去世というものがあるとするならばですが、)
ずっと遠い昔からこの自分は同じところでこの自我のトリックに引っ掛かっては、
咎めることを繰り返してきたと、気づくのです。

彼らを咎めたくなる想いとは、まさに、神を咎める想いと何ら変わりないのだということ。

そう、いくつもの人生の中で真理を探究する者として、神を求むる者として、
この世界を超えていこうとしながらも、その域に近いところまではいきながらも、
そのたびに、そこで引っ掛かってきたような、、、そんな記憶があるような感覚さえあります。

そのことを自覚するいま、
デイヴィッドや彼らとは、この自分であり、
実際に存在(実在)しているのではないと気づきます。

すべては自分の見ている夢(幻想)であり、
この世に見るすべての人、こと、ものを非実在なる「無」としていくことだけが、
このわたしの役割(機能)なのだと自覚する次第です。

無罪性をみる、無垢性をみる、キリストをみる、とは、そういうことなのだと。

デイヴィッドらに関して言うと、私は、卒業だなと感じています。

なにせ、興味がなくなった、のですから、ただそのハートの感覚に従うまでです。

テキスト、ワークブック、マニュアルに触れるなら、そこにはイエスのことばがあります。
すでにそれはここにあるのですから、その道はここに示されているのですから、
本当はコースを学ぼうとするならそれで十分なのだと気づきます。

いつか、この蒼い本を必要としなくなるそのときまで、
この蒼い本以外を偶像化することはもうないだろうなと強く想う今日この頃です。

以上、デイヴィッドらに対しての心境の変化を、
どうしても書きたい(正直に打ち明けたい)という想いから、
感じているままに書かせていただきました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

デイヴィッドに感謝を込めて。

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2018/03/02

Form vs Content (形態 vs 内容)

デイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声『 Form versus Content: Desire Content beyond forms(形態 vs 内容:形態を超えて内容を求めよ) 』の翻訳です。


この翻訳記事は昨年の12月5日にアップしたものですが、今の私にとってとてもしっくりくるものがありまして、再度アップさせていただこうと思います。


ここでいう「形態(form)」とは、表面的なレベルで知覚しているもの(かたち)とういうふうに理解していただけると分かりやすいかと思います。

それと対比して、「内容(content)」とは、形態の奥にある実相という理解でいいと思います。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んで実践しているわたしたちにとって、かなり参考になることも述べられていますので、どうぞご覧ください。


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<Form vs Content  (形態 vs 内容)>


今夜は「形態と内容」について話したいと思います。

なぜなら、真理を経験するために心を開きハートを開くことがシンプルであることを共有することや、真理を経験するためのはっきりとしたまっすぐで直接的な道を示すことは、とても役立つことだからです。

「形態と内容」についてまずはじめに、「形態とは、自我によってでっち上げられ、引き起こされ、捏造されたものである」と言っておきます。

すべての形態(form)、厳密に言えば複数形で表される形態(forms)は、間違いが投影されたものです。

深遠である真理の中で、愛は神聖なるものであり、抽象的なものであり、光です。

形態は、歪んだ知覚の一部であり、間違いの投影であり、真理から隠れるため、光から隠れるための企てです。

形態への執着は、形態への信念であり、形態を重んじているということです。

真理に形態はありません。

ワンネスに形態はありません。

抽象に形態はありません。

神を重んじ、愛を重んじることは、複数の形態は不可能であるということを理解することです。

形態は詳細を持ちますが、真理はひとつです。

聖霊やイエスは、(わたしたちが)愛の実在への気づきを阻むものを手放すために、自我が作り上げた具体的なものを使います。

言いかえると、形態は決して重要ではありません。

形態は、実例や指針として用いられます。

言葉は形態です。

そしてそれらの形態は、聖霊によって使われます。

神からの分離という信念を取り消すために使われます。

線形的な時間への信念や、具体的な形態への信念を取り消すために使われます。


内容(Content)は愛です。

形態を知覚することは、内容への気づきを曖昧にします。

コースの中でイエスはわたしたちにこう教えています。

「形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。」(T-22.Ⅲ.6:7-8)

