2019/02/24

神のもとには帰りたくない

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この世界にいると知覚しているかぎり、

自覚しているしていないに関係なく、

神のもとには帰りたくない、神のもとに帰るよりもこの世界に居続けたい、

という想念をだれもが持っていると言うことができます。


ですから、コース(ACIM/奇跡講座)を学ぶことへの抵抗はあって当然のことです。


それゆえ、コース(ACIM/奇跡講座)を学んでいると言っていいと思います。


そもそもがそんな抵抗がないとしたなら、

神を望むだけで、すでにさっさと神のもとに帰っているはずです。


神への抵抗は、必ず、だれの中にもあります。

自覚しているしていないに関係なく、

この世界にいるということが神を拒否しているということなのですから、


その神に対する自我(の抵抗)と向き合っていくのが、コースだと言うことできると思います。


自我を直視する。


自我を直視するとは、

自我の抵抗を、自覚する、明らかにする、認める、と言い換えてもいいと思います。


その抵抗は、いったいどこからきているのか?

なぜ、抵抗が生じるのか?


それを直視することなしに、神のもとへ帰ろうなどまったくの無謀だと言えるでしょう。


自分の中に「神のもとへ帰ることに抵抗する自分がいる」ことを認めたその時から、

コースの学びははじまると言っていいかもしれません。


神への抵抗をあなどることなかれ。

されど、神への抵抗を怖れることなかれ。


だからこそコースを学ぶのだということです。


このコースを学んでいくならば、そこにはイエス、聖霊がいてくれています。


その手に引かれて、導かれてゆくだけです。


イエスがいてくれるから、聖霊がいてくれるから、

この自分は、自分独りでどうにかしようとする必要などないということ。


言い換えれば、この道は、自分一人でどうにかできるような道ではないということです。


むしろ、イエスや聖霊なしではあり得ない道だといえます。


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大分県日田市大山


2019/02/21

決断の力

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コース(ACIM/奇跡講座)では、

自分の世界で起きていることをどう捉えるか?は「自分に責任がある」と語っています。


それは、起きていること(形態)に責任があるという意味ではありません。


どう捉えるか?どう解釈するか?が自分に責任がある、ということです。


自分のみている世界に起きていることに対してどのように捉えるか?


それは、自分に起きていることの被害者にはならないということです。


自分は、この世界で起きていることの被害者ではありません。


この世界で起きていることのすべての原因は、

自分の誤った選択によるものなのだということです。


つまりは、自分で(誤った選択の)決断したのだということです。


すべては自分の決断の力によるものだと認めること。


さらにいえば、自分が間違っていたことを認めて、

その決断の力を聖霊に与える(譲る/明け渡す)のなら、

そこにこそ救済があるということです。


コースのテキスト第21章  21-2 「視覚に対する責任」で、

そのことについて書かれてありますので、興味のある方はご覧ください。


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<『奇跡講座』テキスト第21章 Ⅱ.「視覚に対する責任」より>


これから述べることが、心眼や幸福や、苦痛からの解放や、罪からの完全な脱出のために、あなたがなすべき唯一のことである。ただ次のように言いなさい。ただし、ためらいなく、本気で言わなければならない。なぜなら、ここにこそ救済の力があるからである。


私が見ているものについての責任は、私自身にある。

私が経験する感情を選択するのは私自身であり、私が達成したいゴールを決めるのも私自身である。

そして自分の身に起こるかに見えるすべては、私が求めて、求めた通りに受け取るものである。


自分に対して為されることを前にして自分は無力であると、これ以上自分自身を偽るのはやめなさい。自分が間違っていただけだと認めなさい。そうすれば、あなたの間違いの結果は、すべて消え去るだろう。


神の子が、ただ自らの外で起こる出来事によってつき動かされているということは、あり得ない。彼に訪れる出来事が、彼による選択ではなかったということは、あり得ない。彼の決断の力は、偶然性や偶発性により自分が居合わせたかのように見える状況のすべてを決定するものである。神が創造したままの宇宙の中には、いかなる偶発性や偶然性もあり得ず、その外には何も存在しない。苦しむとしたら、あなたは罪が自分のゴールと決めたのである。幸せであるなら、自分のために神を選ぶ選択をしてくれる聖霊に決断の力を与えたのである。これがあなたが聖霊に差し出す小さな贈り物であるが、これさえも、あなたが自分自身に与えることができるようにと、聖霊はあなたに与える。なぜなら、この贈り物によって、あなたに自らの救済者を解放する力が与えられ、それにより、彼があなたに救済を与えることが出来るようになるからである。


