2018/11/04

客観的になるならば

暦は11月だというのに、沖縄はまだまだ温かいです。
とくに、今日は朝から南国特有の湿った生暖かい気候でTシャツ一枚でも汗ばむくらいです。
温かい気候はやっぱりありがたいって思います。
沖縄に越してきて良かった、沖縄はやっぱりいいなぁ、って思います。

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ほぼコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)漬けの日々を暮らしているこの私ですが、
ふと、コースについて想うことがあります。

客観的になるならば、
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)のスピリチュアリティというものは、
他のスピリチュアリティと比べると、ホントにつまんないものだと思います。

派手さがないといいましょうか、楽しさがないといいましょうか。

むしろ、なんて地味な道なんだろうって思います。笑

なにせ、コースは、この世界に絶望しなさい、この世界を放棄しなさい、というものですから、
この世界で幸せになりたくてスピリチュアルを探究している人にとっては
何とも興味の向かないものとみえるでしょうし、それ以前に、目にも止まらないことでしょう。

そう、コースは万人向けじゃないですし、そうそう受け入れられるものではない、
とうていみなさんに薦められるものではないと、あらためて思うわけです。

そんな道よりも、楽しくて明るいスピリチュアリズムは他にもっとあるわけですから。

客観的にみれば、そんなことを想ったりするのですが、
だとしても、それでもこの自分はこの道を実践してゆこうと思っているわけです。

どの道をゆこうと結局行き着くところはこの道であり、
この道以外に自分の探し求めている道はないのだということが自分でわかるからです。

もちろん、嫌気がさすときもあります。

いくら赦しの実践だと言ったって、心が晴れずにモヤモヤするときもあります。

それすらも赦しの対象として、
それでも、やっぱり赦しをしていくだけなのだと思うわけです。

この世にはそういうものから逃がれられる(紛らわせる)ものが探せばたくさんあります。

明るく楽しくワクワクするようなスピリチュアルの探究の道は他にもたくさんあります。

それでも、この道(コース)を歩んでゆこうと思うその原動力はどこからくるのか?

それはこの私にもわかりません。

ただ、この道を歩んでても楽しくない、つまんない、やる気がしない、、、
そういう感覚に陥らない人なんていない、ということをお伝えしたいのです。

そういうときこそ、そういう感覚に気づいていくことが赦しのレッスンなのだと。

それは、私自身へのエールでもあり、兄弟姉妹であるあなたへのエールとして、
この想いがだれかに届いたなら幸いです。

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2018/09/19

此処と向こう側とのあいだに

ホントは、目に映るこの世界の向こう側(内奥)は愛でしかないんだろうなって思います。

そして、その愛は、この<わたし>と距離のない此処(いまここ)にもあると感じます。

そう感じるとき、
この世界に見えているものなんてホントはすべて取るに足らないんだろうなって思えます。

そして、「此処」にある愛と「向こう側」に見える愛をベールで分け隔てているのが、
まさに自我であり、その自我によって作りだしたこの世界だといえます。

私は、この世界を「薄いベール」というふうに表現したこともありましたが、
実際は、まだまだそのベールは分厚い感じがしています。笑

ただ若干ではありますが、そのベールは緩んで優しくなってきた感はあります。

いつのときかそのベールが剥がれ落ちて、
「此処」にある愛と「向こう側」にある愛とのあいだに分け隔てるものを見なくなるまで、
ただ赦しをしていくだけなのだろうなと思います。

そして、その「いつのときか」こそ、じつは、いまこの瞬間なのだと気づきます。

そう想うとき、日々の一瞬一瞬のすべてを聖なる瞬間に捧げていこうという気持ちになります。

そうなりますように。

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2018/09/16

笑いと深刻さ

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お笑い、いわゆる、コメディ、というものは、
深刻さと表裏一体なのだなって思います。

たとえば、この世界も、それが夢(妄想)だとわかっていたなら、
深刻であればあるほど滑稽にみえてくるといいましょうか、
あまりにも、バカバカしくみえて思わず笑ってしまうものです。

