2016/09/23

死を受け入れる

それは、今年の5月の頃のことでした。

ある一人の癌を患わった方からの要請がありました。

それは、自分の意識に変容が起きることで、

自分が患わっている癌に治癒が起きることを期待したいとのことでした。

その方は、それまでもいろいろな代替療法を試みて来られたようでしたが、

なかなか癌が治癒するには至らず、自分の病気の原因は自分の心にあるのではないか?

と思うようになったとのことでした。

それで、心理療法で自分の心(内面)と向き合ってみたいということになったのでした。


私自身も、自分が行っているセッションに可能性を見い出したいということもあり、

私は、それに同意するかたちで、その方を筆頭に他の癌を患わった方々と関わりながら、

その方々と試験的にセッションを行っておりました。


それからこの5ヶ月の間、数名の癌を患わった方々とセッションを行ってきました。

その結果は、癌が治癒したという方もおられれば、

その成果が出なかった人もおられたという具合です。


私の見解といたしましては、癌が治癒した方もたしかにおられましたが、

正直に言って、私のセッションによってそうなったとは言い切れません。


何よりも、私にとって不本意で残念だったのが、

最初に私のところに要請して来られた方に、癌の治癒が起こらなかったことです。

たしかに、その方の心(意識)には、ずいぶんと変容が起きていきました。

病気(癌)を受け入れ、真摯にひた向きに自分の内側と向き合っていくその姿は、

私からみると、まるでキリストそのものでした。

たくさんの癒し、ゆるし、解放、統合が起きながら、内側の整理をしていきました。

ときには、ワンネスや完全性の愛に包まれた悟りの意識まで到達することもありました。

ですが、それが必ずしも癌の治癒に反映されるということには至らなかったということです。


その方は、医療診断の結果を報告して、「しばらく経過の様子をみます」ということで、

私に感謝の意を伝えて、私とのセッションを終えていかれました。


私の中に、何とも言えない不甲斐ない感情があったことは否めません。

それでも、私は、その事実を受け入れるほかありませんでした。

すべては完璧なのだということをわかっているから、なおさらでした。

すべては、その方にとっても、私にとっても完璧で必要なことが起きているということです。

私はそのことをわかっていながらも、私のエゴはそれをなかなか認めようとはしませんでした。

私のエゴは、結果を出したかったのでした。

自分のセッションによって癌が治ったという結果を期待していたのです。

そのことを正直に打ち明けます。


私は、それをゆるそうと思いました。

期待したようにはいきませんでしたが、

それは、私がどうのこうのするものでないということを受け入れようと思いました。

そして、私ははっきり自覚しました。

病気を治すとか、現実を変えるとか、願望を叶えるとか、

私がしていくことはそういうものではないのだと。


自分は、何を求めているのか?


