2017/11/25

ジャーナリングで「自分との対話」:セルフ・カウンセリング

何かに迷ったり、混乱しているとき 、

カウンセラーやセラピストの助けを借りるという方法もありますが、

自分一人でできるやり方がありますので、みなさんにご紹介しようと思います。


それが、「ジャーナリング」と呼ばれるものです。


ジャーナリングとは、

自分の心に思い浮かんできたことをそのままノートにき書き出す、というものです。


ジャーナリングは、書いている時も、書き終わった時も、

心が整理され、軽くなっていくという効果があります。


またそのプロセスの中で、気づきや感情の解放だったり、癒しが起きたりもします。


自分の内側を整理する方法として、私もとても有効だと感じています。


そういう意味でも、

ジャーナリングは、セルフ・カウンセリングと言うこともできると思います。


ジャーナリングのやり方としては人の数ほどあります。


その中でも特に私がお薦めするのが、

自分のネガティブな部分にフォーカスしていくやり方です。


自分自身のことで、誰にも知られたくないと思っている部分に光を当てて、

フォーカスしていくやり方をご紹介します。


けっして人には言えない内容で、すぐにでも捨ててしまいたいと思う内容であれば、

紙に書いて、すぐに捨てて頂いても結構です。


むしろ、書き捨てるつもりで、

どんどん心の中のものを吐き出すつもりでやるといいと思います。


ハートで感じていることを書き出していくのですが、

その目的は、「書き出すこと」ではなく、

「ハートで感じていることを明らかにしていく」ことに意味があるということです。


自分に話しかけるように書いてもいいですし、

感じたことをそのまま書くのでも、どんなカタチでも構いません。


自然と思い浮かんできたことを書き出すようにして下さい。


むしろ、書きなぐる、と云ったほうがいいかもしれません。

そこには、感情的なことも書きなぐります。


不安や心配事があるのなら、そのまま不安や心配の言葉を、

イライラしていたら、そのイライラをそのまま書き出して下さい。


そのとき感情が湧き起こってくるかもしれませんが、

そのまま起こるままにしながら、感じていることをただ書き出していってください。


そのようにして、感情の解放が起きるとともに、

「癒し」も起きますし、「気づき」も起きていきます。


また、それは「自分への告白」といったものになることもあります。

自分の中に隠し事をなくすのです。

それは、他の誰かに打ち明ける必要もありません。

自分自身に対して、素直に、まっすぐに、自分の中に隠し事をしないように書き出すのです。


それは、まるで「自分との本音の対話」のようですらあります。


「自分の内側と向き合う」「自分の心に寄り添う」という心の訓練(トレーニング)になります。


ジャーナリングは私からもとてもオススメです。


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2017/11/18

開かれた心で、ありのままであるということ

今日は、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを紹介したいと思います。


  「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  


  「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、『神の小屋』の著者であり、その著作は映画化もされています。

その映画は『アメイジング・ジャーニー』というタイトルで上映されて、最近日本でも話題になったばかりの映画です。

私も、その映画は気になっていて、知ってはいたのですが、いざその映画を観に行こうと思ったら、福岡では上映がすでに終了していたということもあり、観ることが出来ませんでした。

ですので、原作の『神の小屋』をこれから取り寄せて読もうと思っているところです。


なにせ、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを観て思ったのは、見事なまでに「自我」というものについて的確に語られているということです。

