2017/02/12

ノンデュアリティからみた心理療法

心理セラピストとしての私が云うのもなんですが、


癒されているのはだれか?

救われているのはだれか?


というのであれば、その答えは、この私自身であると言えます。


非二元のスピリチュアリティからみるならば、

セラピーやヒーリングやカウンセリングにおいて、

癒されているのは、そして、救われていっているのは、

それを施している側のセラピストであり、

ヒーラーであり、カウンセラー自身であるということです。


クライアントと施術者の両方が癒されている、救われているのだと言うことも出来ますが、

本来はこの世界に他者など存在せず、

目の前に現われる他者は、自分の一部、あるいは自分の投影であるゆえ、

目の前のクライアントが癒されるとき、じつは、自分(の一部)が癒されているということです。


それをわかっているセラピーやヒーリング、カウンセリングといった施術を施している人は、

本当に稀だと言えると思います。

むしろ、それをわかって、そこから他者と接する人は、

存在しているだけですでにセラピストであり、ヒーラーであり、癒しを与える人なはずです。

それを職業としていようがいまいが、そんなことは一切関係ありません。

なぜなら、そういう人はもはや分離した世界はかなり希薄なものになっており、

すべてのなかに、だれものなかに完全性をみているからです。


さらに踏み込んで言えば、非二元のスピリチュアリティからみるならば、

だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主だといえます。

というのも、この二元性世界は、そのような原理になっているといえ、

われわれはお互いに関わり合いながら、

この世界から解放されていくよう、そのような仕組み(システム)になっているからです。

なぜなら、他者こそが、己を映す鏡であるからです。


そもそもが、この世界がある、とか、他者がいる、というものは、

「すべては自分の投影である」というその真理を見誤っているだけのこと。

それに気づいて勘違いが修正されていくことは、もっとも自然な道理であるといえましょう。


そういうところから見るならば、この世界にセラピストなど要らない、

ヒーラーも要らない、他者を癒す専門家など要らないということになります。


だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主である。


われわれは他者を通してこの世界から救われていくようになっているということ。


だれもにとって、他者は自分自身にとってキリスト(救世主)であり、

そして、自分自身が本当にこの世界から自由になっていくとき、

他者がキリストにみえてくるというのはまさにその通りです。


一般的にはそのようにはみえていないし、そのことは知られてはいません。

それは、それはわたしたちが分離されているという二元性の錯覚の中で生きているからです。


救いは、他者からやって来る。

他者は己にとってのキリスト(救世主)である。


他者をそのように見はじめるならば、

その人こそが、偉大なるセラピストであり、ヒーラーであり、救世主となっていくのでしょう。


IMG_1818.jpg


2017/02/11

生き死に

人の生き死に、というものは、

なんともろくはかないものであろう。


いうなれば、

人はこの世に生まれたときから、死に向かって生きているようなものである。

人は、その時間を人生と呼ぶ。

その人生も、死を前にするならば、そのすべては儚き夢のようなものである。


はたして、あなたはそんなことのためにこの世界に生まれてきたのだろうか?


あなたはそんなことのためにここに生きているのだろうか?


人生とは、あなたにとって本当にそういうものものなのだろうか?