と、自問した時に、私の内なる答えはこの世のものではありませんでした。

私が真に求めているものは、この世にあるものではなかったということです。

私の内の深い心は、この世を離れていくことを望んでいたのです。

それは、死を意味します。もっと言えば、自分というアイデンティティの「死」です。


私は気づかされました。


すべては自分の心の投影です。


死を受け入れていなかったのは、この私だったと。

「死」と闘っていたのは、癌の方々たちではなく、この自分だったのだと。

そう気づいたときに、自分の死を受け入れようと思いました。

自分がとか、自分のためにとか、誰かのためにとか、何かのために、

そのすべてが何の意味もなくなってしまったのでした。

すると、私の内側に癒しが起きました。

癌でセッションに関わった方々にそして、最初に私のところにいらした方に、

感謝の気持ちがわいてくるとともに、私の意識が拡張していくのがわかりました。

ただただありがとうございますの気持ちになったのでした。


ただ、話は、そこで終わりではありません。


それから数日後、

「しばらく経過の様子をみます」と言われてから3週間が経っていました。

その方から電話が来ました。

経過報告の連絡だったのですが、おおまか以下の内容でした。

その後、その方自身も自分の死を受け入れたのだそうです。

心の中は整理されて、自分の人生は本望だったと。もう何も思い残すこともないと。

その方の中でなにか心がはっきり決まったのだそうです。

そう覚悟が決まった次の日、その心で病院に定期診断に行ったら、

あくまでもOリングの検査結果なのですが、癌の数値がゼロになっていたとのことでした。

その方は、さらに私にこうおっしゃりました。

「(癌の)数値がゼロになったことはもちろんうれしいのですが、

 治る治らないに関しましては、もう、わたしはこだわらないようにしようと思います」と。

「いまを生きるだけです。どうなるかはもうゆだねます」とも。

受話器の向こうのその方の心は、じつにすっきりとしていました。

素晴らしいと思いました。

むしろ、なんだか私の方が感謝したい気持ちになりました。

その方は、まるで私にとって見習うべき教師の姿そのものでした。

死を受け入れて、死を超えていくその姿は、まるでキリストのようにも思えました。


そして、私は、思いました。

セッションで自分がしてきたことは、これで良かったのだと。

そして、これから私がしていくものとは、そういうものなのだとも気づかされました。

人生がうまくいくとかいかないとか、結果がどうのこうのとか、そういうものではなく、

むしろ、そういうものから自由になることが、

私がセッションを通して本当にしていきたいことなのだと。

その方を通して、その道をはっきりと教えられたような気がします。


それら一連の出来事は、私自身にとって重要なプロセスでした。

セッションでこの私と関わってくれた方々に、本当にありがとうと伝えたいです。

心から感謝します。

ありがとうございます。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


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2016/09/22

出家の真の意味

『奇跡のコース』で表現されているものは、

巷のノンデュアリティや悟り系スピリチュアリズムとは、

まったく異なるものと捉えた方がいいといえます。

それは、さらにもう一歩踏み込んだスピリチュアリズムといいましょうか、

スピリチュアルの最終地点だといえます。

そこには、一切の妥協がない非二元のスピリチュアリティがあるように思えるのです。


『奇跡のコース』は、悟り系スピリチュアリズムみたいに「大丈夫」という言い方はしません。

むしろ、この世界は幻想だと完璧に見切っています。

そう、この世界を現実としない方向で語られています。

ゆえに、幻想から目醒めていくためには、

この世界を幻想とするか?現実とするか?自分で選択していく必要があるのだと。

自分で自分の心を習練していく必要があるのだという言い方をします。

非二元を見い出して楽に生きましょうではなく、完全に二元性の世界を離れよ、と。

およそ現実と信じ込んでいるこの世から完全に離れなさい、と。

『奇跡のコース』では、そんなふうにわたしたちに語りています。


わたしたちは、必ずいつかは、この世を去ります。

それが、死、というものですが、

『奇跡のコース』は、そうではないこの世を去る方法があるというのです。

死によってではなく、真理によってこの世を去ることができると。

生きながらにして、死を超越することができる道があるのだと。


さて、この世を離れることを実践しようとするとき、

それは、物質的なかたちのレベルで行われるものではありません。

それは、心のレベルで行われるものであると、はっきり述べられています。

そもそも「出家」とは、そういうものであります。

「出家」は、かたちの(物理的)レベルでこの世を離れることを言いますが、

それは、心のレベルで行われるべきものであって、俗世間を離れる必要はないということです。

それは、自分だけで、どこにいてもだれといても実践できる道なのです。


二元性を超えるとは、心においてこの世を離れるということであり、

そういう意味でいうならば、心における「出家」だといえます。

心において、この世を放棄していく実践をしていくのですから。

それは、自我にとっては、死、を意味します。

なぜなら、自我はこの世のもので心を満たしてきたわけで、

それらすべてをあきらめるということなのですから。

それは、ちょうど、肉体の死を迎え、この世を離れるときと同じようなものだといえます。


わたしたちは、いつか必ず、すべてを失うことに心の深い部分で気づいています。

この世のものはすべてこの世に置いていかねばならないことに気づいているから、

わたしたちは、「死」というその時が来ることを恐れているのかもしれません。

その時を先延ばしにしたいのです。遠ざけておきたいのです。

なぜならば、自我にとっては、それはまさに喪失でしかないからです。

そう、もし、あなたが真の悟りを求めているのならば、

自我にとって、悟りは「喪失」でしかないことをどうぞ知っておいてください。

何かを得て到達するものではなく、すべてを喪失して到達するものであるということです。

ただし、スピリットにとって、「喪失」は歓びでしかないことも知っておいてください。

その歓びとは、この世を超えたものです。この世のものでは得られない絶対なる歓びです。


この世から離れていく。

それは、「出家」のようなものです。

それは、死へと向かうための準備です。

