2017/01/20

正気の沙汰ではない

死というものについて、

真理からみるならば、

自らの命を絶つという行為も、病気によって死ぬのも、老いによって死ぬのも、

自分自身を死に至らしめるということにおいては、どれも同じである。


この世界においては、だれもが自分で自分の命を攻撃している。

だれもが自分と戦っている。

その心によってこの世界に投影されたものが、病気であり、老いであり、死である。

戦う相手などいないのに、この世界を放棄することが出来ないのだ。

神の愛に抱かれて、すべてを手放して、ゆだねて、

ただ在るものとして存在することが出来ないのだ。


正気の沙汰ではない。

そのことに気づいて、狂気の沙汰の世界から脱しようとする者は少ない。

スピリチュアルな探求をしてきた者ですら、

「本当の命は永遠であり、死なない、死はない」ということを知っておきながら、

輪廻という幻想を終わらせようとする者は、ごく僅かである。


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2017/01/18

迷いについて

迷いは、苦しみである。

いや、

迷いは、苦しみであるということを知るべきである。

そして、

迷うことそのものに答えはない、と気づくべきだ。

そして、

そのことに気づいたならば、手放して、ゆだねるのだ。


迷うことはない。

すべてはこれでいいのだ。

いや、すべてはどうだっていいのだ。

真実を前にしたならば、すべては風の前の塵に同じである。


迷いは、ものごとを自分でどうにかできる、コントロールできる、

うまいやり方があると信じていることから生じる。


迷いは、人生をコントロールしたいという衝動から生じる。

なぜならば、何かを怖れているから、それを避けて通りたいのだ。


迷いとは、自分の中に隠されたある大事な部分から目を逸らそうとするときに生じる。

その部分に触れることそのものを怖れているのだ。

そして、そこに触れずに他に何か答えがあると信じている。


しかし、そこを通らずして、そこに触れずして、

今という永遠の中にくつろぐことは、けっしてない。


真実などない場所に真実をさがしている、、、それが、迷いの根本原因である。

迷妄とは、まさにそういうことをいうのであり、

そのようにして魂というものは、この幻想世界で永遠の時間の旅をしていると言える。


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2017/01/17

皮肉にも

目を閉じて、

心を静かにして、

自己の内奥へと入るとき、

平安はそこにある。


その平安の中にくつろぐたびに、私は気づかされる。

普段、いかに自分の心は、外側の世界ばかりに向いていることか。

そして、そこにはけっして自分が求める平安などないことも。

光の見つかることのないところで光を探している、、、光を求めている、、、

当てにならない見せかけのものに、いかに心が向いているかということ。

わかっていても習性となっているがゆえ、

それに気づいたならば、ただただ修正していくのみである。


私は内なる平安を求めている。

それは、絶対なる平安である。

それは、神の平安と呼ばれているのもである。

それは、けっして揺るがされることがない。

そして、それはいつもここにある。

心が内側へ向いているときに、それはそこにある。


それに反して、

こうやってブログでことばを発信しているとき、

私の心は外側へと向かっている。

そうでないとことばにすることが出来ない。

そう、これは皮肉な言い方になってしまうが、

私が記事を書いているときは、心が外側を向いているときだと言うことが出来る。


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2017/01/16

死と共に生きる

この人生は、結局のところ、死へと向かって生きているようなものである。

この時間の世界の中においては、

この世に生きているだれもがいつのときか死を迎えるのであり、

いつかはこの世を去っていくのである。


でも、言い換えるなら、

その時が自分にいつ来るのか?わからないがゆえ、

だからこそ、わたしたちは生きていられるのかもしれません。


死とは、この世を去るということ。

自分の見ているこの世界を後にして離れるのだということ。

それは、どういうことなのか?

