2016/11/27

永遠の旅人

今まで自分を幸せにしてくれると思って求めてきたものそのすべてが、

代替的なものでしかないことに気づくのに、

自分はどれだけの時間と経験を費やしてきたことだろう。


自分はそのことに気づくまで、ほぼ永遠と呼ばれる時間の中を旅してきたことになる。


この今も、頭ではわかったつもりでいるものの、

それでも、そこに幸せや喜びあると信じてやまないのだから、

自分はどれだけ無智で愚かなのだろうとさえ思う。


そのたびに、自分はどれだけ傷ついて絶望、失望してきたことか。


本当の自分を忘れてしまったゆえ、自我の罠に翻弄されてきたということだ。


幸せや喜びを与えてくれると思っていたものすべてが、

この幻想世界の中に留まらせておくための罠であると、だれが見抜けるであろう。


その姿は、

まさに鏡に映る虚像のさまざまな幻影に惑わされて永遠の時間を旅してきた旅人だといえよう。


それが、まさにこの自分である。


だから、その永遠の旅をもう終わらせたい。


それは、自分だと思っているこの自分の終わりでもある。


IMG_1823.jpg


2016/11/26

神の国以外なにも要らない

聖霊なしに、

この世界を放棄していくならば、

それはただたんに喪失でしかありません。


聖霊なしで、

自分を放棄していくならば、

それもただたんに虚無でしかありません。


それが、仏教の名のもとに自己放棄の道を歩んでいた頃の私が経験してきたことです。


聖霊という導き手なしで、

自分独りでわが家に帰ることなんてとうてい無理だということが今ではわかります。


聖霊不在で、わが家に帰ろうとすることは、

それは、まるで途方もない終わりのない苦行(愚行)でしかありませんでした。


イエスの名のもとに、聖霊と共にこの道を歩むとき、

そこには、たしかに確実な道があるのがわかります。


ここにイエスがいてくれています。

ここに聖霊がいてくれています。


神の国以外もうなにも要らない、と、そうなるまで。


イエスよ!聖霊よ!

あなたにすべてを明け渡せるときがきますよう、どうぞお導きください。


IMG_1814.jpg


2016/11/24

人間の業

自分の人生をより良いものにするために、

そのゲームにやっきになっているのがわたしたちである。


そして、この地上に生きるそのほとんどの人が、

そのゲームに夢中になっているうちに生涯を終えてしまうのだ。


そのことに気づく者は、じつに少ない。


それがわたしたち人間の業ともいえるだろう。


別の言い方でいえば、生存本能にまつわる怖れから逃れるために、

わたしたちは、この人生をそのほとんどに費やしているといえる。


わたしたちは、生まれながらにしてそのような自我のプログラムに支配されており、

そのことに無自覚になっているのが、この世でこの身体で生きているゆえんである。


何のために生れてきたのか?

何のために生きているのか?

この人生の真の目的はなんなのだろうか?

そして、どこへゆこうとしているのか?


