2016/03/07

無限供給

昨年の12月半ばからはじめた一日一食の不食生活に一旦区切りをつけて、

現在は、元の食生活に戻っております。

というよりも、むしろ食べまくっています。笑

制限なく、食べ続けております。

私にはもう制限など要らない、制限などない、と思って食べまくっています。

プチ断食の反動もあるかと思うのです。

身体が欲しているのがわかるのです。

意図的に食べている、という部分もあります。

しばらくは、遠慮なく、身体の欲するままに食べようと思っています。


なにせ、不食生活をしたせいで、私の身体は見るからにほとんどほとんど肉が付いておらず、

まるで骨と皮だけの痩せ細ってしまった状態です。

ここ数日、お腹が満たされるまで食べまくっているせいか、

ようやく身体にふくよかさが戻ってきているようには感じるのですが、

まだまだ見るからに痩せています。

なので、もともと痩せてはいたのですが、とりあえず見た目にも、

できれば元の体重までくらいには戻そうと思っています。


不食を試みようと思い立って、約3か月前に一日一食の生活をはじめたわけですが、

その恩恵たるものは言葉では言い表せないギフトがもたらされたとだけ伝えておきましょう。

なにせ、予想だにしなかった。

こんなふうな展開になるとは想いもよらなかった。

想いもよらぬ人生の扉が、現実の扉が、次元の扉が開かれた、と言えましょう。

あらゆるものが、反転した。

あらゆるものが、グレンとひっくり返った。

逆回転しはじめた、、、いや、逆回転していたもエネルギーが正回転に転じた、、、

と言った方が正しいかもしれません。

なにせ、自分たちは、これまでなにを本末転倒なことをしていたのだろう!

なんて、あべこべにみていたのだろう!

