2017/02/14

深刻になる必要はない

自分の中でエゴが抵抗しているのがわかる。

エゴは自分を守りたいのだ。

ゆえに、エゴはゆだねるということを知らない。

そこに平安、安らぎはない。


ただ、聖霊を選択し、

聖霊ならどう考えるだろうか?

聖霊ならどう思うだろうか?

と、そこに意識を合わせると、そこに平安があるのがわかる。


自分の人生で起きていることに、

そして、自分の見ているこの世界で起きていることに、

深刻になる必要はない。


そのことばは言い過ぎても、まだ足りないと思う。


そう、

重きを置く必要がない。

重大にすることはない。

価値を置く意味がない。


それは、けっして厭世的、悲観的な意味で云っているのではない。


幻想に現実味を与える必要がない。

無価値なものに価値を置かない、という、ただそれだけのことである。


IMG_2041.jpg


・・・・・・・・・・・・

■お知らせ■

下記のイベントの予約受付を開始しました。 詳細は、こちらをどうぞ。


・もりG個人セッション in 茅ヶ崎 

 2017年3月19日、20日、21日


・グループセッション in 茅ヶ崎 

 2017年3月20日(月・祝)13時半~17時


2017/02/12

心理療法について

心理療法家(心理セラピスト)としての私が云うのもなんですが、


癒されているのはだれか?

救われているのはだれか?


というのであれば、

その答えは、この私自身であると言えよう。


3次元的なところからいえば、

クライアントと施術者の両方が癒されている、救われているのだと言うことが出来るが、

非二元のスピリチュアリティからみるならば、

セラピーやヒーリングやカウンセリングにおいて、

癒されているのは、そして、救われていっているのは、

それを施している側のセラピストであり、ヒーラーであり、カウンセラー自身である。


というのも、本来はこの世界に他者など存在せず、

目の前に現われる他者は、自分の一部、あるいは自分の投影であるゆえ、

目の前のクライアントが癒されるとき、じつは、自分(の一部)が癒されているのである。


それをわかってセラピーやヒーリングやカウンセリングといった施術を施している者は、

本当に少ないと言えるだろう。

むしろ、それをわかって、そこから他者と接する者は、

存在しているだけですでにセラピストであり、ヒーラーであり、癒しを与える人なはずである。

それを職業としていようがいまいが、そんなことは一切関係ない。

なぜなら、そういう人はもはや分離した世界はかなり希薄なものになっており、

だれものなかにキリストをみているからである。


さらに踏み込んで言えば、

純粋非二元のスピリチュアリティからみるならば、

だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主である。

というのも、この二元性世界は、そのような原理になっているといえる。

われわれはお互いに関わり合いながら、

この世界から解放されていくよう、そのような仕組み(システム)になっている。

なぜなら、他者こそが、己を映す鏡であるからだ。


そもそもが、この世界がある、とか、他者がいる、というものは、

「すべては自分の投影である」というその真理を見誤っているだけのこと。

それに気づいて勘違いが修正されていくことは、もっとも自然な道理である。


そういうところから見るならば、この世界にセラピストなど要らない、

ヒーラーも要らない、他者を癒す専門家など要らないということになる。


だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主である。


ようするに、

われわれは他者を通してこの世界から救われていくようになっているということ。


だれもにとって、他者は自分自身にとってキリスト(救世主)である。

そして、自分自身が本当にこの世界から自由になっていくとき、

他者がキリストにみえてくるというのはまさにその通りである。


一般的にはそのようにはみえていないし、そのことは知られてはいない。

それは、それはわたしたちが分離されているという二元性の錯覚の中で生きているからだ。


救いは、他者からやって来る。

他者は己にとってのキリスト(救世主)である。

彼は、「この世は無価値である」ことを教えてくれようとしている。


他者をそのように見はじめるならば、

その者こそが、偉大なるセラピストであり、ヒーラーであり、救世主となっていくであろう。


IMG_1818.jpg


2017/02/11

生き死に

人の生き死に、というものは、

なんともろくはかないものであろう。


いうなれば、

人はこの世に生まれたときから、死に向かって生きているようなものである。

人は、その時間を人生と呼ぶ。

その人生も、死を前にするならば、そのすべては過ぎ去った儚き夢である。


はたして、あなたはそんなことのためにこの世界に生まれてきたのだろうか?


あなたはそんなことのためにここに生きているのだろうか?


人生とは、あなたにとって本当にそういうものものなのだろうか?