ただし、それは、かたちの物理的(3次元的)レベルで、そうする必要はないということです。

それは、心のレベルで実践していくものであるということです。

それは、心のレベルで習練していくものであるということ。

それが、『奇跡のコース』というものです。


ちなみに、「出家」は、「家を出る」と書きますが、

本当は、我が家に帰っていくことであり、まるであべこべです。

それは、家を出るのではなく、本当の我が家に帰っていくためのものだということ。

世俗を離れる必要もないのです。

身体は3次元に生きながらにして、人との関わりの中で、

自分の心の習練をして、この世から自由になっていく道があるのだということです。


心のレベルで出家していく道。


心のレベルで死へと向かっていく道。


それは、自我の死滅(止滅)への道。


『奇跡のコース』の道とは、そういうものだということができます。


2016/09/21

感情について

世界はない。あるのは、神の実在だけである。


それが真理であります。

その真理を見誤るとき、感情というものが生起します。

とくに、不快な感情を感じるとき、ネガティブな感情を感じるとき、

あなたは、この世界を見誤って知覚しているか、

もしくは、自分の向かうべき方向を見誤っているかだと言うことが出来ます。


そう、真理へと、神へと還っていく者にとっては、

感情というものは、いわゆるナビゲーター(水先案内人)となっていきます。


感情に注意深くいてください。


もっと云えば、ハートの感覚に注意深くいてください。


あなたのハートのその感覚だけが、

あなたが非二元のスピリチュアリティの道を歩んでいく上で唯一頼れるものとなっていきます。


我が家へと帰る最後の旅路は、

あなたのそのハートの奥にいるスピリット(聖霊)とともに歩むことになっています。


ハートの感覚に敏感でいてください。

もし、あなたがハートの感覚から離れているならば、

そのときは、スピリット(聖霊)が不快な感情としてあなたにサインを送ってきます。

そのサインを見逃さないように。

あなたがハートの感覚に敏感でいるなら、あなたは聖霊と共にいる感覚がわかってきます。

あなたが、聖霊と共にあるならば、やがて感情というものが凌駕されていきます。

それは、感情を超越していくことを意味します。

あなたは、感情をナビゲーションシステムのツールとして使っていくだけとなります。

それは、ポジティブな感情に関しても同じです。


ただし、あなたが我が家に帰る時、ネガティブ感情を手放すのみならず、

ポジティブな感情も放棄していくことになると知ってください。


ポジティブもネガティブも祓っていく。

それが感情を凌駕するということなのです。


なぜなら、

感情が生起するとき、それはあなたが真理を見誤っているということなのですから。


世界はない。あるのは神の実在のみです。

本当にあるのは、神の平安、絶対なる平安があるのみなのです。


そう、あなたが、わが家に帰るとき、

あなたは、この世の喜びすらも放棄していくことになります。

真の歓びは絶対です。それは、この世の喜びとは比にならないものだと知ってください。

あなたが真の歓びを思い出すならば、

あなたは、何のためらうこともなくこの世の喜びを放棄するでしょう。


そして、ポジティブもネガティブも、感情というものを凌駕するとき、

あなたはこの世のものをもう必要としなくもなるでしょう。

なぜなら、この世のもので、この世の何かで、もう自分を満たす必要がないからです。

そうやって、あなたは、この世から自由になっていくのです。

そうやって、あなたは、この世を去っていくのです。


感情とは、あなたを身体の世界(3次元世界、物質世界に)につなぎとめているものです。

ただ、この世界で、この身体で生きている間は、

その感情をナビゲーターとしてわが家へと帰っていくことになります。

どうぞ、そのことを忘れないでください。


世界はない。この世は幻想である。

言い換えるなら、他者はいない。この世界には、あなたしかいない。


もし、この真理の言葉に、虚無感、空虚感、虚しさ、寂しさを感じるのならば、

あなたは、明らかに真理を見誤って解釈しています。

だとしたなら、そうぞ、その感じている感情に向き合ってください。

ハートで感じている虚無と空虚のその感情に向かっていって、

その向こうから、神、そして、スピリットがあなたに呼びかけているのを感じてください。


「わたしは、あなたをとても愛しています。

 わたしのもとへ帰って来なさい。幻想の世界から離れて戻って来なさい。」


と、あなたの内なる神が、あなたを呼んでいます。

そして、スピリット(聖霊)もあなたにこう告げています。


「あなたが向かうのはこちらなのです、幻想の世界から離れて一緒に我が家へ帰ろう」と。


2016/09/20

死か?それともスピリットか?

今から約二千五百年前、お釈迦さまはこう説かれました。


「この世のすべては、苦しみでしかありません(一切皆苦)」と。


その言葉だけでこの世を捉えるとき、失望感、絶望感、虚無感を生起させることになります。

ただ、お釈迦さまは、その言葉だけでは終わりませんでした。


「この世の苦しみから脱却する道があります」と。


そして、さらには、


「絶対なる幸福に至る道があるのですよ」と説かれたのです。


その言葉は、「この世のものでは絶対に幸せにはなれない」ということの宣告であり、

「でも、この世を超えたところに、本当の絶対なる幸せがあるのだ」と、

その道を選択するよう催促しているようにも聞こえます。


そして、その道こそが、「解脱、悟り」と呼ばれるものです。


ただし、この世のもので自分の心を満たそうとする者にとって、

あるいは、世俗的(物質的)なもので幸せになろうとする者にとっては、

なかなかそう容易くその道を選択できるものではありません。

そう、その道を選択するには、それぞれのプロセスとタイミングがあるのだということです。


あなたが、この世のもので真に歓びを見い出すことができないのならば、

あなたは、この世のものを超えていくことを望んでここに生れてきたということです。

そう、あなたが本当に求めているものは、この世にはない、ということです。

そのあなたが本当に求めているものは、この世を超えたものであり、

この世を超えていくことだと言うことができます。


そんなあなたにとって、もはやこの世は何の意味がないことを知ってください。

この世に意味があるとするならば、

この世は、我が家へと還っていくために、最後の旅路を歩むためにあるのだと知るときです。

それ以外、この世は生きるに値しないといえましょう。

なぜならば、あなたは、いずれこの世を去っていくことになっているのですから。


あなたがこの世を去るとき、この世に何かの想いを残していくのか?

