2019/02/14

無意味

何の意味もない。

この部屋の中にみえているものには、何の意味もない。
ー『奇跡講座』ワークブック レッスン1-

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この世のすべては無意味である、
ということをこれまでも(頭では)わかってはいたものの、
あーそうなんだなぁって深く腑に落ちる今日この頃です。

それは、虚無とか絶望とかというものとはまったくちがいます。

真に、神だけを求める、ということ自体が、
そういう思考体系でみていくしかあり得ないと納得するわけです。

とはいえ、この自分は、まだまだすべてを無意味だとはみていないのも事実です。

この自分は、まだまだこの世界を信じています。
この自分は、まだまだ分離を信じています。

その自分の内側をじっくり正視するならば、神なんかよりも、
全然お金のほうを大事だと思っているし、頼りになると思っています。笑

ようするに、それは、
「神よ!あなたの愛では満たされず、お金ならこの自分を満たしてくれると信じています」
と想っているのと同じだということです。

父よ!
わたしは、そのことを認めます。
わたしは、あなた(の愛)を否定したのです。
あなたから離れることを信じる選択をしたのはこのわたしです。

聖霊よ!
わたしが、誤っていました。
どうかわたしの選択の誤りを取り消してください。訂正してください。
そして、父から離れることなどあり得なかったのだとどうぞ思い出させてください。

この祈りがあなたに届きますように。

アーメン

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2019/01/24

聖性

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だれかを咎めながら、だれかを批判しながら、
そんな自分は天国へ帰ろうなんて思っているのですから、
なんてこの自分(自我)は無知なのだろうと気づきます。

そんな自分でいながらも、この自分は、
このまま(コースを学んで)神を求めていれば、神のもとに帰れると思っているのですから。笑

そんな自分(自我)の愚かさといえば、まだまだ他にもたくさんあります。

自分のまわりに苦しんでいる兄弟を目にしながら、兄弟の愛を求める叫び声を聞きながら、
そんな兄弟をなおざりにして、自分は天国に帰ろう、神のもとに帰れると思っているのです。

ようするに、そんな兄弟を目にしながら、
その苦しみはその兄弟自身のものであって、この自分とは関係ないのだと錯覚しているのです。

でも、もうそのようにみることはできないと気づきます。

もう兄弟をだれひとりとして除外することはできないということです。

だれかを咎めながら、だれかを除外しながら、
それでもって自分は一なる神のもとに帰ろうなんて、なんて無謀なのでしょう!

そんなことは絶対にあり得ないのは、まともに考えるならわかることです。

それでも、つい、だれかを咎めてしまうということは、
やはり、この自分は狂ってる(狂気)のだということを自覚せねばなりません。

それは、自分の誤りを全面的に受け入れていくしかないことを意味します。

すべての原因はこの自分の内側(心)にあるのであり、
その自分が(心)が誤った決断をしたのだということを認めていくしかないということ。

もうだれひとりとして除外しない。
目に映る世界のすべての対象が、そうなんだと。

原因のレベルへ立ち戻って誤りを認めて、決断し直せるようにただ祈るだけだと。

聖性とは、そういうものであると私は思います。


私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。
ー『奇跡講座』ワークブックLesson36よりー


私の心が神の心の一部であるゆえに、
私の心は神聖であり、当然、私の心が見る視覚も神聖なはずです。

私の視覚が、罪を映し出すということがありませんように、
神よ、
あなたに祈りを捧げます。

私の心が神聖であるのは、あなたの心の一部なのだから 、
私の聖性により、私が見るものすべてを包み込むように助けてください。

アーメン

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2018/11/29

兄弟姉妹であるあなたへ

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今の私の暮らしをみると、
あまり人と関わることがないなと気づきます。

せいぜい人と関わるとすれば、
この「沖縄・Palm Church」にお越しいただく方々で、
そのすべての人がコース学習者の方という状況であることに気づかされます。

あえて自ら望んでそうなったのではなく、
気づけば、いつの間にかそうなっていたということです。笑

で、そんな私(もりG)が言うのものなんですが、
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)は自学自習の霊性の道ではあるものの、
コースというものは、人と関りながら、兄弟と関りながら実践していくものであると、
もっといえば、兄弟と関わることなしにこの道の歩みはあり得ないとあらためて思うのです。

やっぱり、兄弟の存在は欠かせないと。

コースは、人から離れて、人と関わらないで、自己の内側へ向かっていくような
そういう道じゃないってことです。

むしろ、兄弟と関わることによって自分の中の無意識が浮き彫りになっていくといいますか、
兄弟と関わることがないならば、それが意識化されていくことがないと思うと、
自分の目の前に現れる兄弟こそが私の救い主だと思えてくるのです。

