2017/10/29

目覚めたいのも、嫌な感情や現実から逃げたいからでした

現在、継続的にセッションをしているKさんからセッションの感想・体験談のメールをいただきました。


先日のセッションで、Kさんは、

「今日のセッションで何かがシフトしました。今まで真逆に意識がいました。」

とおっしゃっていました。

その言葉から、Kさんが意識の方向性を反転させたことが伺えます。

内側の闇と向き合うことから逃れるために、避けるために、スピリチュアルや目覚めを追い求めていたという気づきは、わたしたち誰もに当てはまることです。

いよいよこの二元性の世界を超越していくその道を歩みはじめられたのだと。

それは、純粋非二元の道であり、スピリチュアルジャーニー(旅)の最終段階に来たことを意味します。


自分の内側の闇の部分と向き合わずして、心の平安や幸せ、自由はあり得ません。

そして、目覚めは、その先にあるものです。

それを求めている方々への参考になればと思いまして、ご本人のご了承のもとに、いただいたメールの内容のまま公開シェアさせていただきます。

ありがとうございます。


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<Kさんの感想メール>


もりGさま


先日はセッション、ありがとうございました。


もりGさんのブログを読んで、はっとなりました。


セッションをした夜に夢を見ました。
白山比咩神社(石川県)の表参道を年配の老師と歩きながら、あ~私は逃げていたのだ~ 真理に助けを求めていたのだ~ネガティブな感情を感じる体験を避けようと、いろんな講座やヒーリングを受けてきたのだ~と気がつきました。


必死でM(とあるスピリチュアルリーダー)さんのブログにしがみついて、どうかこの私が嫌な辛い思いすることなく救われますようにと祈っていたのだと思いました。

セッションの翌日に会社で、すごく孤独と孤立感を感じ周りばかり気にする自分が出てきて、このままだと 真面目に仕事してる人と思われ阻害されてしまうどうしよう、どうにかしないと嫌われてしまう、

という感情が出てきて、周りの人は真面目に仕事する雰囲気の私を嫌がっている気がするという感じがして、周りへの怒りから次第に不安と寂しさが出てきました。
(でも、)それを感じてみたら、身体が温かくなって「これでいいのだ。だって、今は新しい仕事を真面目に覚えたいし、それの何が駄目なんだろう。私は自分が望む事をするのだ。」というパワーが出てきました。


もりGさんのセッションをふと思い出し、 あっと思いました。
自分で自分に制限かけてる、と。

周りのせいにして怒っていたから、気がつかなかった。

そしたら、身体が温かくなって、安心しました。
K(知人のヒーラー)さんにも「迷いが見えるけど」と言われてもよくわかりませんでしたが、 彷徨っていたのは、周りの人に嫌われないように気に入られる事ばかり意識して自分の本心をごまかしていたからだと気がつきました。

もりGさんに言われた「自分を嫌うのと、相手を嫌うのとは同じじゃないですか?」については、まだ(その意味が)わからないけれど。

目覚めたいのも、嫌な感情や現実から逃げたいからでした。

もりGさんのセッションは不思議です。
セッション時は緊張して固まってしまうのに、(固まっているのが解きほぐされていくのは)
何が起きているのだろうと不思議に思います。

長い文をお読みいただき、そしてセッションは根気強くお付き合いいただき、 ありがとうございました。


(石川 女性)


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2017/10/27

投影と赦し 3/3

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


<投影と赦し 2/3>のつづきです。


赦しのプロセスにおいて、わたしたちは最終的にどうなっていくのか?について、

フランシスさんが後半部分で述べられているところは、かなり興味深いです。


赦しが進んでいくとジャッジ(判断)も恐れも無くなっていくと言います。

そのときのわたしたちの感覚とはどんなふうになっていくのか?

興味のある方は、どうぞご覧ください。


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「赦しにおいてすべきことは何ですか?」という質問に対してのフランシスさんの話しです。


パート2のつづき

最終的に、自分自身について赦すというところへと導かれます。
あなたはこの道において、内側を深く探る許可を自分に与えれば与えるほど、赦しという目標とともに生じてくるものを見つめる許可を与えることになる、ということに気づいていきます。
そして、攻撃をしたくなったり投影をしたくなる状況をしっかり捕らえていくと、最後には、何か他のものを赦しているのではなく、自分自身を赦していることに気づくようになります。
そして、あなたは、自分が様々な状況において自動的に赦していたり、意図されることなくたくさんのことを赦していることに気づいていきます。
これは、形態のレベルで見るならば、次の段階と言えます。
その形態のレベルでは、心静かに、意図することなく会話はなされるままに、言葉は出てくるままに、身体は何をするにせよ動かされるままになります。
心はもはや何をするにしてももうコントロールすることを望まない状態です。
それは十分な信頼がある状態なので、「何をしたらいいか?」という質問は消えゆきます。
恐れもなくなります。
心が目覚めて、癒されていくのに、「何をするか?」は重要ではありませんし、身体がそれらをもたらすことはありません。

