2017/02/25

【茅ヶ崎】 3/19~21 もりGグループセッション&プライベートセッションのお知らせ

神奈川、東京、関東方面の方々へ、イベント開催のお知らせです。

3月19日(日)、20(月)、21(火)にかけて、

茅ヶ崎(神奈川)にて、グループセッションならびにプライベートセッションを行います。

グループセッション、およびプライベートセッションを希望される方を募集します。

以下がその詳細です。あなたのお申込みをお待ちしております。



【もりG グループセッション in 茅ヶ崎】 参加者募集中 


もりGをファシリテーターとして神聖さを共有していくグループセッションです。

日時: 2017年3月20日(月・祝) 13:30~17:00

料金: 15,000円

会場: ファイ・クリエーション 神奈川県茅ヶ崎市幸町7-21

    JR東海道線茅ヶ崎駅南口より徒歩5分 詳細はこちらをどうぞ↓

    http://ameblo.jp/tomoe-nakamaru/theme-10084865496.html

定員: 若干名

内容: フリートーク、質疑応答、サイコセラピーワーク、瞑想、シェアリングなど

 



【サイコセラピー・プライベートセッション in 茅ヶ崎】

 席につき、キャンセル待ちのみを受付中です。


日時: 2017年3月19日(日)、20日(月・祝)、21日(火)

料金: 30,000円 (120分)

会場: ファイ・クリエーション 神奈川県茅ヶ崎市幸町7-21

    JR東海道線茅ヶ崎駅南口より徒歩5分 詳細はこちらをどうぞ↓

    http://ameblo.jp/tomoe-nakamaru/theme-10084865496.html

日程:

3月19日(日)

13:00~15:00 ✖予約済

15:20~17:20 ✖予約済


3月20日(月・祝)

10:00~12:00 ✖予約済


3月21日(火)

10:00~12:00 ✖予約済

12:20~14:20 ✖予約済

14:40~16:40 ✖予約済



【お申込み・お問合せ】

お申し込みの際は下記の内容をご明記の上、こちらのメールアドレスまでご連絡ください。

詳細を返信にてお送りいたします。


メールアドレス:morig2016@gmail.com


①お名前

②フリガナ

③生年月日

④ご連絡先お電話番号

⑤ご住所

⑥「茅ヶ崎個人セッション」か「茅ヶ崎グループセッション」かをご明記ください。

  個人セッションの場合は、希望時間帯を第2希望までお教えください。


​ 一期一会のこのご縁に祝福がありますように。 お申込をお待ちしております。


もりG


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<12月の1day クラス参加者の感想>


この世界に光をもたらす………私の魂の願い。その最大の願いは居場所も問わず、道具もいらず、身ひとつで 今すぐにでもまっとうできるんだ……っていうのをグループワークで実感できました。私自身ももりGさんが歩んだような ヨガの修行の道や 長年の霊的研鑽を遂げたあとにしか そういうことはできないんだろうと 自分とは程遠い境地なんだと思ってましたし。 今のままの自分にも、それができるのがわかり 本当に感無量です。 苦しみが終わっただけでなく、確かに本懐を遂げられると知って力みもなくなり 軽やかになってます。 ひとつずつひとつずつ やっていきますねー。

(新潟 女性)


本当にありがとうございました。あんなにリラックスしたの初めでした。あれが、『リラックス』なんだー、と、なんだか嬉しかったです。

(神奈川 女性)


昨日は不思議な1日でした。私にとって、まるで意図されたようなクラスでした。みなさんからの言葉と自分の言葉に癒され 結局、今の私はこのまま歩んでいけば良いのだと 思うに至りました。

(東京 女性)


2017/02/24

黙想

イエスは平安の中にいる。


静かに平安の中に佇むとき、そこにイエスがいるのがわかる。


彼はこう告げる。「私はここにいる。ただ私と共にありなさい」と。


そこに平安と歓びがある。そして、強さがある。


こうやってイエスと共にただこの瞬間に佇むことが、

この世でのわたしたちの本来の機能なのかもしれない。


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2017/02/23

すべてが代替品である

この世のすべてが代替品である。


代替とは、一時的なもののこと。


つまりは偽りだということ。本物ではないということ。


神の平安は、この世のものとは一切関係がない。


この世のものとは関係ないからこそ、それは確実なものだということ。


だからこそ、それを求めよ!ということ。


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博多・櫛田神社


2017/02/22

狂気の沙汰

わたしたちの脳は、五感に疑似的な錯覚を起こすことで、

現実ではないものをあたかも現実かのように体験することが出来る。

それほどわたしたちの脳はじつに騙されやすい。


五つの感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)というものは、

それほど当てにならないものであるといえる。


また、その五感からの情報を当てにしているこの意識(「自分」)すらも

まったく信用に値するものではないと言うことが出来る。


そんな信用に値しないこの意識(「自分」)でもって、

さらには当てになどならない五官を頼りにこの世界を認識して、

わたしたちはこの世界を生きているわけである。


まともに考えても、狂気である。

この世界でわたしたちが不安定さと危険の恐怖にさらされているのは、当然のことである。


そう、正気ならば、こんな不確かで、不安定なこの世界を現実だとは思わないはずである。


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2017/02/21

五十歩百歩

この世界に生きているかぎり、わたしたち全員が囚われ人である。


この世界に心が動かされているかぎり、この世界に縛り付けられているということ。


この世界を現実だと思い込んでいるかぎり、

物理的に肉体としてこの世界にいるかぎり、

この分離の世界を知覚しているかぎり、

この世界の囚われ人だということ。


そこにはだれが悟っているとか、だれが霊的に進歩しているとか、

そんなことは五十歩百歩で、そのだれもにさほどちがいなんてない。


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ハワイ島マウナケア山頂(標高4205m)から見たマウイ島ハレアカラ山頂(標高3055m)