形態についての討論、概念についての討論、信念についての討論が誤りであることを、あなたは理解できることでしょう。

分離の信念は、矛盾しています。

なぜなら自我は矛盾の源だからです。

そして、自我は、複数の信念を生み出します。

この世界の中では、人々が互いに矛盾しているように見えますが、実際には、心の中の自我の信念が互いに矛盾しているのです。

ただ一つの助けとなる信念は、赦しです。

赦しは、単純に、誤りを誤りとしてみます。

赦しは、具体的な信念が不可能であるとわかります。

そして、分離の信念から発生したすべての信念は誤りです。

この世界は、多様な世界であり、時間と空間と具体性の世界です。

そう、多様性の世界なのです。

なおさら、多様性は価値あるものとされています。

しかし、真理はひとつです。

そして、愛もひとつです。

多様性は自我の投影です。

自我のレンズを通してこの世界をながめるならば、たくさんの形態を知覚することになると言えます。

しかし、そこにはただ一つの訂正があります。

赦しによる訂正は、贖罪です。

それは、シンプルに、誤りを誤りとしてみます。

神はスピリットです。

スピリットが創造するのはスピリットです。

たくさんの形態は、実際にひとつであるもの、これまで常にひとつであったもの、そして永遠にひとつであるものを隠しているようにみえます。


知覚の世界は、マーヤ(幻)の世界です。

幻想の世界です。

歪曲された世界です。

実相の中には存在しない場です。

過去は、何度も何度も線形の世界の形態として、歴史や想像の未来として形作られ繰り返されています。

自我や恐れは実在しません。

肉体や世界や時間は、ただの一瞬も存在してはいません。

わたしたちが「内容(実相)」に目覚めることは、スピリットそして神聖なる愛に目覚めるということです。


コースの道は、非常に直接的な道です。

テキストを勉強し、ワークブックを実践し、教師のためのマニュアルの指示に従うという実践的な道です。

ワークブックの中にあるように、この道は、行きつ戻りつしながら言葉を超えたところへ行く道です。

真理は、言葉の中には見い出せません。

真理は、言葉で言い表したり説明できるものではなく、経験されるものです。

直接的な真理の体験への道を開けるために、言葉は捨て去られるところへ達します。


言葉は、神学理論にとってはとても重要です。

しかし、神学理論は、直接的な体験の中へ飛ぶ踏み板にすぎません。

平安について話し、形而上学について話し、平安という言葉について話すことは、指針の中で心が眠っているということです。

指針は核心ではありません。

象徴は核心ではありません。

言葉は象徴の象徴にすぎず、実相からは二重に隔てられています。

これらの言葉は、儀式化されるものではありませんし、現実の経験の代替となるものでもありません。

言葉に捕らわれるのは、この世の罠です。

そして、断片化した知覚に捕らわれることも同じです。

言葉や断片化した知覚に専念する心は、真理への恐れから生じます。

すべてが分離する必要はどこにもありません。

この世界の意見、この世界の個人性、この世界の自律性は、分離への欲求からきています。

しかし、もしあなたが、あなたの完全な欲求であるワンネス、一体化、愛、真理、繋がりにフォーカスするならば、それ以外のものはすべて自覚から突然消えてなくなるでしょう。

完全なる愛は、恐れを追放します。


ヴェーダンタ(インド哲学)におけるヴェーダ(究極の知識)は、「Not two(二つに非ず)」といえます。

とても深い最高の教え、最高の智慧は、ワンネスの実体験の中の教えです。

コースの先生や生徒が陥る主要な間違いは、幻想の中に真理を運ぼうとすることです。

愛やワンネスに対して封印を掲げることによって、その封印の背後で満足しようとしています。

分離した財団、分離した言葉、分離した本、分離したカンファレンス、違う版の『ア・コース・イン・ミラクルズ』、それらはすべて、誤りの投影であり、愛に対する防衛であり、ワンネスに対する防衛です。

真理はシンプルです。

「同一のものが異なっていることはあり得ず、ひとつであるものには分離した部分はあり得ない。」(T-25.Ⅰ.7:7)