その問いを自らの内に強く抱く者たちは、

必ずやこの世界から自由になる道を見い出すだろう。


IMG_1797.jpg


2016/11/23

何よりも賢明なことは

フロイトは云った。

夜寝ているときに見る夢の中に出てくる登場人物はすべて自分自身である、と。


そりゃあ、そうである。

自分が見ている夢なんだから、その夢の中に自分以外の誰かがいるわけがない。


じつのところ、昼間起きて自分が現実だと思っているこの世界も同じである。

自分の人生の中で出会う登場人物、出来事、状況、、、

そのすべてが自分が見ている夢なのだということ。


本当は、他者などいるわけもなく、この世界もない。


そう、自分の見ている夢の中の登場人物に、

「これは夢なのですよ!」と伝えたところで、その人物も実は自分である。

なんと滑稽なことか。


そういうことをしても、その夢は続いてゆくだけである。

それよりも、自分のみているこの夢から自らが目覚めていくことの方が、

その夢を終わらせることの方が、何よりも賢明なことではないか。


かくして、自分は、この夢(幻想)から目覚めるためにここにいるのであり、

この人生はそのためにあるのだということ。


IMG_1805.jpg


2016/11/21

立つ鳥跡を濁さず

「立つ鳥跡を濁さず」ということばがあるが、

それは、きれいに美しく去るというのではなく、跡に何も残さない、ということ。


一切、何も残さない。


何か一つでも残しておきたいという気持ちがわずかでもあるのなら、

それが、この世界に縛り付けられる要因になるということ。


この世界のものに執着しながら、この世界を超えていくことは絶対にあり得ない。

この世界に想いを残したまま、この世界から飛び立つことはできない。


想いを残すとは、まだ、癒されていないものが心のどこかに残っているということ。


癒されていない心のまま、この世界から自由になることはできない。


自我はこの世界にいたいし、そもそも自我はこの世界でしか存続できない。

ゆえに、自我はひそかにそれを隠蔽するのである。


そのわずかなものですらも、けっして見逃してはいけない。

隠さぬように。

そして、見つけ出していくのである。


なにも残さぬように。

もう、二度と輪廻をして、この世界に戻って来ないために。


幻想を終わらせるということは、そういうことである。


IMG_1794.jpg


2016/11/20

無謀な大作戦

こんな夢をみた。


私は、宝くじが当たって何千万円か何億円かの大金を手に入れた。

私の心はそれでとても満たされていた。

私は、どんでもないほどのラッキーで喜んでいた。


ただ、私はあることに気づいた。

これは夢だと。


そして私は、何を思ったかというと、

これが夢だと気づいたものの、

その大金をどうにか現実に持ってはいけないだろうか?と考えた。

できるなら、その大金を手放したくはなかった。

この世界に持って帰りたかった。


そして、私は、その大金ごと一緒に夢から目覚めることを試みた。

どうにかうまくいってくれ、、、


そして、私は、夢から目が覚めた。

夢から覚めたそこは、この世界でのいつもどおりの夜の部屋だった。

もちろん、成功はしなかった。


所詮、夢の中のものは夢の中でしか所有することはできない、と私は悟った。


IMG_1826.jpg


2016/11/18

外側のことに言及しないのは

自分で言うのもなんですが、

私が記事として書き綴るものといえば、そのほとんどが心の内面についてばかりです。


もちろん、教育や医療のこと、あるいは、政治、経済、世界情勢について、

まったく関心がないわけではありませんが、

そういうことについていろいろ述べたとしても、

やっぱり、それらは、自分の心の投影であり、

見つめていくべきものとは自分の内面だと思うわけです。


誰々がこうだ、何々がこうだというふうに、なぜかあまり言及する気にならないのです。


外側のことに言及するということは、

自分の心の投影である幻想にとらわれているということであり、

そのことについて言及していくことよりも、

自らが外側の世界に投影しているだけなのだと、

そのことに気づいていくことの方が、私は大切なことだと思うわけです。


とはいいましても、

まったく外の世界に振り回されていないというわけではありません。

自分の身の周りで起きることで、一喜一憂することはもちろんあります。

それでも、やっぱり、向き合うべき対象は、自己の内面であり、自分の感覚です。


外の現実で起きていることは、

自分の中のある何かが意識化されるために投影されたにすぎません。

外の世界へではなく、自己の内面へとその原因を探っていくのは当然のことです。


向き合うべきは、自己の内面、だと思うのです。

それこそが、自分自身が幸せになる道であり、

この世界が祝福されていくための確実な道なのだと言うことが出来ると思います。


もう、自分の人生を、自分の生きているこの世界を問題としてみるのは終わりにするつもりです。

だれかのせい、何かのせいにしながら被害者ぶるのも偽善者ぶるのももうやめにするつもりです。

被害者も加害者もありません。

聖職者も偽善者もいません。

だれのせいでもなく、自分のせいでもなく、すべてをゆるせるように。


この世で起きていることを無視しているわけではありません。

まったく関心がないのではなくて、

外の世界のことについていちいち言及する気にならないということです。


結局は、この世で起きていることは、自分の中で起きていることです。

とはいえ、そのこと(現象として起こっていること)に焦点を当てているかぎり、

二元の世界(無明、幻想)にすっかりとらわれているということであり、

むしろ、自分の周りに起きているこの二元の世界にとらわれなくなっていくことこそが、

この世界から真に自由になっていくということではないだろうかと思うわけです。


IMG_1829.jpg


2016/11/15

盲目のままでいたいだろうか?