 ー『奇跡講座』テキスト第21章 Ⅱ 「視覚に対する責任」より抜粋ー 


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2019/02/17

奇跡について

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自分でどうにか(解決)しようとしているうちは、

けっして、その心が変わることはないでしょう。


自分でどうにか(解決)できているうちは、

その心(誤った心)は変わることなく、その心が作り出す夢を見続けるということです。


自分でどうにかできると信じている、もしくは、どうにかしようと思っているうちは、

けっして、聖霊の重要性の意味を知ることはないし、

けっして、聖霊に明け渡してゆだねていくことなど不可能だといえるでしょう。


その自分は、自分のみている夢の中に居続けたいのです。


夢から目覚めたいのであれば、

その自分は、夢の外側の存在に助けを求めるしかありません。


この世界から出たいのであれば、

この世界の外側にいる存在に助けを求めるしかありません。


その存在こそが、聖霊、だといえます。


自分ではどうすることもできないことを受け入れたとき、それは可能になるといえます。


そのときこそ、別の心(聖霊を教師とすること)を選んだということです。


それを、コース(ACIM/奇跡講座)では、「奇跡」と呼びます。


それは、形態のことを言っているのではありません。


それは、これまでの心(考え方)とはまったく別の心を選ぶことを言うのだと思います。


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2019/02/12

献身

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私にとって、
今は亡きケネス・ワプニック博士の存在は、
この道を歩むうえで同じ時代を生きた心強い先達であり、
兄弟であり、教師であるという位置付けです。

もはや、彼のことばはまるで聖霊のことばのようにすら感じてくる次第です。

彼のことを想うだけで、ただただ愛と感謝が沸き起こってきます。

彼は、だれよりも(ヘレンよりも)コースの形而上学(概念)を理解していた人であり、
そしてそのコースの真意がけっして間違って解釈されないように、
その活動にその生涯を捧げた人だといえます。

そして、何よりも、その教えを忠実に実践していた人だともいえます。

ときに、「献身」というとき、
ケネス・ワプニック博士のようにコースのために生涯を捧げることが献身だと、
勘違いをしそうになります。

でも、そうではありません。

なおさら、ワプニック博士の教えるコースに忠実であるならば、
「献身」とは、心(原因)のレベルのことであり、
この世界(結果/形態の世界)のこととは一切関係ないのだとわかるはずです。

形態ではなく、心だということ。
いくら形態で献身していたとしても、その心が自我を満たすためのものであったなら、
何の意味もないどころか、自我をさらに強化することになるということです。

その心は、分離を強める方向か?分離を取り消していく方向か?

ケネス・ワプニック博士から出てくることばを聞くとき、
彼自身がまさにそのことばのままを実践して生きていた人であったということが伝わってきます。

彼の心は、常にその実践に向けられていたのだと思います。

献身(devotion)とは、そういうものだと思うのです。

それは、形態とは一切関係なく、
この一瞬一瞬を聖なる瞬間へと捧げていくだけ、ただそれだけなんだと思います。

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10月中旬のある晴れた日の近所の海です↑

2019/01/20

この世界から出なさい

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真理をこの幻想世界に持ってこようとすることを、

わたしたちは、つい、やってしまいがちです。


同じようにイエスや聖霊をこの世界(のこと)に引きずり込もうとします。


たとえば、

形態(行動)のレベルに関することでイエスや聖霊に導きを求めようとしたり、

逆に、イエスや聖霊がそう告げたというふうにして行動しようとするといったことなど、

そのまったく典型的な例だといえます。


むしろ、イエスや聖霊は、この世界から出なさい!と告げているのであって、

この世界のことについてなんら重要性を持ってはいないと言うことができます。


イエスや聖霊は、この世界の出口の門で手を差し伸べて待ってくれているのです。


その手を取ってこの世界から出る(目覚める)ために、

わたしたちは、コース(ACIM/奇跡講座)を学んでいると言っていいと思います。


それは、イエスや聖霊にすべてを明け渡してゆだねていくようになるための道とはいえ、

それは、けっして形態(行動)レベルのものを目的にはしていないということです。


むしろ、形態(行動)レベルのものを目的とするならば、

この世界を実在させることを強化することになるといえます。


そう、わたしたちは、つい、真理をこの幻想世界に持ち込もうとします。


それは、この道を歩むうえでは妥協なく警戒しておかねばならないことだと思います。


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