それとも、「立つ鳥跡を濁さず」というように、すべてを整理してこの世を去っていくのか?

この二つは、大きくちがいます。

前者は、死というものでこの世を去ることになります。

後者は、一なるスピリットへと還るかたちでこの世を去ることになります。


そして、言うまでもなく、後者が、仏教で言うところの「解脱」です。


あなたは、時間という名の魂の旅を終えるでしょう。

輪廻という終わりなき旅の終焉を迎えることになるでしょう。


この世は幻想であるように、輪廻転生も幻想です。


その幻想が終わるのです。

いま、の永遠に生きるようになります。

ここ、という非局所に遍在する神へと還っていきます。

一体全体(ワンネス)という全き満ち足りたあなたへと還っていきます。

一なるスピリット。

それが、本来のあなたです。

ゆえに、じつは、「死」よりも「一なるスピリット」へ還ることの方が、

本当は簡単なのだと言われています。


死によって、この世を去るのか?

それとも、一なるスピリットへ還ることによって、この世を去るのか?


それは、すでにあなたの内なる心が知っています。


その答えは、あなたの心が望んでいるか?望んでいないか?ただそれだけなのです。


2016/09/19

エゴの解体、究極の悟りへ

この世は生きるに値しない。何の意味もない。無い。


この真理の言葉をすんなりと受け入れられる人もいれば、

そうではなく、違和感を覚える人もいるでしょう。


巷の悟り系のスピリチュアリズムでは、非二元(ノンデュアリティ)と称して、

「悟り」というものがいろいろな人たちの言葉で表現されています。

「悟り」「ノンデュアリティ(非二元)」「目覚め」「覚醒」という言葉は、

そのことばの定義がさまざまなスピリチュアリズムによってまちまちです。


ただ私なりに「悟り」というものについて云えば、

そこにはさまざまな段階があるように思っています。

そこには、それぞれのプロセスと段階があるということです。


「悟り」といいましても、私が思うに、大きく分けて2種類あるように思います。

「悟り」を、「目醒め」という言葉で置き換えてもいいのですが、

その一つは、夢から目醒める(Awake from the Dream)という悟りと、

もう一つは、夢の中で目醒める(Awake in the Dream)という悟りの、

その二つがあるように思うのです。

前者は、完全なる悟りであり、本当の意味でこの世界から解脱していくものであります。

後者は、「悟り」によってこの世界でもっと楽に自由に生きることができることを求めて、

悟りの名のもとに結果的にこの二元性の世界に捉われている、といった感じを受けます。


もちろん、そこには、どちらがイイとかワルイとか、ジャッジするものでもありません。

だれもが、それぞれのプロセスで必要な経験をしているのですから。

じつのところ、かくいう私も、過去のこれまでの自分を顧みるならば、

正直、後者を生きていたことを認めざるを得ません。

夢から目醒めることを求めていたはずなのに、いつしか夢の中に没頭してしまっていた、、、

と、そのことに気づくのです。


この世は、生きるに値しない。


今、私は、その言葉がしっくりきます。

死というものが、すんなりと受け入れられます。

それは死へと入っていく準備ができたということです。

生きながら、死を受け入れる、、、

それは、エゴ(自我)の死を意味します。

エゴ(自我)は、この世界で生き続けようとします。

エゴ(自我)は、この世界が必要なのです。

エゴは、未来が必要なのです。

エゴは、未来という時間を創造したいのです。


ただし、夢から目醒める(Awake from the Dream)という道を生きる者は、

もう、自らが目醒めていくためにしかこの世界を必要としません。

この世界は自らが目醒めていくためのアイテムだとして生きるようになります。

世界に他者はいません。

願望を実現するために未来を創造しようとは思いません。

むしろ、未来を喪失していくことを歓びとしています。

ちなみに、それは、絶望ではありません。

それは、絶望というものではなく、全託だといえます。


あなたの魂が、真に望んでいるのは、

夢から目醒める(Awake from the Dream)というような道でしょうか?

それとも、夢の中で目醒める(Awake in the Dream)のような悟りなのでしょうか?