IMG_2138.jpg


2017/02/11

「迷い」とは

迷いは、苦しみである。


そう、迷いは、苦しみであるということを知るべきである。

そして、迷うことそのものに答えはない、と気づくべきである。


かたちのレベルにおける選択は、幾通りもあるようにみえるが、

そのどれもすべてが魔術の選択である。


迷いは、ものごとを自分でどうにかできる、コントロールできる、

うまいやり方があると信じていることから生じる。


迷いは、人生をコントロールしたいという衝動から生じる。

というのも、何かを怖れているからどうにかコントロールしてそれを避けて通りたいのだ。


迷いとは、自分の中に隠されたある大事な部分から目を逸らそうとするときに生じる。

その部分に触れることそのものを怖れているのだ。

そして、そこに触れずに他に何か答えがあると信じている。


答えなどない場所に答えをさがしている、、、それが、迷いの根本原因である。


IMG_1926.jpg


2017/02/10

求むるは実在のみ

目覚めとは、幻想から目覚めるということであり、

幻想の中で別の幻想に移行することではない。


たしかに、そのプロセスにおいて幻想の内容は移り変わっていくかもしれないが、

たとえ、それが良い幻想であろうが悪い幻想であろうが、

どのようなものであろうとそういった幻想に価値を置くことには何の意味もない。


幻想を「より良く」しようとするならば、それが自らを幻想へと引き込むことになる。

そして、その「より良く」しようとする願望が、やがて苦しみを生みだすことになる。

それが、この二元性世界の原理である。


幻想の中で別の幻想に移ることを求めるわけではない。

求むるは実在のみ。

それ以外は、いかなる程度も関係なくそれらすべてが幻想である。


IMG_2124.jpg


2017/02/10

もしあなたが、この世界が妄想だと気づいたらどうなる

もしあなたが、この世界が妄想だと気づいたらどうなるでしょう。

もしあなたが、この世界は自分がでっちあげたものだと本当に理解できたらどうなるでしょう。

もしあなたが、自分のでっちあげた世界の中を歩き回って、

罪を犯して死んだり、攻撃して殺したり、自分自身を破滅させたりするように見える者たちが

まったく実在しないと悟ったらどうなるでしょう。

もしあなたが、この世界が自分ででっちあげた妄想でしかないということを受け入れたなら、

あなたは自分の見ているものを信頼できるでしょうか。

それでも、あなたは自分のでっちあげた妄想の世界を見たいというのでしょうか。


ー『ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡のコース)』テキストよりー 


IMG_2071.jpg


2017/02/08

沈黙

ことばというものは、

それを発するとき、それは本当はすべて自分自身に向けられている。

本当は他者などいないのだ。


無明から完全に解放されたなら、

もはや、ことばは無くなるであろう。

もう、だれにことばが必要だというのだろう。

いったい、だれがだれにことばを発するというのだろう。

ただあるのは沈黙だけである。


最終的には、そうなるのだと思う。


IMG_2125.jpg


2017/02/07

指導者への誘惑

巷には、たくさんのスピリチュアルな指導者たちがいる。

そんな彼らの中に違和感とともに滑稽にさえ思えてくるときがある。


その違和感とはなにか?


自分の中を覗くとき、それは自分の中にもそのような誘惑があることに気づく。

そう、自分は彼らにそれを投影してみているだけである。

そういうものこそ無意味なものである、

と内なる聖霊が教えてくれているのだと思う。


IMG_2054.jpg


2017/02/06

世界の消滅

わたしたちは、

「この世界は、自分が生れてくる前からずっとあって、

そこにこの自分は生れてきたのであり、この自分が死んでもこの世界はあり続ける」

というふうにこの世界を捉えている。


でも、それはエゴの錯覚である。

それでも、その想念(世界観)は、わたしたちの心の奥深くにしぶとく根付いている。


この世界は、「自分」が生じたときに、この世界も生じたのであり、

この「自分」がいなくなれば、それと同時に、この世界もなくなる。


自分がいなければ、この世界は存在しない。

自分という知覚者、観察者がいなければ、知覚しているこの世界は存在しないのだ。


そう、この身体を自分自身と同一化してしまうと、

この広大な宇宙空間にポツンと生み落とされた孤児のようにさえ思えてくる。

でも、それは偽りである。

錯覚である。


IMG_1807.jpg


2017/02/05

救済主とはだれか

この世界は、癒されていない心によって作り出された世界である。


なぜなら、癒された心は、この世界を必要としない。

癒された心は、未来を必要としない、つまりは、この時間の世界を必要とはしない。

もう癒しを必要とはしない、それゆえに、もはやこの世界が無意味なものになる。


この世界にいる者たちは、

自分自身も含めて、まだ癒されていないということであり、

そのためにこの世界にいるのだと言うことが出来る。


もっと言えば、他者とは、自分の心の写し鏡である。

ということは、もっとも癒されるべき存在とはこの自分自身であり、

この自分を癒すために、他者は存在しているといえる。


そう、じつは、

だれもが癒し手であり、なおかつ、癒される者であるということ。

自分の目の前に投影した他者を通して自分を癒し、

そして、真の(大いなる)自己に帰っていけるようになっているのがこの世界の仕組みである。


そう、この世界では、だれもがだれかのための癒し手の役割を果たしている。

しかもそれは、この世界で癒しに関わることをしていようがいまいが、

どんなことをしていようが関係がないということ。


他者は、そのために存在し、じつのところ、その他者とは自分自身(の一部)である。


結局は、自分を救済するのは、この自分自身である。

そして、救済すべき存在とは、他のだれでもなく自分自身である。

だれも他の誰かを救済することはできないし、ましてや、救済すべき他者などいない。

それよりも自分を救済することこそが、

他者を救うということであり、ひいてはこの世界の救済になるということだ。


この世界に、他者はいない。

自分しかいないゆえに、救うのは自分であり、救われるのも自分である。

癒すのも自分であり、癒されるのも自分である。

そして、この世界では、だれもがお互いに他者を通して自分を癒すために、

自己と他者の関係として存在している。


自分が救われるとき、自分だけが救われるのではない。

自分の見ている世界の生きとし生けるものすべてが救われるのだ。


その真理(仕組み)を悟る者は、その真理を生きはじめることになる。

つまり、自分自身の救済のための道を歩みはじめる。

そして、その道を歩む者は、

自らが見ている世界において救世主(キリスト)として君臨するようになるであろう。


IMG_2094.jpg


2017/02/04

諸法空相

この世界は、無、である。


仏教の般若心経では、それを「空(くう)」という言い方で表現している。

「空(くう)」とは、実体がない、実在しない、という意味である。


たとえば、

夜見る夢の中で、楽しい夢、あるいは、怖い夢を見ていたとする。

そんなとき、何かのきっかけでふと目が覚めたとき、

それまで見ていた夢は消え失せ、夢だった、現実ではなかった、ということがわかる。

それらは実際にはなにも起きていなかったと。


それは、今自分が現実だと信じているこの世界も同様だということである。


IMG_1846.jpg