2016/02/29

「プチ断食」をやってみて想ったこと

「不食への道」と称して、「21日間フルーツプチ断食」の実践を試みたわけですが、実際にやってみて体験してみて想ったことを書いてみます。

「21日間フルーツプチ断食」の三週間を終えて、というよりも、実際は、それ以前の9日間「煮小豆プチ断食」からの流れがありますから、実質、4週間の「プチ断食」を終えて、ということになります。

ということで4週間の「プチ断食」をやって想うのは、正直に言って、想いもよらない展開になった、というのが率直な感想です。
やってみなきゃわかんなことって、本当にたくさんあります。
やってみてわかること、やってみてみえてくるもの、開いていくものがあることを体験を以って知った気がします。
そして、まさか、こんな展開になるとは!?という想いです。
それは、いい意味であり、私にとって新たな世界が開かれた!という感じがしていまして、そんな人生を楽しみはじめている私がいます。

今現在(2016年2月29日)、不食生活を始めて、かれこれ80日くらいになるでしょうか。
そして、「21日間フルーツプチ断食」の三週間は終了したのですが、その後も、もう一週間、ということで、この今も「フルーツプチ断食」を継続しているところです。

たしかに、相変わらず空腹感を感じたり、あれ食べたいこれ食べたい、という想いはめぐり、我慢している感があることは否定できません。
なにせ、あとは最後まで、一日一食の「フルーツ食の生活」のラストスパートといった感じで、我慢してでも、耐えてでも、きっちりと達成することの方がとても大事なことのように思えているから耐えれるのです。
気持ちよく、いいかたちで終わりたい、、、その想いの方が強いのです。
それでも、すでに一日一食の「フルーツ食」に慣れた感じはしています。
もう、ほとんど「フルーツのみの食事」に特別さを感じなくなっています。
いわゆる、「フルーツプチ断食」が、i今では、普通の当たり前の食事のようにすら思えます。
「慣れ」とは、すごいものです。
そして、「フルーツプチ断食」も、白菜だの、キャベツだのを食事に加えたりして、「断食」というそんなストイックさも、こだわりもなく、敢行している感じです。

それに伴い、心境にも変化が起きてきました。
というのも、なにか苦行、修行みたいに我慢してやることが、どうも宇宙の流れに反しているような気がしてきたのでした。
もうそういう生き方は、これからは必要ないのかもと直感的にインスピレーションとして感じるのです。
厳しさは要らないと。
これからは、もうそんな時代ではないと直感したのです。
「厳しさ」や「我慢」や「耐える」という時代ではなくなるいうことです。
もっと言えば、「厳しさ」や「我慢」や「耐える」という世界には悟りはないと。
そこには、アセンションはあり得ないと。
苦行、修行に、悟りも解脱もアセンションもあるわけないです。
たぶん、二千六百年まえのお釈迦さまも、きっと、それを悟ったんだとすら感じています。
そして、その後、苦行、修行をやめたお釈迦さまは、瞑想に入りて、真の悟りに到達したのだと。

これまでの私は、なにをしてきたのだろう。

もう、人生に苦行、修行、厳しさは、要らない。
それは、ただ自分の人生を苦しもの、つらいものにしているだけなのだと。
むしろ、甘美さ、甘さを自分の人生に与えていこうと。
これまでどんだけ甘美さ、甘さのない世界でわたしたちは、飢えてきたことか。
そして、そうやって飢えてきたが故に、争い、戦いは、終わることが無かったといえましょう。
奪い合うことの終焉です。
生存競争の終焉です。
自分で自分に与えていく生き方のはじまりです。
そう、与え合う生き方は、そこからはじまっていくのでしょう。
そして、歓びから生きる、そのはじまりでもあります。
そうなのです。
頑張って生きる必要はないのです。
甘えていいのです。
甘やかしていいのです。
人生に甘美さを与えていくのは自分自身であり、これからがそのはじまりです。
我慢は要らないのです。
それは、制限でしかありません。

私の考えといいましょうか、私の想いは、そんなところにたどり着きました。
それよりも、人生を歓びから生きることの方が、わたしたち人間の進化していく方向として、宇宙の流れに合っていると思えてきたのです。

それは、苦行、修行の時代の終焉を意味しているといえます。

そこには本当のアセンショッはあり得ないと、私は、そう確信するのです。
私は、直感的にそう感じています。
そして、至福、歓喜、幸福こそが、アセンションへの道であり、私の歩みゆく方向だと。
それが、「21日間フルーツプチ断食」をやってみて、その三週間を過ごした私が、結論的に想ったことです。
そして、そんなふうに考えるようになった私は、今、四六時中、その歓びと至福と感謝の中に生きています。

さらに言えば、もうすでに次の課題、テーマがみえてきました。
また、次なる制限がみえてきたのです。
そう、次の扉が開こうとしているのです。
なぜ、わかるのか?と申しますと、さらに微細な精妙な違和感が浮上してきているからです。
その制限とは、時間、距離、お金の制限にまつわるものです。
今はまだその制限から自由になれそうな感じがありませんが、必ずや、そこから自由になっていくことを私は知っています。
なぜなら、私は、今、そのプロセスを楽しいと感じているからです。

