2017/01/31

偶像崇拝

真理を求める者にとって、

誰かを尊敬したり崇拝したりすることは、

二元性の幻想にすっかりはまり込んでいるわけで、

真理はそこにはないと知るべきである。


また尊敬や崇拝とは反対に、誰かを下げずんだり裁いたりすることも同じである。

それは、自分をこの身体だと思っているゆえにできることであり、

真理を求める者ならば、

悟りを求める者ならば、

解脱を求める者ならば、

そういうことは、無意味だと知るべきである。


それは人だけに限らず、

この世のもの、こと、考え方、スピリチュアルな教え、教義、、、、に対して、

特別に見たり、重きを置いたりすることも同様である。

それは、二元性の幻想をただ強めるだけで、

けっして自分を自由にするものではないということ。


むしろ、すべてを手放して、無、にしていくことである。


何よりも知るべきことは、

真理に達する者にとって、

悟りに達する者にとって、

解脱していく者にとって、

この世の誰かを、この世の何かを信仰、崇拝することは、

真理とはまったくかけ離れたことであり、

ましてや、尊敬、崇拝されることもまったくの無意味であるということ。


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2017/01/30

ぶっちゃけると

それで、どうしたいの?


それで、なにがしたいの?


と、自問するとき、


あらゆるしがらみやしばりを取っ払って、

本当のところをぶっちゃけるなら、


なんもしたくない、


それが、私の本音である。


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2017/01/29

願望実現について

聖霊からのメッセージです。テーマは、「願望実現」についてです。


じつのところ、あなたの願望はいつも叶えられています。

あなたの願望は、すでに叶えられているのです。

その願望が叶えられた世界が、この世界なのです。


あなたは自分の見たい世界を、この世界に投影して見ているだけなのです。


それが喜ばしいものであろうと、けっしてそうとは言えないものであろうと、

その内容に関係なく、その人生、その世界を望んだのは、まさにあなた自身だということ。


願望によってこの世界をあなたにとってより良いものにしようとするかもしれませんが、

所詮、この世界は、あなたが見たいように作られた世界であり、

取るに足りない世界だということを知りなさい。

この世界は、あなたが見ている夢であり、存在しないのだということを知りなさい。

無意味です。

無価値です。


この世は、存在しない。

この世は、現実ではない。


その真理のことばが、あなたにとって癒しとなり、救いとなるでしょう。


すべての願望を手放しなさい。

取るに足りないこの世界を放棄しなさい。

この世のすべての願望を超えていきなさい。


なにも要らない。何も必要とはしない。

一切の願望がないその状態こそが、あなたが帰っていくところだと知りなさい。

そして、何よりもそれを望み、

そのようにしてこの世を超えていく者には、失敗は絶対にあり得ないのだと。


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2017/01/28

諸行無常

諸行無常。


この世界をよくよく見るならば、

永遠なるものは何一つないことは明らかである。

すべては移ろい変化していくものである。

この世界はそういうものである。

この身体もそういうものである。

ましてや、この自分と思っているそれですらもそうである。


それらに信頼を置いても、

いずれにせよ喪失して、裏切られ、失望させられるのがオチであるにもかかわらず、

それでも、人はそれらを信仰している。


この世界のものを信仰しながら、歓び、平安を得るのは、不可能なことである。

一時的にそれらを得たと思えても、それはまやかしにしかすぎない。

なぜなら、たんに本当に怖れているものを一時的に遠ざけているだけであり、

いつか向き合うべきその時を先延ばしにしているだけであることを、

人は、心の深いところでじつは知っているからだ。


その狂気の沙汰に気づく者は、

そんなこの世界に見切りをつけ、この世界から自由になる道を求めはじめるだろう。

そして、それこそが自分がこの世に生まれてきた目的であることを思い出すだろう。


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2017/01/28

pain 痛みについて

痛みとは、心的なものである。


肉体的な痛みにしろ、心理的な痛みにしろ、

それはすべて心に起因しているものであるということ。

もっと詳しく言えば、

もともと内在していた心の傷が、顕在化するとき、

それは痛みとして知覚(意識化)されるということ。


