2017/04/28

もりGセッションの位置付け

今回は、私の個人セッションを一年ほど前から数回に渡って受けていただいている

Jさんからのメールをご紹介させていただきます。


そのメール内容は、幾度かのセッションで体験してきたものをもとに、

Jさんなりの見解で私(もりG)のセッションについて書かれたものでありますが、

「もりGセッション」の位置づけを明確にしてくれるものだと思いました。

なおさら、今後の私がしていくセッションの方向性を示唆するものだとも感じました。


私(もりG)のセッションは、昨年の秋ごろから、

『ア・コース・イン・ミラクルズ』(奇跡講座/奇跡のコース)のスピリチュアリティを

反映したものになっていったのは事実です。


現在、私(もりG)が提供しているセッションがどんなものか?

興味のある方にとっては、そのメール文章を読んでいただければわかりやすいと思います。


ただ、私(もりG)が提供するセッションは、

『ア・コース・イン・ミラクルズ』(奇跡講座/奇跡のコース)に接したことのない方でも、

まったく知らない方にでも、その窓口を開いておくつもりです。


ということで、本人の了承のもとにメール内容をごそのまま公開させていただきます。

興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。

ありがとうございます。


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<4月25日 Jさんからのメール>


こんにちは。ブログを拝見しました。もりGさんの活動が大きく変わりそうなのですね。
セッション内容が変わるかもしれないとの内容を見て、感じるところがありメールさせていただきました。

最近、もりGさんに教えていただいた「神の使者」をやっと読み始めました。今までの自分のスピリチュアルの知識を覆す、突き抜けた内容で、面白く読み進めています。
まだ途中なのですが、自分の中で引っかかっていた疑問の回答?解説?らしきものが次々と書いてあり、メモをしながら読んでいるような状況です。
少し前の自分ではまったく内容に実感や興味が感じられなかったと思いますので、ベストなタイミングで目の前に現れた本だと感じています。
この調子だと奇蹟のコースも近いうちに始めることになるかもしれません。

本を読んでいてふと思ったことがありました。

もりGさんのセッションはいつも何かわからないままに自分の中から大きな動きが出てきて、内面の変化がやってくるのですが、自分の中で何が起こっているのかがいつも疑問でした。
周囲の出来事や人物が自分自身だと理解できた瞬間にものすごい感動が押し寄せてくるのは何故だろう?といつも気になっていました。
自分の理解を超えたところで何かが起こっているために、自分自身の中でその体験の整理ができなくて、もどかしくも感じていました。

今回、「神の使者」を読み始めて「赦しの実践」が奇蹟のコースの内容だと知りました。
そして、セッション中の感動体験はもしかすると、自分と自分以外を同時に一瞬で「赦せた」という体験に伴う感動だったのではないかという考えが出てきました。
赦したいという内なる欲求はあるのに赦せない、というもどかしい状況が激変する感動なのではないかということです。

そうだとすると、もりGさんのセッションは奇蹟のコースのダイジェスト版じゃないのかな?とのイメージが浮かんできました。
セッション自体がコースの実践の一部だというイメージです。

奇蹟のコースはまだ学んではいないので、見当違いかもしれませんが‥勝手に話を進めてみます。 

奇蹟のコースは自主学習形式とのことですが、奇蹟のコースを学んでいる者にとって、もりGさんのセッションが自主学習の中にたまにある特別講義のような位置付けになるのではないかと考えてみました。
セッションの位置付けが明確になれば、もしも自分が奇蹟のコースに入った時にセッションの存在が大きな支えとなるのではないかとも思いました。

というのは、もりGさんのセッションは必ず内面の大きな動きがあるのはわかっているのですが、いつ、どのタイミングで受けるのかを迷うのです。
もう少し自分で内面を掘り下げられるのではないかという考えと、もりGさんにお任せコースの方が早いな~という両方の気持ちがあり迷いが出るのです。
奇蹟のコースのサポートとしてセッションを位置付けるとセッションを受けるタイミングが明確になりやすいかも‥と自分勝手に考えてみました。
もりGさんはセッションも受けても受けなくてもどちらも正解だと言われるかもしれませんが(笑)。やはり色々と考えてしまうのです。