今では、すべてにそんな感覚すら覚えます。

まるで、世界がちがいます。

まるで、現実がちがいます。

まるで、別世界です。

これまでとは、まるで世界がちがいます。

これまで生きていた世界とは、まるで視野がちがいます。

似たような現実にいながら、以前と同じ現実ではありません。

もう別の現実にいる感じです。

かつて生活していた別のパラレルワールドに自分が移行したような感覚を覚えるほど、

世界が似て異なります。

それは、この私自身が変わったのでしょう。

現実のシフト、現実の次元シフトとは、まさに、このことをいうのでしょう。

それは、自分の感覚で、自分の身体で、自分の現実で体験していくものですので、

コレというふうにことばで表現することが出来ません。

いや、表現するのが、とても億劫です。

面倒くさいです。

どうしても知りたいのなら、自分が自らで体験すればいいだけのことです。

今現在の私が感じていることは、たくさんあって文章にすることすらまとまりがつきません。


不食をきっかけに、自分の現実にこんな世界が開くとは思いもよりませんでした。

不食への道だったはずなのに、今現在の私は食べまくっています。笑

食べないことで、食べることの深い意味を知りました。

食べないことで、食べることの歓びを知りました。

食べないことで、歓びを知りました。

食べることは、生きることだと悟りました。

食べるとは、与えることだと悟りました。

食べるとは、自分で自分自身に与えることをしているのです。

食べるとは、受け取ること。

そして、それ以前に、自分が受け取れるようになるために、自分に与えることが必要なのです。


私は、与えます。

私は、無限に与えます。

私は、無限に与えることができます。

私は、無限に供給できます。

私は、無限供給、そのものです。

ゆえに、私は、無限供給で生き続けていくことになのるのです。


二千六百年前のお釈迦さまは、悟りを開かれる以前に、

スジャータに施された乳粥を食べ、断食、苦行の修行を放棄されました。

そして、その後、菩提樹の下でエンライトメント(悟り、解脱)されたのです。

お釈迦さまの生誕日は4月8日で、まだ一カ月ほど早いですが、

今日、私は、仏陀ゴータマシッダルター(お釈迦さま)に愛と感謝を捧げたいと思います。

ありがとうございます。




2016/03/02

「苦行」という名の修行の最後の日

今日は、3月2日です。

この私にとって、きのうが、『制限ということばに意味がなくなる日』でした。

そして、今日、2016年3月2日は、『苦行という名の修行の最後の日』です。


この私にとって苦行はもう必要なくなるのです。

もちろん、これまではそれも必要だったのかもしれません。

でも、もうこれからは苦行というものは私には必要ありません。

今日は、苦行の終焉の日です。

苦行とは、我慢、努力、頑張る、忍耐、克服、抑圧、抑制、、、

自分自身をいじめて、痛めつけて、虐待して、攻撃して、鍛えて、

自らを苦しめてこそ完全になれると信じて疑わない修行、、、それらのことを言います。


わたしたちは、苦しんでこそ学び、苦しんでこそ成長し、苦しんでこそ完全になれる、

苦しんでこそ神と合一できると、信じて疑わずに、

その無知さゆえに苦しみの世界を輪廻してきたといえます。

でも、もう苦しんで行ずる修行は、もはや何の意味もない日となるのが、今日です。

今日は、それらが終わる日なのです。

今日は、その最後の日です。

苦行という名の修行は、もう必要ありません。

そこには、本当の自由は絶対にありません。

そこには、本当の幸せは絶対にありません。

そこには、本当の歓喜は絶対にありません。

そこには、悟りもありません。

解脱もありません。

神との合一もありません。

昇天(アセンション)もありません。

そこになにかあるとしたなら、そこにあるのは、満たされぬ飢えの旅であり、

潤うことのない渇きの旅であり、終わりなき時間の旅のみです。

飽くなき飢えと渇きは、争いを生み、戦いを生み、競争を生んで来た、、、

それがこれまでのわたしたちです。

そして、その争い、戦い、競争の飽くなきゲームは、今日終わるのです。


苦行の終わりです。

苦行という名の修行は、自らの完全性をすっかり忘れて、

自らを見失ってしまった者たちの幻想でしかありません。

それは、あるがままのすべてをゆるし、

あるがままを受け入れていく生き方へと移行していくことを意味します。

私は、これからあるがままをゆるす私となります。

限りなくゆるし、限りなく与え続ける私となるでしょう。

もう、厳しさは要らない。

もう、我慢も、忍耐も、努力も、頑張りも、、、何も要らない。

それは、戦いの終わりを意味します。

それは、争いの終わりを意味します。

それは、競争の終わりを意味します。

同じ車輪の中を回り続けるラットレースのゲームから、私は降ります。

終わりなき戦いのゲームから降ります。

終わりなき争いのゲームから降ります。

終わりなき輪廻から私は降ります。

それは、終わりなき時間の中のゲームでした。

私は、そこから降ります。

苦しみの終わりです。

もはや苦しみは、もう苦しみではなく、解放、自由へのアイテムでしかありません。

苦しみとは、その本質を悟るならば、それは無いのです。

二千六百年前、お釈迦さまが説いた「苦しみから脱却する道」とは、まさにこれのこと。

私は、今、その道をたどっています。

そして、苦行はもう終わるのです。

戦いは終わるのです。

争いは終わるのです。

競争も、奪い合うことも。

私は、ずっと戦ってきたことを思い知るのです。

私は、ずっと戦っていたのだということを悟りました。


私は、誰と戦ってきたのか?私が戦ってきた相手は、誰だったのか?


その相手とはこの自分自身でした。

私は、自分と、自分の人生と戦ってきたことを悟りました。

自分との戦いの終わりです。

自分の人生との戦いの終わりです。

戦いから降りた私は、いまここに平安があります。

いまここに至福があります。

いまここに歓びがあります。

いまここに幸せがあります。

もう、努力は要らない。

もう、我慢も要らない。

もう、忍耐も要らない。

もう、頑張る必要もない。

苦行の終わりです。

苦行という名の修行の終わりです。

修行とは、行を修めること。

これからの修行は、もう苦行ではありません。

もう、特別な修行は要りません。

その意味がありません。


そう、今日は、私にとって、「苦行」という名の修行の最後の日です。

今となっては、少しだけ、名残り惜しい気もしますが、私は、これで戦いを終えます。


ありがとう。

そして、

さよなら。


苦行という名の修行の最後の日に。

仏陀、覚者であられる二千五百年前のゴータマ・シッダルータに愛を込めて。


2016年3月2日

もりG


2016/03/01

無色の世界

無色透明。
色が無くなっていく。
個性が無くなっていく。
自分というものが無くなっていく。
今の私は、そんな感覚を感じています。

それは、個というものが希薄になって、全体へと融合していく感じでもあります。
というよりも、はじめから個人の意識というものは存在していなかった、、、
すべてが集合意識で動いているだけで、個の意識なんてなかった、、、
私という全体の中で、個の私としてあたかも独立して存在できていると思い込んでいただけだった、、、と、そう気づくのです。

私という存在が、溶けていくのがわかります。
私は、解体されている。
それは、ある意味で、私にとっての死のプロセスをたどってるともいえるのでしょう。
私は、まるで、無色透明な存在に還っていくような感じを感じています。
私は、無味無臭の何も無い存在へと還っていっている。

私は、てっきり、「個性を生きる」ことが大事なのだと思い込んでいました。
自らの個性と資質を活かして生きることが、賢明な生き方なのだと、そう思っていました。
でも、そうではないみたいです。
せめて、私にとっては、そうではないみたいです。
私は、それすらをも超越していくようです。

個性すら必要ない。
何も無い。
何も必要としない。
何も持たない。

私という色がない世界へ。

私の個性が無くなっていく。
私の特性が無くなっていく。
私の色が無くなっていく。
私というものが消えていく。
自我が消滅していくとは、このことか。

無色透明になっていくのがわかります。
風になるとは、このことか。
そう、私は、風になりたかった。
私は、こうなりたかった。
これは、まさに、ずっと私が望んでいたことだった。

自由とは、自由になるとは、何かから自由になるものばかりだと思い込んでいた。
自己を何かから確立していくような、そのようなものだと捉えていました。
でも、そうではなかった。
まるっきり、ちがってた。
明らかな勘違いだった。
それは、私がいなくなることだった。
それは、私が全体に溶けていくことだった。
それは、私がすべてになっていくことだった。
私は、今、そこへ向かっていっているのを知っています。

もう、私が生きる世界は、私でしかありません。
私は、この世界では無力です。
私は、この世界では無色です。
私には、何も無い。個性もない。
私から、色が消えていっています。

もう、この世界で私がすることがありません。
もう、何もする必要がありません。
もし、あるとしたなら、ただ自分に与えていくことだけ。
無限に自分に与え続けていくことだけ。
何も欲しいものがなくなるまで、与え続けていくことだけ。
そして、私は、無限に与え続けていくことができます。
私は、何でも与えることができます。
私は、そのことを知っています。
ゆえに、私は、ただそれをしていくだけです。

この世を超越していくことも、覚醒も、昇天も、与えるのは、この私です。

私は、そのときが来たことを知っています。

私に、その扉は開かれました。
いや、もう開くのがわかります。
その扉は、今、開かれようとしています。
もう、その扉は開きます。
もう、開かれます。

天の岩戸は、間もなく開けり。

今日は、3月1日。
「制限」ということばの終わりの日です。
今日から、もう「制限」ということばの概念に意味すらありません。

限りなき思考の世界へ。
限りなき思考は、限りなき想像。
ただし、想像しても、その想像すらも超越していく世界ならば、もはや想像すらやめて、ただ無へと還るほかありません。