これが真理です。


わたしからのアドバイスは、最大限にできる限り直接的にシンプルに、コースを読み実践することです。

まるで、聖霊があなたに直接語っているかのように、コースを読んでください。

できる限り明確に率直に直接的に、聖霊に応答し返答してください。

そして、ワークブックで指示されていたり出されているお題を実践するときは、献身そして専心と共に目覚めることを期待して実践してください。

コースをただの本のように扱わないでください。

ひどい嵐の海で上へ下へと人生が流されいてるようなとき、その嵐の海とは、訓練されていない心のことです。

大いに心の訓練を要しているということです。

フォーカスすることと注意を向けることをかなり必要としています。

コースが1日に1個以上のレッスンをしないように言うときは、その指示に従ってください。

そしてコースが、訓練を転移(応用)することや、1日を通してアイデアを応用すること、その日のレッスンに例外を作らないことを求めるならば、それを行ってください。

ただそれだけを行ってください。

とにかくシンプルなままに行ってください。

様々な意見に対して無関心さ(公平無私さ)を、分離した視点に対して無関心さを育てていってください。

なぜなら、欲求は、一体化した世界をみること、赦された世界をみること、そして幸せな夢を直に体験することだからです。

そして、幸せな夢の向こうへと運ばれていきましょう。

(ただ、)幸せな夢は、なお幻想であり、想像を伴ないます。

一元化していない知覚は真理ではありません。

しかし、幸せな夢は(真理への)入り口です。

赦しという心の訓練にフォーカスしてください。

時間や空間という考えによって遅らせないでください。


自分自身にとっての一つの責任は、贖罪を受け入れることです。

唯一の責任は、贖罪を受け入れることです。

それ以外には何もありません。

線形の時間の物事に注意を費やすことによって時間を無駄にしないでください。

というのも、時間は肉体や世界と同じくニュートラルだからです。

聖霊に明け渡してください。

それらは崩壊し消滅するでしょう。

形態に意味はありません。

これはワークブックの第1番目のレッスンによって強調されています。

「この部屋の中に見えているものには、何の意味もない。」(W-pⅠ.1)

代わりに、内容に開かれましょう。

内容の実例としては以下のとおりです。

私は神が創造したままの私である。」(W-pⅠ.94 , 110 , 162)

私は霊である。」(W-pⅠ.97)


アーメン


『Form versus Content: Desire Content beyond forms』より

https://www.spreaker.com/user/davidhoffmeister/form-versus-content-desire-content-beyon


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2017/11/28

人生と身体の目的とは?

今日は、デイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声の翻訳です。


デイヴィッドはこう言います。

「目覚め」というものからみるならば、人生がうまくいっているときわたしたちは後退していて、むしろ、人生が崩壊しかけて見えるときのほうが心が開いているのだと。

それは、この世の考え方とは、まるであべこべです。


わたしたちは、そういう道を歩んでいるのだと言えます。


『What is the purpose of life and the body?(人生と身体の目的とは?)』


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人生のすべての目的は、この夢の世界から目覚めることです。