また、彼自身の体験を通しての「癒しのプロセス」について語られているところはじつに興味深いと思いました。

それによって、自分の内側と向き合っていくことがどれだけ重要かも感じましたし、そして「癒し」というものの重要性をあらためて思い直した次第です。


「彼は幼少の頃に性的虐待を受けていた」ということもありますが、それは、なんら他人事ではありません。

というのも、わたしたちはだれもが、心の中に少なからずや大なり小なり、程度の差はあれ、トラウマ(心の傷)というものを抱えているからです。

そう、だれもがみんな、自分を護るためにいくつもの仮面(ペルソナ)を被っています。

ただそれが自分の人生に支障をきたしているか?きたしていないか?の違いだけです。

あなたが、心にトラウマ(心の傷)などないとしたなら、あなたはすでに幸せを感じて生きています。

もし、そうだとしたなら、あなたは神(父)の愛をいつも受け取っているはずだからです。

そう、幸せを感じて生きてはいないとしたなら、癒されるべきトラウマを抱えているということです。

ただ、わたしたちはその自覚がありません。

わたしたちは、ほとんどの場合、自分はそれほどのトラウマ(心の傷)は抱えてはいない、と思っています。

自覚がないからこそ、それは心の奥底の無意識に追いやられてしまっているということです。

でも、たとえ無意識の奥底に追いやったつもりでいても、それは自分の外側の人生に投影として反映されていきます。

そして、それを知覚しているのがこの世界だと言えます。


この世界で起きていることは、すべて心の現れです。

もっと言えば、自分が作り上げたドラマです。

そこから解放されるためには、自分を護るために作り上げた「自我」を明るみにしていくことが必要です。


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、神のもとで秘密を明るみにしていくこと、隠しておきたい心(の闇の部分)をあらわにしていくこと、が大事だと言います。

そして、「癒し」とはそういうものだと。


わたしたちは、癒されるために、ここに生きていると言っても過言ではありません。

というのも、開かれた心で、ありのままであるとき、わたしたちは、神に愛されていることを思い出すことが出来ます。


神は、あなたが向き合おうとしない心の闇の扉の向こうで、あなたを待っています。


もし、自分の人生が行き詰ったと感じているのなら、あるいは人生に苦痛を感じているのなら、今こそが、内側の奥底に追いやっていた闇の部分(心の傷)が癒されるときにあるということです。


もし、自分はもっと癒しが必要だと感じているなら、もっと自己の内面と対峙して心を癒していきたいと感じているなら、今が自分の人生と向き合う時期だと感じたなら、心理カウンセリングや心理セラピーの助けを借りることを私からもお薦めします。


興味のある方は、下記のウィリアム・ポール・ヤングさんのトークをぜひご覧ください。


・「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  https://www.youtube.com/watch?v=ZjLRSnxIPn4&t=8s


・「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  https://www.youtube.com/watch?v=1eEJJURJ_ko&t=1s