様々な状況においてあなたは、流れのままに行動するように、身体に許可を与えなければならないことがわかるようになります。そして、裁かないでいることもわかるようになります。
ひとたび、その許可が一つの(自分の)身体に与えられたなら、それはすべての(他者の)身体に与えられます。
あなたは実際に、この世界のすべて、起きていることのすべて、この地を歩いているすべての身体は、まるでプログラムされているかのようにただ特定のことを行っているだけだ、というふうに見るようになります。
そこには、何が良くて何が悪いとか、何が正しくて何が間違っているかというような判断をする術もありません。
心はただ平安にとどまり、すべてのシナリオをもっと大きな視点から眺めることになります。
自分にとってその状況が得なのか、人々は自分のことを敬っているのか、人々は自分に愛を表しているのか、自分の欠乏を満たしてくれる何かを与えてくれるのか、などという個人的な狭い視点から眺めることはなくなります。
この狭い視点から解釈することはなくなり、すべてを全体としてみるようになります。
このようにして、心は平安にとどまることができますし、これが赦しのプロセスです。
あなたの自覚の中で起きているすべてのことは、このゴールに達するためであり、このゴールに達するためにあなたにとってこの瞬間一番役立つことなのです。

ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


2017/10/26

投影と赦し 2/3

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


<投影と赦し 1/3>の記事のつづきです。


コースの学びを実践していく上で、赦しはどのようにやればいいのか?

ということが、コース学習者のもっとも知りたいところではないかと思います。


そのことについて、フランシスは、

「赦しのプロセスは、(自分の)内側を掘り下げて見ることが鍵」だと言います。

しかも、何であっても起こることに許可を与えること、生じてくるものを恐れずに見つめること、つまり、ジャッジすることなく(内側を)見ていくことだというふうに言っています。

しかも、それは、投影することに魅力を感じていることを自覚した上で、と述べています。

それはそれで構わないのだと。

だからこそ、わたしたちはこの道を歩んでいるのです、と。


興味のある方は、どうぞご覧ください。


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<投影と赦し 2/3>


「赦しにおいてすべきことは何ですか?」という質問に対してのフランシスさんの話です。


パート1のつづき


赦しのプロセスは、自分自身に対して感じている欠乏感はいったい何なのかを正直に掘り下げて見ることができるように、もとに戻って(引き返して)いくことです。

これが最終的には投影を止めることのできる唯一の方法であり、どんなことが起こっても恐れずに見つめることです。

わたしたちがある程度の期間赦しのプロセスを行っていった後には、正直で欲求も純粋なものとなり、何が起きても直視することを心が恐れることなく、他の人々に何かを押しつけたりすることなく、心に動揺や思考が湧き上がってもすぐにもとに戻ることができるようになるでしょう。

おそらく、すぐに自分自身を取り戻し、わたしは被害者であるということを信じても、それは自分をどこへも導かないということ、そして、外側にあると信じているあらゆる欠乏は実際に本当ではないし、それも自分をどこへも導かないということを理解できるでしょう。

