2017/11/28

人生と身体の目的とは?

今日は、デイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声の翻訳です。


デイヴィッドはこう言います。

「目覚め」というものからみるならば、人生がうまくいっているときわたしたちは後退していて、むしろ、人生が崩壊しかけて見えるときのほうが心が開いているのだと。

それは、この世の考え方とは、まるであべこべです。


わたしたちは、そういう道を歩んでいるのだと言えます。


『What is the purpose of life and the body?(人生と身体の目的とは?)』


・・・・・・・・・・・・


人生のすべての目的は、この夢の世界から目覚めることです。

自我はあなたをこの世界に確かに存在していると信じさせていますし、

あなたは人生の中で目標を定めてそこに到達すべきだと信じさせています。

すべての教育や学びは、「もっともっと学ぶ」ということがベースになっています。

この世界の中のすべては逆で、あべこべになっています。

この世界であなたが進歩していると思っているとき、あなたは後退しています。

あなたの人生が崩壊していると思うとき、あなたのハートは開いているということです。


実際は、いつもそこに奇跡があり、そこにはいつも祝福があります。

自我は、リニアな時間というものをでっち上げたのです。

しかし、神は永遠しか知りません。

過去、現在、未来、というそれらは(自我による)トリックの一部です。

自我は、あなたは過去に罪を犯した、と言います。

そして自我は、これ(罪)はとてもちっぽけなことだと言いますし、あなたはそれを見ることができずに見過ごします。

そして自我は、(過去をただ繰り返しているだけなのに)未来は過去とはちがったものになる、と言うのです。


「もし、あなたの人生を正しく生きなければ、未来世において地獄に生れ変わる」と教える宗教もあります。

なぜなら、自我は、恐れ、怖がっているままにしたいのです。

自我は、今この瞬間から気を逸らすことで、あなたが(この世界から)脱出することが実現しないようにしているのです。

あなたの心を偽のアイデンティティーにしておくための自我のトリックなのです。


自我がどのようにそうするのか?見てみましょう。

まず最初は、身体と同一であると識別します。

自我は、あなたにこう告げます。

「天国はどこか遠くにあり、あなたがこの身体をより良く使うならば、そこに行ける」と。

自我は身体と同一化して維持することがとても重要なことなのです。

身体は真実ではない、と問いかけたりはしません。

身体は夢の一部なのです。

あなたは心の力で夢を作り出したのです。

あなたはあなたの心の力を否定したくはないのです。


あなたは、聖霊が身体をちがった用途で使いたいのを知ることができません。

自我は、プライド、快楽、攻撃のために身体を使います。

聖霊のために身体はたった一つの目的を持っています。

それは、コミュニケーションツールとして、です。

なぜ、あなたはコミュニケーションツールが必要なのかというと、

それは、あなた自身で知覚を延長していくためです。

なぜなら、あなたは身体を遥か超えていくからです。

知覚は身体との関係の中でとても制限されていますが、それはもっと偉大なのです。

あなたが霊的な(啓示)体験をするとき、あなたがどれだけ偉大かということを悟るでしょう。



YouTube『What is the purpose of life and the body? David Hoffmeister ACIM 』より

https://www.youtube.com/watch?v=mliAWzmnLqc&feature=em-subs_digest


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2017/11/26

探究の終焉、はじまりへの回帰

スピリチュアルの探究の旅は、自我(エゴ)の欲求によってはじまります。


幸せになりたい、、、目覚めたい、、、悟りたい、、、、と。


でも、その探究の旅において学びが深まっていくにつれて、探究そのものが自我の欲求でしかないことがわかってきます。

なぜなら、すでにいまここにそうであることがわかってくるからです。


どこにも向かう必要がなかった。

どこにも行く必要がなかった。


自我の欲求がはじまった地点へと戻っていくこと。

そこは、探究が終わる地点であり、

そこは、学んできたもの、信じてきたものすべてが「無」になる場所。

そこが、わが家であり、

そこが、わたしたちが帰っていくところであるということです。



あなたがこれまで学んできたことや信じてきたこととはまるで相反するような経験をしているとしたなら、それはターニングポイント(転換期)にあるということです。

あなたがスピリチュアルな文章を読んだり、規則通りに祈ったり瞑想したりすることが重要であるわけではありません。

それはすべて、エゴがはじめることのできるところから解けるこの地点へとあなたを導く手段にしかすぎません。

デイヴィッド・ホフマイスターのことばよりー


Once you experience something that contradicts everything you have ever learned or believed in, that’s the turning point. It doesn’t matter if you read spiritual text, pray or meditate regularly, it’s all meant to lead you to this one point where the unwinding from the ego can begin.