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2017/11/17

夢見る者

わたしたちは通常、この「世界」についてどのように捉えているかというと、

「この世界は、この自分がこの世に生まれてくる前から存在していた」

そして、

「この自分が死んでこの世を去っても、この世界はその後も存在し続ける」

と、それを当たり前のことのように想っているといえます。


というのも、たとえば他の誰かが死んだとして、

それでもこの世界は相も変わらず続いているのを当たり前のように見ているわけですから、

当然、「この自分が死んだその後も世界は在り続けるだろう」という考えになるわけです。


そこで言えるのが、そういう考え方こそが自我のトリックだということです。


たしかに、そのようにこの世界はみえますが、そうではないということです。


もし、この自分が死んだとしたなら、

この自分(の身体)と共にこの世界も消え去ってしまうはずです。


それは、夜見ている夢から覚めるのと同じように、

それまで存在していた人や事や世界が消えてなくなるように、

それまで見ていた夢が終わるようなものだと捉えていいと思います。


この世界も、夜見る夢と同じようなものだと、

コース(ACIM/奇跡講座)の中でもイエスは云っています。


この世界は、この自分が見ている夢にしかすぎないのだということです。


この世界は、自分がこの世に生まれてくるときに同時に自分が作り出した夢であるゆえ、

もちろん、この自分が終わったならこの世界も終わるということです。


この身体が生じたときに、一緒にこの世界も生じたし、

家族も友人も知人もこの世界の人々もすべてのものも、そのときに一緒に作り出したのです。


ゆえに、自分がこの世を去るときには、

この世界も含めてそれらすべても消え去るということです。


そう、もともと何も無かった「無」に帰するだけと。


自分が知覚しているこの夢の中では、

すべての人たちが自分の見ている夢の中の登場人物であり、

すべての状況が自分の見ている夢の中の出来事だということです。


コース(ACIM/奇跡講座)では、

そのことを「Dreamer of the Dream(夢見る者)」という言葉で表現しています。


このような考え方は、まるで狂気のようにも思えますが、

たしかにこの「世界」と呼んでいるものは、自分が主観的に見ている世界であり、

それは、自分だけのオリジナル世界であり、

つまり、自分だけのドラマをこの世界で体験しているだけで、

それをわたしたちは「人生」と呼んでいるということです。


人生とは、かたち(形態)がちがうだけで、

人や状況や出来事を変えて同じパターンのドラマの体験を繰り返しているだけということです。



「世界それ自体が無である。」

世界は存在しない!これがコースが教えようとしている中心概念である。」

ー『奇跡講座』ワークブック レッスン132 よりー



「自分は、この世界に生まれてきて、つかの間の人生を生きて、

そして死んで去っていく存在である」

という自己概念の考えをどうぞ疑ってみてください。


自分の見ているこの「世界」を疑いつつ、

『奇跡講座』ワークブックのレッスン132をどうぞ読んでみてください。


「世界」についての考えが変わるとき、この「自分」という概念も大きく変わるはずです。



Lesson 132
I loose the world from all I thought it was.
これまで自分がこの世界はこうだと思い込んでいたすべてから、私はこの世界を解き放つ。


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2017/11/13

スピリチュアルをビジネスにすることについて

スピリチュアルをビジネスにすることについて、私が想うことを書いてみたいと思います。


それと言いますのも、他のブログでそのことについての批判めいた記事を目にしたからです。


あるスピリチュアリスト(スピリチュアル・リーダー)の方が、

とある悟りの教師(ノンデュアリティ・ティーチャー)に対して、

「○○さんは、悟りをうたい文句にしてビジネスをしている」

というようなことを書いておられるのを目にしたのです。


結論から申せば、私自身の意見としましては、

スピリチュアルをビジネスにしていようが、悟りをビジネスにしていようが、

いっこうに構わないと思っています。


私自身としては、スピリチュアル・ビジネスには興味ありませんが、

だからといって、それを否定する気はないというスタンスです。


むしろ、そういうこは、どうだっていいことなのだと思っています。


神聖なスピリチュアルや悟りを求めている人にとって、

清らかさ、高貴さ、高潔さ、正しさをつい追究しがちになったりするのもよく理解できます。


ただ、肉眼で知覚する世界(形態レベル)のことはすべて、

真の神聖さ(真理)とは一切関係がないということ。


かくいう私も、自分自身のことを振り返ると、

数年前、私が「ジーニー」と呼ばれていた頃のことですが、

自分で言うのも何ですが、その活動はまさにビジネスしていた、って想います。笑


たしかにその当時(2012年頃)は、

「アセンション」だの「目覚め」だの「悟り」だのといったものが注目されて、

スピリチュアル・ビジネスという言葉すら流行った時期だったように思います。

(今もそうなのかもしれませんが、)

