2018/09/17

知覚とは

IMG_2662.jpg

「知覚」ということばをいうとき、
わたしたちはつい五官の感覚による知覚のことをイメージしがちです。

ですので、「知覚が変わる」というとき、
五官で知覚する世界が変わるものと思いがちです。

攻撃してきていた人が優しくなったりとか、
うまくいかなかったものがうまくいきはじめたりとか、
目で見える状況が変わったり、とか、
たしかに、そういうこともあるといえばあるのですが、
「知覚が変わる」というのは、そういうことを言っているのではないということです。

ケネス・ワプニック博士は、
「見る」ということについて、すなわち、「知覚」ということについて

「知覚」とは、「解釈」のことである

と語っています。

つまり、「知覚が変わる」とは、「解釈が変わる」ということなのだ
というふうに受け止めると、わかりやすいし、納得がいきます。

なので、誤った知覚を聖霊に訂正してもらうことをお願いする(赦しの実践)とき、
「聖霊よ、どうぞあなたの視点で見させてください、別の視点で見させてください」
というふうな言い方で明け渡したりしますが、
「聖霊の視点で解釈させてください、別の視点で解釈させてください」
というふうな意味合いで明け渡すといいかもしれません。

http://www.jacim.com/jcm/?p=2010

IMG_2668.jpg

2018/09/14

聖霊とともに戦場の上から眺める

IMG_2652.jpg
 
不動の心。

それは、この世のものに一切揺るがされることのない心のことをいいます。

真理探究の道を歩みはじめた当初は、
「不動の心」というとき、弱い心を克服したり鍛錬していくことで、
心が強くなっていってそうなるものだと思い込んでたなぁって気づきます。

でも、そういうことじゃなかったんだって、今ではわかります。

心を強くしていくようなものでななくて、そういうこととは一切関係がないんだってこと。

変化する自分(動揺する自分)とはまったく別に、
変わることなくただ在り続けている本当の自分がいるのだということ。

たとえ、この自分は心揺るがされて影響を受けたとしても、
その自分(だと想っている自分)こそが本当は実在なんかしていなくて、
真の自己(神)は一切影響を受けていないのだということ。

そして、そっちが本当の自分だってことを思い出すだけでいいのだということです。

ようするに、心動かされてる自分は、「本当の自分」じゃないのだから、
つまり、その自分(自我)をどうのこうのしようとする必要はないってことです。

むしろ、その自分を変えよう(より良き自分になろう)とすること自体が、
自我の幻想(トリック)に付き合っているということであり、
それによって自我をリアルに(実在するものと)してしまっているということです。

そう、自分の内には、その真実を知っている聖霊がいます。

聖霊とは、神の記憶を覚えている「正しい心」の部分だといえます。

自我に気づいていくこと、そして聖霊と共にその自我を直視していくこと。
それが、わたしたちがしていくことだといえます。

コース(ACIM/奇跡講座)の中のイエスはこう言います。

赦しは、静かにじっとしていて、何もしない。
、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
ー「ワークブック 赦しとはなにか」よりー

あらためてこのことばが深く腑に落ちます。

そして、ワプニック博士のこのことばにも頷かされます。

「赦しが何をするかと言えば、この「戦場を超えたところ」に戻ってくるだけで、、、
あとは何もしないのです。
なぜなら、存在してもいないものについて為すべきことなど何もないからです。」

不動の心とは?
そして、赦しとはなにか?

今になって、そのことがよーくよくわかる今日この頃です。



http://www.jacim.com/jcm/?p=3495

2018/09/13

肉眼の目でみるかぎり罪をみる

IMG_2657.jpg

肉眼の目でこの世界をみているかぎり、
「罪を見ない」ということは絶対にあり得ないのだなとあらためて気づきます。

ちなみに、肉眼の目でみる、とは、
この自分は身体(人間)だとしている、ということです。

そして、その自分は、
「この世界の夢を見ている者(主体)である」ということをすっかり忘れている、
ということです。

そこからこの世界をみるかぎり、
必ずや他者の中に罪をみることになる、ということです。

そのことが深く腑に落ちる感じがして、
まさに「なーんだ、そーなんだ」という、安堵感すら覚えます。

というのも、もういちいちだれかを裁いたりする必要もないなと思うからでs。

むしろ、裁いていたことが、滑稽にさえ思えてきます。

というのも、自分は「この世界に善良な人(罪なき人)がいる」と思っていたということです。

そんな人(罪なき人)などいないとなれば、裁くことになんの意味があるというのでしょう!?