私は、今現在も、残りあと一週間、「フルーツプチ断食」を続けるつもりでいますが、もうこれで苦行や修行といった我慢して自らを高めていくやり方は終わりにしようと想っています。
我ながら、意外や意外です。
不食を通じて、こんな方向の扉が開くとは!という感じです。
それよりも、「食べること」をもっと楽しもうと。
もっと正確に言えば、「食べる」ということを通して、人生を、この世界をもっと謳歌しよう!と想ったのです。
これまで私は、「食」というものを、「食べる」ということを否定して生きてきたことに気づかされたのです。
それによって、どれだけ人生をつまらないものにしてきたことか。
そのことは、豊かさにも通じるものがあると思います。
わたしたちは、常に、飢えていた。
満たされていなかった。
しかも、それは、自分で自分にそうしていた。そうさせていた。
そう、あらためて気づいたのです。

それは、まったくの想定外でした。
想定外の発見でした。
私に、もたらされた恩恵は、不食とは真反対のものだったのでした。
本末転倒。
それは、まさにグレンとひっくり返った瞬間でした。
この世界は、本当はギフトに満ちた世界なのではないか!ということです。
ただ、それを制限していたのはこの自分自身だったと。
この私が、歓びの世界を許可していなかっただけだったのだと。
そう気づかされたのです。

それらの気づきは、実際にやってみなければ、体験してみなければわからなかったことです。

そういう意味では、「21日間フルーツプチ断食」は、素晴らしい恩恵を私にもたらしたと思っています。

いやいや、その恩恵は、それだけでは終わらないと思っています。
これは、そのほんの序章にしかすぎないのだと。
そう直感しています。
これからが、本番です。
さらなる未知の世界への冒険のはじまりです。

ワクワクします。
嬉しい想いが湧き上がってきて仕方ありません。

天の岩戸はここに開けり。

天の国は、ここに開けり。

私の変容は、今、これ以上になく加速していっている感じがしています。
それは、これからますます加速していくと思われます。
それは、やがて無限に加速され続けて光速度へとなっていく、そんな感覚を感じています。
光になっていくのでしょう。
光に到達していくのでしょう。
光を超えていくのでしょう。
そのとき、私は、永遠を生きるようになるのでしょう。

それは、いまここにありながら、永遠に拡張していくことでしょう。


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2016/02/28

甘美さを。歓びを。

意識がとても軽いです。
身体がとても軽いです。
身体が高い波動で振動しているのがわかります。
身体が、澄み切っています。
身体が、透き通っているかのようにクリアです。
空っぽです。
何も無いです。
ただ静かな歓びがあります。
至福があります。

瞳を閉じて瞑想に入れば、40分という時間もあっという間です。
時間すら感じません。
睡眠時間もほとんど必要としていません。
頭も冴えています。

幸せです。
心も身体も軽やかです。
心も身体もスッキリしています。
それが、今の私の状態です。

私の人生に、「甘美さ」が加わりました。
むしろ、私は、これまで自分に「甘美さ」を与えて来なかったと気づくのです。
これまでの私は、いつも自分自身に「厳しさ」で生きてきたことを悟るのです。
甘美さ、甘さ、を自分にゆるしてこなかった。
それゆえ、そこには、いつも不足感と満たされない心があった、と。
厳しさの終わりです。
争いの終わりです。
戦いの終わりです。
競争の終わりです。
生存競争というレースの終わりです。
それらすべてが終わり、私には、甘美さが与えられました。
与えるのは、自分です。
自分で、自分に甘美さを与えるのです。
私は、それを、自分にゆるしました。
許可しました。

それは、苦行、修行の終わりを意味します。

苦行、修行には、悟りはありません。
そこには、アセンションはありません。我慢、抑圧、努力に、悟りはありません。
あり得ません。
私は、今、そう確信しています。

歓びこそ、
歓喜こそ、本当のわたしたちの姿です。
至福、そこにこそ、わたしたち人間が生きる祝福があります。
それは、千年王国と呼ばれているもの。
ミロクの世界と呼ばれているもの。
天国はここにあり。
楽園はここにあり。
天の国は、歓びと至福にこそ、いまここにあるものなのだと。

今日は、苦行、修行の終わりの日です。

私は、歓びです。
私は、至福です。
感謝です。
ありがとうございます。
甘美さを。歓びを。
あなたにも。


2016/02/26

三週目「21日間フルーツプチ断食」

不食への道。不食へ向けた実践生活体験記。

「21日間フルーツプチ断食」の三週間が終了しました。
とはいえ、おまけとしまして、さらにもう一週間、この「フルーツプチ断食」を続行しようと思いまして、今現在、四週目に突入したところです。

「21日間フルーツプチ断食」三週目の食事のメニューを書くと、おおまか以下の通りです。

朝:野菜フルーツジュースをグラス一杯
昼:チャイ(生姜のミルク紅茶)をティカップ一杯
夕:リンゴ(半個)、バナナ(1本)、キウイ(半個)、八朔(オレンジ、柑橘系フルーツ、半個)、生大根(2cm厚カット)、塩漬け白菜、コーヒー

二週目までとのちがいはといいますと、三週目の終盤には、夕食に塩漬け白菜が加わったりしました。ときには、アボガドもオリーブ油と塩をかけて食べました。コーヒーも嗜好しはじめました。