ようするに、身体的に傷つくことも、心理的に傷つくことも、

癒されていない心、つまりは、傷ついたままの心が、

癒されるべくして顕現しただけであるということ。


そう、

痛みとは、癒されていない心の叫びである、と言うことが出来る。


肉体的な傷は、目に見えるかたちで癒されるのがわかるが、

心の傷は、目に見えるわけではないので、痛みとして感じられないまま、

癒されきれないまま、無意識に追いやられてしまう場合がある。

その時に、トラウマ(心の傷)というかたちで心の奥底に刻み込まれることになる。

そしてそれは、意識化され癒されるまで、

トラウマとして本人のその後の人生や心のパターンに付きまとってくることになる。

心の傷は癒されるために、本人の意識上に顕在化させようとするのである。

それが痛み(pain)である。


痛み(pain)への対処法は、痛みを痛みとして感じ切ることである。

痛い、つらい、哀しい、苦しい、、、

その痛みを避けようと抵抗すればするほど、痛みの叫びは強くなる。

痛みを受け入れれば受け入れるほど、そこに癒しが起きていく。

癒しが起きたなら、その後に平安が訪れ、痛みは和らぐか、消える。


痛みとは、すべて心的なものである。

身体的な痛みにしろ、心的な痛みにしろ、

心の傷(魂の傷)が癒されるなら、痛みは消える、、、つまり、苦痛がなくなる。


ちなみに、心の傷、あるいは、その痛みにあまりに無自覚で鈍感な場合、

それは癒されるべく、物理的(身体的)に現象化(物質化)することになる。

それが、ケガであり、病気である。


結論的に云うならば、

痛みは、癒されていない心にのみに感じられるものであり、

癒された心には痛みを感じることがないと言うことができる。

そして、痛みに対して、たとえ身体上(病気)の痛みであろうと、

その癒しは、心において成されるべきであるということ。


そう、

わたしたちは、心の傷(魂の傷)を癒すためにこの時間の世界にいるのだともいえる。

時間とは、未来とは、そのためのものであり、それが輪廻である。

そして、癒しを必要とはしない、つまりは、時間を必要としない、

永遠の今、に帰ることがわたしたちのゴールだと言うことが出来る。


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2017/01/27

人間関係について

多くの人が悩んでいるのが人間関係です。

それは、仕事、家庭、恋愛、友人関係など、他者と関わるすべてにおいて関わってきます。


人間関係というものを非二元のスピリチュアリティからみると、

じつは、「すべての人間関係は、自分自身との関わり方の反映である」

ということができます。

なぜなら、他者はいないのであり、

すべての人が自分の心を投影してみているにしかすぎないからです。


正直な気持ちで以って、自分自身の内側と真摯に向き合っていくならば、

そのことが一目瞭然で明白になります。


自分自身と深く向き合っていける人は、他者とも深く関わることができる人です。

自分自身の本当の気持ちをうまくごまかしたり、あしらったりしている人は、

他者に対してもそういうことをしています。

なぜなら、自分の中の何かを隠したいから、それと向き合いたくないから、

無意識的にそこから避けようと、そういう態度をとってしまうのです。


さらに言うと、そのような他者との関係性のパターンをするようになった原因は、

そのほとんどが両親との関係性に起因しています。

人は、この世に生まれてきて一番最初に他者と関わっていく対象が、

母親であり、父親である両親です。

そう、自分と両親との関係性が、

自分のその後の人生における人間関係のパターンに大きな影響を与えているということです。


つまるところ、

自分自身の他者との人間関係のパターンをよくよくみるならば、

それは、両親との関係性のパターンであり、

ひいては、自分自身との関係性のパターンであり、

さらにいえば、神との関係性のパターンの繰り返しであることがわかります。


その己を知るならば、

この人生のしくみ、そして、この世のしくみまでがみえてくることになるでしょう。


結論的に云うと、

この世界における他者、あるいは、他者との人間関係は、

この自分自身がこれまでの古い自分から解放されていくために、

ひいては、真の自己へと、神へと帰っていくために、

まさしくそういうことのためにあると言うことができます。


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2017/01/26

世界の消滅

自分というものがいなければ、この世界はない。

自分がいるがぎり、この世界はここにあり続ける。


言い換えるなら、

この世界があるのは、自分がいるからだ。

この世界を知覚する自分がいなければ、この世界はない。無である。何も無い。