わたしたちが「他のだれかを裁く」とき、
この世界にまともな人(罪なき人)がいると信じているから、裁くことができるのであり、
端(はな)からみんな狂ってる(まともな人なんていないのだ)とわかっていたなら、
裁くことがなんてばかばかしいと気づくものです。

ケネス・ワプニック博士は、こう言います。

「ある意味では、この世界のすべてが悪行なのです。
  この世界に何一つとして、正しいものはありません。」と。

まさに、そのように思っていたほうが、
他人に対しても、自分自身に対しても寛容になれる気がします。

イイ意味で、この世界を諦められる(手放すことができる)といいましょうか。

結局のところ、この世界のどこをみても、だれをみても、
その自分は悪人や加害者を探し出しては、裁く、ことからは逃れられないということです。

この自分は罪をみたくてこの世界をみているのですから。

自分の真のアイデンティティーを否定しているがゆえ、
つまりは、自分のことを
神の子ではない(神から分離した)、愛ではない(愛されていない)存在だとしている、
としているがゆえ、だれをみても罪があるようにみえるのは必然だということです。

その喩え話として、ケネス・ワプニック博士のビデオで、
「映写機のレンズに付着した汚れ(一点の闇、一粒の塵)」
という比喩を使って面白く表現されています。
(ビデオの本題とはズレるかもしれませんが、、、)

「肉眼の目でみるかぎりは他人の中に罪をみることになる」ということについていうと、
そのことをわきまえている、いない、では、ずいぶんちがうなと感じます。

そのことをわきまえることで、
この世界をまるごと赦すことがずいぶんとスムーズになったと感じています。

そんなことを想う今日この頃です。

http://www.jacim.com/jcm/?p=3143

IMG_2661.jpg

2018/09/12

罪のなすりつけ合いゲーム

ケネス・ワプニックさんは、こう言います。

「この世界の目的は、 他人の罪を証明することによって、 自分は無罪だと証明すること。
 それが、この世界の目的です。」と。

そのことばが、今の自分にはよく理解できます。

自分にも十二分に心当たりがあると自覚するのです。

つまり、自分は無罪だと証明することで「この自分は無垢な存在である」としたいし、
そうすることで「自分は無垢になれる」と信じているということです。

なぜなら、無垢であれば、ゆるされる、愛される、と思っているからです。

そう、わたしたちは、神にゆるされたいし、神に愛されたいのです。

そのために、わたしたちはお互いに投影し合って、罪のなすりつけ合いのゲームをしている
というふうに言うことが出来ます。

コース(ACIM/奇跡講座)の中のイエスはこう言います。

これは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外のなんだろうか。
ー「ワークブック レッスン191」よりー

たしかに自分は、この世界でそのゲームをしてると気づきます。

自分がこの世界でしていることとはそういうことなのだと、認めるとき、
そして、そもそもこの世界とはそういう世界なのだと、認めるとき、
そんなこの世界に執着することになんの価値があるというのでしょう!
むしろ、そんな世界にはなんの価値もないと思うのが正気だと言えます。

この世界に価値や希望を見い出そうとしていた自分はなんて滑稽なのでしょう。

そんな自分に思わず苦笑いしてしまう今日この頃です。

http://www.jacim.com/jcm/?p=1068

IMG_2659.jpg 
2018/09/10

信仰と心理学の融合

コース(ACIM/奇跡講座)の形而上学における学びが深まるにつれて、
自分自身、以前とは大きく変わったなぁと感じるのは、信仰心だと気づきます。

信仰するものがシフトしたと言いましょうか。

以前でいえば、私は、コース(ACIM/奇跡講座)を学ぶ者でありながら、
神よりも、やっぱりこの世界のもののほうを信仰していたといえます。

「この世界のもの」とは、外的なもの、物質的なもののことです。

それが人であったり、お金であったり、モノであったり、地位といったものであったり、
そういったものがこの自分を安心させてくれていましたし、喜びを与えてくれていましたし、
それらを価値あるもの(大事なもの)としていたと気づくのです。