ということで、「21日間フルーツプチ断食」の三週目の経過報告です。

一週間に一度の好きなものを食べるという日は、野菜鍋をポン酢で、そしてフランスパンにマーガリンやオリーブ油をたっぷりつけて食べました。本当に美味いと感じました。フルーツだけの食事であるがゆえに、からだがよほど油脂分を欲していたように思えます。
しかし、想ったのは、思いっ切りいろんなものを食べようと週に一度のその日を心待ちにしていましたが、いざ食べると意外とそれほど食べれないものでした。気付けば、胃そのものが小さくなってきているのかもしれません。

そして、「フルーツプチ断食」の三週目がはじまりました。
次の週の好きなものが食べられる日まで、また一週間。
そこからまたはじまったわけですが、三週目になると「慣れ」もあるのでしょうか。フルーツ食といえど、数種類のフルーツが、普通の食事に思えている自分がいました。
そして、前日にお腹一杯に食べたせいもあり、胃に負担を感じていたので、フルーツ食でちょうどいいとさえ思えました。

さて、さすがに、「21日間フルーツプチ断食」の三週間目です。それに、「煮小豆プチ断食」から数えると、実質、三週間、まともなカロリーの食事をしていないことになります。
そのせいもあって、からだにその影響を感じ始めたのは事実です。
力が入らない。
体力がない。
ひとつひとつの動作が、きつい。
立ちくらみやフラフラもします。
自分でも、筋力が落ちているのがわかります。
自転車さえ漕ぐのにその体力、筋力がついてこないのがわかります。
空腹感といいましょうか、栄養が足りない、、、からだがそう感じていました。
それによって、気持ちまでもが、なんだかみじめになります。
貧しい気持ちになります。
からだが栄養を欲しているのがわかります。
栄養に、エネルギーに枯渇しているのがわかります。
からだがなかなか温まらず、寒い、冷える。
あまりもの空腹感なのか、イメージでホットケーキのバターの味さえ口の中に広がるを楽しんでいる自分がいました。
もう、気力さえなくなって、ただ生きている、ただ必要な日常の動作をしている、そんな感じになりました。

三週目の前半は、まるで、そんな感じで精神的にも体力的にもかなりきつかったです。
なにせ、次の好きなものを食べる日がまだまだ遠い先の日のように思えて、それすら期待することが凹む要因になるので、極力、そのことを考えることをストップして過ごしました。
三週目の半ばには、イライラもしました。でも、その感情的なこともデトックス(毒出し、解放)だとわかっていました。

そして、いよいよ三週目の後半。「21日間フルーツプチ断食」も18日目を過ぎた頃からでしょうか。まるっきり、それまでの状態が一変しました。
エネルギーが、波動が、気分が変容したといった方が正しいかもしれません。
幸福感を感じ始めてきたのです。思わず、「幸せ」ということばが、口からこぼれるようになったのです。
19日目には、さらに、幸福感が、内側から湧き出てくるようになりました。その日の夕食、塩もみの白菜を食べたときには、さらに、幸福感が倍増しました。
「フルーツプチ断食」20日目には、朝からハイテンションで、四六時中、至福と幸福感の中にいました。
21日目には、睡眠も要らないほど頭だけでなくからだが冴えていました。ほぼ眠っていない状態でも、疲れていない状態です。
意識も軽いし、身体も軽い。
全身の細胞が開いているのがわかりました。
細胞が開くとは、こういうことか。
身体が開くとは、まさに、これだとわかりました。
もう、自分の身体とこの世界との境界線がありません。
自分と宇宙が一体です。
見た目には、身体の境界線がありますが、感覚としては、身体の境界線がありません。
見た目には、身体がありますが、感覚としては、もはや身体がありません。
もう身体は透き通っていて、澄んでいて、何も引っかりませんし、引っかかるものすらありません。
制限がない。
制限するものがない。
自分は空っぽ。
何も無い。空(くう)。
パッカーンと開いている状態。
意識の覚醒、身体の覚醒、細胞の覚醒を体感的に一日中感じていました。

それは、これまでしたことのない感覚の体験でした。
もちろん、それまで、意識においては様々な体験をしたことがありましたが、なにせ、身体感覚を伴ってのそういう体験はしたことがありませんでした。
それほど、とても素晴らしい感覚を体験することが出来ました。
断食もしたことがありましたが、それも2、3日くらいのもので、どちらかといえば「我慢してどうにか耐えた」という記憶しかありません。
それに比べ、無理をしない「フルーツ断食」は、私にとってとても最適でふさわしものだったといえます。

でも、本当の意味で素晴らしかった、やって良かったといえるのは、それではありません。
ことばでは言えないほどの「フルーツプチ断食」の恩恵があったことをここに伝えておきたいと思います。

それは、これから私を通して、表現されていくことでしょう。

至福。
歓び。
気づき。
感謝。
もう、言葉では言えぬ歓喜が、いまここにあります。


ところで、これまでも何度も苦労してきた、排便、ですが、今回は、まったく便を催す気配がない間も、「もう便が出ようが出まいが、自然の排便に任せるしかない。すべてゆだねよう。からだにまかせよう。自分の身体を信頼していよう、、、」と、三週目の私は、そんな心構えでいました。さほど、思い悩まされた感はありませんでした。
そして、20日目の夜に、丸々9日間ぶりに便通がありました。9日ぶりとはいえ、便秘のような固い便ではなく、普通の固さ、大きさ、つや、形の便でした。臭いは、たしかに多少ドブのようなクサいものでしたが。笑
21日目の朝にも健康的な便通があり、結局は、無事、難なく素晴らしいかたちで、「21日間フルーツ断食」の三週間を終えることができたということです。