いかに集客するか?といったものがやたら目についたものでした。


そしてこの私も当時は、その流れに乗ってビジネスをしていたなぁって正直そう想うのです。


さて、そんな当時、私はある方からこんなコメントをいただいたのを思い出します。


そのコメントとは、「悟りをビジネスにしないでいただきたい」というものでした。


その当時の私は、そのコメントに対して、

何のことを言っているのだろう??と想ったのを覚えています。

悟りをビジネスにすることの何がいけないの???と。


というのも、私は、ビジネスのスタイルこそ健全なかたちだと思っていたし、

この今もそう思っているということです。


お金を受け取るということに関して、ビジネスというものは、

与える側と受け取る側において互いに対等な立場で等価交換をしているわけで、

その双方の了解のもとにそれは成立するものであります。

ビジネスとはそういうものです。


むしろ、それに比べて、

宗教やスピリチュアルにありがちな「ドネーション(お布施/寄付)」といったもののほうが、

かなり曖昧だし、紛らわしくて、面倒くさい、怪しい、誤解を生みやすい、

という感覚があります。


つまり、ビジネスほどハッキリしていて、明確で、健全なものはない、と。

私はそんなふうに捉えているということです。


悟りをビジネスにするのも、スピリチュアルをビジネスにするのも、

モノを売ってビジネスにするのも、何かサービスを売ってビジネスにするのも、

何がどうちがうというのでしょう?