自我はあなたをこの世界に確かに存在していると信じさせていますし、

あなたは人生の中で目標を定めてそこに到達すべきだと信じさせています。

すべての教育や学びは、「もっともっと学ぶ」ということがベースになっています。

この世界の中のすべては逆で、あべこべになっています。

この世界であなたが進歩していると思っているとき、あなたは後退しています。

あなたの人生が崩壊していると思うとき、あなたのハートは開いているということです。


実際は、いつもそこに奇跡があり、そこにはいつも祝福があります。

自我は、リニアな時間というものをでっち上げたのです。

しかし、神は永遠しか知りません。

過去、現在、未来、というそれらは(自我による)トリックの一部です。

自我は、あなたは過去に罪を犯した、と言います。

そして自我は、これ(罪)はとてもちっぽけなことだと言いますし、あなたはそれを見ることができずに見過ごします。

そして自我は、(過去をただ繰り返しているだけなのに)未来は過去とはちがったものになる、と言うのです。


「もし、あなたの人生を正しく生きなければ、未来世において地獄に生れ変わる」と教える宗教もあります。

なぜなら、自我は、恐れ、怖がっているままにしたいのです。

自我は、今この瞬間から気を逸らすことで、あなたが(この世界から)脱出することが実現しないようにしているのです。

あなたの心を偽のアイデンティティーにしておくための自我のトリックなのです。


自我がどのようにそうするのか?見てみましょう。

まず最初は、身体と同一であると識別します。

自我は、あなたにこう告げます。

「天国はどこか遠くにあり、あなたがこの身体をより良く使うならば、そこに行ける」と。

自我は身体と同一化して維持することがとても重要なことなのです。

身体は真実ではない、と問いかけたりはしません。

身体は夢の一部なのです。

あなたは心の力で夢を作り出したのです。

あなたはあなたの心の力を否定したくはないのです。


あなたは、聖霊が身体をちがった用途で使いたいのを知ることができません。

自我は、プライド、快楽、攻撃のために身体を使います。

聖霊のために身体はたった一つの目的を持っています。

それは、コミュニケーションツールとして、です。

なぜ、あなたはコミュニケーションツールが必要なのかというと、

それは、あなた自身で知覚を延長していくためです。

なぜなら、あなたは身体を遥か超えていくからです。

知覚は身体との関係の中でとても制限されていますが、それはもっと偉大なのです。

あなたが霊的な(啓示)体験をするとき、あなたがどれだけ偉大かということを悟るでしょう。



YouTube『What is the purpose of life and the body? David Hoffmeister ACIM 』より

https://www.youtube.com/watch?v=mliAWzmnLqc&feature=em-subs_digest


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2017/11/26

探究の終焉、はじまりへの回帰

スピリチュアルの探究の旅は、自我(エゴ)の欲求によってはじまります。


幸せになりたい、、、目覚めたい、、、悟りたい、、、、と。


でも、その探究の旅において学びが深まっていくにつれて、探究そのものが自我の欲求でしかないことがわかってきます。

なぜなら、すでにいまここにそうであることがわかってくるからです。


どこにも向かう必要がなかった。

どこにも行く必要がなかった。


自我の欲求がはじまった地点へと戻っていくこと。

そこは、探究が終わる地点であり、

そこは、学んできたもの、信じてきたものすべてが「無」になる場所。

そこが、わが家であり、

そこが、わたしたちが帰っていくところであるということです。



あなたがこれまで学んできたことや信じてきたこととはまるで相反するような経験をしているとしたなら、それはターニングポイント(転換期)にあるということです。

あなたがスピリチュアルな文章を読んだり、規則通りに祈ったり瞑想したりすることが重要であるわけではありません。

それはすべて、エゴがはじめることのできるところから解けるこの地点へとあなたを導く手段にしかすぎません。

デイヴィッド・ホフマイスターのことばよりー


Once you experience something that contradicts everything you have ever learned or believed in, that’s the turning point. It doesn’t matter if you read spiritual text, pray or meditate regularly, it’s all meant to lead you to this one point where the unwinding from the ego can begin.

- David Hoffmeister -


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2017/10/03

Be Transported 2/2

デイヴィッド・ホフマイスターさんのトーク音声『Be Transported』の翻訳の後半です。


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前回(前半)の続き


実践的にいきましょう。

もし問題が具体的でなければ、~問題は決して具体的なものではありませんが~、そうするとそれは、「すべてが何のためにあるのか?わたしはわかりません」という意味になります。

そして、「自分にとって何が得策なのか?わたしにはわかりません」という意味にもなります。

それでは、そこからどこへいきましょうか?

問題は具体的なものではない、というところから事実上、どこへ向かったらいいでしょうか?

答えは、非常にシンプルです。

それは、ガイダンスです。

ガイダンスを聞くことは、わたしたちに焦点を提示してくれます。

ガイダンスを聞くことは、わたしたちに選択肢を提示してくれます。

「問題は具体的なものではない」とただ聞いて、それでわかりかけたところで、もし問題は(知覚している世界の中の)具体的なものだと信じたくなる誘惑に陥りそうになったらどうするのでしょう。