そして、それは、いつか、ではなく、今、なのだと、

そもそも時間というものは、今、というこの瞬間しかないのだということを知るならば、

もはや、生きる、ということがまったくちがうものになるであろう。


死と向き合う、さらには、死と共に生きる、とは、そういうことなのだと思う。


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2017/01/14

夢の中に夢中

ドラマや映画は、ハラハラ、ドキドキ、感動といった人の心を動かすために作られている。

心が動かされれば動かされるほど、その物語に夢中になってしまう。


それは、この人生でも同じである。


ポジティブな感情にしろネガティブな感情にしろ、

心が動かされているということは、

自分が作り出したこの世界に夢中になっているということであり、

この世界の幻想を強化しているということになる。


そして、わたしたちは、そのような世界を現実だと思い込んでいる。

そう信じ込んでいる。

実体のない世界を現実としてしまって、その世界にどっぷりとハマってしまっている。

それこそが、まさに、エゴ(自我)の計画である。


それがどんなものであれ心が動揺させられているときは、

それは思い違いをしているということ。

エゴ(自我)の術中にまんまと騙されているということ。


まずは、そのことに気づいていくことから、

この世界から完全に自由になる道ははじまるといえる。


結局は、この世界を幻想だと完全に見限っていかない限り、

夢の中味がどんなに変化していこうと夢は夢のまま続くのであり、

つまりは、いつまでも幻想は終わらないということになる。


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2017/01/11

狭き門より入れよ

あるスピリチュアルな教えでは、

わたしたちは、いろんな体験をするためにこの世界に人間として生きているのだと言います。

宇宙の流れに乗って思い通りに願望を実現し、幸せを引き寄せて、

人間としてのこの人生を充分に味わい、楽しみ、歓びで生きなさいと。


また、あるスピリチュアルな教えは、

この世界を放棄しなさい。すべてを明け渡し、自己の内へ向かいなさい、

静かにただ在りなさい。あくせく動き回ることをやめ、内側を見なさい、

この地上にあるものを追い求めたり、それを積んだりすることをやめなさいと。


そのどちらがいいとかワルイとかではありません。

プロセスと言いましょうか、段階がちがうだけのことです。


人はみな、自分の考えに近いものに感銘を受け影響されていくのでしょうが、

やっぱり、きっと前者の方が多くの人に受け入れられるのだろうと思います。

そして、後者に共鳴していく人は、ごく少数なのだろうと。


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ハワイ島マウナロア山


2017/01/10

エゴの手口を知る

そもそもがわたしたちは、自分で自分を欺いているのです。

そういう意味では、だれもが天才的な詐欺師だと言うことができるといえます。

だれを騙すも何も、自分で自分を見事なまでに騙しきっているのです。

そうでなかったら、この世界で、この身体で、このように人間としていないのです。

その実相たるや、わたしたちが知覚し、認識しているものとは全く以ってちがうのですから。


この世界は、心の勘違いで成り立っている世界だということです。

なぜならば、心の勘違いというものがなければ、そもそも世界なんてものは無いのですから。

この世界は、勘違いした心が見ている夢みたいなものです。

その真実が暴かれないように巧妙な仕掛けで自分を騙しているのが、自我(エゴ)です。


さて、話は変わりまして、

巷では、振込み詐欺やインターネットによる金銭を狙う詐欺の手口が、

ますます巧妙になってきているようです。

それは、けっして他人事で片づけるようなものではありません。

そもそも心とは、そんなふうにいとも簡単に騙されるものであるといえます。

自分はそんなことはない!とあなどってはいけません。

わたしたちは、すでに勘違いの世界、錯覚の世界にいることすら、

まったくもって気付いていないのですから。


自分の心を互いに投影し合って、騙し合っているのが、この世界です。

まさに、この世界は、人間の集合意識の勘違いと錯覚で成り立っている世界だといえましょう。

そのようにして、自らを巧妙に騙しながら、

永遠なる時間の中でマインドゲーム(心遊び)を続けているのが、エゴ(自我)です。


こう言ってはなんですが、詐欺なんぞは、