以上、ここまでが、「フルーツプチ断食」の三週目の経過報告でした。


ただ、今もなお、最終仕上げとして、「フルーツプチ断食」は続いております。
四週目に入った今の私にとって、さらに新たな領域の気づきと解放が起きていることを報告しておきます。
もう、私自身がどうなっていくのか?
もうこの私にもわかりません。
ただただワクワクするばかりです。

この先の領域については、果たして、文章で、ことばで、表現できるのかな!?

という想いもあるのですが、もし、文字にして表現できたならば、また報告したいと思います。
そうでなくとも、それは、必ずや、これからの私の活動のなかで表現されていくことに間違いはありません。

今後の私を一番に期待して楽しみにしているのは、この私自身です。

ということで、ここまでお読みいただきありがとうございます。


2016/02/19

二週目「21日間フルーツプチ断食」

不食への道。不食へ向けた実践生活体験記。

「21日間フルーツプチ断食」二週目の経過報告です。

「21日間フルーツプチ断食」二週目の実際の食事のメニューを書くと、若干、日によって異なるものもありますが、おおまか以下の通りです。

朝:野菜フルーツジュースをグラス一杯
昼:チャイ(生姜のミルク紅茶)をティカップ一杯
夕:リンゴ(半個)、バナナ(1本)、キウイ(半個)、八朔(柑橘系フルーツ、半個)、生大根(2cm厚カット)、ホット豆乳

二週目のちがいはというと、生大根にゴマ塩をつけて食べるのと、からだが温まるホット豆乳が、フルーツ食に加わった食事メニューになりました。

一週間に一度だけ好きなものを食べる日には、プチ断食の反動で、もうこれ以上食べれないというほど満腹になるまで食べ過ぎたせいもあり、次の二週目は少しばかり胃がもたれた感ではじまりました。
なのでフルーツ食でちょうどいいくらいの感覚すらあり、普段の食べていた普通の食事が胃にどれだけの負担をかけていたかがわかりました。
さらにいうと、まるで、フルーツのみの食事の方が当たり前に感じれて、むしろ、数種類のフルーツ食が豪華にさえ思えました。
あれだけフルーツ食のはじめは物足りなさを感じたものなのに、慣れというものは、本当にスゴイです。

それよりも大変だったのは、便通の方です。
前の週からかれこれ数えて丸々一週間、まったく便通がない状態でした。便通の催す感じすらもないではありませんか。
さすがに、不安になってきたので、トイレに座り込んで、しばらく力(リキ)んで踏ん張っていたら、どうにかホンの少量の便が出ました。それで、ちょっとほっとしたところはあります。
もともと私は、便の通じはよすぎるくらいで、力(リキ)んで便をするということがなかったので、こんなに便って労力(エネルギー)を使うものなんだと思い知りました。
そんな感じで二日間連続、力んで少量の便が出たので、何となく排便のコツがつかめてきたと思っていたそんな次の日のことでした。
「フルーツプチ断食」をはじめてから10日目のことでした。夕食のフルーツ食を取った後、急に下痢のときのような便意を催したかと思うと、出るわ出るわ、細長い便がとぐろを巻くわけではありませんでしたが、長ーい大量のそれまでの10日分のフルーツ食の便が一気に出てきました。その便の量は、2~3キログラムはあったのではないでしょうか。それはそれは大量の便でした。それに、生臭い魚のようなドブのようなニオイのものでした。
ただし、それは、いわゆる一般て云われている宿便ではないと思います。
それでも、そのことによって、心身もスッキリしたことにちがいはありません。
お腹の中が、空っぽになった感じでした。
いや、からだが空っぽになったといいましょうか。
何もない。
何にもなくなってしまったのです。
なにも無い。
空っぽ。
いよいよこれから、、、ここからがはじまりなんだな、、、という気になったのは確かです。

さて、便通は便通で手こずってはいましたが、「フルーツプチ断食」を開始して二週目になると、精神的に変化が起きてきました。
何があったかとは関係なく、日常の些細なことに幸せを感じるようになっていきました。
高揚感、至福感、ハッピーな気分が、自然と内側から湧いて出てくるのです。
気づくと、「しあわせ」「ハッピー」ということを口に出して連発している自分がいるのです。

そうはいっても、二週目のちょうど半ば頃、インターネットのユーチューブで美味しそうに食事しているのを観てしまって、断食にくじめそうになりました。
今すぐにでも断食を断念して、コンビニエンスストアに駆け込んでおにぎりでも買って食らいつきたい衝動にかられましたが、その満たされない内側の感情と向き合うことで、意識をシフトすることができ、どうにか踏ん張ることができました。

そして、それを超越すると、今度は、さらなる幸福感、至福感が感じられるようになってきました。
ただいるだけで至福なのです。
幸せな気持ちが自然に内側から湧き起ってくるのです。
そう、本当の幸せは、これのことをいうのだと確信しました。
そして、その幸福感は、さらに進化しいったのです。
それが、感謝の気持ちです。
今まで生きてきた中で、これほどまでに感謝が湧き出てくるようなことがあっただろうか。
ただただ有難い。
うれしい、、、しあわせ、、、ありがとうございます、、、。
こんな感覚は、これまでに感じたことのないほどものです。

不食で、こんな恩恵があるなんて!!