理解することによって、それらは信じられることがなくなり、信じられていなければ、赦すことすら必要なくなります。

そもそも罪はなかった、ということです。

これは間違いなくいつか起きますし、必ずいつかはそのようになります。


しかしもしこの今、体験的にそうではなく、動揺が繰り返し起き続けているならば、この瞬間に赦しの必要があるということです。

それでも動揺が起き続けるならば、それは、心はまだ攻撃の思いや投影することに魅力を感じているということです。

心はまだ、湧き上がってくるものを見つめることを恐れているのであり、投影を必要としているということです。

そして、それはそれで構いません。

何かに失敗していると捉えることはないし、まさにだからこそ、わたしたちはこの道を歩んでいるということです。

このことを自覚したならば、わたしたちの心はまだそこまで達していないことを知った上で、口先だけで賛同したりアファメーションをしたりする必要はありません。

なぜなら、まだとてつもなく大きな恐れがあるからです。


わたしたちがしなければならないことは、まず、わたしたち自身へ、何であっても起こることに許可を与えることです。

わたしたちの心は、生じてくるものを恐れずに見つめることを始めなければなりません。

見つめれば見つめるほど、恐れを感じることはなくなります。

見つめなければ見つめないほど、恐れは増します。

隠せば隠すほど、恐れが増し、より投影するようになります。

一度、しっかりと見つめるという方向に進むようになると、見つめることにもっともっと心地良さを感じるようになります。

そして、根底にある本当に真実であり本当に素晴らしいものを見つけ出すことになるでしょう。

根底にあるものは、実に嫌なひどいものではありません。


許可することが鍵です。
内側を見ることが鍵です。
それらを促すものが何であっても、それは非常に役に立ちます。
もし、あなたの夫や他の誰かが自分の助けとなり、勇気や安全を与えてくれる助けとなって、内側を見つめることができると感じるならば、それがあなたがするべきことです。
もし、励まされていると感じれず、恐れを伴うようであれば、あなたがサポートを感じることのできる他の誰かを見つけることです。
それ(内側を見ようとすること)が本当の目指すところです。
目指すところは、人々にあなたがどう感じるかを伝えることではありません。
目指すところは決して、人々にあなたの感情を理解させることではないし、状況に対し罪悪感を感じさせることでもないし、あなたと同じ考えを持たせることでもありません。
目的は、起きていることを勇気を持って見つめることができ、そして、起きていることを深く見ることができるようになることです。
多くの場合それは、話すことや露わにすることを必要とします。
ジャーナリング(心に浮かんだことを書いていくこと)だったり、本当に信頼する友人だったり、透明性や正直さに価値を置き、自我を探索することに価値を置いている同じ道を歩む友人を必要とすることもあります。
わたしはこれが助けになることを望みます。
なぜなら、何をするか?というシナリオは常に変化するからです。
しかしもしあなたが、これは何のためなのか?ということについて明瞭な心であるならば、それはあなた自身を支えてくれるでしょう。
そして、起きていることは、内側のものが外側へ現れているだけだとわかるまで、心を開いてもっともっと進んでいったならば、もうそこには恐れはありません。
それが目指すところであるということを知って、聖霊や祈りによってあなたに助けがもたらされることを許すのです。
それが最善の対処であると言えます。


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー

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2017/10/25

投影と赦し 1/3

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


フランシスさんは、ここで赦しのプロセスについて語っていますが、

それは彼女自身の体験から語られています。


すでにその道を歩んでいる先達の言葉に触れることは、

赦しを実践しているわたしたちにとって、その学びを飛躍的に前に進めてくれますし、

方向性をしっかりと示してくれるものとしてとても有難いです。


今回の<投影と赦し 1/3>では、

わたしたちが赦しを実践していく上で、理解しておくべき「投影」について語られています。


興味のある方は、どうぞご覧ください。


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<投影と赦し 1/3>


「赦しにおいてすべきことは何ですか?」という質問に対して、フランシスさんは以下のように話しています。


フランシスさん:

わたしの経験から話しますと、初めは「個人的な考えは持たない」「人を喜ばせようとしない」という、この二つの実践からスタートしました。

これらは、赦しという目的のためのものです。

実践を始めた頃は、本当にたくさんの感情や動揺が湧いてきていましたし、それらは頻繁に起こっていました。

その多くは、わたしが自分の気持ちや考えなどを表現できないと感じていた状況に関係しているように思います。

たとえば、ちょっとしたジョーク交じりの状況の際、そこまで明らかではないけれど根っこにある種の皮肉を感じることがありました。でもその場ですぐに取り上げて言うのも、人との付き合いにおいてふさわしくないと感じ、表現するのを止めていました。

そういう小さなことがたくさんありました。

もしわたしがその場で言うなら、「赦そうとしていない」とか「こんな小さなことでイライラして」とかと言われるかもしれない、などいろんな理由で、声に出して言うことを止めていたのです。


ですから初めのうちは、どのように表現することを自分自身に許すか、という学びの実践期間を経ることになりました。

そのプロセスは、他の人々へ声に出して表現することについてというよりも、実際には、自分自身に許可する作業であり、(内側を)探索して心の根底にあるものを掘り起こす作業でした。

それは決して、心の表面的なところの覆いのような想念についてではありません。

しかし、まずはその表面から始めなければならず、自分自身に許可を与えなければなりません。

時に想念は、あまりよくないものであったり、時にひどく不快なものであったりもします。

しかし、それらの想念の根底にあるものは、わたちたちがこれまで触れたことがないものです。

根底にあるものとは、常にとても美しく無防備で真正です。

ただそれは、幾重もの層の、不快な攻撃の想念によって覆い被されています。

初めのうちは、それらの不快な想念を声に出して言うことができるようにする許可を自分自身に与えるのに、ある種の勇気がいるように思えます。

ただ、そうすることで、わたしたちは深いレベルまで入ることができるようになるし、自我がその根底にある感情を抑え込んで、表面的な想念を使って行動する過程に反して進むことができるようになります。