わたしたちのその心が、そのまま投影された象徴(シンボル)だと言えましょう。


そのような詐欺の手口に引っかからないためにも、騙されないためにも、

そのあらゆる手口を情報として知っておくことが重要な対策になるといえます。

なぜなら、その手口を知っておくことで、

いざというときに、心が動揺させられることもなければ、

心が惑わされ騙されることがないどころか、笑ってあしらうことが出来るのです。


そう、エゴ(自我)に騙されないように、

エゴの手口を知ることは、とても有益だということです。

エゴは、とても巧妙です。

初めに申しましたように、エゴは天才的な詐欺師です。

だからこそ、エゴについて知る必要があるのだということです。


そして、エゴ(自我)について心理的なところから詳しく述べてあるのが、

『A Course in Miracles (奇跡のコース)』のテキストだといえます。


それは、けっしてエゴを敵に回して、エゴと戦うのとはちがいます。

そうではなく、それがエゴの巧妙な手口だとわかれば、

それに気づいた時点で、もうエゴを相手にする必要がなくなるのです。

笑ってあしらうことだって出来るのです。


詐欺の手口に引っかからないように。

エゴの手口に引っかからないように。

そのどちらも、心におけるトリックによって騙されているだけです。

心理的に動揺させることが彼らのやり口なのです。

そのために、心を訓練、熟達、マスターしていく必要があるのだということです。


この世の何ものにも惑わされることのない完全なる平安をマスターするために。


『A Course in Miracles (奇跡のコース)』とは、

まさに、そういうものだということが出来ると思います。


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2017/01/08

一切関係がない・その2

悟りについて云えるのは、

この世で素晴らしいことをしていようが、していまいが、

素晴らしい人であろうが、そうでなかろうが、

何かを成し遂げようが、成し遂げまいが、

どんなことをしていようが、

そういうことと悟りとは、一切関係がないということ。


霊的な指導者であろうが、なかろうが、

霊的な能力に長けていようが、いまいが、

そんなものと悟りとは一切関係がないと、そうきっぱりと言うことができます。


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2017/01/07

一切関係がない

Light and Joy and Peace.

光と歓びと平安。


目を閉じて、心がこの世から離れて内へ向かうとき、

それはいつもここにあります。


ハッキリと云えるのは、

その内なる光、歓び、平安は、

人生がうまくいったとか、いいことがあったとか、ハッピーなことがあったとか、、、

そういった外側のものとは、一切関係がないということです。


本当に求めるべきものとは、そういうものだと思うのです。


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2017/01/06

セッション後の感想より Dec.2016

昨年末に個人セッションを受けられた方の感想・体験談をご紹介します。

興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。


一昨日はセッションをありがとうございました。年末なので、バタバタとしそうですが、今の所、マインドは穏やかで静かな時間を過ごしています。セッション中、もりGさんと共鳴したハートの光(愛)が、まだずっとそのままあって、その光を今も共有しているかのように感じてとても心地よいです。「これさえあれば何もいらない」その時受け取ったメッセージなのですが、その意味がとてもよくわかります。

スカイプセッションもとても良かったのですが、やはり実際にお会いして受けるセッションとは
違うので、また福岡に行かなくてはと思いました。その時はまたよろしくお願いいたします。
(石川 女性)


昨日はお世話になりました。 また一つ大きな荷物を降ろせた感じです。 昨日の帰りはすごい食欲と睡魔が襲ってきました。自分でも気が付かない部分で疲れと緊張状態が続いていたのでしょうね。 荷物を降ろせたことでホッと一息つけた気がします。 今回もまた、もっともっと軽く生きられる可能性があることを気づかせていただきました。 遠くの目印の灯りが少し大きくなりました。また、思い込みをどんどん見つけて(ゆるして)いきます。練習、練習ですね。 また、お会いする日を楽しみにしています。ありがとうございました。

(栃木 男性)