2018/11/17

自我からの出発

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先日の記事でも申しましたように、
「コース(ACIM)を学んでいる自分は、自我である」ということを知っておくことは、
コースを学んでいく上でとても大事なことだと言えます。

コースを学んでいる自分は自我であるということは、
その自分は幻想(夢の中の登場人物)でしかない、実在していない、ということです。

それがなにを意味するかと言いますと、
コースを学んでいるこの自分が目覚める(神に帰る)のではないということです。

この夢から目覚めるのは、夢をみている真の自己(神の子)が目覚めるのだということ。

そう、自我である自分をいくら磨いて(浄化して)いっても、
その自我は実在しているわけでもなければ、けっして神にもなり得ないということ。

つまりは、この自分をより素晴らしき自分へと高めることをしていったとしても、
まったくの無意味、無価値、無駄なことだということです。笑

 むしろ、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、
そのことを自覚していく道であり、その自我に気づいて(赦して)いく道であると言えます。

だからこそ、それまで自分だと信じていたアイデンティティーを
聖霊(大いなる自己)へと明け渡していくということなのです。

そう、気づいていくだけでいい。
その自分(自我)をより良き自分にしようと変えようとする必要がないということです。

裁くことなく、咎めることなく、ただ聖霊とともに眺めていくだけでいいのだということ。

真理を求める者にとっては、
つい、自分は変わらなきゃ、自分を高めていかなきゃ、とやってしまいがちです。
なぜなら、この自分が目覚める、この自分が神になると勘違いしてしまうからです。

そう、そこがわたしたちが一番陥りやすいところだといえます。

実際のところ、わたしたちは、
まだこの自分が実在していると思っていますし、この世界が実在していると信じ込んでいます。

コースを学んでいるこの自分すら、自我であり、ホントはこの自分なんて実在していないのだ、
この自分は幻想(夢の中の登場人物)にしかすぎないのだ、
ということが、学べば学ぶほど腑に落ちていく、、、

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)とは、
そういう道だったのだと今の私は実感している次第です。

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そう、コースを学んでいる自分とは、自我なのだということです。

赦しの実践をしていく上でも、そのことをわかっておくことはとても重要であると言えます。

その自我に気づいていくことが、コース学習者にとって求められていくことになりますから。

自ら(自我)を観察(観照)している視点。

そこの視点を培っていくことから、赦しの実践ははじまります。

自我と同一化している自分に気づいていくことが、コースの学習者には求められていきます。

ただし、
この道は、自我が学んでいくことによって、その学んでいる自我が実在していなかった、
ということになるわけで、自我は、当然、コースを学ぶことに抵抗するようなことをします。

その手口は、まさに巧妙です。

だからこそ、わたしたちは、
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の形而上学(概念)というものを
しっかり学んでいく必要があるのだといえます。

そんな自我の抵抗があったとしても、その自我に屈することなく、
(何度も投げ出しそうになっても、)このコースの学習を投げ出すことなく、
このいまもこうして真摯にコースの実践に取り組んでいる自分がいるということは、
聖霊の祝福以外のなにものでもありません。

それは、神の子(キリスト)が目覚めるようにと願っている父の意志に、
この自分も同意していると言うことが出来ると思います。

素晴らししと思います。

そんなわたし自身に、そして、わたしであるあなたに祝福のエールを贈りたいと思います。

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2018/11/06

絶望と虚無の向こう側へ

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コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、
これが世界だと、これが人生だと、これが自分だと思っていたものを超越していくものです。

ですので、コースを学んでいくと、
かならず絶望感、虚無感、空虚感といったものを経験する段階があります。

というのも、これまでわたしたちはこの世界に喜びを見い出すことによって、
あるいは目標を持つことによって、それらと向き合うことを避けてきたからです。

ゆえに、人生でずっと避けてきたものと向き合うときが来ただけのことだと言えます。

絶望感、虚無感、空虚感にいる心の状態は、
この世界に生きる希望や価値を見い出さなくなってしまったという意味では、
この世界を超越していく門(ゲート)のちかくに来ているということができます。

そこに形態(かたち)は関係ありません。

焦点を当てるべきは、その形態ではなく、
内側で感じている絶望感、虚無感、空虚感のほうだということです。

自我は、それを嫌っています。ひどく怖れています。

というのも、ホントは神の子でありながら、
あえて自らが愛、光、安らぎ、至福、、、といったものを拒否したのであり、
あえて自らその真逆の「絶望」「虚無」を望んでおきながら、
そのことが明らかになることをひどく怖れているだけのことなのです。

なんという自己矛盾でしょう!

なんたる狂気でしょう!

絶望と虚無、空虚と孤独。
それらはすべて自分で作り出した幻想であり、自分はその被害者ではないのだということ。

いまこそその門(ゲート)をくぐっていく時が来たのだと、
その好奇心でもって、絶望感、虚無感、空虚感を聖霊とともに直視してみてください。

その心になにが起こって来るのか?なにが入り込んでくるのか?観察してみてください。

その先には、新たな扉が開かれていくことでしょう。

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2018/11/01

なぜ聖霊なのか?