至福感、幸福感、高揚感、ワクワク感、、、
それらは、この今も、かなりの頻度で定期的に湧き出てきている状態です。

その状態のまま、今現在、三週目に突入したわけですが、さて、これからどうなるのか?
それは、きっと、想像を超えていくであろうとすでに予感しています。
我ながら、さらに、楽しみです。

続きは、また報告させていただきます。


2016/02/17

一週目「21日間フルーツプチ断食」

不食への道。不食へ向けた実践生活体験記。

「21日間フルーツプチ断食」一週目の経過報告です。

前回の記事で報告した「煮小豆プチ断食」を9日間敢行した後、さらに、一日一食を継続しながら、現在は、「21日間フルーツプチ断食」たるものを敢行しています。
「21日間フルーツプチ断食」とは、一週間に一度だけは普通に好きなものを食べて、それ以外の6日間はフルーツのみを食べて、それを3週間のサイクルで過ごすというプチ断食生活のことを言いまして、今現在は、その2週間目にあたります。

「21日間フルーツプチ断食」の実際の一週目の食事のメニューを書くと、若干、日によって異なるものもありますが、おおまか以下の通りです。

朝:野菜フルーツジュースをグラス一杯
昼:チャイ(生姜のミルク紅茶)をティカップ一杯
夕:リンゴ(半個)、バナナ(1本)、キウイ(半個)、伊予かん(柑橘系フルーツ、半個)、紅茶

「21日間フルーツプチ断食」は、今月の2月4日(立春の日)から始めました。
その前日の節分の日には、「煮小豆プチ断食」9日間 を敢行した後の10日ぶりの食事は、節分にちなんで恵方巻を食べました。
正直なところ、それまで煮小豆しか食べていなかったので、恵方巻を食べた瞬間、この世にこんなに美味しいものがあるのか!と思ったくらいその美味しさに幸福感を感じたほどでした。笑
食べることで、こんなに幸せを感じたことがかつてあっただろうか!?
食べることが、こんなに幸せだったなんて!
いや、もっと正確に言えば、

食べないことで、こんな幸せを感じることが出来るなんて!

と、感動すら覚えたほどです。
食べることをやめることで食べる歓びを知るなんて、なんとも皮肉といいましょうか、滑稽なことです。

そんな次の日だったせいもあるのか、「21日間フルーツプチ断食」一日目は、なんとも物足りない口さみしさを感じたことは否めません。
確かにそれまでの煮小豆と比べたら味覚的にはまだマシだと思えましたが、今度のフルーツのみの食事は、何か口物足りないひもじさを感じて仕方ありませんでした。
「21日間フルーツプチ断食」一日目に、煮小豆とは、また別の味覚的なつらさが浮上してきたのです。
煮小豆プチ断食では、感じることのなかった味覚的な物足りなさといいましょうか、食べた後も、何か物足りない口さみしさがあり、それが、これから21日間続くのか!?!?と想うと、正直、またへこみそうになりました。
そこで思いついたのが、煮小豆のときもそうだったのですが、塩、でした。
それで、「21日間フルーツプチ断食」の二日目からは、大根を生でゴマ塩をつけて食べることをメニューに付け加えました。
すると、フルーツだけの食事の口さみしさは難なく解決できました。

「21日間フルーツプチ断食」を始めて2、3日した頃には、身体の軽さを感じはじめました。
胃の軽さはからだの軽さとも言えます。
その軽さは、体重の軽さ、というよりも、波動の軽さ、といった方が正しいかもしれません。
からだの細胞のひとつひとつが、軽やかな振動を発している、クリアな波動を発している、透き通ったエネルギーを発している、そんな感じなのです。
まさに、フルーツそのものが、そういう波動の食べ物なのだと思います。
それを、「高波動」と呼んでもいいと思います。
そう、フルーツは、高波動の食べ物だと。
その高波動のフルーツしか食べていないので、そのフルーツ自体の波動にからだの細胞が共鳴し始めたのだと思います。
その高波動に振動しているような身体感覚は、その後もずっと「21日間フルーツプチ断食」を続けているこの今も感じています。

