2016/09/23

セラピストとして大事なこと

それは、今年の5月の頃のことでした。

ある一人の癌を患わった方からの要請がありました。

それは、意識に変容が起きることで、

自分が患わっている癌に治癒が起きることを期待したいとのことでした。

その方は、それまでもいろいろな代替療法を試みて来られたようでしたが、

なかなか癌が治癒するには至らず、自分の病気の原因は自分の心にあるのではないか?

と思うようになったとのことでした。

それで、心理療法で自分の心(内面)と向き合ってみたいということになったのでした。


私自身も、自分が行っているセッションに可能性を見い出したいということもあり、

私は、それに同意するかたちで、その方を筆頭に他の癌を患わった方々と関わりながら、

その方々と試験的にセッションを行っておりました。


それからこの5ヶ月の間、数名の癌を患わった方々とセッションを行ってきました。

その結果は、癌が治癒したという方もおられれば、

その成果が出なかった人もおられたという具合です。


私の見解といたしましては、癌が治癒した方もたしかにおられましたが、

正直に言って、私のセッションによってそうなったとは言い切れません。


何よりも、私にとって不本意で残念だったのが、

最初に私のところに要請して来られたその方に、癌の治癒が起こらなかったことです。

たしかに、その方の心(意識)には、ずいぶんと変容が起きていきました。

病気(癌)を受け入れ、真摯にひた向きに自分の内側と向き合っていくその姿は、

私からみると、まるでキリストそのものでした。

たくさんの癒し、ゆるし、解放、統合が起きながら、内側の整理をしていきました。

ときには、ワンネスや完全性の愛に包まれた悟りの意識まで到達することもありました。

ですが、それが必ずしも癌の治癒に反映されるということには至らなかったということです。


その方は、医療診断の結果を報告して、「しばらく経過の様子をみます」ということで、

私に感謝の意を伝えて、私とのセッションを終えていかれました。


私の中に、何とも言えない不甲斐ない感情があったことは否めません。

それでも、私は、その事実を受け入れるほかありませんでした。

すべては完璧なのだということをわかっているから、なおさらでした。

すべては、その方にとっても、私にとっても完璧で必要なことが起きているということです。

私はそのことをわかっていながらも、私のエゴはそれをなかなか認めようとはしませんでした。

私のエゴは、結果を出したかったのでした。

自分のセッションによって癌が治ったという結果を期待していたのです。

そのことを正直に打ち明けます。


私は、それをゆるそうと思いました。

期待したようにはいきませんでしたが、

それは、私がどうのこうのするものでないということを受け入れようと思いました。

そして、私ははっきり自覚しました。

病気を治すとか、現実を変えるとか、願望を叶えるとか、

私がしていくことはそういうものではないのだと。


自分は、何を求めているのか?


