2017/05/21

幻想と向き合う

わたしたちの内側には、たくさんの無意識の信念があります。


あなたがそれら無意識の信念を見つめられるようになって、

それらの存在に気付けるまで、無意識の信念があなたを動かすことになります。


よって、あなたがそれらの信念から解放されて(目覚めて/覚醒して)いくためには、

自ら内側の無意識の信念に触れていかなければなりません。


それらの信念は、すべて自分で決めた思い込みであり、

そもそもは実在しないもの、つまりは、幻想であるからです。


たとえば、痛み、苦しみ、苛立ち、怒り、憎しみ、罪悪感など、

そういったものを感じているのならば、

やはり、それらと向き合う必要があります。


むしろ、それらの感情が、自らの無意識の信念を見つけ出すきっかけになります。


「苦しみは幻想でしかない、実在しないもの」と言ったところで、

頭では幻想だとわかっていても、それらを知覚しているのならば、

それらをリアルにしまっているということであり、

やはり、それらと向き合って取り消して(修正)いく必要があるということです。


それらに目を向けないということは、心に蓋をすることになり、

そのようにしてまた無意識に追いやることで、修正のきっかけを先延ばしすることになります。


実際のところ、取り消す(修正する)のは聖霊がしてくれるものではありますが、

自分で見つめてそれらをリアルとしてしまっていることに気づいて、

そして、それらを聖霊に取り消してもらおうと意図しない限り、

聖霊が勝手に取り消してくれるということはありません。


つまりは、自分で実践していく、取り組んでいく必要があるということです。

そして、それが赦しの実践というものです。


リアルだと知覚していたものを幻想だと修正していくために、

赦しの実践をしていく必要があるのです。


コース(奇跡講座/奇跡のコース)でも、以下のように云っています。


幻想は、直視しない限り、誰も幻想から逃れることは出来ない。見ないでいることにより、幻想が保たれていくことになるからである。幻想が危険なはずはないのだから、幻想からしり込みする必要はない。わたしたちには、自我の思考体系をもっと詳しく見る準備が出来ている。あなた自身も自分は幻想を望まないと気づいているので、準備が出来ている。

その向こうが見えるようになるためには、まず最初にそれを見なければならない。私たちは一緒にこの誤りを静かに取り消し、その後、それを超えたところに真理を見ることになる。