IMG_2138.jpg


2017/02/10

求むるは実相のみ

目覚めとは、幻想から目覚めるということであり、

幻想の中で別の幻想に移行することではない。


たしかに、そのプロセスにおいて幻想の内容は移り変わっていくかもしれないが、

たとえ、それが良い幻想であろうが悪い幻想であろうが、

どのようなものであろうとそういった幻想に価値を置くことは何の意味もない。


幻想を「より良く」しようとするならば、それが自らを幻想へと引き込むことになる。

そして、その「より良く」しようとする願望が、やがて苦しみを生みだすことになる。

それが、この二元性世界の原理である。


幻想の中で別の幻想に移ることを求めるわけではない。

求むるは実相のみ。

それ以外は、いかなる程度も関係なくそれらすべてが幻想である。


IMG_2124.jpg


2017/02/10

もしあなたが、この世界が妄想だと気づいたらどうなる

もしあなたが、この世界が妄想だと気づいたらどうなるでしょう。

もしあなたが、この世界は自分がでっちあげたものだと本当に理解できたらどうなるでしょう。

もしあなたが、自分のでっちあげた世界の中を歩き回って、

罪を犯して死んだり、攻撃して殺したり、自分自身を破滅させたりするように見える者たちが

まったく実在しないと悟ったらどうなるでしょう。

もしあなたが、この世界が自分ででっちあげた妄想でしかないということを受け入れたなら、

あなたは自分の見ているものを信頼できるでしょうか。

それでも、あなたは自分のでっちあげた妄想の世界を見たいというのでしょうか。


ー『ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡のコース)』テキストよりー 


IMG_2071.jpg


2017/02/09

スピリチュアルの世界をぶった斬る

悟りについて語る者がいる。そして、そのことばを求める者たちがいる。


悟りを求める者たちがいて、そして、その悟りについて教える者たちがいる。


そういう構図がみえてくると、

「悟り」「非二元」とは名ばかりで、

そこには悟りの名のもとに独特の世界(観)が作り上げられているようにさえみえる。


そう感じるのは私だけだろうか。


「悟り」ということばを、

「スピリチュアル」ということばに置き換えても同じことが言えると思う。


IMG_2136.jpg


2017/02/08

沈黙

ことばというものは、

それを発するとき、それは本当はすべて自分自身に向けられている。

本当はそこには他者などいないのだ。


無明から完全に解放されたなら、

もはや、ことばは無くなるであろう。

もう、だれにことばが必要だというのだろう。

いったい、だれがだれにことばを発するというのだろう。

ただあるのは沈黙だけである。


最終的には、そうなるのだと思う。


IMG_2125.jpg


2017/02/07

増上慢

巷には、たくさんのスピリチュアルな指導者たちがいる。

そんな彼らの中に違和感とともに滑稽にさえ思えてくるときがある。


その違和感とはなにか?


自分の中を覗くとき、それは自分の中にもそのような誘惑があることに気づく。

そう、自分は彼らにそれを投影してみているだけである。

そういうものこそ無意味なものであると気づきなさい!と、

聖霊が教えてくれているのだと思う。


IMG_2054.jpg


2017/02/06

量子的世界

わたしたちは、

「この世界は、自分が生れてくる前からずっとあって、

そこにこの自分は生れてきたのであり、この自分が死んでもこの世界はあり続ける」

というふうにこの世界を捉えている。


でも、それはエゴの錯覚である。

それでも、その想念(世界観)は、わたしたちの心の奥深くにしぶとく根付いている。


この世界は、「自分」が生じたときに、この世界も生じたのであり、

この「自分」がいなくなれば、それと同時に、この世界もなくなる。


自分がいなければ、この世界は存在しない。

自分という知覚者、観察者がいなければ、知覚しているこの世界は存在しないのだ。


そう、この身体を自分自身と同一化してしまうと、

この広大な宇宙空間にポツンと生み落とされた孤児のようにさえ思えてくる。

でも、それは偽りである。

錯覚である。


「自分」とは、いまここからこの世界をみているそれである。


日は沈み、日はまた昇る。


自分がこの世界からいなくなっても、日は昇り続けるのだろうか?


誰がために日は昇るのか?


自分がいなければ、この世界は存在しない。

自分という知覚者、観察者がいなければ、知覚しているこの世界は存在しないのだ。


この世界をそのように知覚しはじめるとき、

わたしたちは、本当の自分というものを思い出しはじめることになる。

卑小な存在であると思っていた自分は偽りだった、と気づくとともに、

自らの光(神秘力)を取り戻すそのはじまりになるであろう。


IMG_1807.jpg


2017/02/05

救済主とはだれか

この世界は、癒されていない心によって作り出された世界である。


なぜなら、癒された心は、この世界を必要としない。

癒された心は、未来を必要としない、つまりは、この時間の世界を必要とはしない。

もう癒しを必要とはしない、それゆえに、もはやこの世界が無意味なものになる。


この世界にいる者たちは、

自分自身も含めて、まだ癒されていないということであり、

そのためにこの世界にいるのだと言うことが出来る。


もっと言えば、他者とは、自分の心の写し鏡である。

ということは、もっとも癒されるべき存在とはこの自分自身であり、

この自分を癒すために、他者は存在しているといえる。


そう、じつは、

だれもが癒し手であり、なおかつ、癒される者であるということ。

自分の目の前に投影した他者を通して自分を癒し、

そして、真の(大いなる)自己に帰っていけるようになっているのがこの世界の仕組みである。


そう、この世界では、だれもがだれかのための癒し手の役割を果たしている。

しかもそれは、この世界で癒しに関わることをしていようがいまいが、

どんなことをしていようが関係がないということ。


他者は、そのために存在し、じつのところ、その他者とは自分自身(の一部)である。


結局は、自分を救済するのは、この自分自身である。

そして、救済すべき存在とは、他のだれでもなく自分自身である。

だれも他の誰かを救済することはできないし、ましてや、救済すべき他者などいない。

それよりも自分を救済することこそが、

他者を救うということであり、ひいてはこの世界の救済になるということだ。


この世界に、他者はいない。

自分しかいないゆえに、救うのは自分であり、救われるのも自分である。

癒すのも自分であり、癒されるのも自分である。

そして、この世界では、だれもがお互いに他者を通して自分を癒すために、

自己と他者の関係として存在している。


自分が救われるとき、自分だけが救われるのではない。

自分の見ている世界の生きとし生けるものすべてが救われるのだ。


その真理(仕組み)を悟る者は、その真理を生きはじめることになる。

つまり、自分自身の救済のための道を歩みはじめる。

そして、その道を歩む者は、

自らが見ている世界において救世主(キリスト)として君臨するようになるであろう。


IMG_2094.jpg