と、自問した時に、私の内なる答えはこの世のものではないと気づきました。

私が真に求めているものは、この世のものではなかったということです。

私の内側の深い心は、この世から自由になることを望んでいたのです。

それは、自分というアイデンティティからの脱却です。

つまり、自我の「死」を意味します。


私は気づかされた想いでした。


すべては自分の心の投影です。


死を受け入れていなかったのは、この私だったと。

「死」と闘っていたのは、癌の方々たちではなく、この自分だったのだと。

そう気づいたときに、「死」を受け入れようと思いました。

自分がとか、自分のためにとか、誰かのためにとか、何かのために、

そのすべてが何の意味もなくなってしまったのでした。

すると、私の内側に癒しが起きました。

癌でセッションに関わった方々にそして、最初に私のところにいらした方に、

感謝の気持ちがわいてくるとともに、私の意識が拡張していくのがわかりました。

ただただありがとうございますの気持ちになったのでした。


ただ、話は、そこで終わりではありません。


それから数日後、

「しばらく経過の様子をみます」と言われてから3週間が経っていました。

その方から電話が来ました。

経過報告の連絡だったのですが、おおまか以下の内容でした。

セッションのその後、その方自身も自分の死を受け入れたのだそうです。

心の中は整理されて、自分の人生は本望だったと、

もう何も思い残すこともないとおっしゃっていました。

その方の中でなにか心がはっきり決まったのだそうです。

そう覚悟が決まった次の日、その心で病院に定期診断に行ったら、

あくまでもOリングの検査結果なのですが、癌の数値がゼロになっていたとのことでした。

その方は、さらに私にこうおっしゃりました。

「(癌の)数値がゼロになったことはもちろんうれしいのですが、

 治る治らないに関しましては、もう、わたしはこだわらないようにしようと思います」と。

「いまを生きるだけです。どうなるかはもうゆだねます」とも。

受話器の向こうのその方の心は、じつにすっきりとしていました。

素晴らしいと思いました。

むしろ、なんだか私の方が感謝したい気持ちになりました。

その方は、まるで私にとって見習うべき教師の姿そのものでした。

死を受け入れて、死を超えていくその姿は、まるでキリストのようにも思えました。


そして、私は、思いました。

セッションで自分がしてきたことは、それで良かったのだと。

そして、これから私がしていくものとは、そういうものなのだとも気づかされました。

人生がうまくいくとかいかないとか、結果がどうのこうのとか、そういうものではなく、

むしろ、そういうものから自由になることが、

私がセッションを通して本当にしていきたいことなのだと。

その方を通して、その道をはっきりと教えられたような気がします。


それら一連の出来事は、私自身にとって重要なプロセスだったように思います。

セラピストとして大事なことを学ばせていただいたような気がします。

セッションでこの私と関わってくれた方々に、本当にありがとうと伝えたいです。

心から感謝します。

ありがとうございます。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


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2016/09/20

エンライトメント(解脱)とは

「目覚め」という言葉は、さまざまなスピリチュアリティによってその定義が異なります。


せめて、私にとっての「目覚め」とは、

いわゆる仏教でいうところの「エンライトメント(解脱)」なのだと定義しています。



今から約二千五百年前、お釈迦さまはこう説かれました。


「この世のすべては、苦しみでしかありません(一切皆苦)」と。


その言葉だけでは、失望感、絶望感、虚無感を生起させることになります。

ただ、お釈迦さまは、その言葉だけでは終わりませんでした。


「この世の苦しみから脱却する道があります」と。


そして、さらには、


「絶対なる幸福に至る道があるのですよ」と説かれたのです。


その言葉は、「この世のものでは絶対に幸せにはなれない」ということの宣告であり、

「でも、この世を超えたところに、本当の絶対なる幸せがあるのだ」と、

その道を選択するよう促しているように聞こえます。


そして、その道こそが、「解脱、悟り」と呼ばれるものです。


この世のもので自分の心を満たそうとする者にとって、

あるいは、世俗的(物質的)なもので幸せになろうとする者にとっては、

なかなかそう容易くその道を選択できるものではありません。


あなたが、この世に歓びを見い出すことができないのならば、

あなたは、この世のものを超えていくことを望んでここに生れてきたといえるでしょう。


そんなあなたが本当に求めているものは、この世にはない、ということです。


そのあなたが本当に求めているものは、この世を超えたものであり、

この世を超えていくことだと言うことができます。


仏教で言うところの「解脱」とは、時間という名の魂の旅の終焉だと言えます。

輪廻という終わりなき旅の終焉です。


この世が幻想であるように、輪廻転生も幻想です。


その幻想が終わることが、わたしたちの真のゴールと言ってもいいでしょう。


それが、苦しみから完全に脱却する道であり、

それが、「目覚め」と呼ばれているものです。


死によって、この世を去るのか?

真理によって、この世を去るのか?


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中でイエスは、

後者によって、この世から完全に自由になることができるのですよ、と告げています。


死によってか?それとも真理によってこの世を去るのか?