それでも、3日目、4日目くらいには、イライラや憤りなどネガティブな感情も出てきました。
もともと、プチ断食の目的は、デトックス(毒出し)やクレンジング(洗浄、浄化)を目的としているのもありました。
それは、肉体的なものだけではありません。
断食をすることによって、多くの人は肉体的なデトックスやクレンジングが起きるらしいのですが、私の場合は、感情的、精神的なものとして出やすい傾向があるように思えます。
それは、若い頃からそうで、不調が身体の病気とかに出てくるというよりも、私は、精神的な不調として出てくるのは、私の性質によるものだと思います。まぁ、それによって、私は、スピリチュアルな精神世界の探究をはじめることになったわけですから。
そういうこともあって、精神的、感情的なものも出てくるであろうということも分かっていました。とはいえ、いざ、そういったものが出てくるとなかなか厳しいものがありました。
感情的なものについては、囚われてしまうと本当にきついです、、、これは、あくまでも私の見解ですが。
肉体的なデトックスやクレンジングがいいのか、精神的なものの方がいいのか、それは人によってまちまちですから比べるものではないのかもしれません。
そのときは、「これは、感情エネルギーのデトックス(毒出し、解放)である」と認識したとたん、そう自覚することで、うまく意識をシフトさせることができました。
そして、その次の日以降の5日目、6日目は、ネガティブな感情エネルギーのデトックス(解放)が終わったのか、意識がシフトしたからなのか、何なのかはわかりませんが、それまでの気分とは打って変わって、幸福感を感じるようになっていきました。
気づけば、「幸せ」、「ハッピー」ということばを、口癖のように連発していた自分がいました。笑

さて、実際のところ、予想外に一番大変だったのが、前回の記事(「煮小豆プチ断食」9日間 )でも書きましたように、排便、です。
本当に予想外だったといいましょうか、こんなに苦労するとは想いもよりませんでした。
いやいや、排泄、排便は、あなどれません。
「出す」ことは、本当に大事なことなのだと思い知りました。
それは、人生においても同じだと。
ついついわたしたちは、人生において「取り入れる」「受け取る」ことばかりに夢中になりがちですが、じつは、「出す」こと、つまり、「手放す」、「与える」、「捨てる」ということが、先に、あるのではないか!?ということです。
排便という行為は、身体にとってそういうものではないか!と、その大事さに気づかされたのです。
出すことは、手放すこと、捨てること、、、それによって、ものごとはスムーズに流れるのだと思います。
私は、なかなか排便を催さない自分の身体から、そのことを教えられたような気がします。

で、今回の排便に関して正直に言いますと、実際は、丸々一週間、便通がありませんでした。
一週間もの便通がないことは、私にとっては、はっきり申しまして私の人生でも滅多にないといいましょうか、初めての体験でした。
自然な便通を待っていようと試みたものの、さすがに、一週間何も便が催してこないのは、焦りました。

そのことについては、また次の機会に報告させていただきます。


2016/02/13

至福の風

私は、いま、至福の中にいます。

至福を感じています。

その至福は、この世のものを超えた至福です。


そう、特に現実でなにかいいことがあったわけでもないのです。

そういうものではない、そういうものとは関係のない至福の中にいます。

ただいるだけで幸せなのです。

ただいるだけでハッピーなのです。

歓びです。

とても静かで精妙な歓びです。


それは、無条件なる至福感といえるでしょう。

「絶対なる至福」「絶対なる歓喜」とは、これのことをいうのでしょう。

無条件にただ内なる至福感がそこにあるのです。


全身の細胞のひとつひとつが静かに振動しながら歓びを感じているのがわかります。

細胞のひとつひとつが歓喜とともにダンスしているようです。

この至福感は、これまで私が感じたことのない至福感です。

寝ても覚めても、四六時中、至福が溢れてきます。

これまでも至福感を感じたことがありましたが、

これまで体験したことのないような至福感を感じています。


とても精妙な至福感です。

とても静かで、とても微細で、溢れてくるような至福感です。

私の感覚は、どんどん精妙になっていっているのがわかります。

私の身体も精妙になっていっているのがわかります。


ただいるだけで幸せです。

ただいるだけでハッピーです。

知らなかった。幸せが、こんな日常のささいなところにあったなんて。

気づかなかった。

日常の中にこんな歓びがあったなんて。


私は、知っています。

この至福が、この世界に投影されていくことを。

この歓喜が、この世界に反映されていくでしょう。

私にとっては、もう、スピリチュアルもフィジカルも何の分離がありません。

この私には、もう、内も外も分け隔てがありません。

すべては、この至福感からはじまっていくのでしょう。


私は、いま、至福の中にいます。

精妙な至福の中にいます。

無条件なる至福の中にいます。

静かです。

穏やかな歓喜に包まれています。


この至福の風は、きっと、いつかあなたのもとにも届くことでしょう。

この至福の風に乗って、この私を通して、

この風がいつかあなたのもとにもたどりつきますように。

どうか、この至福の風が、あなたにも届きますように。


2016/02/12

「煮小豆プチ断食」9日間

不食への道。不食に向けた生活実体験の経過報告です。

先月末から今月あたまにかけて、一日一食生活の「煮小豆プチ断食」を9日間に及んで敢行しました。
その9日間のうちの6日間は、お椀一杯の煮小豆だけの食事だったのですが、空腹感よりも味覚の楽しみを奪われた感覚の方がつらかったです。
「煮小豆プチ断食」の食事のメニューをもう少し具体的に書くと以下の通りです。

朝:野菜フルーツジュースをグラス一杯
昼:チャイ(生姜のミルク紅茶)をティカップ一杯
夕:煮小豆をお椀一杯

すでにそれまでに45日間ほど、一日一食をしていて、少食もかなり身体が慣れていたせいもあったのですが、さすがに、味付けも何もない煮ただけの小豆は味もそっけもなく、何とも口さみしい日々でした。笑
美味しいと感じるのも一口目二口目の空腹感が満たされる食べ始めの一瞬だけで、あとはただ空腹を満たすといった感じでしょうか。なにせ、お腹がすいていてもそんなに食べれたものではありませんでした。お椀一杯で、この味はもういい(ウンザリ)、という気分になります。

