2019/01/21

なんて素晴らしい世界

ケネス・ワプニック博士は、こう言います。

あなたが「この世界はなんて素晴らしい世界なのだろう!」と思っているとしたなら、
それは、「神のいない世界はなんて素晴らしい世界なのだろう!」と言っているのであり、
その自分は狂っているのだと自覚しなさい、と。

どんなに幸せであったとしても、どんなに素晴らしく美しい光景を目にしたとしても、
この自分がこの世界にいるということは、
誤った心(自我)を選択しているのだということを自覚しなさい、と。

つまり、この世界の幸せで妥協するのはやめなさい、この世界を超えていきなさいと、 
はっきり言い切っているように思えます。

そんな彼の言葉は、とても厳しい言葉にも聞こえます。

ただ彼は、実際に本当にそれを実践していた人なんだと私は思うのです。

妥協することなく神(天国)を求めていた彼を、私はいまさらながら凄いと感じています。

コースの道を歩む私にとって、先達としての彼の存在がとてもありがたいと感じています。

彼の言葉は、コースを学習しながら神を求める者たちにとってすらも、
なかなか受け入れられなかっただろうと思います。

そしてそれは、彼が亡くなったこの今においてもそうなのかもしれません。

むしろ、私にとっては、
妥協することなくその道の実践をまっとうしたケネス・ワプニック博士に、
そして、妥協のないコースを教え続けてくれた彼に、愛、を感じます。

先達として、その道をまっすぐに実践していた彼にただただ感謝するばかりです。

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2019/01/19

コースを実践しないコース学習者

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コースを実践しないコース学習者。

それは、コースというものがどういうものか?わかっていながらも、
それを実践しようしない学習者のことを言います。

その象徴となる存在こそ、かのヘレン・ シャックマンだと言えるでしょう。笑

ヘレン・ シャックマンは、コース(ACIM)を口述した人物でありながら、
かつ、コースの理論(形而上学)をもっとも理解していた人物でありながら、
そうでありながらも、それを実践をしなかった人物だと言えます。

そのことはとても不可思議でありながらも、
それもそれで完璧なる聖霊(イエス??)の采配だなと思ったりします。

そして、コースを実践しようとしないそんなヘレン・シャックマンと間近で接しながらも
それを赦したケネス・ワプニックさんは、ホント凄いなと思います。

まさに彼こそコースの教えを忠実に実践した人なんだろうなって思ったりします。

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2018/12/27

ケイジジョウガク

これまで私は、「形而上学、ケイジジョウガク、けいじじょうがく」と、
コースの形而上学(理論)を学ぶことの重要性を口うるさく言葉にし続けてきたわけですが、
それは、きっと自分自身に言い続けていたのだと思います。

ただ、もうこれからはあまり言い続ける必要もないかなと感じています。

というのも、かくいう私もそうだったように、
コース学習者は必要な時になれば、おのずとそれを学ぶ機会に出会っていくのであり、
そうでなくともそれでいいのだと思えてきたからです。

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私が「コース(ACIM/奇跡講座)の形而上学」ということばを使うとき、
それは、ワプニック博士の提唱するコースの形而上学のことを言います。

ゆえに、私が実践する赦しというものも、
ワプニック博士の提唱するコースの形而上学に基づいた赦しになるのは当然のことです。

とはいうものの、この私も、ワプニック博士の提唱するコースの形而上学を真摯に学び、
それに基づいた赦し(真の赦し)を実践するようになる以前といえば、
自分なりのやり方で赦しをしていたことは否定できません。

それでも当時の私は、
それでコースの実践として赦しをしていると思っていたのです。

今では、その赦しは、全的な(包括的な)赦しではなく、部分的な赦しだったと気づくのです。

それというのも、本当の原因レベルでの問題を自覚しない限り、
それは訂正されないことはあきらかだとわかるのです。

すべてはこの自分が決断したのだ、というところに戻らない限り、
その忘却のベールはいつまでも自分の秘密を隠し続けることになるということ。

その真実を隠したまま赦しをしているつもりでいることも可能だということ。

赦しといえども、いろいろなやり方や段階、そしてプロセスがあるように思います。

ただ、もはやいまの私にとっては、自分なりの赦しのやり方なんて必要なくて、
ワプニック博士の提唱するコースの形而上学に忠実に則った赦しのやり方がすでにあるわけで、
それに、それが一番自分にしっくりくるのだから、
これ(ワプニック博士の提唱するコースの形而上学)を学んで実践していけばいいのだと
思っている次第です。

しかも、それはだれもが学ぶことのできるものであり、
だれもが実践に適用できるやり方だと実感するのです。

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ある見方からいえば、
私は、ワプニック博士の提唱するコース形而上学に固執しているのかもしれません。

だからといって、ワプニック博士の提唱するコース以外でもう学ぶ気になりません。

私は、いつかコースというものすら必要なくなるそのときまで、
これ(ワプニック博士の提唱するコース形而上学)で学んでいくつもりです。

私個人にとって、もうすでにスピリチュアルの探求というものは終わっています。

探すものなんてもはやあり得ず、ただ学んで、そして実践していくのみだと思っています。

これがコース学習者たるものなんてものももう必要ないと気づきます。

聖霊とともに。
イエスとともに。
この瞬間瞬間を赦しだけに明け渡せるようになるまで、
私は生涯これをただ実践していくつもりです。

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2018/11/12

ゴールを射程圏内に捉え始めた

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この私もまだまだコース学習の途上ではありますが、
私自身がコース(ACIM/奇跡講座)を学んで個人的に感じているのは、
ケネス・ワプニック博士(FAICM/JACIM)の解説がなかったなら、
その概念を理解するのに20~30年はかかるどころか、
ひょっとしたなら、一生かかっても理解することはなかったかも、と思ったりします。