それは、死か?エンライトメントか?と言い換えることもできます。


そのどちらを望んでいるか?は、すでにあなたの内なる心が知っています。


もし、あなたがその道に心惹かれるのなら、

あなたは、死によってではなく、真理によってこの世を去ることを望んでいるということです。


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2016/09/15

自我について

私は、これまで自我(エゴ)というものについてあまり言及してきませんでした。

どちらかといえば、これまでの私は、

「本来、自我というものはない」というスタンスでいたからです。


むしろ、自我について語るときには、「自我は、愛すべき自分の一部である」

という言い方をしてきました。


というのも、非二元や悟り系のスピリチュアリティで自我について語られているのをみて、

まるで、自我を敵(仇)のように表現しているように感じていましたし、

自分の中の自我を滅することにやっきになって自分自身と戦って苦悩している人たちの姿を、

多く見てきたこともあって、正直、あまりいい気がしなかったのでした。


自我をまるで敵のようにみて、自我の自分をジャッジして、

かえって自己の中に二律背反(葛藤、分離)を生じさせて、

自分を愛することができないでいる人たちを、私はたくさん見てきたのです。


ただ、最近、私が思うのは、

他者を知覚しているかぎり、つまり、分離意識でこの世界をみているかぎり、

自我(エゴ)を直視していく必要があるんじゃないかという想いになってきたということです。


自我は、この世があたかも現実として捉えています。

自我は、この世のもので自分の満たされていない感覚を埋めようとします。

そのために、時間を必要とします。

空間を必要とします。

この世を必要とします。

この世に留まろうとします。


私は、自我についてもっと知る必要があると感じたのす。

自我にもっと気づいていく必要があると自覚するのです。


私はいまようやく、その道のスタート地点に立ったのかなと思っています。


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2016/09/13

見逃されてきたイエスの昇天

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        ザビエル教会旧聖堂 (福岡県宗像市)