今の私にとって、兄弟姉妹とは、そういう存在です。

この世界を、この人生を、赦しのレッスンのための「教室」とするとき、
いわば、この自分と出会っていく彼らが聖霊の使者というふうにみえているということです。

私が、兄弟と出会っていきたい、というその衝動は、
そこからやって来るのだと言っても過言ではありません。

私は、兄弟ともっと関わっていくことを望んでいるということです。

聖霊よ!わたしはそれを望んでいます。

兄弟姉妹であるあなたへ。
そして、これから出会うであろうあなたへ。
私は、あなたを聖霊の使者としてみていくことを意図します。

あなたとの神聖なる出会いを、私は心待ちにしています。

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2018/11/04

客観的になるならば

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コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)について想うことがあります。

客観的になるならば、
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)のスピリチュアリティというものは、
他のスピリチュアリティと比べると、ホントにつまんないものだと思います。

派手さがないといいましょうか、楽しさがないといいましょうか。

むしろ、なんて地味な道なんだろうって思います。笑

なにせ、コースは、この世界に絶望しなさい、この世界を放棄しなさい、というものですから、
この世界で幸せになりたくてスピリチュアルを探究している人にとっては
何とも興味の向かないものとみえるでしょうし、それ以前に、目にも止まらないことでしょう。

そう、コースは万人向けじゃないですし、そうそう受け入れられるものではない、
とうていみなさんに薦められるものではないと、あらためて思うわけです。

そんな道よりも、楽しくて明るいスピリチュアリズムは他にもっとあるわけですから。

客観的にみれば、そんなことを想ったりするのですが、
だとしても、それでもこの自分はこの道を実践してゆこうと思っているわけです。

どの道をゆこうと結局行き着くところはこの道であり、
この道以外に自分の探し求めている道はないのだということが自分でわかるからです。

もちろん、嫌気がさすときもあります。

いくら赦しの実践だと言ったって、心が晴れずにモヤモヤするときもあります。

それすらも赦しの対象として、
それでも、やっぱり赦しをしていくだけなのだと思うわけです。

この世にはそういうものから逃がれられる(紛らわせる)ものが探せばたくさんあります。

明るく楽しくワクワクするようなスピリチュアルの探究の道は他にもたくさんあります。

それでも、この道(コース)を歩んでゆこうと思うその原動力はどこからくるのか?

それはこの私にもわかりません。

ただ、この道を歩んでても楽しくない、つまんない、やる気がしない、、、
そういう感覚に陥らない人なんていない、ということをお伝えしたいのです。

そういうときこそ、そういう感覚に気づいていくことが赦しのレッスンなのだと。

それは、私自身へのエールでもあり、兄弟姉妹であるあなたへのエールとして、
この想いがだれかに届いたなら幸いです。

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2018/09/19

この機能が果たされますように

ホントは、目に映るこの世界は無でしかないのに、
この自分は何してんだろう?って思います。笑

ホントは、何も起きていないのに、
それでも、この世界の事象に いちいちこの自分は一喜一憂しているのですから、
呆れてしまうほどです。

すべては、心の不快な感覚(罪悪感、罪意識、怖れ)が、
この世界があたかも実在しているようにみせているだけなのですから。

ということは、やっぱり、生起してくる心の不快な感覚(それを総じて罪悪感と呼ぶとして)を
一つ一つ実在させないように取り消していくしかないのだろうな、と思います。

いわゆる、それが「赦し」というものです。

この世界は心の(内側の)罪悪感を隠蔽するために、
そこに目を向けさせないようにごまかすためのトリックだなんて、
いったいだれが気づくでしょう!

この世界にみえているものなんてホントはすべて取るに足らないって、
だれが見抜くことができるでしょう!

それでも、そんなふうにはみえていないのだから、やはり、赦しをしていくほかないのです。

それは、実践していくほかないということ。

いくら形而上学的に理解したところで、実践せずしてになんの意味があるというのでしょう。

この世界は実在していない、と心底そう思えるまで、
この自分はただひたすら赦しをしていくしかないのだなぁって思います。

むしろ、それ以外、ホントはこの世界ですべきことなんてないのですから。

それが、この自分の機能なのだということ。

いつのときか、その機能が果たされるときがくるまで、
ただ赦しをしていくだけなのだと思います。

この機能を果たせますように。

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