- David Hoffmeister -


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2017/11/25

ジャーナリングで「自分との対話」、セルフ・カウンセリング

何かに迷ったり、混乱しているとき 、カウンセラーやセラピストの助けを借りるという方法もありますが、自分一人でできるやり方がありますので、みなさんにご紹介しようと思います。


それが、「ジャーナリング」と呼ばれるものです。


ジャーナリングとは、自分の心に思い浮かんできたことをそのままノートにき書き出す、というものです。

ジャーナリングは、書いている時も、書き終わった時も、心が整理され、軽くなっていくという効果があります。

自分の内側を整理する方法として、私もとても有効だと感じています。


ジャーナリングは、セルフ・カウンセリングと言うこともできると思います。


ジャーナリングのやり方としては人の数ほどあります。

その中でも特に私がお薦めするのが、自分のネガティブな部分にフォーカスしていくやり方です。

自分自身のことで、誰にも知られたくないと思っている部分に光を当てていくやり方をご紹介します。


けっして人には言えない内容で、すぐにでも捨ててしまいたいと思う内容であれば、紙に書いて、すぐに捨てて頂いても結構です。

むしろ、書き捨てるつもりで、どんどん心の中のものを吐き出すつもりでやるといいと思います。


ハートで感じていることを書き出していくのですが、目的は、「書き出すこと」ではなく、「ハートで感じていることをあらわにする」ことに意味があるということです。


自分に話しかけるように書いてもいいですし、感じたことをそのまま書くのでも、どんなカタチでも構いません。

自然と思い浮かんできたことを書き出すようにして下さい。

むしろ、書きなぐる、と云ったほうがいいかもしれません。

そこには、感情的なことも書きなぐります。

不安や心配事があるのなら、そのまま不安や心配の言葉を、イライラしていたら、そのイライラをそのまま書き出して下さい。

そのとき、「感情の解放」が起きるとともに、「癒し」も起きますし、「気づき」も起きていきます。


また、それは「自分への告白」といったものになることもあります。

自分の中に隠し事をなくすのです。

それは、他の誰かに打ち明ける必要もありません。

自分自身に対して、素直に、まっすぐに、自分の中に隠し事をしないように書き出すのです。


それは、まるで「自分との本音の対話」のようですらあります。


「自分の内側と向き合う」「自分の心に寄り添う」という心の訓練(トレーニング)になります。

ですので、ジャーナリングは私からもとてもオススメです。


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2017/11/18

開かれた心で、ありのままであるということ

今日は、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを紹介したいと思います。


  「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  


  「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、『神の小屋』の著者であり、その著作は映画化もされています。

その映画は『アメイジング・ジャーニー』というタイトルで上映されて、最近日本でも話題になったばかりの映画です。

私も、その映画は気になっていて、知ってはいたのですが、いざその映画を観に行こうと思ったら、福岡では上映がすでに終了していたということもあり、観ることが出来ませんでした。

ですので、原作の『神の小屋』をこれから取り寄せて読もうと思っているところです。


なにせ、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを観て思ったのは、見事なまでに「自我」というものについて的確に語られているということです。