先日、車で1時間半ほど走らせたところの教会に行ってきました。

その教会が上の写真です。


この教会は、もともと鹿児島に建っていたものをそのまま福岡のこの地に、

移築してきたということらしいです。


建物の中には、シンプルな祭壇があり、ザビエルの絵画が飾られてありました。


堂内は、イエス・キリストの生涯が10枚の絵画によって飾られ表現されていました。


ただ、私が気になったのは、

その10枚のイエスの生涯の絵画の物語は、

イエス・キリストが十字架に磔にされたところで終わっていたということです。


たぶん、多くの方々が、イエス・キリストの物語をそのように解釈しているのでしょう。


でも、本当は、イエスの物語はそこで終わりではありません。


イエスは復活を果たし、その40日後オリーブ山にて昇天した、

ということをたぶん多くの方々が見逃していると思われます。


聖書を読むかぎり、イエスの昇天は文字通り実際にあった出来事なのだろうと思います。

聖書は、それらを実際に目にした弟子たちによって語られたものです。

つまり、イエス(イエシェア・ゼン・ジョセフ)は、二千年前に実在した人物であり、

その物語は本当にあった実話であると私は思っています。


昨年、バルセロナに旅行したときに、大聖堂の教会を見学した際に、

イエスキリストの生涯が描かれた絵画を観たのですが、

そこにはちゃんとイエスの復活と昇天が描かれてありました。


しかも、「昇天」は、アセンション(Ascension)と表記されていました。


私は、それを目にしてあらためてイエスはそれを成し遂げた人物だと確信しました。


アセンションということばは、この時代からあった(使われていた)ということ。

そして、私にとってのアセンションとは、これなのだと。

それが、私が求めていた仏教でいうところの「解脱」なのだと思います。


巷のスピリチュアリズムでは、

アセンションということばがそれぞれの意味で用いられています。

でも、せめて私がアセンションということばと使うとき、

それは、イエス・キリストが成し遂げたそれだということです。


そして、私が云いたいのは、

イエス・キリストの象徴は、十字架の磔にあるのではなく、

その復活後の昇天(アセンション)にこそ、その真意があるのであり、

それこそが、私が求めていた道だということです。


2016/09/12

転がり続ける岩のように

若かった頃の私と云えば、

社会に対してもそうですが、この世界に対して斜に見ているところがあって、

ずいぶんと尖がって生きていたように思います。


そんな私は、現世否定の思想に共感して、

この現世から離れようと宗教にのめり込んだこともありましたし、

そしてまたある時はそんな宗教にもうんざりして、

あえて物質主義的に生きている時期もありました。


そんなこと経験しながら、いつしか私は生きることにすら行き詰ってしまったのでした。


そもそもがこの社会を斜にみていたわけですから、

人間関係、友人関係に支障がでてくるのも当然だったと思います。


そして、生きることに行き詰った私は、

日本社会から逃げ出すようにバックパッカーとしてアジアを放浪した時期を過ごしました。


約一年間に渡ってチベット、ヒマラヤ、ネパール、インドを渡り歩いたその旅は、

私にとってはそれまでの生き方、人生をリセットするためのものだったように思います。


そのアジアの旅は衝撃的でした。


自分はこれまでなにをみて生きていたのだろう!?


目に映る光景、そのすべてが新鮮でしたし、

日常の世界を離れたことによって、

自分の内面と対面することのできた旅でもあったように思います。


いろんな霊的な体験もしました。


ヒマラヤの夜空に浮かぶ月を眺めながらただ恍惚のなかにいる夜もありました。


一人、満天の星空とヒマラヤの雄大な景色の中で、

至福に包まれて夜明けを待っていたこともありました。


その旅では、たくさんの奇跡を当たり前のように体験していました。

(ヒマラヤは、そんな波動エネルギーを持った場所だと思います。)


そんなある夜、私は、ヒマラヤである印象的な体験をしたのを覚えています。


たしかインドのダラムサラに滞在していたときだったでしょうか。


それはたしかある満月の夜でした。

これからどう生きていけばいいのだろう?生きてどうなるのだろう?と

一人何気なくそんなことを自問していたのでした。

その瞬間、なにかが閃いたといいましょうか、なにかがハッと開いたのでした。

それをあえてことばにすると、

「生きろ!生きるのだ!生きれば今自分が問うているすべての答えが見いだされるであろう。」

という内なる答えが返ってきたのです。

そのとき、私はまるで夢からさめたような、目の前の世界がパッと開かれたような、

そんな感覚が起きたのを覚えています。


そして、私は、

「この現実世界を生きよう、もう大丈夫。日本で生きよう。」

という想いに変わったのでした。


とはいっても、

それらの霊的な体験が私にとっての着地点にはけっしてなり得ませんでした。


その後、アジアの放浪から日本に帰国したものの、

私の人生には、私のアイデンティティの最大なる崩壊が待ち受けていました。


それまで生きて築き上げてきたアイデンティティが崩壊する必要があったということです。

自分ではどうすることもできない無力さを想いっ切り痛感させられました。

人生は自分の想いとはまったくちがう方向へと運ばれていったのです。

すべてがうまくいかないどころか、

むしろ、すべてを奪い去られるようなことばかりが起こっていきました。

もう自分ではどうすることもできないと受け入れるほかなかったのですが、

人生を放棄させられたことによって、

私は、自分の人生がみえない力によって運ばれているということに気づきはじめたのでした。


そして、人生の流れに従うにつれて

やがてそのみえない力に導かれて生きる方が楽なのだということがわかってきたのです。


そうやって、私は、この現世を否定する生き方から、

この社会のルールに合わせて生きる賢明さを身に着けたように思います。


そしていつのまにか、この社会やこの世界に対して斜にみるということもなくなったのです。


かつては尖がっていた私もずいぶんと角がとれて円(まる)くなったのがわかります。


もちろん、まだまだ角(かど)が立つときもありますが、

生きるとは、歳を重ねるとは、転がり続けるということなのかもと思ったりします。


転がり続けることで、角がなくなって円になっていくのだと。

円くなっていくために人生はあるのかもしれません。


生きることは、そういうことかもしれないと、私はふと思ったりします。


その旅は、まだ終わったわけではありませんから、これからも転がり続けていくのでしょう。


転がり続ける岩のように。


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2016/09/08

天国と地獄

人は死んだ後どこへゆくのか?