もし、目指すものが本当に赦しだとしたら ー質問者の方は赦しを目指すものとしていますがー それは素晴らしいことです。

というのも、わたしたちは「エクスプレッション・セッション(表現のセッション)」という形式のものを何回も行っていますが、わたしは、人々が、このセッションを行う本来の目的を忘れてしまう誘惑に駆られることに気づきます。

それは、自分が感じていることを事実の通りに言う(自我が思ったことをそのままぶちまける)とか、誰かを責めるとか、起きていることについて誰かに罪悪感を感じさせる、と安易に考えてしまいますが、それでは、心の中の赦しという目標に役立ちはしません。

もし、目指すものが赦しであるならば、まずはそれをあらかじめ踏まえた上で、状況がどうであろうともそれをそのままにさせておくのです。


ここで、わたしたちが動揺する理由について深く見ていきましょう。

様々な状況においてわたしたちが動揺するのは、その状況や人々が、自分が欠乏しているものを提供してくれないという理由からです。

わたしたちが望む経験や、わたしたちが愛されていると感じることができる経験を与えてくれないから、ということです。

わたしたちは初めに、欠乏を感じます。それから、わたしたちは、他の人々が何か特定のことをしてくれることや、状況が特定の結果となることを求めます。

そして、もしそのようにならなかったら、わたしたちは動揺するのです。

もしくはそれとは対照的に、自分の行動によって、他人が傷つけられるのを知覚しそのことで罪悪感を感じるということもあります。

しかし、もしわたしたちが投影の原因を理解するならば、人々や状況に投影するその理由はいつでも、投影することでわたしたちはわずかながらも気分が良くなるからなのです。

投影することでわたしたちの罪悪感がわずかながらも減少するからなのです。

これが、自我が投影を好む理由です。

浮上する感情を直視できず、その感情があまりにも強烈なためどこかほかのところへ投げ捨て、一時的にほっとする、ということを、わたしたちはまさしく日常的にやっているのです。

わたしたちは、欠乏しているものを外側の状況に投影したり、自分の行いが人々の(動揺の)原因になるなど、どちらにしてもいつも欠乏を外側にみるのです。


パート2につづく


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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2017/10/22

11/19 『ACIMシェア会 in 福岡』参加者募集のお知らせ

今月10月7日(土)、8日(日)で開催された『2Days ACIM学習会 in 福岡』は、

参加者みんなと楽しく有意義な充実した二日間を過ごすことができました。

ご参加いただいた方々、どうもありがとうございました。


つきましては、来月11月の『ACIMシェア会 in 福岡』の開催のお知らせとともに、

参加者を募集します。


学習会というよりも、もっと気軽な会として集いましょう!ということで、

11月からは「学習会」から「シェア会」にタイトルを変更しました。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学ばれている方、

これからコースを学ぼうと思っている方、

コースに触れたことがない方でも、コースに関心のある方なら、

どなたでもご参加いただけます。


内容は、特に決まっているわけでもなく、その場に集った参加者たちと、

コースについてフリートーク、質疑応答、シェアリングなどをして過ごす会です。

どうぞ気軽に、気楽にご参加くださいませ。


お申込・お問合せ、詳細につきましては、

下記の主催者さん(フジヤマさん)のブログをご覧くださいませ。


日時:2017年11月19日(日) 13:30~16:30

会場:福岡市内


あなたのご参加をお待ちしております。


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2017/10/15

ラマナ・マハルシと聖霊に導かれて

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


今回は、フランシスさんが自身の歩んできたスピリチュアルな道について語っています。



以前、フランシスさんを紹介した記事でも述べましたように、彼女は、私(もりG)から見て、まさに「智慧の人」という印象があります。

YouTubeではじめて彼女のトーク内容に触れた時、ノンデュアリティのスピリチュアルを学んできた方や、または、それを経由してコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)にたどり着いた方々に、ぜひお薦めしたい、シェアしたいと思ったのは事実です。

それほど、彼女のトークの内容は、じつに明晰で分かりやすく、東洋の非二元の教えにかなり精通している人だという印象を受けたのを覚えています。

今回のこのトークで、彼女は、実際にラマナ・マハルシの教えを学んでいたということを知って、なるほど、と私はすごく納得できました。


フランシスさんから出てくる言葉の鋭さは、ノンデュアリティのスピリチュアリズムを探究してきたがゆえのものだと。


興味のある方は、どうぞご覧ください。


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<ラマナ・マハルシと聖霊に導かれて>


フランシス:

コースを始めた頃と時を同じくして、わたしは、非二元の教えにもものすごく引き込まれていました。このコミュニティーに来る前の話です。

最初の頃は、実際に非二元の話の方がとても純粋だと感じていて、二つの教えに引き裂かれていました。

ラマナ・マハルシが大好きで、彼の本やオンラインで入手できるあらゆる彼についての文書を、すべて読みました。

そして、ラマナ・マハルシの教えの方がシンプルだし簡単な方法だ、と内心は思っていました。

ラマナ・マハルシが言っているのは、”I Amness(アイアムネス)”にとどまりなさい、その心の状態にとどまりなさい、ということです。

なぜなら、誰もいないし、苦しみは無い、すべては幻想であり、全部作り話である、「私は誰か?」と問うてそこにとどまるだけだと言います。

わたしはこの教えが大好きでした。


しかしこれは、わたしのカリキュラムではありませんでした。

なぜなら、同時期に、聖霊はわたしをコースへと推し進めるよう導いたからです。

その道の歩みは、初めはまるで自分の外側から、イエスや聖霊について語られるというものでしたが、次第に自分の外側からではない体験へと変わっていきました。

わたしがしなければならないことは、瞑想して空っぽの状態にとどまることではありませんでした。

自分では、その時の自分の状態よりももっと進んでいると思っていて、わたしはすでに”I Amness(アイアムネス)”に留まっているし、彼の言っていることにとても深く共鳴しているし、すべて理解できていると思っていました。

しかし実際には、わたしの心はその準備ができていなかったということです。

結局、わたしの旅は、幾重にも重なった層を露呈し、闇を浮上させ、さらけ出し共有し声に出して伝え、そして聖霊に従うという旅へとなっていきました。


今のこの地点から振り返ってみると、自分だけではどうやったとしても、ここまで来ることはできなかったと思います。

聖霊がもたらされることなく、少なくとも聖霊というアイディアに心が開かれることなく、ここまで来ることは不可能だったと思います。

きっと、今わたしが経験していることを経験することは、決してなかったでしょう。

なぜなら、幾重もの層となった心の闇があることに、まったく自覚がなかったからです。

そして多分、一度に一歩ずつというようなペースで進んでいくことは、たくさんのプライドを認めざるを得なかったように思います。

心は、どうしても近道をしたくなったり、簡単な道を選びたくなります。

しかし、心はどう行ったらいいかもわからないし、実際に何を欲しているかもわからないし、最善の利益もわかりません。

自我の心が、最善の利益など知る由もありません。


これはわたしの経験によって裏付けられていることなので、ここで話したいと思いました。

そして、感謝の気持ちとともに言うことができます。

わたしは今も、非二元の教師にとても感謝していますし、尊敬もしています。

非二元の講話は今もとても好きですし、共鳴もします。

それでも、聖霊によって示されたこの自分が歩んできた道も、感謝とともに、完全に心から受け入れています。

そしてまた、あちらこちらの教えに飛び回って時間を無駄にすることを、わたしに与えなかったこの道に、心から感謝しています。


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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2017/10/13

聖霊に解釈してもらうことについて 2/2

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』の抜粋翻訳です。


テーマ「聖霊に解釈してもらうことについて」のつづき(後半)です。




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前半のつづき


この質問の背後にあるものは、幸せと神の平安を欲する呼び声だとわたしは感じます。

このことについてどのように向き合っていくかというと、正直に「わたしは神の平安を望んでいません」というところから、見ていくことです。

「わたしは神の平安を望みます」ということが何を意味しているかというと、「わたしはすべての幻想を放棄します」ということです。

「わたしは神の平安を望みます」と「わたしはすべての幻想を放棄します」は、完全に同一のものであり、何一つすらもしがみつかないということです。

ということならば、「わたしは神の平安を望んでいません」ということは「わたしは特定の幻想を大切にしています」という意味に違いありません。

どんな理由にしろ、「この幻想がわたしに何か与えてくれる」と信じているということです。

ここが実際にわたしたちが始めることができるところです。

ここで正直に、「どんな幻想の部分を、幻想の何を自分は大切に思っているのか」よく見つめてワークを始めることができます。

「わたしは、どんな幻想が自分に何かをもたらしてくれると思っているのだろう?」ということです。


わたしは人々が「わたしは正直、まだすべてを差し出す準備ができていません」と言うのを聞きます。

「たとえば、美味しいもの。わたしは美味しいものを食べることが楽しみなのです」と。

わたしたちがそれを楽しむ理由は、確かに恩恵を受け、何かを得ていると信じているからです。

美味しいもの、素晴らしい味、刺激などが、愛を感じる以外にわたしたちに与えることができるものとは何でしょうか?

それは、愛の代用品ではないでしょうか?

