2017/04/29

放棄について

放棄すること、手放すことは、本来、歓びです。


ただし、心を伴わずして、かたちのレベルだけで放棄しようとするなら、

それはまるで失うことのように感じられることになります。


そう、この世界や、この世界のものを現実だと思いながら、

放棄する、手放すということをするならば、

それは、喪失、犠牲、虚無、苦しみとして感じられることでしょう。

それはかたちのレベルでやっても意味がないことを意味しますし、

それではかえって葛藤や苦痛を生むだけです。


放棄することや、手放していくことは、エゴにとっては怖れです。

その想いは、エゴによる錯覚(幻想)なのですが、

もし、放棄する、手放すことに対してそのような感覚を感じるのであるならば、

むしろ、その自分の内側に感じているものと向き合うべきだといえます。

そこに向き合っていくならば、そこには解放をもたらす大きなヒントが隠れています。


わたしたちは、目覚めていくプロセスにおいて、

いずれこの世界のすべてを放棄していくことになりますが、

放棄は、かたちのレベルではなく、心のレベルで行われていかなければなりません。


心のレベルで放棄がなされているなら、

かたちのレベルで放棄していくことがなんの抵抗もなくできるといえます。

むしろ、そこには歓びがあります。

より解放されていく感覚や、より自由になって身軽になっていく感覚が伴うからです。


「放棄すること、手放すこと」とは、

幻想に価値を置かないで、神を選択していることと同じことです。

またそれは、聖霊の手にゆだねていくということなのです。

ゆえに、そこには歓びがあるのです。


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2017/04/28

もりGセッションの位置付け

今回は、私の個人セッションを一年ほど前から数回に渡って受けていただいている

Jさんからのメールをご紹介させていただきます。


そのメール内容は、幾度かのセッションで体験してきたものをもとに、

Jさんなりの見解で私(もりG)のセッションについて書かれたものでありますが、

「もりGセッション」の位置づけを明確にしてくれるものだと思いました。

なおさら、今後の私がしていくセッションの方向性を示唆するものだとも感じました。


私(もりG)のセッションは、昨年の秋ごろから、

『ア・コース・イン・ミラクルズ』(奇跡講座/奇跡のコース)のスピリチュアリティを

反映したものになっていったのは事実です。


現在、私(もりG)が提供しているセッションがどんなものか?

興味のある方にとっては、そのメール文章を読んでいただければわかりやすいと思います。


ただ、私(もりG)が提供するセッションは、

『ア・コース・イン・ミラクルズ』(奇跡講座/奇跡のコース)に接したことのない方でも、

まったく知らない方にでも、その窓口を開いておくつもりです。


ということで、本人の了承のもとにメール内容をごそのまま公開させていただきます。

興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。

ありがとうございます。


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<4月25日 Jさんからのメール>


こんにちは。ブログを拝見しました。もりGさんの活動が大きく変わりそうなのですね。
セッション内容が変わるかもしれないとの内容を見て、感じるところがありメールさせていただきました。

最近、もりGさんに教えていただいた「神の使者」をやっと読み始めました。今までの自分のスピリチュアルの知識を覆す、突き抜けた内容で、面白く読み進めています。
まだ途中なのですが、自分の中で引っかかっていた疑問の回答?解説?らしきものが次々と書いてあり、メモをしながら読んでいるような状況です。
少し前の自分ではまったく内容に実感や興味が感じられなかったと思いますので、ベストなタイミングで目の前に現れた本だと感じています。
この調子だと奇蹟のコースも近いうちに始めることになるかもしれません。

本を読んでいてふと思ったことがありました。

もりGさんのセッションはいつも何かわからないままに自分の中から大きな動きが出てきて、内面の変化がやってくるのですが、自分の中で何が起こっているのかがいつも疑問でした。
周囲の出来事や人物が自分自身だと理解できた瞬間にものすごい感動が押し寄せてくるのは何故だろう?といつも気になっていました。
自分の理解を超えたところで何かが起こっているために、自分自身の中でその体験の整理ができなくて、もどかしくも感じていました。