幼き頃の私は、心がきれいな人は天国へ、そして、心が汚れた人は地獄に行くのだと、

そう教えられていました。


そして、そう信じていた頃の私は、

あぁ、自分はきっと地獄に行くんだろうなって想っていたの覚えています。

そう、自分は汚れた心の持ち主だというふうに想っていたのです。

(キリスト教的に言えば、それを罪意識と呼ぶのでしょう。)


自分の中に「心」というものを自覚しはじめた頃のことも覚えています。

(それが自意識のはじまりだと言えます。)

そのときの私にとって、人にはけっして口に出しては言えないことを、

心の中だけで想うことが出来るようになったことが大発見でした。


自分が何を考えていようとも、だれにも口に出して言わなければバレない、

と気づいた私は、あれこれ人には言えないようなことを考えはじめたのでした。


そのようにして「こんなことを考えている自分の心は人にはみせられない汚らわしいもの」

と思うようなったのです。


それゆえ、そんな自分が死んだ後は、それが閻魔様(閻魔大王)に見抜かれて裁かれて、

きっと地獄に送られるのだと、そう想っていました。


そんな自分と比べて鳥や犬といった生き物たちは心に汚れがなくていいなぁと

私は彼らを清らかでいいなぁとうらやましくも思ったものです。


彼らは、この自分みたいによこしまなことを考えたりしないから、いいなって。

何も考えずに生きている彼らの心はなんて無垢なのだろうと。

彼らは裁かれることがないからいいなぁって思ったものです。


それから私は成長して大人になっていくうちに、

天国や地獄といったものは、自分の心の中にあるのだということを直感的に理解しました。

あの世に閻魔様(閻魔大王)なんていないのだ、と。

結局、閻魔大王とは自分であって、自分を裁くのはこの自分自身なのだと。


そしてあるとき、私は、真我の悟りのような内的体験によって、

自分の本当の心は純粋で美しいものだということも悟り(知り)ました。

そう、だれもの心の中のずっと奥には純粋で美しくて素晴らしいものが隠されていて、

そのことをみんな忘れているだけなのだということを知ったのです。


わたしたちは、自分の見たい世界を見ています。

みんなが自分の見たい世界で個人的な現実をそれぞれ体験しているのが、この世界です。

ちなみに、「個人的な現実」という言い方をしますが、

真実はそういったものはなく、本当はすべてはただ一つの心が経験しているだけです。


すべては自分だったと。

そして、この世界を作りだしていたのも自分だったと。


裁くのも自分です。 それによって裁かれるのも自分です。


自分を裁くことのないように。

自分を責めることがないように。

自分のみている世界に登場する人たち、そして起こる現実のすべてをゆるせるように。

ちょうど植物や動物をみるように、裁きのない純粋な心で目の前のすべてをみてくこと。


ゆるしていくのは自分です。

それによってゆるされるのも自分です。


天国は、そんなふうにすべてをゆるした純粋なる心に開かれるのだと思うのです。


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2016/09/02

幻想を超える

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この世界は、ちょうど夜眠っているときにみる夢のようなものだというふうに捉えられます。


つまりは、そこに登場する人物、起きる出来事、状況、存在するものすべては、

そして自分自身の身体すらも、自分が作り出した夢にしかすぎないということ。


だとするなら、この夢をみている自分の本性(正体)は?ということになりますが、

その真のアイデンティティーを思い出すことが、目覚め、と呼ばれるものだといえます。


この自分は、自分の作りだした夢をみながら、

その夢の中で、この世界を物質世界と呼び、

この物質世界こそが現実であると認識しているということです。


そういう意味で、この世界は幻想であると言えます。


または、「この世界は、自分の心が投影された世界である」と言い換えることもできます。


ゆえに、この世界を知覚している自分に責任があるという重大な真実を見失ってはいけません。


自分が、さまざまなひと、こと、ものを、この世界に登場させているということです。


この世界は自分がみている夢(幻想)であるのならば、

その夢から目覚めることが、この人生ですべきもっとも重要なことではないでしょうか。


それは、この世界のどんなことよりも、この世界で幸せになることよりも、

なによりももっとも成し遂げる価値ある道ではないでしょうか。


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2016/09/02

この世界の起源

あなたは、どのようにしてこの二元性の世界を作り出したのだろうか?


