2016/11/27

永遠の旅人

今まで自分を幸せにしてくれると思って求めてきたものそのすべてが、

疑似的なものでしかないことに気づくのに、

自分はどれだけの時間と経験を費やしてきたことだろう。


自分はそのことに気づくまで、

ほぼ永遠と呼ばれる時間の中を旅してきたことになる。


この今も、頭ではわかったつもりでいるものの、

それでも、そこに幸せや喜びあると信じてやまないのだから、

自分はどれだけ無智で愚かなのだろうとさえ思う。

その姿は、まるで条件反射的に反応している動物か!

もしくは、プログラム通りに動かされているロボットとなんら変わらない。

そのたびに、自分はどれだけ傷ついて絶望してきたことか。

無智であるがゆえ、無意識であるがゆえ、

自分は、自分を見失い、エゴの錯覚に翻弄されてきたということだ。


それは、けっして自由とは言えないし、

自由というものが本当はどういうものかまったくわかっていなかったのだ。


なにが自分を幸せにするのか?

本当の幸せはどこにあるのか?


それがわかっていながら、なぜ、それがないところにそれをさがすのか?

それが、エゴというもの。

エゴは、この世界を現実だと信じている。

エゴは、この世界にそれがあると思っている。

それは、錯覚である。勘違いである。


でも、本当の自分は知っている。

今まで自分を幸せや喜びを与えてくれるものと思っていたものが、

どんなに浅はかで脆く儚いものか!

その真実を知るならば、もう、それを求めようとは思わない。


われわれは、

まるで鏡に映る虚像のさまざまな幻影に惑わされながら永遠の時間を旅してきた旅人である。

そして、それが、まさにこの自分である。


でも、その旅も、もう終わる。

なぜなら、そう決めたから。

いや、それははじめから決まっていたこと。

この旅が完了するということ。

だから、完了させるだけのこと。

それは、自分だと思っているこの自分の終わりでもある。


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2016/11/26

愛の名のもとに

愛不在で、

この世界を放棄していくならば、

それはただたんに喪失でしかない。


神不在で、

自分を放棄していくならば、

それもただたんに虚無でしかない。


それが、自己放棄の名のもとに仏教の道を歩んでいた頃の私が経験してきた道。

そんなんじゃ、わが家に帰ることなんて出来ないことが今ではわかる。


愛不在、神不在でわが家に帰ろうとすることは、

それは、まるで途方もない終わりのない苦行(愚行)でしかなかった。


愛の名のもとに、神の名のもとに、

この世界を放棄していくならば、

そして、自分を明け渡していくならば、

自らの内には、何ものにも代えられない平安と全き満たされたものが見い出される。

さらに言えば、

ソレさえあればソレ以外なにも要らない、と、

この世界のものを、自分すらをも、いとも簡単に手放していけるようになるのだ。


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2016/11/24

人間の業

自分の人生をより良いものにするために、

そのゲームにやっきになっているのがエゴである。

そして、この地上に生きるほとんどの人が、

そのゲームに夢中になっているうちに生涯を終えてしまうのだ。


その真実に気づく者は、じつに少ない。


それがわたしたち人間の業ともいえるだろう。

もっといえば、生存本能にまつわる怖れから逃れるために、

わたしたちは、この人生をそのほとんどに費やしている。

わたしたちは、生まれながらにしてそのようなエゴのプログラムに支配されており、

そのことに無意識になっているのが、この世でこの身体で生きているゆえんである。


何のために生れてきたのか?

何のために生きているのか?

この人生の真の目的はなんなのだろうか?

そして、どこへゆこうとしているのか?