そう、この世界こそ、まさに妄想を信じてしまっている夢だということが出来ます。

そもそもが不可能なことを、
「もしも可能だったら、、、」という設定のコントででっち上げたようなものだということ。

ホントは、このいまも神の一体性の中にいるのに、神の愛に抱かれているのに、
もしもそうじゃないことがあり得るとしたら、、、という妄想の夢をみているだけなのです。

ホントはその妄想の夢の中で起きていることに影響される必要はないのに、
それを深刻にしてしまった(幻想を信じた)ことがそもそもの誤りなのだということ。

この世界にいくら心が動揺させられようとも、それはそれでいいのだってことです。

そのことに深刻になることが、それをリアルにしてしまうのであって、
それも夢の中で起きているのであって、ホントは、何も起きていないのだということ。

そう、たとえば劇場の映画を観て心動かされようとも、だれもそれを深刻にしたりはしません。

聖霊は、そのことを知っています。

深刻になることはないよ。
大丈夫だよ。
妄想の夢をみているだけだよ。

そうやっていつも聖霊は語りかけてくれています。

そう、だから聖霊とともにただ「赦し」をしていくだけなんだなって想います。

いつか、この世界のすべてを微笑みながら見れるように。

そうなりますように。

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2018/09/01

兄弟の中にキリストを見ていく

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この世界から解放されたくて、自由になりたくて、
ここまで歩んできたスピリチュアル・ジャーニーですが、
今になって思えば、自分はこの世界をよほど否定していたのだと気づきます。

それは、この世界から自由になりたいのではなく、ただこの世界から逃れたかったのだと。

この世界を否定しながら、この世界を手放そうとしていたのですから、
なんという矛盾でしょう。

それで手放せるわけがありません。

この世界を否定していながら、その自分がこの世界から自由になれるわけがありません。

自分は、この世界をそのように見たかったのだといえます。
そうすることで、自分はこの世界にいることができたのです。

そんなスピリチュアル・ジャーニーも今や最後の旅路をたどっていると自覚します。

その旅路は、もう、この世界で何かをすることではありません。

残りのスピリチュアル・ジャーニーにおいて、
私にとってすべきこととは、

兄弟の中に無罪性、無垢性を見ていくこと、
すなわち、兄弟の中にキリストを見ていくこと、

ただそれだけなのかなと。
そして、そのためだけに、この旅の残りの時間が与えられているような気がしています。

もはや、私の中に「この世界から逃れたい」というような
この世界に対する否定的な想いはなくなっていることに気づきます。

むしろ、罪のない世界を見たいと私は望んでいます。
すべての兄弟たちの中にキリストを見たい、光を見たいと私は望んでいます。

この世界での残りの人生の時間のなかで、私はそれを見ていくことを決意する今日この頃です。

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2018/08/30

天国にいちばんちかい島

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聖霊は、
この世界を幻想だと知っており、天の国(神の国)だけが実在すると知っています。

自我は、というと、
天の国(神の国)こそ幻想だと見て、この世界をリアル(実在する)だと見ています。

で、この「自分」は、
以前は、後者の思考システムでこの世界を見ていたわけですが、
前者の視点で見る訓練(赦しの実践)をしているうちに、
次第に本当にその視点へとシフトしていっているのに気づきます。

なにひとつ深刻になる必要はないのだと、
あまりにも当たり前すぎるというか、そりゃそうだとわかります。

そこには平安ということばさえもいらないほどの、平安、があります。

その瞬間は、イエスと共に、すべてを聖霊にあずけ、
神の愛だけが実在するのだと祈りを捧げている瞬間だともいえます。

そんな瞬間は、きっと天の国にちかいところにいるんだろうなと思います。

自分の拠りどころを「島」と呼ぶならば、
天国にいちばんちかい島とは、まさにこの瞬間こそそうだなと想ったりする今日この頃です。

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