わたしたちはどういうわけか、心の中で、すべてのものを愛の代用品としてしっかりと握りしめて見ています。

もちろん心は、愛の代用品として見ているものや、たとえ一時的であれ、愛の代用品として体験しているものを、明け渡す用意はできていません。

心がたくさんの欠乏や恐れや罪悪感を感じていたり、幻想のどこか一部分にしがみつくことで神の愛を一時的にでも感じることができると思うとき、「わたしはすべての幻想を放棄します」と言ったとしても、何の意味もありません。

わたしたちが”実践への応用”と言っているのは、心から正直にこの瞬間どんな幻想を自分が大切に思っているのか、心から正直にそれが何を自分にもたらしてくれると思っているのかを、兄弟に向かって、誰かのためではなく自分のために明確にし、表現しさらけ出しましょう、ということです。

もしわたしたちが、そのようにオープンで正直に、聖霊を招き入れガイドしてもらうならば、聖霊は違った概念を示し、違った経験を示してくれるでしょう。

そしてそれは、示されなければなりません。

「このような幻想は、わたしたちが欲している愛をもたらすことはない」ということを、わたしたちは体験的に示されなければなりません。


わたしたちは、聖霊のカリキュラムに従わなくてはいけません。

どうのように聖霊のカリキュラムに従うかというと、この今ここにあるものにフォーカスすることです。

なぜなら、今ここにあるものがカリキュラムだからです。

まさにそれが物事が起きている理由です。

この今起きていることは何でも、心を開かせるためです。

これが、物事が起きているただ一つの目的です。

究極的には、「この世界の状況も人々も出会いもすべては、心を開くことを助ける」というただ一つのゴールのために起きています。

もしわたしたちがこれを理解できるならば、本来尋ねるべき質問は「どうのように見たらいいですか?」となります。

そして、起きているどんな状況でもそれは自分のためであり、わたしの心のためであるという信頼を育てていくことになります。

正確な意味においては、人格を持った個人の自分のためではなく、本来のあなた、人格を持つ個の後ろに隠れている本来の<わたし>のためであり、実在の心が幸せと融合を経験するためであり、隠れた心が癒され、リラックスし広がり拡張するために、物事は起きているということです。


聖霊の解釈は、ある状況についてのたくさんの見方の中の一つではありません。

もちろん、物事にはたくさんの見方があります。

あなたが誰か他の人々に尋ねるならば、彼らは違った見方をしているでしょうし、違う誰かに尋ねても、また違った見方をしていて、それらは同じではないでしょう。

聖霊の解釈は、違った見方というものではありません。

なぜなら、聖霊の解釈は、恐れからではなく愛からきているからです。

自我の解釈は、分離や欠乏といったところからくることは避けられません。

一時的に良い状況であったり、自分にとって有益であったり、自分の好みに合うものであったとしても、自我の解釈は常に恐れや欠乏からきています。

結局、自我の解釈は、あなたの好みに合うものはあなたを幸せにし、あなたの好みに合わないものはあなたを幸せにせず、あなたの幸せは完全に自分の好みに合うかどうかの状況によって決まり、(それによって)あなたは欠乏の中にいるという信念を強めることになります。

あなたが信じている自我によるどんな解釈も、心の中の信念を促進し強めることになります。

それは、ループです。出口のないループです。


聖霊の解釈は、このループを壊してくれます。

その解釈は、すべてのものに対する完全に違った見方からきています。

すべての物事の中から、どのようにこれは有益であるか、どのようにこれはあなたにとっての最善の利益であるかを示してくれます。

もしその解釈が、個のアイデンティティーを信じている心や、「自分は肉体である」と信じる心へ応じるものであっても、それは問題ではありません。

聖霊はそれでも、あなたのいるところへ来て、あなたが一歩退くことを望むよう、信頼したいと望むよう、あなたが他の見方があることを信頼したいと望むよう、解釈をもたらします。

そして、何かにしがみつくことは望まないと。

これがゴールです。

赦しを助けてくれる、信頼を育むことを助けてくれる、妨害から一歩退いて心を広げていくことを助けてくれる、ということ以外に、わたしにとって聖霊の解釈が必要な理由はありません。


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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2017/10/12