あなたが(このコースで)学び始めているのは、恐れは実在しないということである。

ー『ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)』テキストよりー


自分が知覚している(感じている)痛み、苦しみ、苛立ち、怒り、憎しみ、罪悪感など、

それらはすべて幻想です。

ほんとうは実在しないものです。

眠っている心が幻想を信じているので、

それらを恐れ、避けて、そこに目を向けて来なかっただけのことだといえます。

そして、そのようにして幻想は保たれてきたということです。


そう、わたしたちが自分の罪悪感や恐れを正直に見つめることは、必要なことです。

それこそが目を向けるべきものであり、

それを信じている心に何が起きているのかをとらえて、

それをはっきり認識できるようになることが、

幻想からの脱出法、つまりは真の赦しのプロセスだと云うことが出来ます。


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<福岡 大濠公園にて>


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2017/05/20

過去から脱却する

コース(奇跡講座/奇跡のコース)は、

この世界から完全に自由になっていく道を示したものだということが出来ます。


この世界は、自分が見ている夢であり、

その夢から目覚めていく道をコース(奇跡講座/奇跡のコース)は示してくれています。


それは、二元性超えて、この世のあらゆるものから解放されていく道であります。

時間がもはや不要になるときである時間の終結、

つまり生と死の輪廻 の終焉を目指しているものだということです。

それは、エゴ(自我)を解体し、生と死の輪廻の循環を終えることを意味します。


仏教で云うならば、「解脱」へ至る道ということが出来ます。

「解脱」とは、時間の中の魂の旅の終わりを意味します。

それは輪廻ということばで表現され、

わたしたちは、過去からずっと同じことをただぐるぐるとそのかたちを変えて

この世界で繰り返しているだけで、

そこから脱却して真に自由になることを「解脱」と呼んでいます。


コースでは、

「わたしたちが見ているこの世界はすべて過去である」という言い方をします。


I see only the past
私は、ただ過去だけを見ている。

ー『ア・コース・イン・ミラクルズ』ワークブック レッスン7-


わたしたちは、世界に過去を投影して生きていて、

それは記憶の世界で生きているようなものであり、一種の夢のようなものだということです。

わたしたちが思考している想念(イメージ)すらもそうだといいます。

たとえ、未来のことを考えていても、過去を投影しているだけのことといえます。


ということは、自分が知覚するもの、自分が考えるもの、

そのすべてが夢の中の幻想であり、まったくの無意味なものであるということです。


そのことを受け入れるならば、

この一瞬一瞬を聖霊に明け渡して、

自分のそれらの幻想をすべて放棄していくという実践が、

どんなに大事なことなのかがわかります。


そう、その一つ一つの実践(心の訓練)は、

過去から脱却していくということであり、

時間の外側に出るということであり、

解脱、つまり、時間の終わりへと

一歩一歩近づいていくためのアプローチなのだ云うことが出来ます。


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2017/05/12

自由

一般的に「自由」と云いますと、

この物質的空間において、

身体が行きたい時に行きたい場所へと物理的に行ったり来たりすることが、

自由だと思われています。


ひとは、まさにそれを「自由」だと勘違いして、

ときに、そういうものに憧れて追い求めたりします。

引き寄せの法則だの、願望実現だのといったものなんかも、

そのような「自由」を追い求めているものだと云うことが出来ます。


でも、目覚めでいうところの真の自由は、

この世界におけるそういうものとは一切関係がありません。


この世界で「自由」と呼ばれているものは、

所詮、自分の見ている夢の中であっちに行ったりこっちに行ったりしているだけのことです。

夢の中に縛られたままで、自分の夢からは自由ではありません。

この世界の法則に縛られたままで、この世界からは解放されていません。


身体の物理的な自由を求めている限り、

自由が見出せない場所に自由を探すことになります。



I am not a body. I am free.
私は身体ではない。私は自由だ。


Freedom must be impossible as long as you perceive a body as yourself.

あなたが身体が自分だと知覚するかぎりは、自由になるのは不可能です。

The body is a limit.
身体とはひとつの制限です。


ー『ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)ワークブック レッスン199』よりー 



<わたし>は、身体ではない。

<わたし>とは、この世界の夢を見ている主体であるソレである。

<わたし>とは、スピリットである。


それを受け入れていくとき、ますます心がこの世界から自由になっていくのを感じます。


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2017/05/04

赦しの実践

じつは、正直なところを申しますと、

私は、巷のスピリチュアリズムにうんざりするところがあって、

目覚めない二元性のスピリチュアリズムや、

非二元と言いながらも目覚めようとはしない悟り系のスピリチュアリズムに対して、

これまでずっと否定的な想いを抱いていたところがありました。

とくに、スピリチュアルなリーダーやティーチャー(教師)みたいなことをしている人に対する

違和感は、私の心をイライラさせるものとして感じられずにはいられませんでした。


「幻想の中で楽しんでいるだけじゃないか」

「なぜ、わが家に帰ろうとしないのだ」


私の内側では、彼らをそんなふうに批判し、裁き、攻撃する想いを抱いていたのです。


でも、純粋非二元の視点から見るならば、

すべては神が私に学ばせようとしているレッスンだということがわかります。


All things are lessons God would have me learn.
すべてのことは、神が私に学ばせようとするレッスンだ。

ー『ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)ワークブック レッスン192』よりー


今想えば、彼らに向けられていたそれらの想いは、

すべてこの自分自身に向けられたメッセージだったと気づきます。

彼らは、私にとっての教師でした。

むしろ、私がすべきことは、彼らをゆるそうとしない自分の内側だったのです。

そして、彼らを咎めてきたそういう想いのすべてを

ゆるしていくことが私の役割なのだと思うのです。

そこにこそ私自身の解放があり、それゆえに兄弟たちの解放があるのだと。


内なる聖霊(ホーリースピリット)は、こう告げています。


Forgive, and you will see this differently.
ゆるしなさい。そうすれば、あなたはこのことを違ったように見ることができます。


目覚めない二元性のスピリチュアルを楽しんでいる兄弟も、

目覚めようとはしない非二元のスピリチュアリティを楽しんでいる兄弟も、

それでいいんだと、そのままでいいのだといえます。

さらには、スピリチュアルにすら興味を持たずにこの現世に幸せを見出そうとしている兄弟も、

だれもがすでにそのままでそれでいいのだと、ただゆるしていくことなんだと気づくのです。


もっといえば、そういう(外側の世界で起こっている)ことはどうだっていいことなんだと。

大事なのは、自分の内側に取り組んで、ただ赦しを実践していくことなのだということです。


純粋非二元論のスピリチュアリティの道を歩む私にとってすることは、

ただそれだけなんだと思います。


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2017/04/29

放棄について

放棄すること、手放すことは、本来、歓びです。


ただし、心を伴わずして、かたちのレベルだけで放棄しようとするなら、

それはまるで失うことのように感じられることになります。


そう、この世界や、この世界のものを現実だと思いながら、

放棄する、手放すということをするならば、

それは、喪失、犠牲、虚無、苦しみとして感じられることでしょう。

それはかたちのレベルでやっても意味がないことを意味しますし、

それではかえって葛藤や苦痛を生むだけです。


放棄することや、手放していくことは、エゴにとっては怖れです。

その想いは、エゴによる錯覚(幻想)なのですが、

もし、放棄する、手放すことに対してそのような感覚を感じるのであるならば、

むしろ、その自分の内側に感じているものと向き合うべきだといえます。

そこに向き合っていくならば、そこには解放をもたらす大きなヒントが隠れています。


わたしたちは、目覚めていくプロセスにおいて、

いずれこの世界のすべてを放棄していくことになりますが、

放棄は、かたちのレベルではなく、心のレベルで行われていかなければなりません。


心のレベルで放棄がなされているなら、

かたちのレベルで放棄していくことがなんの抵抗もなくできるといえます。

むしろ、そこには歓びがあります。

より解放されていく感覚や、より自由になって身軽になっていく感覚が伴うからです。


「放棄すること、手放すこと」とは、

幻想に価値を置かないで、神を選択していることと同じことです。

またそれは、聖霊の手にゆだねていくということなのです。

ゆえに、そこには歓びがあるのです。


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