それは、後者を生きる者をけっして否定するものではありません。

むしろ、前者を生きる者は、後者を生きる者を、

自分の一部として受け入れ、あるがままにゆるしていくことになります。

そして、前者を生きる者は、この世界のあらゆることを手放していくことになります。

すべてをあるがままにあることをゆるしていきます。

放棄していくことになります。

明け渡していくことになります。

彼らが、本当に求めているのは、自分のみているこの世界から去ることなのですから。

彼らは、自分が本当に求めているものはこの世にはないことを知っています。

そうやって、スピリット(霊)に還っていくことになります。


「夢から目醒める」とは、仏教でいうところの「解脱」です。

解脱とは、生と死の輪廻からの脱却であり、時間という名の永遠なる旅の終焉であり、

真の悟りであり、完全なる悟りだということです。

それは、「夢の中で目醒める」のとは、明らかにちがうものであることを知ってください。

それは、さまざまスピリチュアリティの中でも特異であるということです。


この時代に生きるわたしたちにとっては、目醒めるチャンスにはちがいありません。


あなたは、どちらの「目醒め」を求めているのでしょう?


あなたにとって、この人生で真に求めているものはどっちの「悟り」なのでしょう?


あなたは、何のためにスピリチュアルを探究しているのか?


どうか、今一度、あなた自身に問うてみてください。

そして、あなたにとって真に望んでいるものが、「夢から目醒める」というものならば、

今がその道を歩きはじめる時なのだと知ってください。


2016/09/17

夢から目醒める

現実だと思っているこの世界についての真実を言うならば、

自分が知覚し、認識しているこの世界は、

眠っているときに見ている夢の中の世界と同じように、

自分自身が創り出した世界だと言うことが出来ます。


別の言い方では、

「この世界は、自分の心が投影された世界」というふうにも言われているように、

自分が目にするすべての人、すべてのモノ、すべての事象は、

自分の心によって投影されたものであるということです。


そう、つまりは、この世界は<わたし>が見ている夢だということです。

この<わたし>とは、その夢の主人公であり、その夢の創造主であります。

そして、この世界をよりリアルに信じ込ませるために、

<わたし>は、この世界に自分の身体を、そして自分以外の身体を登場させたということです。


ただし、わたしたちは、この世界を、この現実世界をそのようにはみてはいません。

この世界は、自分がみている夢(幻想)であるとは到底思えず、

この世界は現実だと認識しています。

そうやって、エゴ(自我)のトリックにはまって、

わたしたちはこの時間と空間という幻想世界の夢を見続けているのだといえます。


自分が現実だと思っているこの世は自分の心が作り出した夢(幻想)です。

どんなにリアルにみえようが、所詮、自分がみている夢だということです。


だとしたなら、あなたは何を想うのでしょう?


もちろん、その夢から目醒めることがあなたの目的となるでしょう。

そのためには、この世をゆるし、手放し、遠離していく必要があります。

ただし、それは、一見すると喪失のようにもみえます。

夢から目醒めるとは、そういうものであるからです。

というのも、あなたは、いずれこの世を去るとき、

この世で手にしたもの、かたちあるもの、そのすべてを失うことになります。

その身体も、です。

夢の世界のものを現実の世界に持っていくことはできないように、

あなたがこの世を去るとき、すべての幻想をこの世に置いていくことになるのです。

それが、あなたにとっては死を迎えるときなのかもしれません。

いずれにせよ、この世のものは、あなたがこの世を去るときにすべて失うことになっています。

できることなら、死によってではなく、生きながらにして、

この世のすべてを手放していく道があることを知っていただきたいのです。


この世から自由になるとは、そういうことです。

外から何かを得よう、手にしようとするのをやめ、むしろ手放していくのです。

そのとき、あなたはこの世を必要としなくなります。

あなたは身体をも必要としなくなります。

ただ、覚えておいていただきたいのは、

あなたにその時が来るまで、あなたはその身体を大事に生きる必要があります。

いずれ必要なくなるものだからといっても、夢から目醒めるまではやはり必要なのです。

同じように、あなたはこの世界も愛する必要があります。

この世界を否定しながら、この世界から自由になることはできません。

あなたは、この世界をあるがままにゆるし、この世界から遠離していくのです。

自分のみている夢を愛しながら、夢から醒めていくのです。

あなたが、もっともっとこの世界を夢だと完全に見切るようになるとき、

あなたは、この世界のすべてを愛していたことに気づくでしょう。

そして、この世界も、その身体も、希薄なものへと化していくことでしょう。


これは純粋なる非二元の道です。

この道こそが究極だとは言いませんが、非二元のスピリチュアリズムに一切妥協することなく

実践していく道であるということを覚悟してください。

その道を歩むことは、生きながらにして死へと向かっていくことであるからです。

その道を歩む者は、生きながらにして、いまここにある死の世界を生きる者だからです。


それは、あなたの心を狂気から正気へと修正していくためのものです。

そこには、訓練が必要なのです。

なぜなら、これまでのあなたの心の習性(クセ)は、数え切れないほどの繰り返しによって、

修習されてきたからです。


この世のものはすべて移ろい変わっていくものです。

この世のものすべては信頼に値しないのだということです。

夢の中で手に入れたものを、ずっと持っていくことはできません。

そのことを知っておいてください。

それは、それらを物理的に手放すのだと云っているのではありません。

それは、物質的なかたちのレベルで行うのではなく、

心、すなわち、原因のレベルで行っていくのだということです。


覚悟はできていますか?