聖霊に解釈してもらうことについて 1/2

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


「聖霊に解釈してもらう」ことについての質疑応答の部分を2回に分けて翻訳シェアします。


わたしたちが自分と思っている自分と、神に創造されたままのわたしとの間には大きなギャップがあり、そこに接点はありません。幻想と真理が同居しないのと同じです。

そして、形而上学を理解したからといって、いっきに神の抽象世界へと還れるわけではありません。

たとえ、啓示や一瞥という体験があったとしても、そこで赦しが完了するわけでもありません。

この世界を知覚している限り、すべてを赦す必要があるということをわたしたちは知らねばなりません。

今いる自分から、この世界を知覚しているところから、そして、今知覚している具体的な世界を「教室」にして神の抽象世界へと還るのです。

ですから、夢と実相の間の隔たりに橋を架けてくれている聖霊が、わたしたちには必要なのです。

聖霊が架ける橋を渡って還るしかありません。(参照:W-pII.7)


質問者は「聖霊の解釈はいらない」と言っていますが、フランシスさんは、わたしたちは聖霊に解釈してもらうことによって真理へ橋渡しをしてもらう必要がある、と言っています。それを、踏台(stepping stone)という言葉を使って表現しています。


興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。



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<聖霊に解釈してもらうことについて >


質問者:(※質問内容は短くまとめています。)

聖霊に解釈してもらうことについての質問です。

「解釈」という言葉の意味からすると、様々なものの見方のうちのある一つの見方、というふうに捉えられます。

となると、聖霊の解釈が真理ではないことも大いにあることになります。

わたしはただ真理を欲しているだけであって、ある一つの違った見方を提示してほしいわけではありません。

聖霊による解釈とはいったい何を意味しているのですか?


フランシスさん:

ワークブックのレッスンに「私は神の平安を望む」(W-pI.185)というのがあります。

このレッスンは以下のように始まります。

「この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。もしあなたが、ほんの一瞬でもそれを本気で言うことができるなら、もはやいつどこにいても、どんな形においても、あなたに哀しみはありえない。」(W-pI.185.1.1-3)

これはおおむね、「私は神の平安を望む」という言葉を本気で言うならば、誰しも癒しは必要なく、純粋な願いとともにこの言葉を心から言うことによって癒されている、ということを言っています。

本当は何を言っているのかというと、これはある意味、「私は神の平安を望む」と言いつつも、ただ神の平安を、あらゆるところですべての状況ですべてのシナリオですべての時間と空間の中で平安を経験していないのなら、実際のところ「私は神の平安を望んでいません」と言っていることを意味します。


わたしは、ここ(「私は神の平安を望んではいない」というところ)から始めることこそが役に立つと思っています。

なぜならそれが、コースが、「これが真理である」と究極の真理を言っていない所以であり、だからこそ、あなたの心は、正しい概念や正しい言葉をしみこませることができるのです。

「苦しみはない」「この世は幻想である」「愛のみがある」などの言葉は、その時々にあなたに思い出させるために出てきます。

言葉としては、時に二元的な言い回しをしています。それは、心が今あるところで、まだ信念を持っている心と符合するように、そのような表現となっています。

だけれども、最終的にそこはあなたが止まるところではなく、(二元的な表現は)道の途中での踏台でしかありません。

あなた自身を踏台に明け渡しきった後には、その踏台はもうあなたにとって必要ではなくなり、そのことについて考えることすらなくなります。

究極の心の状態を達成するところまで進んでいくだけです。


コースはとても実践的です。

なぜなら、コースは、「打つ手はない」とか「出口はない」とか「ただ何もせず待つしかない」とか「これは究極の真理だ」などと言わないからです。

実際に、コースは、「これは真実です。しかし、私(イエス)はあなたが理解できないことを知っています。あなたがやってみようとしなくてもそれでもOKです。ただここから始めましょう。あなたがいるところから始めましょう。」と言っています。


この時点で、スピリチュアルなサークルの中において、たくさんの言葉、たくさんの文章、絶対普遍の真理についてあらゆる言い回しで話すのを、わたしたちは耳にします。

それによって、わたしたちは段階を踏むことに対して忍耐強くいれなくなり始めています。

心はまだ「神の平安だけがわたしのゴールです」と十分本気で言う準備は出来ておらず、そのような体験も十分にしていないことが、提示されている段階に忍耐強くいれないようにしています。

実際にそれを飛び越えて、「自分は究極のゴールを知っている、なぜなら、真理について聞いているし、心に描くこともできるし、概念もよく知っている」と言いたくなります。

そして、「真理に到達したい」と欲して、自分はまだそこには至っていないということを強化し続けています。

「真理に到達したい」と欲して、欠乏感を保持し続けていますし、欠乏感を強化しています。

そのかわりに、忍耐強く次のように言うべきです。

「聖霊は、今自分がいるところにやって来て、(そこで)自分に答えを与えてくれたり、解決を与えてくれたり、この心が理解して受け入れることができる明らかな何かを与えてくれるだけでなく、聖霊は、心がそれを受け取れているかを確かめてもくれます。」と。