そう、この自分が消滅するならば、この世界も消滅する。


その自分は、自我(エゴ)という言葉で置き換えることができる。


例えば、

生まれてきたばかりの赤子には自分という意識がないゆえに、

もちろん、そこに世界はない。

そしてやがて成長し、自分という自我が芽生え始めたときに、

そのときそこに、この世界が生じる、そして、他者が生じる。


いうなれば、この道は、この世界が生じたそのはじまりへと帰っていくものであり、

赤子のように自分(自我)がない世界へと戻っていくこと、

つまりは、この世界の消滅を目指している。


この世界を超越するとは、そういうことであり、それが、目覚めである。


そう、悟りだの非二元だのといくらことばを並べようとも、

この世界を知覚しているうちは、未だ、目覚めていないということである。


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2017/01/25

距離ゼロのところに

この世界は時間の世界であり、そこでは、すべてのものに終わりがあります。


そう、 この世界には、あなたが本当に望むものは何もありません。


この世界は、取るに足りない無価値な世界であると知ってください。


そのことばに失望、落胆する必要はまったくありません。

失望、落胆することそれこそがエゴの錯覚であるからです。

エゴはそのように知覚することしか出来ません。

それゆえに、この世界が差し出すつまらないものに価値を置いてしまうことになるのです。


そのあなたを超えていくのです。

あなたが見ているこの世界を通り過ぎていくのです。

あなたの見るこの世界には、あなたの望むものは何もないのです。

この世界を超えた向こう側に、あなたの望む世界があります。


この世界に価値を置くことをやめるとき、

この世界が無になるそのときに立ち現れてくる世界があります。

そこにこそ、あなたが本当に望む世界があります。

その世界は、もちろんこの世ではなく、あの世でもなく、来世というものでもなく、

この時間の世界を超えた、自分からまったく距離がない、いまここにあるものです。


あなたの目と鼻よりももっと近い距離ゼロのところにそれはあります。


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2017/01/24

この世界は生きるに値しない

この世は生きるに値しない。無意味である。


このことばは、一般的には受け入れられ難いものです。

かくいう私も、当時は、そのことばに結構反論していたものです。


この世には不幸や苦痛もたくさんあるかもしれないけれど、

その反対の素晴らしいことや幸福や快楽もたくさんあって、

わたしたちはそれらのすべてを味わい尽くすために、

いまここに人間としてこの地上に生きているのだと。


それは、過去の自分であるのですが、

まさにこの世界を勘違いして捉えていたということです。

非二元を提唱しながらも、二元性のスピリチュアリズムを超えていなかったということ。

かつての自分がそうだったということです。


ただ、この今では、それほどまでにわたしたちの心は、

この世界に引き付けられ、そして束縛されているのだと気づくのです。


歓びも哀しみも、酸いも甘いもすべて受け入れて、この世界での経験を味わい尽くすことで、

この世界を超越した心の境地に辿り着けるというものではないということ。


自分はこの世界で幸せになることを望んでいるのか?

それとも、この世界を超越した本当の幸せを望んでいるのか?


この世界は生きるに値しない。無意味である。


そのことばは、後者のためのことばであり、

後者にとっては、まさに真理のことばだといえます。


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2017/01/23

この世界を超越する

この世界を放棄する、とは、

この世界を大切にするのをやめるということ、と言い換えることができる。

そっちの表現の方がなんとなくしっくりする。


それは、「諦める」というものではない。

ただたんにそれは、「無価値」であるからだ。


そのことをしっかりと自覚してきた今、

この世界に価値を置くことを放棄するその覚悟というか、

その準備がだいぶ整ってきたように思う。

それは、自分自身が相当、癒し、ゆるし、解放された証だと言うことが出来ると思う。

なぜならば、癒されていない心は、それを選択することが出来ないからだ。

癒されていない心が、自分をこの世界に縛りつけるのだ。


だとしても、自分自身には、癒されていない部分はまだまだたくさんあるとも感じている。

むしろ、これからがその本格的なはじまりという気もする。


そう、この世界にいる目的は、ただそれだけである。


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