覚悟はいいですか?


もし、抵抗や恐れがあったとしても、大丈夫。


すべてはあなたがみている夢(幻想)にしかすぎないことを思い出してください。

怖れをリアルにしないで、それは自分の心の習性で生み出した妄想だと気づいてください。

あなたが覚悟を決めてその道を選択するならば、

あなたは聖霊と共に、この世界の幻想から解き放たれていくていくことになります。


夢は必ず消え去っていくものです。


現実(真実)は、不変です。絶対です。


あなたは、身体ではありません。

あなたは、この世を超えた一なる存在です。

あなたは、スピリット(聖霊)です。

そのスピリットこそが、あなたが戻っていくわが家です。


生きながらにして死の世界へと入っていくのです。

それは、外の世界へと向かっていたこれまでの自分を放棄するということです。

ただし、スピリット(聖霊)なしで、すべてを放棄することは恐怖でしかありません。


すべてを内なる聖霊(スピリット)に明け渡しなさい。

内なる聖霊(スピリット)と共にいなさい。


それが、あなたが確実に幸せへ至る道だということです。


2016/09/15

エゴか?それともスピリットか?

私は、これまでエゴ(自我)というものについてあまり言及してきませんでした。

どちらかと云えば、これまでの私は、

「本来、エゴというものはない」というスタンスでいました。

むしろ、エゴについて語るときには、

「エゴ(自我)は、愛すべき自分の一部である」

という言い方をしてきました。


というのも、悟り系のスピリチュアルの中でエゴについて語られているのをみて、

まるでエゴ(自我)を敵(仇)のように表現しているように感じていましたし、

そのことばのままを知識として学んだ人たちが、

自分の中のエゴ(自我)を滅するのにやっきになって自分自身と戦って苦悩している姿を、

多く見てきたこともあって、正直、あまりいい気がしなかったのでした。

エゴをまるで敵のようにみて、エゴの自分をジャッジして、

かえって自己の中に二律背反(葛藤、分離)を生じさせて、

自分を愛することができないでいる人を、私は、セッションでたくさん見てきたのです。


でも今では、それは過去の私自身の姿をみていたのだとわかります。


たしかに、エゴ(自我)は、自分の中でゆるされ統合されていくと消滅してなくなります。

そう、実相からみるとエゴは存在しません。

それは、輪廻転生、カルマといったものも同じです。

苦しみも同じです。無いのです。

本来は、そういったものは存在しません。実在しない、と言った方が正しいかもしれません。

苦しみも、問題も、他者も、存在しません。

それらは、すべて実在しない、無い、のであり、

自分の心のフィルター(色メガネ)を通してみているがゆえの幻想でしかありません。


そういった考えがこれまでの私の中にはあって、

特にエゴ(自我)というものに関してはその想いが強く、

エゴについて語ることをしてこなかった私がいます。


ただし、やっぱり、今この世界に生きている者として、

この世では、苦しみを感じることもあるし、問題として思えることもあるし、

他者を、そして、すべてを自分の心の反映として完全にみているわけではありません。

そういう意味では、分離した意識でこの世界をみているかぎり、

エゴもある、輪廻転生も、カルマも、ある(有る)のだというふうに認めた方がいいのかな、

という想いを抱く今日この頃なのです。


私の中のなにかが変わってきているのだと思います。

その一つがエゴについての捉え方です。

自己の内側を覗くとき、エゴ(自我)とスピリット(霊)は、

やはり相容れられるものではないと気づくのです。

エゴは、この世があたかも現実として捉えています。

エゴは、この世のもので自分の満たされていない感覚を埋めようとします。

そのために、時間を必要とします。空間を必要とします。この世を必要とします。

この世に留まろうと変化を怖れようとします。

一方、この世を自分の心の反映である幻想として捉えていくとき、

エゴか?それともスピリットか?

の選択が必要であることがわかってきます。

この世にとらわれるか?手放すか?

それは、まさに究極の非二元、妥協なき非二元といえるでしょう。


私は、今では、エゴをもっと知る必要があると感じています。

エゴにもっと気づいていく必要があると。

エゴをスピリット(聖霊)に選択し直していくことが、

この世界から自由になる道であり、

スピリットへと回帰していく道であるといえます。


この世界から自由になる覚悟はできていますか?


なにものにもとらわれなくなるとは、そういうことです。

この世か?実在か?