そういったものをこの自分は信仰していた、と今でははっきりわかります。

「信仰していた」とは、心の拠り所としていた、ということです。

そんな私の信仰心は、
コースの形而上学を深く理解するようになって、
この世界のものを超えて、神へと向かっていることを自覚します。

まさに、最近の私は、そこが大きく変わったなと気づきます。

そういう意味では、形而上学を理解していくことはホントに大事なことだなと感じます。

「神を第一に求めなさい」「信を培いなさい」と誰かからいくら教わったとしても、
コースの形而上学を理解することに優るものはないということです。

その形而上学を真に理解していくならば、おのずと実践的になると実感するからです。
 
IMG_2658.jpg

さて、
神への「信」が培われてきたことを実感する今だからこそ、
コースというものがどういうものか?がさらに明確になってみえてきた感があります。

というのも、変な言い方になりますが、
コースの道は、神を求めていく(信仰していく)ような、そういうものではない、
ということです。

もちろん、コースは神のもとへと帰っていくためのものではありますが、
神への「信(信仰心)」を培っていくことで神のもとに帰ろうとすることが、
コースの教えとするところではないということです。

もしそうだとしたならば、修道士にでもなってただ神だけを信仰していけばいいわけで、
そういった類いの宗教やスピリチュアリズムはすでに他にたくさんありますし、
つまりは、コースでなくともいいわけです。

で、コースのなにが特徴的なのか?というと、
心理学的な要素が織り交ぜられている、というところが独特だなと思うわけです。

コース(の中ののカリキュラムに)には、
神への信(信仰心)を培っていくプロセスと、幻想(自我)を直視していくプロセスの
両方のプロセスが含まれていて、
中でも、まさに後者の心理学的な要素が取り入れられていることによって、
その具体的な実践(アプローチ)法まで示されているといえます。

それが「赦し」というものです。

ようするに、コースは、
神(真理/愛)への信を深めていく、ということよりも、
むしろ、神(真理/愛)への障壁となるものを直視していくことに重点を置いている、
と言うことが出来ると思います。

そして、その心理学的な要素が織り交ぜられているのが、
他の一元論(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと異なる点だと言えると思います。

コースは、信仰的でありながら、学術的(アカデミック)でもあるということです。

コースは、神への信だけによって神のもとへと帰っていくものではないということ。

そのことに関していうなら、興味深いことに、
ケネス・ワプニックさん自身の生涯をみるとき、
彼の人生そのもののにそこの部分の重要性が明確に表現されているといえるでしょう。

彼には、もともと神への強い「信」があって、修道士として余生を過ごすつもりでいたこと。

彼は、コースに出会うまでは、そのつもりでいたということ。

でも、彼の人生は修道院に入って信仰的生活に従事するものではなかったということです。

彼は、サイコロジスト(心理学者)として、サイコセラピスト(心理療法士)として、
コースの形而上学を理解しやすく解説する活動に従事したという点です。

私は、彼の人生自体がまるでコースの真髄を表した象徴のような気がしてなりません。

それは、この私(もりG)が心理セラピストであるがゆえ、
心理に携わる身であるがゆえに、そう感じるのかもしれません。

コースの心理学的な側面の重要性に気づくのです。

それは、ただただ信(信仰心)を培っていくものでもなければ、
ただ一元論(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティを学ぶものでもないということ。

それは、心理学的な部分の理解が大いに必要とされるものであるということ。

それこそ、信仰と心理学の融合、です。

それは、2000年前、イエスが生きた時代ではけっして成し得なかったことです。

なぜなら、その時代は心について学術的に解明されていなかった時代なわけで、
なにせ、心理学がはじまったのは1800年代以降のことですから。

ただ、今のわたしたちにはその恩恵が与えられています。

それが、『ア・コース・イン・ミラクルズ(ACIM)』というものだと。

それは、心理学者によって口述されたものであるということ。

そして、心理学者であったケネス・ワプニックさんだからこそその内容を把握できたのだと。

心理セラピストとして、そして、コース学習者として、
私は、コースについてそんなことを想う今日この頃です。

IMG_2651.jpg
近所の散歩道