すべては、あなたの妄想からはじまった。


あなたは、

自分自身(神)でなくなるとはどういうものか?知りたい!とほんの小さな考えを抱いた。


それには、自分(神)でなくなる必要がある、つまり、神から離れる必要があると思った。


そう、あなたは自分自身以外の自分になろうと自ら願望したのだ。


その願望に思いを馳せたとき、あなたは自身の心をねじったのだ。

自分の心(マインド)をねじらせることで、二律背反の分裂を生み出した。

分裂した相反する二つの心は、心に光と影を作り出し、

そのコントラストを楽しむかのように、あなたは、自分という存在を無限に分裂してきたのだ。

そうやって作り出された世界が、あなたがみているこの世界なのだ。


この世界のすべては自分の断片の集まりであり、すべて、あなた自身だ。


この世界は、あなたがみている妄想の夢(幻想)だということ。


しかも、その夢をみたいと願望したのはあなた自身だということ。


そして、その真実を思い出すなら、あなたはその願望を選択し直すことができるということ。


それこそが、あなたがもっとも知るべき真実である。


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2016/09/01

2016.9 セッション後の感想より

個人セッションを受けられた方々のセッション後の感想をご紹介したいと思います。

みなさん、それぞれのプロセスて気づきと変容がすすんでいっておられます。

セッションは、ある段階ではそういう援助が必要だし、役に立ちます。

興味のある方は、どうぞごらんくださいませ。



今日は遂に!、、、やっと!!!!ハイヤーセルフと繋がることが出来ました。

この安堵感は カラダを持って、初!だと思われます。『やっと!これこれ〜!これを感じたかったんだ!』って、気づきました。いつもお付き合い頂き ホントにありがとうございます。次回のセッションもたまらなく楽しみです。

(神奈川 Mさん)


先ほどはセッションをありがとうございました。

心も体もだるいのですが心地良いです。小さい頃泣きすぎると疲れて眠くなる、あんな感じです。そして誰かと仲直りした後のような嬉しさと安堵感でいっぱいです。わたしはわたしと仲直りしました。どれもこれも小さくて自由だった頃に感じていた体感です。

思考も出来事も病気も、それはわたしの責任。というよりは、わたしは体験したかったのだな、というこの感覚は、今迄何度も聞いたり、あるレベルでは体感していたことですが、今日のセッション後は今迄以上に深いとろでわかった、というよりも思い出したのでご報告です。そうです思い出したのです。

日常生活で、一瞬一瞬の選択も意識的にしていきたいです。

本当に今日もありがとうございました。

(東京 Rさん)


やったことないことに挑戦したいとかムクムクと気持ちが動いています。

すべての人に感謝しています。もりGさんにも大感謝です。

弱点やコンプレックスこそ、逆転のチャンス。 隠さずさらけ出す。 陰極めれば陽になるですね。

(大分 Cさん)


セッション以来、 全く!薬を必要しなくなったんです!すこぶる調子が良くて、随分、ナチュラルなカラダになったなーって思いました。

いろいろ、変化が目まぐるしく変わるので、 戸惑ってる反面、楽しんでます。

(神奈川 Mさん)


昨日はありがとうございました。力強い自分の感覚を得たことは、大きな収穫でした。

(東京 Tさん)


前回のセッションで大きな意識の変化があり、その後もさらに自分の内面の整理が進んでいます。本当にありがとうございました。

(神奈川 Yさん)