ただ、もう今となっては、

当時の自分に戻ろうとは思いませんし、ビジネスというものにも興味ありません。


だからといって、スピリチュアルでビジネスすることを、

あるいは、スピリチュアルでビジネスをやっている人たちを否定するつもりもありません。


むしろ、それの何がいけないのでしょう?ということです。

この世界では、みんな同じだといえます。

スピリチュアルを特別に、悟りというものを特別にみる必要もありません。


もし、スピリチュアルや悟りといったものをビジネスにすることに

何か否定したくなる気持ちがあるとするならば、

その心の中には、ビジネスかお金かもしくは他の何かにまつわる思い込み(信念、観念)を

抱えているということです。


あるいは、「悟り」とか「スピリチュアル」「神聖さ」というものに対して

なにかしらの特別性をみているということが言えましょう。


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2017/11/12

聖霊とともに歩む

先日セッションをした空禾さんがそのときの感想をご本人のブログで書かれていますので、

紹介したいと思います。

その内容は、赦しの実践をしている方々にとって、

インスピレーションをもたらすものだと思いますのでシェアさせていただきます。


ちなみに、赦しにおけるその体験とプロセスは、それこそ人それぞれ異なります。

どうぞ、そのことをご理解の上でお読みください。


・・・・・・・・・・・・


<空禾さんのブログ記事「聖霊とともに歩む」より>


もりGさんのセッションを受けました。

そんなに回数をうけているわけではありませんが、今回も素晴らしいセッションでした。

感想を書こうと思ったら、 セッションの一部で見えていた情景や 感想を主観的に捉えた内容と なってしまいました。

よろしければご覧ください。

セッションありがとうございました。



セッションの導入部分は 失う恐怖と寂しさを見つめていく というところからだった。

この世界にはまだとても大切なものがあると思っていて、それを失ってしまう という恐怖。

でもそれは内側を見ないために 映し出された実在していない投影で それを見て手放していくこととなった。


神への怒り。

何もしてくれないじゃないか。

守ってくれないじゃないか。

私は神に怒っていた。

自らが神から離れたのに 見捨てられたと思っている私は まだ被害者となって神を恨んでいた。

だから私が守らなくては だから私がコントロールしなくては 大切なものは失ってしまう と思っていた。


☆ ☆


実在だと思っていた世界の 端っこの崖から 意を決して飛び降りた。

思い切って飛び降りた。

聖霊を信じて、 聖霊とともに落ちていった。

手のひらは上に向いたまま 何も掴めるものがなく 身体は恐怖で硬直し ただただ怖い。

怖い。 怖いだけだった。

泣きながら飛んだ。 泣きながら飛び降りた。

片時も聖霊は離れないでいてくれたけど 本当に怖かった。

実在すると思っていた世界を 放棄していくということ。

それはまだ、情けないけど とてつもない恐怖でしかなかった。


やがてどこかにたどり着いた。

真っ暗闇で何も見えないけど 聖霊は私の背中に手を添えて 一緒に寄り添ってくれている。

懐中電灯のようなもので 私の足元を照らすと 足元だけが光り、 ぼんやりとかすかに道が見える。

それはどこかにつながっているようで もりGさんにも促されて その一歩を踏み出す。

何も見えなくて怖いけど 聖霊が後ろから押してくれるから 私は操られるようにして前に進む。

気がつくと私はゲームの中にいた。

昔、唯一やったことがある どうぶつの森というゲームの中のような 森の中だけと そこには全くリアリティーがない。

光の色付きドットが重なり合った 古いゲームのような世界だ。

その中で 私は私というゲームのキャラクターと なって聖霊に操られて歩いている。

他の人も、私の大切な人たちも 聖霊に操られて歩いている。

それは無造作のように見えて 完璧なタイミングで 動かされているようだった。


そういうことか。

これがこの世界か。

私たちは完全にアバターだ。

ここは実在していないのだ。

ここに私はいないのだ。

ここには何もないのだ。

自己のコントロールも意思も何もない。

これが何もない自由な世界か。

私はただ聖霊の導きのままに 動かされていればいい。

それをなんとかしようとするのは コントロールであり 導きを邪魔することでしかないと。

そしてそれらは 計画どおりに完璧にすすめられている。

何も恐れることはない。

何も邪魔することもない。

完璧な出会いと出来事が繰り広げられる 聖霊との赦しのゲームが始まったのだよ と言われた。


そして、私はもりGさんに促されて 失うと思っている愛する息子を 聖霊に託した。

もう私が守ったり、 安全のためにコントロールをしなくても いいのだ。

私がもつ恐れのために 彼を縛り付けていた。

それは私自身も不自由にしていた。

彼も聖霊に守られていて、 導かれているから安心だ。

同じ赦しのゲームの世界の住人なのだから。

そして私も同じように 聖霊とともにあり、導かれている。

ぴったりとくっついて、私の前を照らし、 背中を押してこの世界を赦しのために 案内してくれている。

だから、 私の手のひらは何も掴まず 開かれたままだ。

そう。今のところは。


これは、私がもりGさんの セッションを受けた個人的な感想と セッション中に見た個人的イメージであり、 あくまでも私自身の主観によるもので もりGさんのセッションや 他の方が受けた場合のセッションが 必ずしもこのようなものである ということではありませんので ご了承ください。