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)を学べば学ぶほど、
理解すれば理解するほど、
個であるこの自分自身をどうのこうのするものではない、ということがわかってきます。

個であるこの自分が目覚めて神に至るのではない、ということを理解するからです。

それを理解するとき、 この道は、この自分をどうにかしよう、という道から、
この自分に起きてくることをただ観照していく(気づいていく)という道になっていきます。

むしろ、この自分(自我と同一化している自分)をどうにかしようとすることを
どんどんやめていくことになります。

外界に起きることに伴う心の内側の微妙な動きにただ気づいていくだけでいいのだと。
そして、その心の動きをただ聖霊とともに観照(直視)していく。
それをどうのこうのするのではなく、ただ起こるがままにさせておく。
そのときの自分は、自我と同一化している状態から離れ、聖霊を選択していることになります。

そう、コースの特徴的なところは、
聖霊(ホーリースピリット)の概念が用いられていることにあると思います。

聖霊とは、「神からの分離は起こっていない、そんなことは絶対にあり得ない」
と知っている心(正しい心)であり、
その心へとシフト(訂正)するのを促してくれる大いなる力だと言うことができます。

聖霊とは、導き手であり、救済者であり、保護者である、、、
 ー『奇跡講座』(ワークブック 赦しとは何か)よりー

それゆえに、学びが進めば進むほど、
サレンダー(明け渡すこと)ができるようになっていくということです。

私にとって聖霊とは、そういうものです。

もっといえば、私にとって、聖霊なしでは絶対にこの道はあり得ないということです。
 
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2018/10/18

献身

ここ数日、腰痛が続いてます。

日常生活に支障をきたすほどではありませんが、それでも通常のようにはいきません。

ちょっとした動作をするたびに、腰に気を使いながらの動きになって、
さもないと、アイタ!タ!タ!となる次第です。笑

そのたびに、これまで無意識だった身体の筋肉の使い方にすら気づきがあったりします。

あーこんなふうに腰に負担がかかっていたんだな、って。

そんな状態においても身体は、
どのように身体を動かしたら腰に負担がかからないか?をまるで知っているかのように、
自動的に、腰に負担のかからないような動きをしていることにも気づかされます。

そんな感じでこの身体を観察していると、
この身体自体は、どうなりたいのか?なにがしたいのか?
まったく意志など無いことに気づきます。

それと同時に、この自分は、この身体を何の目的で使っていきたいのか?
と、そう問われているようにも感じるのでした。

もう、これまでのようにはいかないのかもしれません。

そう、これまでの自分といえば、この身体をこの世界で生き残るため、
もしくは、この人生をより良くするための道具として駆使してきたことに気づかされます。

それだけではありません。
この身体の人物をもっとより良き人間に、より優秀な人間にすることで、
この自分は幸せになれると想ってきたのです。
そのために、この身体の人物を咎めては戒めてきたのです。
もっと霊的に崇高にならねば、もっと清らかにならねば、と。

そのすべてが(一なる)神の子が見ている夢(妄想)であり、
そこには何の意味もない、なんの価値もない、と気づく今、
自分はもうこの身体をそんなふうなことに使わない、と決断するときなのかもしれません。

とはいえ、この時間と空間の中で、この身体はどのように使われていくのか?
そういうことは所詮形態レベルのことであって、
自らの本来の機能(役割)である「赦し」とはなんら関係がないと気づきます。

むしろ、この世界をどのようにみるか?ということが肝心なことなのだと。
なぜなら、それによってこの身体はその目的のために使われていくからです。

献身(devotion)とは、そういうものだと思うのです。

この腰痛も、「自分はこの身体である」と思わせるための自我のトリックにしかすぎません。

そのことに気づくたびに、ただ「赦し」をしていくだけだと思う今日この頃です。

赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。
、、、自らが好む外観へとねじ曲げようともしない。
ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
ー「ワークブック 赦しとは何か」よりー

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10月中旬でも、沖縄の晴れた日の昼間はまだまだ夏です

2018/09/12

どんな体験をしてもしていくのは赦しだけ

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)をよく理解していないうちから、

聖霊を信頼しなさい、とか、神を第一としなさい、とか、神のみを求めなさい、

といったことをいくら教えられても、それはかなり難しいことだと思います。

というよりも、やみくもに信仰しなさい、信頼しなさい、なんて無理なはなしです。

なにせ、コースをまだ理解していないうちは、
ほとんど自我の思考システムでいるわけですから、
自我が聖霊を信頼するわけがないし、むしろ、神から遠ざかろうとするのが自我なのですから。

それよりも、コースの形而上学(理論)をしっかり学んでいくほうが、
「信」というものを培っていくには最短な道だと思います。

なぜ聖霊なのか?
なぜ神を第一とするのか?
その形而上学をしっかり理解していくならば、なぜそうなのかが明白になるからです。

「明白になる」とは、明らかにそれが当然のことだから、というふうになるということです。

言い換えるなら、
コースの内容が理解できてきているなら、
聖霊の思考システムにシフトしていっているというふうに捉えていいと思います。

そのときこそはじめて日常生活の中で実践(応用)できるようになるというものです。

なので、コースの形而上学を学んでいくことは本当に大事だと実感しています。

正直なところ、私は、形而上学の学びをそれほど重要だとは思っていませんでした。
むしろ、概念(理論)よりも実践、体験だと思っていました。

かくいう私もさまざまな覚醒体験や至高体験をしてきたわけですが、
いくらどんな素晴らしい体験をしようとも、
それでもただ赦しをしていくことに変わりはないことに今あらためて気づく次第です。

赦しとは、幻想を直視していくということ。

そして、形而上学の理解がそれを加速してくれていると実感するのです。

そんな私だったからこそなおさら、そう想う今日この頃です。

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