2018/09/19

此処と向こう側とのあいだに

ホントは、目に映るこの世界の向こう側(内奥)は愛でしかないんだろうなって思います。

そして、その愛は、この<わたし>と距離のない此処(いまここ)にもあると感じます。

そう感じるとき、
この世界に見えているものなんてホントはすべて取るに足らないんだろうなって思えます。

そして、「此処」にある愛と「向こう側」に見える愛をベールで分け隔てているのが、
まさに自我であり、その自我によって作りだしたこの世界だといえます。

私は、この世界を「薄いベール」というふうに表現したこともありましたが、
実際は、まだまだそのベールは分厚い感じがしています。笑

ただ若干ではありますが、そのベールは緩んで優しくなってきた感はあります。

いつのときかそのベールが剥がれ落ちて、
「此処」にある愛と「向こう側」にある愛とのあいだに分け隔てるものを見なくなるまで、
ただ赦しをしていくだけなのだろうなと思います。

そして、その「いつのときか」こそ、じつは、いまこの瞬間なのだと気づきます。

そう想うとき、日々の一瞬一瞬のすべてを聖なる瞬間に捧げていこうという気持ちになります。

そうなりますように。

IMG_2670.jpg

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■イベント情報■
沖縄県糸満市にて、下記の日程で沖縄ACIM勉強会を定期的に開催しております。
県外から沖縄旅行のついでの参加も大歓迎です。詳細はこちらをどうぞ。

 日時:毎週金曜日10時~12時、毎週日曜日13時半~15時半
 会場:沖縄県糸満市(駐車場有)

2018/09/16

笑いと深刻さ

IMG_2548.jpg

お笑い、いわゆる、コメディ、というものは、
深刻さと表裏一体なのだなって思います。

たとえば、この世界も、それが夢(妄想)だとわかっていたなら、
深刻であればあるほど滑稽にみえてくるといいましょうか、
あまりにも、バカバカしくみえて思わず笑ってしまうものです。

そう、この世界こそ、まさに妄想を信じてしまっている夢だということが出来ます。

そもそもが不可能なことを、
「もしも可能だったら、、、」という設定のコントででっち上げたようなものだということ。

ホントは、このいまも神の一体性の中にいるのに、神の愛に抱かれているのに、
もしもそうじゃないことがあり得るとしたら、、、という妄想の夢をみているだけなのです。

ホントはその妄想の夢の中で起きていることに影響される必要はないのに、
それを深刻にしてしまった(幻想を信じた)ことがそもそもの誤りなのだということ。

この世界にいくら心が動揺させられようとも、それはそれでいいのだってことです。

そのことに深刻になることが、それをリアルにしてしまうのであって、
それも夢の中で起きているのであって、ホントは、何も起きていないのだということ。

そう、たとえば劇場の映画を観て心動かされようとも、だれもそれを深刻にしたりはしません。

聖霊は、そのことを知っています。

深刻になることはないよ。
大丈夫だよ。
妄想の夢をみているだけだよ。

そうやっていつも聖霊は語りかけてくれています。

そう、だから聖霊とともにただ「赦し」をしていくだけなんだなって想います。

いつか、この世界のすべてを微笑みながら見れるように。

そうなりますように。

IMG_2549.jpg

2018/09/01

兄弟の中にキリストを見ていく

IMG_2637.jpg

この世界から解放されたくて、自由になりたくて、
ここまで歩んできたスピリチュアル・ジャーニーですが、
今になって思えば、自分はこの世界をよほど否定していたのだと気づきます。

それは、この世界から自由になりたいのではなく、ただこの世界から逃れたかったのだと。

この世界を否定しながら、この世界を手放そうとしていたのですから、
なんという矛盾でしょう。

それで手放せるわけがありません。

この世界を否定していながら、その自分がこの世界から自由になれるわけがありません。

自分は、この世界をそのように見たかったのだといえます。
そうすることで、自分はこの世界にいることができたのです。

そんなスピリチュアル・ジャーニーも今や最後の旅路をたどっていると自覚します。

その旅路は、もう、この世界で何かをすることではありません。

残りのスピリチュアル・ジャーニーにおいて、
私にとってすべきこととは、

兄弟の中に無罪性、無垢性を見ていくこと、
すなわち、兄弟の中にキリストを見ていくこと、

ただそれだけなのかなと。
そして、そのためだけに、この旅の残りの時間が与えられているような気がしています。

もはや、私の中に「この世界から逃れたい」というような
この世界に対する否定的な想いはなくなっていることに気づきます。

むしろ、罪のない世界を見たいと私は望んでいます。
すべての兄弟たちの中にキリストを見たい、光を見たいと私は望んでいます。

この世界での残りの人生の時間のなかで、私はそれを見ていくことを決意する今日この頃です。

IMG_2638.jpg

2018/08/30

天国にいちばんちかい島

IMG_2634.jpg

聖霊は、
この世界を幻想だと知っており、天の国(神の国)だけが実在すると知っています。

自我は、というと、
天の国(神の国)こそ幻想だと見て、この世界をリアル(実在する)だと見ています。

で、この「自分」は、
以前は、後者の思考システムでこの世界を見ていたわけですが、
前者の視点で見る訓練(赦しの実践)をしているうちに、
次第に本当にその視点へとシフトしていっているのに気づきます。

なにひとつ深刻になる必要はないのだと、
あまりにも当たり前すぎるというか、そりゃそうだとわかります。

そこには平安ということばさえもいらないほどの、平安、があります。

その瞬間は、イエスと共に、すべてを聖霊にあずけ、
神の愛だけが実在するのだと祈りを捧げている瞬間だともいえます。

そんな瞬間は、きっと天の国にちかいところにいるんだろうなと思います。

自分の拠りどころを「島」と呼ぶならば、
天国にいちばんちかい島とは、まさにこの瞬間こそそうだなと想ったりする今日この頃です。

IMG_2641.jpg

2018/08/11

それは信仰心なしに成し得ない

与えることは、受け取ること。

赦すことは、赦されること。

自分がこの世界を赦すならば、自分はこの世界から赦される。

自分がこの世界から自由になりたくば、自分がこの世界を自由にすればいいだけ。

それはとてもシンプルでありながら、もはや自分でそれを成し遂げることはあり得ない。

自分に出来ることは、ただそれを意図(願う)することだけ。

というのも、

この自分であり得ないことをあり得ると信じたからだ。

そのように信じているこの自分は、

自分を超えた大いなる力(存在)を信頼することなしに、

それを成し遂げられることはけっしてないということ。


IMG_1778.jpg