Without forgiveness I will still be blind.
赦しなくしては、私は依然として盲目のままである。

ー『奇跡講座/奇跡のコース』ワークブック lesson247よりー


コース(ACIM/奇跡講座)の教えによれば、

この世界というものは、自分自身にある重要な嘘をついて、

その嘘によって作り出された世界であると言います。


自分自身を欺くために作られたのが、この世界だということ。


そうやって自分を騙し、欺き続けて、

ずっと(できるなら永遠に)この世界に居続けさせたいのです。


なので、この世のあらゆるものを駆使して、

嘘がバレないように真実から目をそらせようとしています。


それが、「投影」というトリックです。


投影というトリックを使って、外側の世界に目を向けさせようとするわけです。

投影することで心の内側(原因)に意識を向けさせないようにしているのです。


むしろ、原因に焦点を当てようとすると、怖れや不快を感じさせます。

そうすることで、外側の世界に意識を向けさせ、あなたを原因から遠ざけようとするのです。


つまり言い換えると、そういった怖れや不快といったものを感じているとしたなら、

嘘が暴かれようとしているチャンスにあるといえます。


あなたは、嘘を暴きたいだろうか?

それとも、目をくらませたまま、盲目のままでいたいだろうか?


IMG_1893.jpg

ハワイ島ワイピオ渓谷


2016/11/12

悟り系とノンデュアリティについて

たまに、YouTubeとかで、

ノンデュアリティ(非二元)や悟り系のティーチャーが話してる動画が気になって、

ちょこっと覗いたりするのですが、そのたびに不愉快な感じがしてしょうがないです。笑


「自分はもう目覚めてます、悟ってます」みたいなところから話してるけど、

いやいや、全然、目覚めてないやん!って突っ込みさえ入れたくなるほどです。


彼らの定義する「目覚め」「悟り」と、

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)でいうところのそれとはちがう気がします。


というより、全然、ちがいます。


どうちがうか?というと、

たとえ、一瞥体験をしたとして「この世界は実在しない」ってことをわかっても、

実際に、まだこの世界を実在させて知覚してるでしょ!ってことです。


コースでは、そんな状態を、目覚めた、悟った、とはけっして言いません。


巷では、

ノンデュアリティ(非二元)や悟り系のスピリチュアリティがはびこっていますが、

彼らの「目覚め」「悟り」という言葉と、

コースでいうところのものと混同しないようはっきり区別した方がいいと思うのです。


IMG_1899.jpg


2016/11/06

探究の終わり

もう、スピリチュアルな知識に真新しいものを感じないということは、

それは、探究の終わりを意味するのだと思います。


これは私自身のことですが、

たしかに、知識的に何かを探し求めるということはもうないのかもしれません。


この今となっては、ただただ神に心が向かうだけです。

この心がもっと自由へと解き放たれていきますように、と。


そういう意味では、探究は終わりかもしれませんが、「道」は、この今も続いています。


巷では、いろいろな人がさまざまなかたちで、

それぞれのスピリチュアリティのもとに情報を発信されています。


ネットやYouTubeでは、次から次へとそういうものをみかけますが、

いったいどんなことを発信しているのだろう?と、

ときにはそういうものを覗いたりするのですが、そのどれをとっても興味が湧いてきません。


この世のしくみはどうなっているのか?どうしたら幸せになれるか?といったものとか、

願望実現、悟り、覚醒、アセンション、、、といったものに対して、

もう、そういうものにワクワクといいましょうか真新しさを感じなくなってしまいました。


でも、そう想うのは、きっと、私個人の見解であって、

そういうものに真新しさや興味を抱く人の方が圧倒的に多いし、

これからもっと増えていくのだろうと思います。


私は、そういうこともゆるして(手放して)いく必要があるのだと思います。


探究の終わり。


そんなことを感じている今日この頃です。


なにか思いつくままをただ書いてみたのですが、

最後まで読んでくださってありがとうございます。


IMG_1837.jpg

ハワイ島キラウエア火山