ー 空禾さんのブログ記事『聖霊とともに歩む。<もりGさんのセッションにて>』より ー


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2017/11/06

赦しの第1ステップ

最近、私にとって「投影」への取り組み方が変わったのを感じています。


以前は、投影というものを

「他人は、自分の鏡である」とか「この世界は、自分の心の反映である」

といった具合に捉えて、その投影の示す意味を探ったりしていました。


そうやってスピリチュアルな意味を探っていくことが大事なことだと思っていたのでした。


でももう今では、そんなことしても意味がないなとわかります。


原因は一つ、答えも一つなのですから。


単純に、投影は自我のトリック以外の何ものでもありません。

投影とは、心が内側に向かわないようにするためのまやかしにすぎないということです。

その自我のトリックに気づくとき、そのときはじめて赦しの実践が可能となります。


投影についてよく理解するならば、わたしたちは自我についてもっと気づくようになります。


「投影」という言葉は、心理学用語ではありますが、

コース(ACIM/奇跡講座)でも、赦しにおいて重要な概念として使われている言葉です。


コースの実践者であるならば、その言葉の意味を理解していない人は一人もいないでしょう。

むしろ、「投影」という言葉を理解せずして、赦しの実践などできるわけがありません。


「投影」を理解せずして、「赦し」などあり得ません。


ゆえに、赦しを実践する者であるならば、

「投影」というものをしっかり理解しておく必要がありますし、

投影というものにもっと自覚的になっていく必要があると言えます。


というのも、「投影」を本当に理解するなら、

「投影しても何の解決にもならない、そこには答えはない」ということが理解できますし、

投影して他の何かや誰かのせいにしようとはしなくなります。


とはいっても、ときには、投影したくなる誘惑にかられるときもあります。

気づけばつい誰かや外側の何かに投影して(一時的にでも)心を晴らそうとしたりします。


つまりは、「心を訓練(習得)していくほかない」ということです。


そう、わたしたちは、「投影」というものにもっと注意深くなり、

それを自覚したなら即座に投影を止めるといった心の訓練が必要なのだということです。

それが、赦しの実践(赦しの第1ステップ)というものです。


赦しの実践は、まず投影している自分い気づくことからはじまります。

つまり、世界はない、他者はいない、、、すべてのことは自分の内側にあるものだと見ていく、

というふうにみていく心の訓練をしていく必要があるということです。


その実践は、かなりの訓練(トレーニング)を要すると思っていいです。笑


なぜなら、わたしたちは自我の思考システムに慣れ切ってしまっているからです。


この道は、実践あるのみです。

それは、シンプルではありますが、そう簡単ではありません。

投影を止める、投影をしない、というところからです。

まずはそこからです。


投影することで、わたしたちは自分の内側に意識を向けずにすみます。

でも、投影をしたままで、赦しはあり得ません。


投影するか?それとも、赦し(の実践)か?

正しくありたいのか?幸せでありたいのか?


そのどちらかしかなく、赦しの実践における第一歩はまずはそこからだと言うことができます。


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2017/11/05

『奇跡講座』を人生のすべてとしない

今日は、『奇跡講座』学習支援サイト(JAICM)別館から、

2012年4月のケネス・ワプニック博士の講話をご紹介させていただきます。


V#19: 『奇跡講座』を人生のすべてとしない」参照

 http://www.jacim.com/jcm/?p=2540


タイトルの「奇跡講座を人生のすべてとしない」だけを見ると、

んん、どういうこと???という気がするのですが、

ケネス・ワプニック博士の話をよくよく聞けば言っていることのその意味が理解できます。



ときに、わたしたちは、

自分はコース(ACIM/奇跡講座)を学んでいるから「自分は神への道を歩んでいる」

と思いがちになったりしますが、そこに落とし穴があると言っているのだと理解します。


コースを学んでいるつもりでいて、コースの理論的な面ばかりを理解して実践もせずに、

それで学んでいるつもりになってしまうことがよくあるということです。


たしかに、コースの理論(形而上学)を学ぶことは、

この道を歩んでいく者にとって最低必須だと言えます。


ただ、理論(形而上学)を理解していったところで、

それを自分の人生に適用して実践していかなければ何の意味もないということです。

ましてや、実践なくして体験はあり得ず、

体験なくしてその形而上学を真に理解することはありません。


ケネス・ワプニック博士の話す言葉の中でも、

「コース(ACIM/奇跡講座)は、コースそのものを必要としなくなることが目的である」

というフレーズは、とても印象深いです。


コースは学んでいけばいくほど、これまで学んできたものを手放していく道だと言えます。


そういう意味では、コースを学ぶ(learn)ことは、

むしろ学んできたものを取り消して(unlearn)いくようなものだと捉えられます。


そして、そこが、「コースは他のスピリチュアルの学びとは別物」と呼べる所以だと思います。


コースがわかってくればくるほど、

本当に自分でやろうする必要はないのだと、自分では何もできないのだと、、、

学べば学ぶほど、自分でやろうとせずに、聖霊にただ明け渡していくだけなのだと、、、

そういう理解になっていっています


とはいいましても、この私もコース(ACIM/奇跡講座)を手放すのは、

まだまだ全然遠い先のまた先のことだと言うことができます。笑


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2017/11/02

なぜ聖霊なのか?

なぜ、わたしたちは聖霊(ホーリースピリット)が必要なのでしょう?


なぜ、聖霊に導いてもらう必要があるのでしょう?