食事の楽しみが奪われることは、どんだけつらくさみしいものかを思い知った気がします。

「煮小豆プチ断食」を始めてもう二日目には、夕食に食べることの感情的な楽しみを手放しました。味覚の楽しみを捨てたといいましょうか、味の楽しみを放棄したのです。でないと、やってられない、って正直思いました。というのも、夕食の煮小豆で空腹を満たそうと期待すると余計につらくなるだけでなく、へこたれそうになってくじけそうになるので、最初からあきらめた方が精神的に続けられそうだったからです。「煮小豆プチ断食」は、それほどのものだったといえます。
ただ、「煮小豆プチ断食」の5日目だったか6日目だったか、煮小豆にゴマ塩をかけて食べることを覚えて、多少は味覚的にもいけると感じてそのつらさを紛らわすことができました。そして、無事、9日間敢行することができました。

そして、その「煮小豆プチ断食」で、みるみるうちに自分の身体がさらに痩せ細っていくのがわかりました。
それまでにも一日一食の少食を続けていたせいもあって、55キログラム(ちなみに身長は173センチメートル)あった体重がすでに47キログラムを切っていたわけ(もうそれ以降体重を計っていない)ですが、「煮小豆プチ断食」を始めてさらに痩せ細っていくのが目で見ても分かりました。風呂場の鏡に映る自分の姿をみると、もう骨と皮だけといった感じです。そんな自分の姿を見ると、こんなところまで来てしまったか、、、哀れやら、みじめやら、、、そんな気持ちになります。
体重計には、もう乗ってはいません(もう体重計で測る気もありません)が、47キログラムからさらに痩せた体重となっていることでしょう。
でも、もう体重に関してはヘコたれません。弱気にはなりません。
いくところまでいってやる、と。
「断食」とは言っても、煮小豆を一日一食は食べてるんだから死にはしない、と。
というのも、体調は万全なのが自分では分かるのです。

そういえば、何よりも予想外で苦労したのが、排便です。
「煮小豆プチ断食」にしたとたんに、まったく便が催さなくなったのです。
それまでの私といえば、毎日のように快便(軟便)だったのですが、一日一食になって便通が3、4日間に一回程度になり、「煮小豆プチ断食」にしたら便通がピタッとなくなってしまったのです。それが5日間も便通がないとさすがにお腹が張ってきます。それは、私にとっては、まったくのはじめてではありませんが、やはり慣れていないので大変な想いをしました。
トイレに座り込んでも、ガス(おなら)が出るだけで、まったく便が催す感じがしません。いつも便秘で悩んでいる方にとっては5日間くらいの便通がなくとも当たり前なのかもしれませんが、慣れていないこの私にとっては、なんとも不安で、不快でたまりませんでした。
そして、便通がなくなって5日目だったか、あまりにもお腹が張ってきて、からだを仰向けにまっすぐにして寝られないのを感じてきたで、とうとう、私は、ガージャカラニー(塩湯を飲む行法のこと)をすることを決めました。

※ガージャカラニー:2リットル位の水(塩を入れたぬるま湯)を飲んで吐き出すやつ 。これは非常に強力な浄化作用があります。

じつは、私がまだ若く20代だった頃、ヨガ修行みたいなのをしていた頃、肉体の浄化法(修行法)としてやっていたことがあって、胃腸をクレンジング(洗浄)するために、塩を入れた湯を2リットル位を飲み干すのです。その塩の湯を吐き出さずにいると、便として下から水のように排泄されるのです。
私は、1.5~2リットルくらいの量だったでしょうか、どんぶり一杯に並並に注がれた塩の湯を一気に飲み干しました。そして4時間後、見事に腸に溜まっていた便が出ました。それでどうにか排便することができ、お腹の張りも解消することができました。
ただ、やっぱり、なるべくなら自然な排便が理想だと思っています。
もっと自分のからだの自然な営みを信頼しようと思います。

じつのところ、私は、その後も「フルーツ断食」をしておりまして、いまもなお、排便とは格闘しています。
こんなに排便に苦労するとは、正直、思ってもいませんでした。

宿便が出ると体質が変わるそうで、そもそもは自分の肉体の体質を変えるために宿便を出すことを目的に試みた「煮小豆プチ断食」でしたが、結局は、宿便は出ずじまいでした。
でも、「煮小豆プチ断食」は、もういいかなと感じております。
とりあえず、経験の一つとして実体験したので、OKだとしておきます。

そして、9日間の「煮小豆プチ断食」を終えたのち、今は、「21日間のフルーツ断食」を敢行中です。
今現在、2週目に突入しております。
「煮小豆プチ断食」と比べて味覚の味わいも楽しめますし、「フルーツ断食」の方が楽かもしれません。