その問いを自らの内に強く抱く者たちは、

必ずやこの世界から自由になる道を見い出すだろう。


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2016/11/23

何よりも賢明なこととは

フロイトは云った。

夜寝ているときに見る夢の中に出てくる登場人物はすべて自分自身である、と。

そりゃあ、そうだ。

自分が見ている夢なんだから、その夢の中に自分以外の誰かがいるわけがない。


そして、じつのところ、昼間起きて自分が現実だと思っているこの世界も同じである。

自分の人生の中で出会う登場人物、出来事、状況、、、

そのすべてが自分が見ている夢なのであり、幻想だということ。


本当は、他者などいるわけもなく、この世界もない。


そう、自分の見ている夢の中の登場人物に、

「これは夢なのですよ!」と伝えたところで、その人物も実は自分である。

なんと滑稽なことか。

そんなんじゃ、その夢はただ続くだけである。

それよりも、自らが自分のみているこの夢から目覚め、

その夢を終わらせることの方が、何よりも賢明なことではないか。


かくして、自分は、この夢(幻想)から完全に目覚めるためにここにいるのであり、

この人生はそのためにあるのだということ。


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2016/11/21

立つ鳥跡を濁さず

「立つ鳥跡を濁さず」ということばがあるが、

それは、きれいに美しく去るというのではなく、跡に何も残さない、ということ。


一切、何も残さない。


何か一つでも残しておきたいという気持ちがわずかでもあるのなら、

それが、この世界に縛り付けられる要因になる。

あなたは、必ずやまたこの世界に引き戻されてくることになる。

この世界に想いを残こしたまま、あなたはこの世界から飛び立つことはできない。

何かを残したまま、あなたはこの世界から自由になることはできない。


エゴはこの世界にいたいのだ。

なぜなら、エゴはこの世界でしか存続できないからだ。

ゆえに、エゴはひそかに何かを残そうとする。

そのわずかなものですらも、けっして見逃してはいけない。

もう、二度と輪廻をして、この世界に戻って来ないために。


幻想を完全に終わらせるということは、そういうことである。


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2016/11/20

無謀な大作戦

あるとき、こんな夢をみた。


私は、宝くじが当たって何千万円か何億円かの大金を手に入れた。

私の心はそれでとても満たされていた。

私は、なんてラッキーなのだろうと。


ただ、私はあることに気づいた。

これは夢だと。

そして私は、何を思ったかというと、

これが夢だと気づいたものの、

その大金をどうにか現実に持ってはいけないだろうか?と考えた。

できるなら、その大金を手放したくはなかった。

この世界に持って帰りたかった。


そして、私は、その大金ごと一緒に夢から目覚めることを試みた。

どうにかうまくいってくれ、、、

そして、私は、夢から目が覚めた。

夢から覚めたそこは、この世界でのいつもどおりの夜の部屋だった。

もちろん、成功はしなかった。


所詮、夢は夢でしかなかった。

いくら夢の中で手に入れたとしても、夢の中のものを現実に持っていくことは不可能なのだ。

もっと言えば、

すべてははじめからなにも起きていなかった、、、幻想だったということだ。


よくよく気づくのは、つまるところ、この世もそういうものだということである。


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2016/11/18

偉大なるワーク

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自分で言うのもなんですが、