そういう意味で、ケネス・ワプニック博士の存在は、
コースを学習する者(私自身)にとってはなくてはならない存在だと思う次第なのです。

コース(ACIM/奇跡講座)というものは、
概念(形而上学)の理解と実践によってその学びは深まっていくといえます。

その概念的理解なくして日常の中で実践として適用(応用)していくことなどできないと
つくづく実感するのです。

曖昧な理解のものとでは、やっぱり、曖昧なところでの実践しかできません。

その曖昧なままの実践でもたしかにそれなりの成果を実感することもあるかもしれません。

でも、結局のところ、コースを学んでいるつもりでいても、
実際は、とりとめのないゴールを求めているような感覚はいっこうに拭い去られない、、、
というふうになるはずです。

かくいう私自身こそがまさにそうでした。
(ケネス・ワプニック博士の提唱するコース形而上学を学ぶようになるまではそうでした。)

そう、私は、そのゴールを射程圏内に捉え始めているという実感を感じているということです。

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コースの学びが進んでくると、妥協なき実践が求められるようになっていきます。

その妥協なき実践こそが、真の赦しの実践だということです。

自分のことを人間である、自分はこの肉体(身体)である、と信じたまま、
真の赦しをすることはできません。

この世界は実在している(現実/リアル)と信じたまま、
真の赦しをすることはできません。

とはいえ、この時間と空間の世界のなかに自分は居ると知覚しているわたしたちは、
そのようには思って(信じて)はいません。

そう、ふだん、わたしたちは、
「自分は人間であり、この身体であり、この世界の中で生きている」と信じています。

「この世界は実在していると思いながら、あるいは、この自分は身体であると思いながら、
 コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を実践することはできない」
 とワプニック博士は言います。

この世界を超えていくことを真に望んでいるのならば、
自我(幻想)を完全に見切っていく他に道はなく、
そのためにも自我の精神力動を完全に見極めていくために(赦しをマスターしていくために)、
コースの概念的理解(形而上学的理解)は絶対に欠かせないといえます。

それをマスターせずして、真の悟りなどあり得るのでしょうか?
それをマスターせずして、アセンデッドマスターになるなどあり得るのでしょうか?

それをマスターせずして、つまりは、自我を「無(幻想)」だと完全に見切ることなくして、
自分はこの世界から自由になれる、自分はこの世界を超えてゆける、など、
まともに考えても、そんな自分(自我)は狂気でしかありません。笑

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ときに、私自身、この道を歩んでいながら、全然楽しくない、と思うときも正直あります。
なにか紛らわせてくれる楽しいことをこの世界に探しているときも、もちろんあります。
深刻になりそうなときもあります。

それでも、やっぱりそんなときこそ学んできた概念的理解(形而上学)が、
そんな想いこそが自我(のトリック)なのだと気づかせてくれるのです。

コースを学び始めた頃は、コースはとても難解にみえます。
なぜなら、それは聖霊の思考システムから書かれたものだといえるからです。
なので、テキスト、ワークブック、マニュアルに書かれてあることがわかるようになったなら、
それは、自分が聖霊の思考システムにシフトしている証であるということができます。

ただ、自我にとって、コースに書かれてあることの一部のみを都合よく受け取って
理解することも可能ですので、
もし、テキスト、ワークブック、マニュアルに書かれてある一部分しかわからなかったり、
曖昧にしかわかっていないのならば、
自分は、まだ聖霊の視点からこの世界を知覚していないことを自覚すべきです。

ちなみに、
赦しとは、こういうものであり、こうあるべきだ、と言いたいのでもありません。
赦しというものについて、その実践において、それぞれの段階とプロセスがあると思います。

ただ、コースというこの道は、自我を、幻想を、直視していくものであり、
それらを実在するものとしたまま、それらを見切ることなく、(それらを隠ぺいしたまま)、
神のもとに帰れるわけがないということです。

妥協なき実践には、そこに妥協なき根拠(バックボーン/精神的支柱)が必須だということ。

その根拠こそが、形而上学的理解なのだといえます。

それなくして、妥協なき実践など成し得ないということです。

それは、自分自身へのメッセージであり、わたしであるあなたへのメッセージです。

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2018/11/05

そうではないからこそ実践なのだ

「この世界は実在していると思いながら、あるいは、この自分は身体であると思いながら、
コース(ACIM/奇跡講座)を実践することはできない」
とワプニック博士は言います。

赦しを実践していると、まさにその通りであることがわかってきます。

コースの中心概念は、赦し、であり、
コースの実践とは、まさに赦しの実践だと言い換えられます。

そう、この世界は実在するとしながら、自分は身体であり人間であるとしながら、
赦しなんてできるわけがありません。

ようするに、コースを深く理解していくなら、
「赦し」というものが、そういうものになっていくといえます。

それは、アイデンティティーのシフトといいましょうか、
それは、思考体系自体まるごとのシフトといえます。

「赦し」を実践している者ならば、
ワプニック博士のことばはごもっともであるということがわかるはずです。

この世界は実在するとしながら、この自分は身体であるとしながら、
コースの実践、赦しの実践をすることはできない、と。

だからといって、
かくいう私も、日常の中で四六時中そのように知覚しているわけではありません。

そうではないからこそ、実践なのだと。

そのようには知覚していないからこそ、それに気づいていくことが大事なんだと思います。

そのことに気づいたならば、そのたびにただ赦しをしていくだけであり、
それをしていくことが自分に与えられた機能なのだということです。

つまり、コースは、
これが世界だと、これが自分だと思っていたものを超えていく道であるということです。

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