以上、最近ふと思ったことをメールしてみました。

もりGさんの今回の変化がどのような変化かは想像つきませんが、新しいもりGさんとまたお会いできる日を楽しみにしています。お元気でお過ごし下さい。

ーJさん(栃木 男性)からいただいたメールよりー


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2017/04/21

セラピストというアイデンティティー

自分でいうのもなんですが、

私が施すセラピーには絶対なる自信と確信があります。


ただ勘違いしていたのは、

そこにはやっぱり「自分が癒している」という想いがあったということです。


ほんとうは自分がクライアントさんを癒しているのではなく、

聖霊を通して癒しが起きているだけなのだと気づくのです。


セラピストとしての自信は今もまったく変わりありませんが、

それによって自分のアイデンティティを築き上げていたのも正直あったと思います。


生きていくために、この自分にとってはそれは大事なものだったのです。


でも、もうその必要もないと思えてきています。


心理セラピストとしての私は、新しいかたちへと移行していくつもりです。


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2017/04/19

ビジネスとしてのプロフェッショナル

これまでの私は、

心理セラピストとして絶対なる自信を持っていましたし、

それこそ、その道こそが私の天職だと思っていました。


セラピストとして歩みはじめてからというものの、

どれくらいの数の人たち(クライアントさん)と出会ってきたことでしょう。


この今も心理セラピストとしてその職業をまっとうしているわけですが、

私自身の正直なところを申しますと、

もうその役割も十分に果たしたのではないか、という感覚になっているのは否めません。


心理セラピストとしてのプロフェッショナルはもういいかなという想いがあるということです。


この世で生活していくために私はそれを職業としてきたわけですが、

もうそれもいいかなと想いはじめている私がいます。


ようするに、ビジネスとしてやっていくのはもうやめようという想いにいたるわけです。


ちなみに、それは、心理セラピストとしてはもう活動しないということではありません。


私はただ自分の歩むべき道へと運ばれていくつもりです。


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2017/04/17

真実一路

道。


それは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われているその道のこと。


その道は、もう引き返すことのできないと感じています。


とは言っても、引き返そうという気もさらさらありません。


それはこの自分自身がもっとも望んでいることでもあります。


それは聖霊の導きであると、今ではわかります。


ここから先は、聖霊にゆだねて、

明け渡して、全託していくこと以外に道はないと強く感じています。


一筋の道を、ひたすらまっすぐに。


まるでそんな気持ちです。


ひたすらまっすっぐに。


真実一路。


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2017/04/15

初老の今想うこと

この世界ではあらゆるものが移ろい変わっていきます。


気付けば、この私も今年の秋で50歳になります。

もう半世紀もこの地上で生きたのだなと思うとともに、

自分のこの身体にもちらほらと老いを感じはじめています。


それはこの地上で生きていくかぎりだれもが経験していくものではあるのですが、

それでも、それはだれにとってもこの人生においてのはじめての体験であり、

未知の体験でもあります。

そうなってみてはじめて気づかされることが多々あります。


老いていくとはこういうことなのか?と、この身でそれを受け入れていくとき、

はじめてわかること、想うこと、感じることがあるのですね。


それは自己の原点に立ち返らせてくれます。

この人生のゆくえやあとどれくらい生きるのか?それがいつ終わるのか?は、

それはすでに決まっていることで、

そういうことは神にまかせて、

今ここに生きている私は、自分の一番大事とするものをただ生きるだけ、

という想いに立ちかえらせてくれます。


いつかはこの身体もこの地上に置いていくことになっています。

その瞬間まで、私は自分の一番大事にしているものを生きるつもりです。

それは、私が「道」と呼んでいるものです。

それは、この人生が終わるときまで続くものです。


この人生が終わるそのときまで。

そして、そのときがその旅を終えて我が家に帰りつくときなのでしょう。


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2017/04/08

お釈迦さまからの祝福

お釈迦さまの誕生日の日にちなんで、メッセージです。


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あなたは、いつのときも護られています。