これが聖霊の仕事なのです。

もし心が、具体的なものだけしか理解しておらず、「時間と空間の中でいかにして人生を生きるか」だけしか知らないとしたなら、そして、もし聖霊が抽象的な世界しかわからないとしたなら、聖霊にどんな使い道があるというのでしょう。

もしそうだとしたなら、(わたしたちは聖霊と)どこで出会うというのでしょう。

聖霊が来てくれるというのは、良い知らせです。

聖霊は、心が理解できるレベルで話してくれます。

そして、見逃していないか確かめてくれます。

もしわたしたちが心を開いて受け入れるならば、明らかにあなたの目の前にあるものを見逃していないかを確かめてくれます。


次回(後半)につづく


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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2017/10/07

輪廻転生について

きのうの記事で「輪廻転生」という言葉が出てきましたので、そのことについて書いてみたいと思います。


率直に申しますと、輪廻転生というものはない、と私は捉えています。

輪廻転生とは、線形の時間と空間の世界に生きていると思い込んでいる自我の空想でしかないということです。


たしかに、セラピストとして心理セラピーを施していると、その人の心の奥深くに過去世らしき記憶が潜んでいることも多々あります。

もちろん、それを過去世として扱ってセラピーをした方がその人の癒しにとって有効な場合は、そうします。

ですが、私にとっては「過去世」とは、わたしたち夢見る者の記憶の想念にしかすぎず、それは、自分の記憶でもあり、だれかの(人生の)記憶をリピートしているだけのただの「想念」という見方で捉えています。


この世界は、一なる心が見る分裂した夢にしかすぎないのですから。

この世界での体験のすべては、その自分が見ている夢なのですから。


然るに、「魂」という考え方も、分離や個別性が可能とした想念ゆえに考え付くことのできる概念だということです。


そんなことを言うと、スピリチュアリスト(探究者)にとっては、味もそっけもないと思われるかもしれませんが、もう本当に、そういった二元性のスピリチュアリズムには何の興味もありません。


スピリチュアルというものに宇宙時空の壮大なドラマやロマンは要りません。

スピリチュアルな魂の旅のドラマやロマンも、もう、どうでもいいです。


結局のところ、かくいう私もそうなんですが、そういうことを感じはじめた探究者たちは、いつのときか、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学ぶ道に導かれていくのだと思います。


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2017/10/06

ゲイリーレナードさんについて

ゲイリーレナードさんについて、カースティンさんが『Living Miracles』サイトのニュースレター8月号にて興味深い記事を書かれていたのでご紹介します。


ゲイリーレナードさんは、『神の使者』『不死というあなたの現実』『愛はだれも忘れていない』の著者で、コース(奇跡講座/奇跡のコース)の概念をわかかりやすく世界中に広めることに貢献している人です。

そして、かくいう私も、彼の著書をきっかけにコースに出会った一人です。


ゲイリーレナードさんは彼自身の著書で、彼はパーサとして転生するということになっていて、つまり、彼はこの人生においては目覚めない(で輪廻転生する)ことになっていました。

ようするに、彼はこの人生では「エンライトメント(悟り・解脱)」には至らないということになっていました。

ただ、彼は、「その(目覚めないで転生する)ことを放棄した」ということなのです。


それは、私自身にとって少なからずや衝撃的でした。

彼に対しての私の見方がシフトしたのも事実です。

それと同時に、私にとって何かの時間軸がシフトしたような気がしています。

タイムラインが変わった、、、シフトしたのです。

ノンデュアリティからみるならば、彼とは、まさにこの自分自身でもあるからです。


今年2017年の7月にアメリカのユタ州にてACIMの学習者たちが集った祝福イベントがあったらしいのですが、その際のゲイリーレナードさんがスピーチをしているときの話がほんの短くですが書かれてあります。


とりあえず、その記事をシェアさせていただきます。


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週末(のイベント)を、ゲイリーレナード、ジョンマンディ、ジェームス、マリアフェリップ、リッキー、エリックといった人たちみんなと過ごし、彼らの眩しいオンステージによってわたしたちは神の祝福を受けました。

(中でも)わたしは、ゲイリーレナードが話をしているその彼の周囲に光を見ました。

とりわけ彼が「この人生で目覚めない」ということがどのように放棄されたかについてシェアしている時に(その光は増していたの)です!


Over the weekend, Gary Renard, Jon Mundy, James Twyman, Maria Felipe, Ricki Comeaux, and Erik Archbold all blessed us with their light on stage. I saw light surrounding Gary as he spoke, particularly as he shared how his idea that he wouldn't wake up in this lifetime was being relinquished!


https://livingmiraclescenter.org/news-blog/newsletters/2017/august2017.html よりー


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