そのどちらかを選択する必要があるのです。

もし、あなたが真の自由を心から望んでいるのならば、

あなたは、後者を選択し続けていく必要があるということです。


覚悟したときが、その道のはじまりです。


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2016/09/13

見逃されてきたイエスの昇天

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        ザビエル教会旧聖堂 (福岡県宗像市)


先日、車で1時間半ほど走らせたところの教会に行ってきました。

その教会が上記の写真です。


この教会は、もともと鹿児島に建っていたものをそのまま福岡のこの地に、

移築してきたということらしいです。


建物の中には、シンプルな祭壇があり、ザビエルの絵画が飾られてありました。


堂内は、イエス・キリストの生涯が10枚の絵画によって飾られ表現されていました。

ただし、私が気になったのは、

その10枚のイエスの生涯の絵画の物語は、

イエス・キリストが十字架に磔にされたところで終わってたということです。

たぶん、多くの方々が、イエス・キリストをそのように解釈しているのでしょう。


でも、本当は、イエスの物語はそこで終わりではありません。


イエスは復活を果たし、その40日後オリーブ山にて昇天した、

ということを多くの人たちが見逃しています。


聖書を読むとイエスの昇天は文字通り、実際に起こった出来事だとわかります。

聖書は、それらを実際に目にした弟子たちによって語られたものです。

つまり、イエス(イエシェア・ゼン・ジョセフ)は、二千年前に実在した人物であり、

その物語は本当にあった実話であるということです。


昨年、バルセロナに旅行したときに、大聖堂の教会を見学した際に、

イエスキリストの生涯が描かれた絵画を観たのですが、

そこにはちゃんとイエスの復活と昇天が描かれてありました。


しかも、「昇天」は、アセンション(Ascension)と表記されていました。


私は、それを目にしてあらためて確信しました。

アセンションということばは、この時代からあった(使われていた)ということ。

そして、私にとってのアセンションとは、これなのだと。

それは、私が求めていた仏教でいうところの「解脱」であるということです。


巷のスピリチュアリズムでは、

アセンションということばがそれぞれの意味で用いられています。

でも、せめて私がアセンションということばと使うとき、

それは、イエス・キリストが成し得たそれだということです。


私が云いたいのは、

イエス・キリストの象徴は、十字架の磔にあるのではなく、

その復活後の昇天(アセンション)にこそ、その真意があるのであり、

私が歩んでいる道は、その道なのだということです。


2016/09/12

転がり続ける岩のように

若かった頃の私と云えば、社会に対してもそうですが、

この世界に対して斜に見ているところがあって、

ずいぶんと尖がって生きていたように思います。


そのせいもあって、私はこの現世を否定して、この現世から離れようと、

宗教にのめり込んだこともありました。


そして、私は、宗教にもまたうんざりして、世俗的に生きている時期もありました。


その後また、私は生きることに行き詰って、日本社会から逃げ出すように、

バックパッカーとしてアジアを放浪していた時期がありました。


約一年間に渡ってチベット、ヒマラヤ、ネパール、インドを渡り歩いた旅は、

私にとってはそれまでの生き方、人生をリセットするためのものだったと思います。

アジアのその旅は衝撃的でした。

自分はこれまでなにをみて生きていたのだろう!?と思ったほどでした。


いろんな霊的体験もしました。

ヒマラヤの満月を眺めながらただ恍惚のなかにいる夜もありました。

一人、満天の星空と雄大なヒマラヤの景色を眺めながら、

至福に包まれて夜明けを待っていたこともありました。

たくさんの奇跡が当たり前のように起きていました。

ヒマラヤは、そんな波動エネルギーを持っている場所だと思います。


そんなある夜、私は、ある印象的な体験をしたのを覚えています。

たしかインドのダラムサラに滞在していたときだったでしょうか。

やはりその夜も満月だったと思います。

これからどう生きていけばいいのだろう?生きてどうなるのだろう?と

一人何気なくそんなことを自問していたように思います。

その瞬間、なにかが閃いたといいましょうか、なにかがハッと開いたのでした。

ことばにすると、「私は知っている」「私は答えを分かっている」という感覚が、

やってきたかと思うと、啓示が降りてきたのでした。

それは、ことばにすると、

「生きろ!生きるのだ!生きれば今自分が問うているすべての答えが見いだされるであろう。」

と、そういう感じです。

そのとき、私は、「もう大丈夫。私は、日本で生きよう。」と思えたのです。


でも、今想えば、その啓示は、

本当の自分の人生のはじまりを知らせるたんなるサイン(導き)だったように思います。

なぜならば、そこからの私の人生には、

私のアイデンティティの最大なる崩壊が待ち受けていたからです。

アイデンティティが崩壊する必要があったのだと思います。

それによって、私は、人生というものはみえない力で生かされているということを知りました。