あなたは、このいまも護られています。


たとえていうなら、

崖っぷちにぶら下がった状態で、その手を離したらまっさかさまに下に落ちてしまうと思って、

必死になって落っこちないようにしがみついて抵抗しているのがあなたで、

本当は、そのすぐ下にはお釈迦さまが両手の掌を広げて、

あなたがその手を放して身を任せるのをいつでも構えて待っていてくれています。


たとえあなたが落っこちたとしても、お釈迦さまの掌の上に着地するだけなのです。

たとえそこが底なしの闇のようにみえても、やっぱりそこはお釈迦さまの掌の上なのです。

むしろ、お釈迦さまの掌の上の方が、居心地がいいに決まっているのです。


あなたは、すでに、そしてこのいまも護られています。

自分は護られていると認めて、抵抗することを放棄してください。


あなたは、もう自分の手で、自分の力で、自分を護っていく必要がないのです。

その身を護ろうとしてきたすべての防御をここに置いていきなさい。

自分はもうなにも必要ないのだと知りなさい。

しがみついていたその手を放して、神の加護の中にその身をゆだねてゆきなさい。


お釈迦さまの愛のもとに、このメッセージは必要な人へと届けられるでしょう。


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2017/04/06

セラピーと癒しについて

心理セラピストとしての私からみると、

人と関わること自体がセラピーのように思えます。

すなわち、癒されるためにわたしたちは人と関わっていくのだということ。

この世界と関わること自体が癒しのためのセラピーなのだと思うのです。


他者という自己の一部と関わることによってその自分は癒されていっているといえます。

本来は、他者などいなくて、すべては自分が自分にしていることではあるのですが、

それこそがこの世界のしくみというものであり、

わたしたちがこの世界に生きているゆえんなのだと思います。


わたしたちは、癒されるためにこの世界に生きているのであり、

癒される必要がなければ、もうこの世界を必要としなくなるでしょう。


話を戻せば、人生を生きることそのものがセラピーであるからして、

あえてセラピーという形態をとる必要もなく、

もはやセラピーというものすら必要ないとさえ思うのです。


だれもがそれぞれの人生を通してそれぞれのペースで神のもと(源)に帰ろうとしている、

ということです。


そこからみるとき、セラピストであるこの自分はいったい何をしているのだろう?

セラピーとは、いったい何をしているのだろうか?

とさえ我ながら思ったりします。


そういう意味でいえば、こんなことを言っていいのかわかりませんが、

心理セラピストとしての私にとっては、もうすることがないようにも思えるのです。


もし、この自分にすることがあるとするならば、

ただ心を静かにして、ただ心を穏やかに、

この世界のそのままをゆるして、

この世界のあるがままを祝福して、

内なる神の平安の中に佇んでいることだけではないだろうかと思うのです。


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2017/04/02

自分の身に起きていることのすべてを信頼していく

先月の春分の日に茅ヶ崎グループセッションを開催しました。
そこに参加された方々で、お二方の感想・体験談をご紹介します。

それぞれのプロセスで意識の変容を体験していっておられるのがわかります。

エゴ(自我)が解体されていくプロセスにおいては、
心の奥底の闇の部分が浮き彫りになるようなことが起きていきます。
それは、これまでずっと無意識の中にしまっておいたものを意識化するために、
現象や他人や自分の身体に投影されるというかたちで起きてきます。
いわゆる、エゴからしてみれば、それは決して良しとはされないものです。

興味のある方はどうぞご覧ください。

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・一人の方は、ご自身のブログで公開されています。ともえさんの記事は、こちらです。

・もう一人の方は、以下に、ご本人の了承のもとに紹介させていただきます。

昨日(茅ヶ崎グループセッション)は大変お世話になりました。
昨日は自宅に帰ったとたん、また新たに感情を乱す連絡が来ていました(笑)。
出来事が笑ってしまうぐらいに加速して起こってきています。もう、どこに向かっているのか予想できず、お任せするしかないですね。
自分の受け入れ態勢が整うのことによって出来事として見せてくれているのが良くわかります。
今、色々な選択を迫られることが多くなってきています。選択肢を選ぶにあたって、エゴの声なのか魂の声なのかを自分の中で考えてしまい選択を先延ばしにすることも多くありました。
今回のセッションで何を選んでも結局はOKだと言われたことで今後、楽に選択できるようになる気がしています。
よく考えると、自分の選択自体が起こるべくして選択してしまうものですからね。
今回のセッションで色々な自分を参加者に中に見ることができました。このような視点は1年前には考えもつかなかったことであり、自分なりに進化してきているのだな~と感慨深かったです。
(栃木 男性)