今回、「神の使者」を読み始めて「赦しの実践」が奇蹟のコースの内容だと知りました。
そして、セッション中の感動体験はもしかすると、自分と自分以外を同時に一瞬で「赦せた」という体験に伴う感動だったのではないかという考えが出てきました。
赦したいという内なる欲求はあるのに赦せない、というもどかしい状況が激変する感動なのではないかということです。

そうだとすると、もりGさんのセッションは奇蹟のコースのダイジェスト版じゃないのかな?とのイメージが浮かんできました。
セッション自体がコースの実践の一部だというイメージです。

奇蹟のコースはまだ学んではいないので、見当違いかもしれませんが‥勝手に話を進めてみます。 

奇蹟のコースは自主学習形式とのことですが、奇蹟のコースを学んでいる者にとって、もりGさんのセッションが自主学習の中にたまにある特別講義のような位置付けになるのではないかと考えてみました。
セッションの位置付けが明確になれば、もしも自分が奇蹟のコースに入った時にセッションの存在が大きな支えとなるのではないかとも思いました。

というのは、もりGさんのセッションは必ず内面の大きな動きがあるのはわかっているのですが、いつ、どのタイミングで受けるのかを迷うのです。
もう少し自分で内面を掘り下げられるのではないかという考えと、もりGさんにお任せコースの方が早いな~という両方の気持ちがあり迷いが出るのです。
奇蹟のコースのサポートとしてセッションを位置付けるとセッションを受けるタイミングが明確になりやすいかも‥と自分勝手に考えてみました。
もりGさんはセッションも受けても受けなくてもどちらも正解だと言われるかもしれませんが(笑)。やはり色々と考えてしまうのです。