そのみえない力に導かれて生きる方が楽だということも知りました。

そして、この社会のルールに合わせて生きることが賢明だということも知るに至りました。

もう、この社会やこの世界に対して斜にみるということもなくなりました。


今では、すべてを受け入れて生きよう、すべてをOKとして生きようとしている私がいます。

かつては尖がっていた私もずいぶんと角がとれて円(まる)くなったのがわかります。

まだまだ角(かど)が立つときもあります。

でも、それらの角も、生きながらあらゆる人や出来事や状況をゆるしていくことで、

やがてはなくなっていくのでしょう。


円(まる)という、完璧なかたちへ向かって。


生きるとは、転がり続けるということなのかもしれません。

転がり続けることで、完全な円になっていくのだということです。

そして、わたしたちは、そのように円くなっていくために人生はあるのかもしれません。


それは、安定した状態に留まるのではないということ。

そして、自分にも、他人にも、社会にも、この世界のあらゆることにOKとしていく。

そのすべてをゆるし全託していく道がここにはあります。

それは、この現世を否定してこの世界を離れるのではなく、

すべてを受け入れてこの世界から離れていく道でもあります。


転がり続ける岩のように。


一切のとらわれのない自由なかたちへと。


いつどこにどう転んでも構わない、どこにも留まらない、過ぎ行く者であるように。


今、私が歩んでいるスピリチュアルな道とは、そういうものだといえます。


2016/09/11

マイライフ

私にとっての一日の暮らしは、瞑想からはじまります。

私にとって、朝と夜の瞑想は欠かすことができません。

朝の瞑想時間は40分。夜の寝る前には30分。

もちろん、決まり決まってそうしているわけではないのですが、

気づけば、それがもう日課となっていて、瞑想をしないでいるとかえって、

なんだか落ち着かないといいましょうか、気分がしっくりこない感じさえあります。


瞑想だけではありません。

ネイティ(ジャラ・ネイティ、ストラ・ネイティ)も毎日欠かせません。

ネイティとは、ヨガ的な身体の浄化法の一つで、要するに鼻の洗浄です。

ジャラ・ネイティは、鼻うがいみたいなもので、水で洗浄します。

ストラ・ネイティは、鼻に紐をとおして浄化する方法です。

別に、鼻の状態がわるいからというわけではなくて、

なにせ、それをやると鼻の通りもスッキリしますし、

頭というか脳がスッキリといった感じになり、視界もクリアになる感じがするので、

やめられないのです。

それをやらないとなんとなく心地悪い感じがするので、

いつのまにか日課となってしまっている状態です。


食事に関して言いますと、基本的に一日2食。

ベジタリアンではないのですが、肉、魚といった動物性のものはほとんど口にはしません。

菜食になったきっかけは三年前で、何気なくウチのカミさんと「菜食を試してみようか」

という話になって、それがそのまま今まで続いているといった感じです。

それが当たり前になってしまうと、肉や魚を体が欲しなくなったといいましょうか、

むしろ、肉に関してはまったく食べないわけではありませんが、

臭いがキツイと感じるようになり、あまり食べたいとは思わなくなりました。

玄米食については、半年くらい続けていましたが、最近は、白米もウマいなと思うようになり、

特にこだわっているわけではありません。

気づいたら、そうなっていたということです。


定期的に、断食もします。

その際には、ヨガ行法の腸内洗浄(シャンカプラクシャーラン)もやっています。

ようするに、大量の塩水を飲み腸をきれいに洗い流すヨガ的身体浄化法です。


そうやって、よくよく私の生活ぶりを見返すと、かなりヨガ的な暮らしだなと思います。

まるで、ヨガ行者だなと。

でも、自分では、まったくそれらを修行だとは思っていません。

それをやると心地いいのです。


想えば、私は20代の頃からyogaや瞑想をはじめましたが、

その頃の私と云えば、同じようなヨガ行法(アーサナ、浄化法、瞑想、食事など)を

修行として捉えてやっていたのを覚えています。

修行して悟りに到達するために、、、という想いでやっていたのです。

ですから、つらかったし、苦しかったし、まさに苦行そのものでした。

でも、正直、それでは続きませんでした。


あれから、もう二十年になりますが、

今では、それを心地よいものとしてやっている自分が不思議です。


瞑想すれば悟りに到達するというものではありません。

身体を浄化すれば悟りに到達するのでもないと今ではそう思います。

悟りとは、心の自由のことをいうのであり、

修行とは本当はそういうものではないのだと思います。

そういうかたちのあるものではないのだと。

たしかに、身体的に心地良ければ心も軽やかで平安でいることが容易になります。

ですが、むしろ、そういうものにこだわっているとかえって心を制約しかねません。

行(かたち)ではない。

今ではそう思っています。


これが今の私の暮らしです。

でも、みなさんにもそれをすすめようとは思いません。

私は、自分がその方が心地よいから、そういうヨガ的生活をしているだけです。


自分にとって何がいいか?

それは、自分でしかわかりませんし、自分の感覚でわかるものです。

だれもに自分の道があります。

自分の生き方があります。

自分の感覚で良しとするものを。

私は、それが大事なんだと思います。