私が記事として書き綴るものといえば、そのほとんどが人間の内面についてばかりです。


もちろん、教育や医療のこと、あるいは、政治、経済、世界情勢について、

まったく関心がないわけではありませんが、

そういうことについていろいろ述べたとしても、

やっぱり、それらは、自分の心の投影であり、

見つめていくべきものとは自分の内面だと思うわけです。


誰々がこうだ、何々がこうだというふうに、言及する気にはなれませんし、

結局、問題を問題として捉えているうちは、

そこには真の解決というものはないのですから。


外のことに言及しているうちは、

自分の心の投影である幻想にとらわれているということであり、

そのことについて言及していくことよりも、

自分が自ら外側の世界に投影したものについての自分の解釈に反応していたのだと、

そう自分で気づいていくことの方が、私は大切なことだと思うわけです。


とはいいましても、

まったく外の世界に振り回されていないというわけではありません。

自分の身の周りで起きることで、一喜一憂する私もいます。

それでも、やっぱり、向き合うべき対象は、自己の内面の感情であり、自分の感覚です。


外の現実で起きていることは、

自分の中のある何かが意識化されるために投影されたにすぎません。

その宇宙の真理を知る者ならば、

外の世界へではなく、自己の内面へとその原因を探っていくのは当然のことです。

その作業(ワーク)は、大それたことのようには思えないかもしれませんが、

あなたにとって、そしてこの世にいる兄弟姉妹たちにとって、

それ以上のパワフルな影響を与えるものはないことに気づいてほしいと思います。


あなたには、そのちからがあります。

そのちからを疑う者は、この世界の幻想に振り回されて生きることになります

そして、それがこれまでのわたしたちであり、あなたです。


向き合うべきは、自己の内面、です。

それこそが、あなた自身が幸せになる道であり、

この世界が祝福されていくための確実な道なのです。


もう、自分の人生を、自分の生きているこの世界を問題としてみるのは終わりにしましょう。

だれかのせい、何かのせいにしながら被害者ぶるのも偽善者ぶるのももうやめにしましょう。

被害者も加害者もありません。

聖職者も偽善者もいません。

だれのせいでもなく、自分のせいでもなく、

すべてが、これでいいのだと、すべてをゆるせるあなたになっていってください。


この世で起きていることを無視しているわけではありません。

まったく関心がないのではなくて、

外側の世界のことは、いちいち言及するに値しないということです。

結局は、この世で起きていることは、自分の中で起きていることです。

とはいえ、そのこと(現象として起こっていること)に焦点を当てているかぎり、

二元の世界(無明、幻想)にすっかりとらわれているということであり、

むしろ、自分の周りに起きているこの二元の世界にとらわれなくなっていくことこそが、

この世界から真に自由になっていくということではないでしょうか。


2016/11/15

自我と向き合うことの必要性

Without forgiveness I will still be blind.
赦しなくしては、私は依然として盲目のままである。

ー『奇跡講座/奇跡のコース』ワークブック lesson247よりー


ほんとうの自分(真理)を思い出すためには、自我と向き合っていく必要があります。

それなしで、幻想からの解放、つまり、ほんとうの幸せはないといえます。


「自我と向き合う」ということばを使っていますが、

「幻想と向き合う」ということばで言い換えてもかまいません。


幻想からの解放とは何か?

それは、この世界からの解放だと言うことができます。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の教えによれば、