ガイダンスを聞くということは、心の中で贖罪へ導かれ、それを超えた抽象的な神の実在へと、愛の中へ真理の中へと導かれることを意味しています。

ガイダンスを聞く、ということが答えです。

問題が具体的であるように思われたときでも、またある状況で何かが欠乏しているように知覚したときでもです。

あなたが与えそこなったものが、あなたが欠乏しているものというだけのことが、あなたには見えません。

あなたが、外界において欠乏しているものを知覚するとき、外界に具体的な問題を知覚するとき、ガイダンスが答えです。


助けを求めることを習慣にすることはとても良いことです。

一旦立ち止まり、耳を傾け、「今、なに?」「今、ここで、何が役立つ?」と尋ねることを習慣にすることも良いことです。

どんな具体的な問題にも関わらず、このことがいかに実践的であるかわかりますか。

これが答えです。求めて、聞いて、ガイダンスを受け取るのです。

これが、歪んだ知覚からの脱出方法です。


それでは、次はどうしたらよいでしょうか。

次に何をするかは明らかになります。

コンスタント(習慣的)にガイダンスを受け取ることを求め、耳を傾け、ガイダンスに従うことが、歪んだ知覚から自由になるのに絶対に必要不可欠なことです。

ガイダンスが答えです。

外観上の状況や困難だと知覚するどんなことでも、いつもガイダンスが答えです。

わたしたちが、献身的な人生とか聖霊や神に人生を捧げると言うとき、それは単純に、ガイダンスに従順であろうとする意欲がある、ということを意味します。

聞いて、耳を傾けて、与えられたガイダンスに従順に従うという意欲です。

これは絶対に必要不可欠です。これを避けて通ることはできません。


キリスト教の伝統においての「神に、清貧・貞潔・従順の三つの誓いを立てる」ということを思い出すかもしれません。

これは「従順」の要素です。

「清貧」については、「所有しない」と解釈することができます。

「貞潔」については、「清らかな思考」「清らかな心」と解釈することができます。

どのようにこの「所有しない」とか、素晴らしく「従順」であり、素晴らしく「純潔」であれるかというと、それは聖霊への従順さを通して、耳を傾けることによって、と言えます。

内なる声を聞くということは、すべての自己概念を解放することによって幻想を真理に運ぶという意味なのです。

すべての自己概念、自己として信じられているすべてのイメージ、同一化しているこの世界のいかなるイメージをも明け渡し、幻想を真理に運ぶことで、すべてが解消され消滅します。

これが、『ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡講座)』の要となる教えです。

今日わたしが話していることについて、もしあなたがついてこれていて、どこに向かっているかはっきりと理解できるならば、このままわたしが何を言っているか聞き、そこにとどまってください。

そして、この道をたどる意欲があるならば、あなたはコースを超え、スピリチュアルな旅を超え、すべての段階やステージを超えていくでしょう。

これは時間の問題ではありません。

その意欲はありますか?

どのくらい革命的な教えに従う準備ができていますか?

どのくらい深いレベルまで掘り下げる準備ができていますか?

すべてはこういうことです。


わたしが「所有しない」と言うとき、それは「所有しない心の状態」ということです。

それは、コントロールしない、ということを言っています。

コントロールしないことは可能なのです。

これは、聖霊を信頼することを通してのみ、その状態に近づくことができます。

完全なる聖霊への信頼、神への従属、耳を傾け従うことへ頼ることです。

ときに、わたしは「100%直感で在る」と言い表すこともあります。

「あなたの本性は源から離れていない」と気づくことです。

あなたは神の摂理の中に在る、ということです。

あなたが知覚しているものすべては、この目覚めにおいてあなたに必要なものであり、提供されており、与えられています。

それは、努力することなく、無条件に備えられています。


わたしはあなたに、完璧な神の摂理の体験へと呼びかけています。

すべては非常にシンプルになります。

すべては与えられています。

すべては完璧に与えられています。

欠乏はありません。

この世界が変わる必要は一切ありません。

この世界に間違いは一切ありません。

世界は単純に間違って知覚されているだけで、もうそれは終わりました。

この経験の中では、あなたはこの世界に懸念はないことをみます。

なぜなら、世界はあなの外側にあるのではないし、世界は心の外側にはありません。

あなたが訂正を受け入れたとき、そこにはもう問題はありません。

そして、これまでも何も問題はなかったとわかるでしょう。

かまうことは何もありません。

心配もありません。

神の愛の中でくつろぎましょう。


アーメン


ーデイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声『Be Transported 』よりー


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