2018/12/24

兄弟なしで目覚めることはできない

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「自分一人では目覚められない」
「兄弟なしで目覚めることはできない」

ということばは、以前だったなら、

兄弟を通してしか自分(の無意識)を知ることができないため、

というふうに捉えていました。

もちろん、そういう意味でもあると思うのですが、
最近、知覚が変わってきたせいもあって、
そのことばの捉え方が変わってきたのです。

どんなふうに変わってきたかといいますと、
違う言葉で言い換えると、
「自分だけ一人が目覚めるのではなく、自分である兄弟も一緒に(連れて)目覚める」
といった感覚でしょうか。

私が救われるとき、世界は私とともに救われる。
ー『奇跡講座 ワークブック 』レッスン295よりー

兄弟のだれかを自分以外のものとしてみることなどできないし、
ましてや、咎めることも、排除することもできないわけで、
すべての兄弟を自分として受け入れて、
そして赦して(実在しないものとして)いくことをしていくのが、
この私の機能だと自覚するのです。

それは、分裂した心を一つ一つ拾い集めては統合していくような、
まさにそんなニュアンスに近いと思います。

すべては、「分離(分裂)はあり得る」と信じた自分の心の中で起こっているのであり、
その夢から目覚めるには、「分離などあり得ない」と知っている聖霊に、
(自分も含めて)自分である兄弟共々を取り消してもらうことで、
「分離などあり得なかったのだ」ということを思い出していくのでしょう。

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この夢の中において、
イエスという兄弟がすでにそれを成し遂げてくれているのですから、
そして導いてくれているのですから、なんと心強いことでしょう。

そのイエスは、わたしたちの心にこのいまも生き続けています。

最近は、彼が私の右肩のところにいつも一緒にいる感覚すらあります。

「私は、イエスがみているようにこの世界を、そして兄弟たちをみたいのです。」

そんな祈りを込めてこの年のクリスマスをイエスと共に過ごそうと思います。

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2018/03/30

教えるということ

わたしは神の子として祝福されている。
わたしは幸せで、安らかで、愛に満ちていて、満足している。
 ー『奇跡講座』ワークブック レッスン40よりー

それが、わたしたちの本性です。

それらのことばの真実が今ようやく私の腑に落ちてきています。
そのことを実感しはじめている私がいます。
そう、知覚のシフトとは、こういうことをいうのだろうと思います。

そして、そんな私はあらためて気づくのです。
これまで自分は自分自身をまったそのようには思ってなかったと。

つまり、自分は幸せで、安らかで、愛に満ちていて、満足している、、、などと、
そもそもそれが自分の本性(本来の状態)だとは思ってもいなかったということです。

むしろ、その真反対を自分自身で信じ込んで(思い込んで)いたと気づくのです。

そして、その真反対の自分を揺るがない信念に仕立てるべく、
私はこの世界で、この人生で、ことあるたびに自分に教え込んできたと気づくのです。

それは、だれに教え込まれたのではないのだということ。
それを教え込んできたのは、まさに、この自分自身だったということです。

だからこそ、この私は、自らの本性について自分に教え直していく必要があると、
あらためて自覚するのです。

教えることは学ぶこと。
だれに教えるのか?だれが学ぶのか?と言うなら、それは、まさに自分自身にです。
そのプロセスは必要不可欠な道なのだと気づきます。
それなしで、神のもとに帰ることはあり得ないということです。

次なるステージの学びのはじまりだと感じています。

贖罪が訪れるその時まで、
その学びが終わる時まで、
この歩みは、目の前に現われる兄弟を通して、
そしてその兄弟らと共に、成し遂げられていくのでしょう。

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2018/02/19

謙虚さ

謙虚さとは、どういうことをいうのでしょう?


あなたは神の子です。

あなたは光です。

あなたはこの世の光です。


その真実に対して「そんなわけない、、、」「そうは言っても、、、」という想いを抱くことこそが傲慢だと、イエスは言います。


謙虚でありなさい。

素直でありなさい。

真実のままでありなさい。


あなたは神の子です。

あなたはこの世に光をもたらすキリストなのです。

つつましやかに、「はい、その通りです」と認めればいいのです。


聖霊は、私にそう告げています。


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2018/02/05

我が心のイエス

聖霊の導きによって、

ジーザス(イエス)のプレゼンス(存在)をより身近に感じるようになってきています。


ジーザスは、生きています。

ジーザスは、いまここに生きています。

ジーザスは、私の中に生きています。

ジーザスは、誰もの中に生き続けています。


それはキリストと呼んでもいいのかもしれませんが、この私にとって、

かつてこの地上に生きたジーザスのほうがよりシンボルとして身近に感じることが出来ます。


生きる意味を求めて、25歳の時から私の真理探究の旅がはじまりました。

これまでスピリチュアルの旅の中で私もさまざまな次元のエネルギーに触れてきましたが、

ジーザスのプレゼンス(存在)のエネルギーは、この上ない清らかさと心地良さを覚えます。


目を閉じて、今この瞬間へと入っていくとき、それはそこにあります。


安らぎ。

静寂。

安心感。

愛。


それは、なんともいいようのない居心地の良さです。

そのしっくり感は、あまりにも自然としか言いようがありません。


ジーザスのプレゼンス。

それは私をこの世のすべてから解き放ち、

目の前に見ている世界を忘れてしまうほど、今この瞬間へと誘ってくれます。


ジーザスのプレゼンス(存在)を感じるとき、もうことばはいらない。


ことばを求めることよりも、答えを求めることよりも、

ただジーザスのプレゼンスに触れていることのほうがよほど重要なのだと感じます。


もうことばも、答えを求めることもいらない。

学びすらもいらないのだと気づきます。

なにもいらない。

むしろ、このために自分はスピリチュアルの探究の名のもとに学んできたのだと気づきます。


ジーザスのプレゼンスに触れているだけでいい。


それは、ある意味祈りにちかいものがあります。

それを信仰心といってもいいと思います。

そして、本当はそれで十分なのかもしれないと私は気づきます。

信仰心とは、このようにして神のもとに還るためのものだったと気づきます。


信仰心によってこの時間と空間を超えて神のもとへと還った存在たちもいたのだと、

今ではわかる気がします。


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2017/08/27

「ことば」から「姿勢」へ

真理とは、この世を超越したものです。

そもそもがこの世を超越したものを、この世に持ち込もうとするのが、わたしたちです。


「ことば」とは、そういうものだと言えます。


わたしたちは、つい、ことばというものを使って、真理をこの世に持ち込もうとします。

ときに、わたしたちは、真理をことばにすることにかまけることすらあります。


そう、真理をこの世に引きずり込もうとすることは、無謀なこと以外の何ものでもありません。

それが、長い歴史の中でこれまでのわたしたち人間がしてきたことです。


真理をこの世に持ち込むことではなく、この世を超えて真理へと向かうことが、わたしたちの目指すところだということです。


ジーザス(イエス)は、「この世界から出なさい」とわたしたちに呼びかけています。

そして、ジーザスこそ、その生き方で真理を語った存在だといえます。


ことばを超えて。

ことばから姿勢へ。


Beyond words,express by attitude.


ことばで語ることから姿勢で語るようになるとき、そのことばは聖霊によって語られるのだと思います。


私も、そうありたいと望んでいます。


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