この世界というものは、

自分自身にある重要な嘘をついて、その嘘によって作り出された世界であり、

また、自分自身を欺きながら生きることのできる世界が、この世界だと言うことができます。

そうやって自分を騙し、欺き続けて、

ずっと(できるなら永遠に)この世界に居続けたいと思っているのが自我(エゴ)です。

なので、自我はこの世のあらゆるものを駆使して、

嘘がバレないように本質から目をそらさせようとします。

外の世界に投影することで心の内側(源)に意識を向けさせないようにしているのです。


むしろ、そこに焦点を当てようとすると、自我は、怖い、嫌だ、不快と感じます。

そう、自我は、外側の世界に意識を向けさせ、あなたを本質から遠ざけようとするのです。

つまり、怖い、嫌だ、不快といったものを感じさせているのは自我であり、

つまりは、ほんとうの自分からすれば、

嘘が暴かれようとしているチャンスにあるということです。


なにが云いたいのかというと、

この世の幻想から本気で目覚めようとするのなら、

そのことをしっかりと見極めていくことが大事だということです。

それは、自我と向き合う必要があるということ。

自我は、あいまいなままにしておきたいと思っています。

自我は、できるなら目をそらして見逃してほしいと思っています。

そこに妥協するならば、あなたはずっとこの幻想の世界に留まることになります。

そう、何百年、何千年、何万年、

いやもっとそれ以上の永遠という時間の旅をこの世界で繰り返すことになるのです。


自分は、あるとき時間のはじまりも終わりもない瞬間に、

ある一つの嘘を自分自身についたのです。

嘘をついたがゆえにほんとうの自分を思い出すのが後ろめたいのです。

それが、罪悪感というものであり、その罪悪感を自分の外側に投影した世界が、この世界です。

そう、この世界は、最終的にはあなたを罰するため、

つまりは苦しむためにあるのだということです。

この世界では、どんなかたちにせよあなたを絶望させるのがオチだということです。

そのたびに、あなたはそれを神のせいにしてきたのです。


神は、わたしを見捨てたと。

神は、わたしを裏切ったと。


そうではありません。

神を見限ったのはあなたの方です。

神はあなたを一度たりとも見放したことはありません。

むしろ、神はあなたの自由意思を尊重して、あなたが望んだもの与えてくれています。

そして、神は、あなたが幸せであることを望んでいます。


自我は、嘘の世界が白紙になるのを怖れています。

自我は、この世界を現実(リアル)だとあなたに信じ込ませたいのです。


この道は、自我にとっては、きつく、つらく思えるものです。

でも、あなたが自我と向き合っていく覚悟をし、

内なる自己(聖霊)とともに生きることを選択するならば、

この道は、あなたのその思考システムを超越して真の幸せへと導いてくれます。


時間という名の旅を終えて、永遠を生きる道がここにはあります。

それが、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の道だといえます。


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ハワイ島ワイピオ渓谷


【注釈】

2016/11/13

自分は身体ではない

この身体が自分だと思っているあいだは、

なかなかこの世界から解放されようにも困難なように思います。


なにせ、わたしたちは、普段、この身体を自分だと思って生きています。

それゆえに、自分以外のみんなを別々の存在というふうに錯覚してしまいます。

そして、その錯覚(勘違い)こそが、自分をこの世に留めている要因だと言えます。


この身体も、他者も、この地上のあらゆるものがこの世のものであると同時に、

それらすべてが自分の(間違った)心の投影にしかすぎません。

(じつはこの時点ですでにわたしたちは二重の錯覚を起こしています)

それは、この身体は自分ではないことを意味しますし、

自分は、この世には属していないことを意味します。


わたしたちは、五感というものを通して、ちょうど自分を鏡でみているようなものといえます。

すべてが自分です。

あらゆるもののなかに自分自身をみています。

そのためにわたしたちは身体(五官)を必要としたともいえます。

そして、わたしたちは、この身体と自分を同一化してしまって、

それによって、他(者)が存在するようにみえるのです。

でも、じつは他者など存在しません。


とはいえ、いくら知識では分かっているつもりではいても、

実際に日常の生活のなかで、なかなかそのような意識で生きているとはいえません。


この世は鏡に映る自分をみているようなものです。

そのことに真に気づいたら、もうだれも裁くことはできないし、

そのままをゆるしていくことの本当の意味がわかるでしょう。

そして、鏡に映る世界をいくら修正しようとしても、

それは本当の解決にはならないことも理解するでしょう。


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ハワイ島キラウエア火山


2016/11/12

ドラマはドラマ

この世界には、微笑ましく滑稽なものから重たく深刻なものまで、

あらゆるものが同時に存在しています。

そのすべてが自分の心を映し出しているのだなと思うと、

なんでもアリなんだなって思います。

どれが素晴らしいとか、どれが良いとか良くないとか、

そのどれもをゆるしていくほかないのだと、

そんなことを思ったりします。


ゆるすとは、そのままでもいいのだと、それでもいいのだと、

自分に許可していくということ。


これも自分のみているドラマです。

これも自分が創作した幻想です。

幻想とは、ほんとうは無であり、なにも起きていなということ。

でも、自我にはそうはみえていません。

自我は、自分のみている世界のことをそんなふうには知覚していません。


どれも自分のみているドラマです。

自分のドラマがどう展開していくかは、

今それをみている自分の捉え方、在り方に関わっています。

でも、ドラマはドラマだということ。

ドラマとは、本当のリアル(現実)ではないということ。

ドラマが終わってしまえば、本当は何もなかったということがわかります。

また、ドラマを終わらせられないのは、

自分の中に終わらせたくない何かがあるからだということです。

そこには、癒されていない自分がいます。

そこには、ゆるされていない自分がいます。

解放されずに自らの呪縛に縛られている自分自身がいます。

自分をそうさせているのは、癒されていない感情がそこにあるからです。

ドラマとは感情体験なのだということ。

感情こそが、自分をドラマの中に留めたがるのです。

癒されていない感情は、魂の傷として癒されるときを待っています。

そして、魂の傷が癒されるとき、そのドラマは終わります。


肉眼で見る目の前には、穏やかで平和な世界があります。

もし、心が動揺していると感じているのなら、

それは、自分の心の中で起きているということを忘れています。

自分の目の前に映る世界は、あるがままにみれば、ただそれが在るだけ。

世界には平和があります。

心には平安があります。


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