2017/10/13

聖霊に解釈してもらうことについて 2/2

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』の抜粋翻訳です。


テーマ「聖霊に解釈してもらうことについて」のつづき(後半)です。




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前半のつづき


この質問の背後にあるものは、幸せと神の平安を欲する呼び声だとわたしは感じます。

このことについてどのように向き合っていくかというと、正直に「わたしは神の平安を望んでいません」というところから、見ていくことです。

「わたしは神の平安を望みます」ということが何を意味しているかというと、「わたしはすべての幻想を放棄します」ということです。

「わたしは神の平安を望みます」と「わたしはすべての幻想を放棄します」は、完全に同一のものであり、何一つすらもしがみつかないということです。

ということならば、「わたしは神の平安を望んでいません」ということは「わたしは特定の幻想を大切にしています」という意味に違いありません。

どんな理由にしろ、「この幻想がわたしに何か与えてくれる」と信じているということです。

ここが実際にわたしたちが始めることができるところです。

ここで正直に、「どんな幻想の部分を、幻想の何を自分は大切に思っているのか」よく見つめてワークを始めることができます。

「わたしは、どんな幻想が自分に何かをもたらしてくれると思っているのだろう?」ということです。


わたしは人々が「わたしは正直、まだすべてを差し出す準備ができていません」と言うのを聞きます。

「たとえば、美味しいもの。わたしは美味しいものを食べることが楽しみなのです」と。

わたしたちがそれを楽しむ理由は、確かに恩恵を受け、何かを得ていると信じているからです。

美味しいもの、素晴らしい味、刺激などが、愛を感じる以外にわたしたちに与えることができるものとは何でしょうか?

それは、愛の代用品ではないでしょうか?

わたしたちはどういうわけか、心の中で、すべてのものを愛の代用品としてしっかりと握りしめて見ています。

もちろん心は、愛の代用品として見ているものや、たとえ一時的であれ、愛の代用品として体験しているものを、明け渡す用意はできていません。

心がたくさんの欠乏や恐れや罪悪感を感じていたり、幻想のどこか一部分にしがみつくことで神の愛を一時的にでも感じることができると思うとき、「わたしはすべての幻想を放棄します」と言ったとしても、何の意味もありません。

わたしたちが”実践への応用”と言っているのは、心から正直にこの瞬間どんな幻想を自分が大切に思っているのか、心から正直にそれが何を自分にもたらしてくれると思っているのかを、兄弟に向かって、誰かのためではなく自分のために明確にし、表現しさらけ出しましょう、ということです。

もしわたしたちが、そのようにオープンで正直に、聖霊を招き入れガイドしてもらうならば、聖霊は違った概念を示し、違った経験を示してくれるでしょう。

そしてそれは、示されなければなりません。

「このような幻想は、わたしたちが欲している愛をもたらすことはない」ということを、わたしたちは体験的に示されなければなりません。


わたしたちは、聖霊のカリキュラムに従わなくてはいけません。

どうのように聖霊のカリキュラムに従うかというと、この今ここにあるものにフォーカスすることです。

なぜなら、今ここにあるものがカリキュラムだからです。

まさにそれが物事が起きている理由です。

この今起きていることは何でも、心を開かせるためです。

これが、物事が起きているただ一つの目的です。

究極的には、「この世界の状況も人々も出会いもすべては、心を開くことを助ける」というただ一つのゴールのために起きています。

もしわたしたちがこれを理解できるならば、本来尋ねるべき質問は「どうのように見たらいいですか?」となります。

そして、起きているどんな状況でもそれは自分のためであり、わたしの心のためであるという信頼を育てていくことになります。

正確な意味においては、人格を持った個人の自分のためではなく、本来のあなた、人格を持つ個の後ろに隠れている本来の<わたし>のためであり、実在の心が幸せと融合を経験するためであり、隠れた心が癒され、リラックスし広がり拡張するために、物事は起きているということです。


聖霊の解釈は、ある状況についてのたくさんの見方の中の一つではありません。

もちろん、物事にはたくさんの見方があります。

あなたが誰か他の人々に尋ねるならば、彼らは違った見方をしているでしょうし、違う誰かに尋ねても、また違った見方をしていて、それらは同じではないでしょう。

聖霊の解釈は、違った見方というものではありません。

なぜなら、聖霊の解釈は、恐れからではなく愛からきているからです。

自我の解釈は、分離や欠乏といったところからくることは避けられません。

一時的に良い状況であったり、自分にとって有益であったり、自分の好みに合うものであったとしても、自我の解釈は常に恐れや欠乏からきています。

結局、自我の解釈は、あなたの好みに合うものはあなたを幸せにし、あなたの好みに合わないものはあなたを幸せにせず、あなたの幸せは完全に自分の好みに合うかどうかの状況によって決まり、(それによって)あなたは欠乏の中にいるという信念を強めることになります。

あなたが信じている自我によるどんな解釈も、心の中の信念を促進し強めることになります。

それは、ループです。出口のないループです。


聖霊の解釈は、このループを壊してくれます。

その解釈は、すべてのものに対する完全に違った見方からきています。

すべての物事の中から、どのようにこれは有益であるか、どのようにこれはあなたにとっての最善の利益であるかを示してくれます。

もしその解釈が、個のアイデンティティーを信じている心や、「自分は肉体である」と信じる心へ応じるものであっても、それは問題ではありません。

聖霊はそれでも、あなたのいるところへ来て、あなたが一歩退くことを望むよう、信頼したいと望むよう、あなたが他の見方があることを信頼したいと望むよう、解釈をもたらします。

そして、何かにしがみつくことは望まないと。

これがゴールです。

赦しを助けてくれる、信頼を育むことを助けてくれる、妨害から一歩退いて心を広げていくことを助けてくれる、ということ以外に、わたしにとって聖霊の解釈が必要な理由はありません。


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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