2017/02/10

求むるは実相のみ

目覚めとは、幻想から目覚めるということであり、

幻想の中で別の幻想に移行することではない。


たしかに、そのプロセスにおいて幻想の内容は移り変わっていくかもしれないが、

たとえ、それが良い幻想であろうが悪い幻想であろうが、

どのようなものであろうとそういった幻想に価値を置くことは何の意味もない。


幻想を「より良く」しようとするならば、それが自らを幻想へと引き込むことになる。

そして、その「より良く」しようとする願望が、やがて苦しみを生みだすことになる。

それが、この二元性世界の原理である。


幻想の中で別の幻想に移ることを求めるわけではない。

求むるは実相のみ。

それ以外は、いかなる程度も関係なくそれらすべてが幻想である。


IMG_2124.jpg


スポンサーサイト
2017/02/05

救済主とはだれか

この世界は、癒されていない心によって作り出された世界である。


なぜなら、癒された心は、この世界を必要としない。

癒された心は、未来を必要としない、つまりは、この時間の世界を必要とはしない。

もう癒しを必要とはしない、それゆえに、もはやこの世界が無意味なものになる。


この世界にいる者たちは、

自分自身も含めて、まだ癒されていないということであり、

そのためにこの世界にいるのだと言うことが出来る。


もっと言えば、他者とは、自分の心の写し鏡である。

ということは、もっとも癒されるべき存在とはこの自分自身であり、

この自分を癒すために、他者は存在しているといえる。


そう、じつは、

だれもが癒し手であり、なおかつ、癒される者であるということ。

自分の目の前に投影した他者を通して自分を癒し、

そして、真の(大いなる)自己に帰っていけるようになっているのがこの世界の仕組みである。


そう、この世界では、だれもがだれかのための癒し手の役割を果たしている。

しかもそれは、この世界で癒しに関わることをしていようがいまいが、

どんなことをしていようが関係がないということ。


他者は、そのために存在し、じつのところ、その他者とは自分自身(の一部)である。


結局は、自分を救済するのは、この自分自身である。

そして、救済すべき存在とは、他のだれでもなく自分自身である。

だれも他の誰かを救済することはできないし、ましてや、救済すべき他者などいない。

それよりも自分を救済することこそが、

他者を救うということであり、ひいてはこの世界の救済になるということだ。


この世界に、他者はいない。

自分しかいないゆえに、救うのは自分であり、救われるのも自分である。

癒すのも自分であり、癒されるのも自分である。

そして、この世界では、だれもがお互いに他者を通して自分を癒すために、

自己と他者の関係として存在している。


自分が救われるとき、自分だけが救われるのではない。

自分の見ている世界の生きとし生けるものすべてが救われるのだ。


その真理(仕組み)を悟る者は、その真理を生きはじめることになる。

つまり、自分自身の救済のための道を歩みはじめる。

そして、その道を歩む者は、

自らが見ている世界において救世主(キリスト)として君臨するようになるであろう。


IMG_2094.jpg


2017/02/04

諸法空相

この世界は、無、である。


仏教の般若心経では、それを「空(くう)」という言い方で表現している。

「空(くう)」とは、実体がない、実在しない、という意味である。


たとえば、

夜見る夢の中で、楽しい夢、あるいは、怖い夢を見ていたとする。

そんなとき、何かのきっかけでふと目が覚めたとき、

それまで見ていた夢は消え失せ、夢だった、現実ではなかった、ということがわかる。

それらは実際にはなにも起きていなかったと。


それは、今自分が現実だと信じているこの世界も同様だということである。


IMG_1846.jpg


2017/02/01

霊的進化について

IMG_2068.jpg


夜見る夢の世界は、なんでもアリだ。


空だって飛ぶことが出来るし、壁だってすり抜けることが出来るし、

テレポーテションだって出来る、いつの時代にだって行くことが出来る、

食べずに生きることだってできるし、超能力なんて当たり前。

龍だって、UFOだって、宇宙人だって、幽霊、天使、悪魔、

天界だって、地獄だって、多次元世界だって、、、

なんだってアリ、、、それが夢の世界というものだ。


すべてがアリなんだと、すべてが可能なんだと。

なぜなら、全部が自分の心が作り出した世界であるからだ。


この世界において、

心(マインド)が開かれていくことで、

そういった何でもアリの世界へと移行していくことが出来る。

それをこの世界では、「霊的進化」「意識進化」「魂の成長」などと呼んでいる。

そして、そういうことの流れにあるのが、

今、巷のスピリチュアルと云われているものだといえよう。


それらは、たしかにこの時間の中の世界においてあり得ていくであろう。

この世界が存在する限り、それは永遠に続いていくのであろう。


とはいえ、それがどんな世界であろうと、

所詮、自分が知覚する世界は、自分が見ている夢である。

夢は夢、、、

すべてはイリュージョン(幻想)だということ。


そう、そのような進化は、永遠からみるならば幻想である。

それらの幻想を見限っていく者にとっては、

それらは、所詮、無意味、無価値、、、つまるところ、無、であるということ。


IMG_2073.jpg


2017/01/26

世界の消滅

自分というものがいなければ、この世界はない。

自分がいるがぎり、この世界はここにあり続ける。


言い換えるなら、

この世界があるのは、自分がいるからだ。

この世界を知覚する自分がいなければ、この世界はない。無である。何も無い。

そう、この自分が消滅するならば、この世界も消滅する。


その自分は、自我(エゴ)という言葉で置き換えることができる。


例えば、

生まれてきたばかりの赤子には自分という意識がないゆえに、

もちろん、そこに世界はない。

そしてやがて成長し、自分という自我が芽生え始めたときに、

そのときそこに、この世界が生じる、そして、他者が生じる。


いうなれば、この道は、この世界が生じたそのはじまりへと帰っていくものであり、

赤子のように自分(自我)がない世界へと戻っていくこと、

つまりは、この世界の消滅を目指している。


この世界を超越するとは、そういうことであり、それが、目覚めである。


そう、悟りだの非二元だのといくらことばを並べようとも、

この世界を知覚しているうちは、未だ、目覚めていないということである。


IMG_1963.jpg