以上、最近ふと思ったことをメールしてみました。

もりGさんの今回の変化がどのような変化かは想像つきませんが、新しいもりGさんとまたお会いできる日を楽しみにしています。お元気でお過ごし下さい。

ーJさん(栃木 男性)からいただいたメールよりー


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2017/04/21

セラピストを放棄します

私の中で心境の変化が起きています。


私は自分のセラピー能力に絶対なる自信と確信がありました。

私は、自分のセラピーで誰もを救えると思っていました。

そして、そこに使命感さえ感じていました。

でも、それってやっぱりちがうなって今は思います。

そこにはやっぱり「自分(ジブン)がしている」という想いがあったし、

もうこの世界には自分しかいないし、他人は自分の鏡だと思うのです。


ほんとうは自分がしているのではなく、神(聖霊)を通して起きているだけ。

自分はなにもしていないし、

そして、救われるべき存在とは、この自分自身だと気づくのです。


セラピーに対する自信みたいなその想いは今も変わりはないのですが、

その想いから、ついついエゴの部分の「自分がしている」という顔を出してしまいます。

でも、ほんとうはそうじゃない。

そういう想いは無いほうがいい。

むしろ、そういう想いが無い時の方が素晴らしいものがもたらされるのです。


私は、自分のセラピー能力を神に与えられた才能だと思っていました。

その能力を使ってセラピーをしていくことが、自分のこの世での役割だと思ってきました。

でも、それによってアイデンティティを築き上げているのなら、

無意味なこと以外の何ものでもないと思うのです。

なにかがちがっている、、、思い違いをしていると。

むしろ、これまではその能力を武器にして、この世界を相手に戦っていたのかもしれません。

それは、生きていくために、この自分にとっては大事なものでした。

でも、もうその必要もないと内なる聖霊が伝えてきています。

ここから先は、その武器も置いていくことを選択するときに来ていることを察するのです。


「セラピスト対クライアント」という構図の心理セラピーは、

もうこの私から終わっていくのだと思います。

それは、心理セラピストとして生きてきた私にとっては死活問題ともいえるかもしれません。


「放棄」ということばが、私の脳裏に浮かんできます。

この武器を手放していくとしたら、どうなるのだろう?という想いももちろんあります。

それでも、聖霊に導かれて神の道を歩んでいくだけです。


心理セラピストとしての武器を置いて、

心理セラピーというものを手放して、

私は、新しいかたちへと移行していくつもりです。


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2017/04/19

武器を置いて

今振り返れば、これまでの私と言えば、

心理セラピストとしての技量(と才能?)を最大限に活かしていくことに躍起になって、

それこそが素晴らしいことをしているつもりでいました。


でも、それは今になって気づくのですが、

それはただたんに自分がするセラピーの凄さをひけらし、

その技量を振りかざして、ある意味で強引なセラピーをしていたのだと気づきます。

それを良かれと思ってやっていたわけですが、

この今となっては、それは傲慢以外の何ものでもなかったと知るのです。


良かれという想いほど余計な想いはないと思います。

良かれという想いなどそういうものはいらない。

この世のすべてのあるがままを良しとすることが出来なかったのだと。


私は、戦っていたのです。

私は、武器を置いて、この戦いを終わりにしようと思います。


それは、心理セラピストとしての技量もスキルも手放すことになるかもしれませんが、

それでいいのだと思います。


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2017/04/17

真実一路

道。

それは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われているその道のこと。


その道は、もう引き返すことのできないところに来てしまったとすら感じています。


とは言っても、引き返そうという気もさらさらありません。

なぜなら、それはこの自分自身がもっとも望んでいたことでもあるからです。


苦しみの消滅、それは、自分(自我)の消滅と云っても過言ではありません。

それは、聖霊の導きであると今ではわかります。

ここから先は、この平安と共に、

サレンダーして、全託していくこと以外に道はないと強く感じています。


一筋の道を偽りのないほんとうの心をもって、ひたすらまっすぐに。

まるでそんな気持ちです。


広大無辺なる空を、ひたすらまっすっぐに。

真実一路。


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2017/04/15

初老の今想うこと

この世界ではあらゆるものが移ろい変わっていきます。


気付けば、この私も今年の秋で50歳になります。

もう半世紀もこの地上で生きたのだなと思うとともに、

自分のこの身体にもちらほらと老いを感じはじめています。


それはこの地上で生きていくかぎりだれもが経験していくものではあるのですが、

それでも、それはだれにとってもこの人生においてのはじめての体験であり、

未知の体験でもあります。

そうなってみてはじめて気づかされることが多々あります。


この身でそれを受け入れていくとき、

老いていくとはこういうことなのか、、、と、

はじめてわかること、想うこと、感じることがあるのですね。


それは自己の原点に立ち返らせてくれます。

この人生のゆくえやあとどれくらい生きるのか?それがいつ終わるのか?は、

それはすでに決まっていることで、

そういうことは神にまかせて、

今ここに生きている私は、自分の一番大事とするものをただ生きるだけ、

という想いに立ちかえらせてくれます。


いつかはこの身体もこの地上に置いていくことになっています。

その瞬間まで、私は自分の一番大事にしているものを生きるつもりです。

それは、私が「道」と呼んでいるものです。

それは、この人生が終わるときまで続くものです。