ちなみに、聖霊とは、

幻想と真理を仲介(橋渡し)してくれる存在だというふうに捉えていいと思います。

(『奇跡講座』ワークブック「聖霊とは何か?」をご参照ください)


目覚めというものについてよく勘違いしがちなのが、

個として自覚しているこの<自分>が目覚めるのだと思っているということです。


二元性の世界を知覚しているこの<自分>が目覚めるのだというふうに勘違いしています。


その自分(自我)をよくよく覗いてみるならば、

「自分はこの肉体であると想いながら、その自分が神のもとに帰る」と思っていますし、

「自分はこの世界にいると想いながら、その自分が目覚める」と思っています。


ようするに、

偽のアイデンティティーであるこの<わたし>が目覚めると信じ込んでいるということです。


そう、この<自分>というものを自覚している<わたし>が目覚めるのではありません。

むしろ、目覚めとは、この<わたし>が止滅したところにあるものだといえます。


この<わたし>は、その帰り道を知りません。

この<わたし>は、どうやったら帰れるのかもわかっていません。

この<わたし>では、神のもとには帰れませんし、

この<わたし>が神のもとに帰るのではありません。

我が家は、この<わたし>が止滅したところにあるのだということです。

それが、目覚め、です。


この<わたし>はそもそもいません、無です。この世界も無です。


そう、だからこそ、

わたしたちは、この<わたし>を放棄して聖霊に明け渡すということなのです。


この道はそういう道であることを知っておくと、

コース(ACIM/奇跡講座)の学びは聖霊なしではけっして成し遂げられるものではない、

ということが理解できるかと思います。


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2017/11/01

幸せになるヒント

どこにもこの世界には自分が求めている幸せはないのに、

それでも、わたしたちは、この世界に自分を幸せにしてくるものがあると信じ込んでいます。


この世界での幸せは、所詮、すべて一時的な代替品でしかないと分かっていても、です。


いくら頭でそうだとわかってはいても、わたしたちの心の働きは、

ついつい、この世界に幸せにしてくれるものがあるという想いにかられてしまうのです。


その原因は、わたしたちの無意識にあります。


私が提供するセッションでは、

自分の心の中の無意識にアクセスしていくことをしていくわけですが、

自分でも想いもよらない想念や信念を抱えているということがわかってきます。


自分の心の中を調べ上げていくことをするわけですが、

そこにはまるで天邪鬼(あまのじゃく)な自分がいることが明確になります。


天邪鬼(あまのじゃく)な自分とは、

「神のもとに帰りたくない自分」「真理を思い出したくない自分」「神の愛を拒否したい自分」

といった自分がいることが明るみになっていきます。


その自分を、自我、とも呼びます。


そして、じつはその自我こそが、この世界を作り出している張本人でもあるといえます。

自我は、「投影」というトリックで外側に投影することで、

この世界をリアルとさせて存続させているということです。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の道を歩む者にとっては、

この天邪鬼な自分(自我)がいることをわきまえておくことが大事だといえます。


「神のもとに帰りたい、でも、まだ帰りたくない」とか、

「この世界を終わりにしたい、でも、まだ終わりたくない」という相反する分裂した想いが、

自分の内側に同時に存在していることを知っておかねばなりません。


なぜなら、そのことを自覚することなしに神や愛を求めることは葛藤を生むだけであり、

自分自身と戦うことに人生が費やされることになるからです。


それゆえ、コース学習者は、そういった自我に気づいていくことが大事となるわけです。


無意識に隠されている自我を直視するということです。

無意識に隠されているということは自覚されにくいということであり、

自我は「外側に投影する」ことでそのことに自覚させないようにしています。


じつは、それがこの世界が作り出されたゆえんであると言えます。


無意識を意識化していく。

それはちょうど闇に光を当てていく作業に似ています。

光が当てられると、闇は消滅していきます。

その際に、癒し、気づき、解放が起きていきます。


自分の心の内側を明らかにしていくこと。

癒し、気づき、解放は、そこからはじまります。


幸せになるヒントは、そこにあるのであり、そこにしかないのだということです。


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