2017/02/20

裸の王様

今、自分に正直になってみると、

これまでの自分といえば、心のどこかでスピリチュアルな教師のつもりで、

そこに自分の存在価値を保とうとしていた自分に気づくのです。


ことばというものは、他の誰かに向けているようで、本当は自分自身に向けられているのです。


自分自身に向かってもっと教える必要があるから、

他者を仕立てて彼らにことばを伝えているようで、

じつは、自分自身に言い聞かせている(教えている)にしかすぎないと気づくのです。


私はそういうことをしながら、自我(エゴ)を満たしていたということもできます。


自分がスピリチュアルリーダーや教師っぽいことを演じることによって、

彼らをその生徒役に仕立てていたのです。

本当はこの自分の方が教えられていたのに、

自分が教えている立場のつもりになっていたのかと思うと、

我ながらその無智さに愕然とするとともに、滑稽にすら思えてしまいます。


自分は何をしていたのだろう?

どこへ向かっていたのだろう?

何の価値もないことに、何をそんなことに夢中になっていたのだろう?

と我ながら呆れてしまうほどです。


もう、教師ぶるのはやめようと思います。

スピリチュアルリーダーぶるのはやめようと思います。

なんて無意味なのだろう、と思います。

彼らを、ひいては、この自分自身を、卑小にみていたということです。

なんと愚かだったのだろう、と思います。


むしろ、これからはこの私自身は学び手です。生徒です。


私は、なにもわかってなかった。私は、なにも知らない。


今の私は、素直にそう思うのです。


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2017/02/17

心理セラピーと魔術

私のことで言えば、

心理セラピストとして自分がしているセッションは、

他のスピリチュアルなセラピーやヒーリングといったものとはちがうスゴイことをしている、

他のセラピストがしていることとはちがうし、自分は特別だとそう想っていました。


そういう想いもあって、自分の役割に使命感を持ってやっていたわけですが、

今となってはもうそんなアイデンティティなんぞ、本当に無意味だなって気づくのです。


もちろんセラピストとしての絶対なる自信というものは今も変わりなくあります。

でも、そういうものと真理、つまり実相とは一切関係がないと気づくのです。


この今となっては、自分で言うのもなんですが、

真理からするなら、自分のしている心理セラピーというセッションは代替品でしかないと。

いわゆる、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)で言えば、魔術、だと。

それは、他のどんなセラピーやヒーリング、そしてスピリチュアリズムも同じことが言えます。

そのすべてが、魔術でしかないと気づくのです。

(もっと言えば、この世のすべてのものが魔術でしかないのですが、、、。)


正直、私がそのことを自分で認めてしまったら、

私のセラピストとしての人生はどうなってしまうのだろう?と思います。

もう終わってしまうのかもしれません。

でも、それでいいのかもしれません。


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2017/02/16

そっちがいいに決まってる

この世界は生きるに値しない。無意味である。


そのような言葉は、自分自身に向けた言葉であったわけですが、

もう、そういうことを他者に向かって言葉にするのはやめようと思う。


なにがあったわけでもない。

それもまた不必要なことだと気づいただけのこと。


この世界を見るとき、すべてはそれでいいのだと思う。

そのままでいい。

あるがままでいい。


みんな自由だ。

この世界に歓び、生きがいを見出して、人生をより良くしていくのも自由。

この世界の無価値さ無意味さを見出し、この世界を超えていくことも自由。

もっと言うならば、みんながどうのこうのとそんなことはどうだっていいのだ。


ただ、なにかを探している者たちに言えることがあるとしたなら、

痛いのなら、痛みはない方がいい。

苦しいのなら、苦しみはない方がいい。

つらいのなら、楽な方がいい。

いつも穏やかで、和やかで、安らかな方がいいに決まってる。

そっちがいいに決まってる、ということである。


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2017/02/15

自分一人で十分

これまでの私は、

みんなを目覚めへと促そうと、みんなで目覚めへと向かおうとしていたけど、

そうじゃなかったのだと気づきます。


そうじゃない。そういうことではないと。


それは、自分一人で十分なのだと。


この世界に他者がいるとみているのは、この自分である。


この夢から目覚めるのはこの自分であり、それで十分なのだと気づきます。


私が救われるとき、世界は私とともに救われる。
ー『奇跡講座 ワークブック』レッスン295よりー


キリストとして、

それを思い出していくことこそが私の機能(役割)なのだとあらため気づきます。


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2017/02/14

深刻になる必要はない

この人生を深刻に受け止めている自分がいる。


この人生をうまくいかせようとしている自分がいる。


自分を守っていく必要があると思っているし、自分を守ることが出来ると思っているのだ。


自分はすべてをゆだねることができない。


そこに平安、安らぎはない。


自分の人生で起きていることに、

そして、自分の見ているこの世界で起きていることに、深刻になる必要はない、

とはわかっていても、それができない。


そのことばは言い過ぎても、まだ足りないと思う。


価値を置く意味がない。


それは、けっして厭世的、悲観的な意味で云っているのではない。


無価値なものに価値を置かない。


という、ただそれだけのことである。


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