この人生が終わるそのときまで。

そして、そのときがその旅を終えて我が家に帰りつくときなのでしょう。


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2017/04/08

お釈迦さまからの祝福

お釈迦さまの誕生日の日にちなんで、内なるガイドからのメッセージです。


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いつのときも安心してていいのです。

あなたは、いつのときも護られています。

あなたは、このいまも護られています。


たとえていうなら、

崖っぷちにぶら下がった状態で、その手を離したらまっさかさまに下に落ちてしまうと思って、

必死になって落っこちないようにしがみついて抵抗しているのがあなたで、

本当は、そのすぐ下にはお釈迦さまが両手の掌を広げて、

あなたがその手を放して身を任せるのをいつでも構えて待っていてくれています。


たとえあなたが落っこちたとしても、お釈迦さまの掌の上に着地するだけなのです。

たとえそこが底なしの闇のようにみえても、やっぱりそこはお釈迦さまの掌の上なのです。

むしろ、お釈迦さまの掌の上の方が、居心地がいいに決まっているのです。


あなたは、すでに、そしてこのいまも護られています。

自分は護られていると認めて、抵抗することを放棄してください。


あなたは、もう自分の手で、自分の力で、自分を護っていく必要がないのです。

その身を護ろうとしてきたすべての防御をここに置いていきなさい。

自分はもうなにも必要ないのだと知りなさい。

しがみついていたその手を放して、神の加護の中にその身をゆだねてゆきなさい。


お釈迦さまの愛のもとに、このメッセージは必要な人へと届けられるでしょう。


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2017/04/06

セラピーというものについて

心理セラピストとしての私からみると、

人と関わること自体がセラピーのように思えます。

もっと言えば、この世界と関わること自体がセラピーなのだと思うのです。


なぜなら、自分の一部である他者によって自己は救済されていっているといえるからです。

本来は、他者などいなくて、すべては自分が自分にしていることではあるのですが、

それこそがこの世界のしくみというものであり、

わたしたちがこの世界に生きているゆえんなのだといえます。


わたしたちは、癒されるためにこの世界に生きているのであり、

癒される必要がなければ、もうこの世界を必要としなくなるでしょう。


話を戻せば、生きている人生そのものがセラピーであるからして、

あえてセラピーという形態をとる必要もなく、

もはやセラピーというものすら必要ないとさえ思うのです。


だれもが、それぞれの人生を通してそれぞれのペースで神のもと(源)に帰ろうとしている、、、


そこからみるとき、この自分はいったい何をしているのだろう?とさえ思えます。

セラピーとは、いったい何をしているのだろうか?


それは、他のあらゆることに対しても同じことが言えるかもしれません。

本来必要のないものをあえて意味ありげにそこに必要性をもたらして、

それをあたかも価値あることかのようにしてきたのがこの世界であると。


本来は、もっとシンプルなのだと思います。

本来は、もっとシンプルでいいのだと思います。


そういう意味でいえば、こんなことを言っていいのかわかりませんが、

心理セラピストとしての私にとっては、もうすることがないようにも思えるのです。


もし、することがあるとするならば、

ただ心を静かにして、ただ心を穏やかに、

この世界のそのままをゆるして、

この世界のあるがままを祝福して、

内なる神の平安の中に佇んでいることだけではないだろうかと思うのです。


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2017/04/02

自分の身に起きていることのすべてを信頼していく

先月の春分の日に茅ヶ崎グループセッションを開催しました。
そこに参加された方々で、お二方の感想・体験談をご紹介します。

それぞれのプロセスで意識の変容を体験していっておられるのがわかります。

エゴ(自我)が解体されていくプロセスにおいては、
心の奥底の闇の部分が浮き彫りになるようなことが起きていきます。
それは、これまでずっと無意識の中にしまっておいたものを意識化するために、
現象や他人や自分の身体に投影されるというかたちで起きてきます。
いわゆる、エゴからしてみれば、それは決して良しとはされないものです。

とはいえ、それらは浄化、解放、アライメントなどのプロセスであり、
それぞれのかたちで起きているにしかすぎないというふうに捉えることが出来ると思います。
そして、自分の身に起きていることのすべてを信頼していくことが、
何よりも大事なのだということにあらためて気づかされます。

興味のある方はどうぞご覧ください。

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・一人の方は、ご自身のブログで公開されています。ともえさんの記事は、こちらです。

・もう一人の方は、以下に、ご本人の了承のもとに紹介させていただきます。

昨日(茅ヶ崎グループセッション)は大変お世話になりました。
昨日は自宅に帰ったとたん、また新たに感情を乱す連絡が来ていました(笑)。
出来事が笑ってしまうぐらいに加速して起こってきています。もう、どこに向かっているのか予想できず、お任せするしかないですね。
自分の受け入れ態勢が整うのことによって出来事として見せてくれているのが良くわかります。
今、色々な選択を迫られることが多くなってきています。選択肢を選ぶにあたって、エゴの声なのか魂の声なのかを自分の中で考えてしまい選択を先延ばしにすることも多くありました。
今回のセッションで何を選んでも結局はOKだと言われたことで今後、楽に選択できるようになる気がしています。
よく考えると、自分の選択自体が起こるべくして選択してしまうものですからね。
今回のセッションで色々な自分を参加者に中に見ることができました。このような視点は1年前には考えもつかなかったことであり、自分なりに進化してきているのだな~と感慨深かったです。
(栃木 男性)