まぁ、それに関しては、また後々、このブログで報告したいと思います。


2016/02/09

こうなったら、いくところまで痩せ細ってしまえ

今現在、不食生活といいましょうか、不食への道を敢行し始めて2ヵ月くらいになります。
一応、これまで(2016年2月9日現在)までの経過を報告しておきます。

昨年末の12月中旬から夕食のみを食べる一日一食の生活を始めたわけですが、はじめの数日間は空腹感のつらさを感じたりしました。やはり、午後を過ぎた時間帯になると空腹感が襲ってくる感じがあって、そのたびに、あと数時間の我慢ということで過ごしていました。でも、からだと心は慣れてくるものです。次第にからだは慣れていき、さほどそのつらさはなくなっていきました。
とはいっても、夕食の食事が一日の楽しみになっていったのは確かです。私はこれまで味覚や食べるということにあまり興味がなかったのですが、あらためて食べることの楽しみを知った気がします。そして、なによりも食べることの有難さを感じるようになりました。

体調的なもので言うなら、一日一食にしてすぐの頃は、めまい、立ちくらみ、ふらつきもすることもありましたが、からだが慣れていったのか、いつの間にかそういうこともなくなりました。
からだの軽さの感覚も同じで、始めはからだが軽くなったように感じていた感覚もいつの間にか慣れてしまって、いつもとさほど変わらぬ感覚(本当は軽やかなのでしょうが)になってしまいました。
一日三食から一食にした何よりも大きな変化といえば、始めて20日後くらいに体重計に乗って測ったら、体重が47キログラムになっていたことです。それ以前までの私の体型はというと、身長173センチメートル、体重55キログラムくらいでしたので、ただでさえも私は周りから「痩せてるね」と云われていたわけですが、さすがにその体重を見てショックだったといいましょうか、正直、ヘコみました。
しかも、風呂場の鏡で見る自分の体型がさらにやせ細っているではありませんか。やせ細った自分の身体を目の当たりにしていくことは、まるで死に向かっていく自分をみているようで、なんとも言えない気持ちになるものです。
でも、不食への道は、そういうものとも向き合っていかねばならないものだとわかっていましたし、私は、それも受け入れました。

そうだ、私は生きながら死に向かっていっているのだ、、、
しかも、それは私が望んでいたことなのだ、と。
もう、こうなったらとことんやるしかない。
いくところまでいってみよう。どこまで痩せ細っていくかとことんやってみよう。

そう心新たに決意し直して(開き直って)、それから、また40日間が過ぎたわけです。
その間、一日一食生活で煮小豆(あずき)だけを食べる「煮小豆を食べるプチ断食」を9日間を敢行しました。その後、フルーツのみの一日一食の「フルーツ断食」を敢行して一週間が過ぎ、今現在に至ります。そして、あと2週間は、「フルーツ断食」を続ける予定です。

2016年2月9日今現在、そんな私ですが、その身体は、今、もう骨と皮だけといった感じです。お尻の筋肉も落ちて、腕も、脚も、見るからに細くなっているのが一目瞭然です。 顔の頬骨も見えるようになりました。
体重計には乗ってはいませんが、47キログラムからさらに痩せた体重であることは間違いありません。ひょっとしたら、45キログラムを切っている可能性があります。なので、もう体重計で測る気もありません。測ったところで、ただ心が煩わされるだけですから。
ちなみに、今が冬場でよかったと想っています。なぜなら、まだ分厚い服を着ているおかげで、さほど痩せ細っているのが目立たないからです。(とはいえ、見るからに痩せこけているのがわかる状態ですが、、、)これが夏場だったら、外に出歩くにはとうてい人目にはさらせないなと。それほど痩せ細ってしまています。笑

ただ、体調はいつもと変わらず元気で、普通に日常生活は送れています。
一応、フルーツ断食とはいっても一日一食は食べてはいるので、全く一切食べてない断食をしているわけではないので、死ぬことはないと思ってやっています。
見た目は、身体は痩せ細って無様なものですが、身体が澄んでいっているのを感じています。どんどん身体がクリア(透明)になっていっている感じといいましょうか。全身の細胞がプチプチ、キラキラと微細な振動をしはじめているのがわかります。

どこまで痩せ細っていくのか?
この身体は、どうなっていくのか?

今後も、このブログで報告していきたいと思っています。


2016/02/05

不食への道

昨年の12月から不食生活を敢行し始めて、今、2ヵ月足らずといったところでしょうか。
不食生活と言いましても、不食に向けた食生活を始めたということでありまして、一日一食の生活を始めた、と言った方が正確な表現です。

不食とは、食べなくても生きられるようになることを意味していまして、私は、それが当たり前のように可能だと思っています。
すでに実際に、「ブレサリアン」や「リキッダリアン」といった食べない人々、食べないで生きている人々がいるのです。

ブレサリアンとは、「呼吸だけで生きる人」という意味で、食べないで生きている人々のことを言います。
リキッダリアンは、液体はOKとしていることが多いようですが、一般的な食事は一切しません。液体食のみを摂取する人たちのことを言います。

もはや、この私にとって「食べないで生きる」というものは、それは真実かどうか?信じる信じないというものではなく、自分自身で試すしかないといったものであります。
さらに言いますと、不食が、私の最終的な目的ではありません。
あくまでも、不食は、私にとって人間の潜在的な可能性の探究の一つでありまして、そのプロセスにしかしぎません。
されど、不食は、これからの人類の進化に大きな影響を及ぼしていくであろうと、私は想っています。