また、彼自身の体験を通しての「癒しのプロセス」について語られているところはじつに興味深いと思いました。

それによって、自分の内側と向き合っていくことがどれだけ重要かも感じましたし、そして「癒し」というものの重要性をあらためて思い直した次第です。


「彼は幼少の頃に性的虐待を受けていた」ということもありますが、それは、なんら他人事ではありません。

というのも、わたしたちはだれもが、心の中に少なからずや大なり小なり、程度の差はあれ、トラウマ(心の傷)というものを抱えているからです。

そう、だれもがみんな、自分を護るためにいくつもの仮面(ペルソナ)を被っています。

ただそれが自分の人生に支障をきたしているか?きたしていないか?の違いだけです。

あなたが、心にトラウマ(心の傷)などないとしたなら、あなたはすでに幸せを感じて生きています。

もし、そうだとしたなら、あなたは神(父)の愛をいつも受け取っているはずだからです。

そう、幸せを感じて生きてはいないとしたなら、癒されるべきトラウマを抱えているということです。

ただ、わたしたちはその自覚がありません。

わたしたちは、ほとんどの場合、自分はそれほどのトラウマ(心の傷)は抱えてはいない、と思っています。

自覚がないからこそ、それは心の奥底の無意識に追いやられてしまっているということです。

でも、たとえ無意識の奥底に追いやったつもりでいても、それは自分の外側の人生に投影として反映されていきます。

そして、それを知覚しているのがこの世界だと言えます。


この世界で起きていることは、すべて心の現れです。

もっと言えば、自分が作り上げたドラマです。

そこから解放されるためには、自分を護るために作り上げた「自我」を明るみにしていくことが必要です。


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、神のもとで秘密を明るみにしていくこと、隠しておきたい心(の闇の部分)をあらわにしていくこと、が大事だと言います。

そして、「癒し」とはそういうものだと。


わたしたちは、癒されるために、ここに生きていると言っても過言ではありません。

というのも、開かれた心で、ありのままであるとき、わたしたちは、神に愛されていることを思い出すことが出来ます。


神は、あなたが向き合おうとしない心の闇の扉の向こうで、あなたを待っています。


もし、自分の人生が行き詰ったと感じているのなら、あるいは人生に苦痛を感じているのなら、今こそが、内側の奥底に追いやっていた闇の部分(心の傷)が癒されるときにあるということです。


もし、自分はもっと癒しが必要だと感じているなら、もっと自己の内面と対峙して心を癒していきたいと感じているなら、今が自分の人生と向き合う時期だと感じたなら、心理カウンセリングや心理セラピーの助けを借りることを私からもお薦めします。


興味のある方は、下記のウィリアム・ポール・ヤングさんのトークをぜひご覧ください。


・「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  https://www.youtube.com/watch?v=ZjLRSnxIPn4&t=8s


・「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  https://www.youtube.com/watch?v=1eEJJURJ_ko&t=1s


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2017/11/17

夢見る者

わたしたちは、この「世界」についてどのように捉えているかというと、「この世界は、この自分がこの世に生まれてくる前から存在していた」とそう想って生きています。


そして、「この自分が死んでこの世を去っても、この世界はその後も存在し続ける」とも想っていますし、それを当たり前のことのように想っています。


というのも、わたしたちは、誰かが死んでもこの世界は相も変わらず存続し続けているのを見て、「当然この自分が死んだその後も世界は在り続けるだろう」という考えになるわけです。


そういう考えこそが自我のトリックだと、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中のジーザス(イエス)は云います。


この世界は、自分が見ている夢にしかすぎません。

この世界は、自分がこの世に生まれてくるときに同時に自分が作り出した夢(幻想)です。

この身体が生じたときに、一緒にこの世界も生じたということです。

父も、母も、兄も、姉もこの世界の人々もすべてのものも、そのときに一緒に作り出したのです。

ゆえに、自分がこの世を去るときには、この世界も含めてそれらすべても無になるということです。

そう、もともと何も無かった「無」に帰するだけと。

自分が知覚しているこの夢の中では、すべての人たちが自分の見ている夢の中の登場人物であり、すべての状況が自分の見ている夢の中の出来事だとジーザスは云います。


また、コース(奇跡講座/奇跡のコース)では、そのことを「Dreamer of the Dream(夢見る者)」という言葉で表現しています。


そのような考え方は、まるで狂気のようにも思えますが、たしかにこの「世界」と呼んでいるものは、自分が主観的に見ている世界であり、それは、自分だけのオリジナル世界であり、つまり、自分だけのドラマをこの世界で体験しているだけと言うことが出来ます。

そして、それをわたしたちは「人生」と呼んでいるということです。


ということは、人生とは、かたち(形態)がちがうだけで、そのドラマの中身(内容)は、人や状況や出来事を変えて同じドラマの体験を繰り返しているだけというふうにも捉えられます。


コースを実践しているのならば、そのような視点で日々の日常を過ごされるのをお薦めします。


「世界それ自体が無である。」

世界は存在しない!これがコースが教えようとしている中心概念である。」

ー『奇跡講座』ワークブック レッスン132 よりー


「自分は、もともとあったこの世界に自分は生まれてきて、つかの間の人生を生きて、そして死んで去っていく存在である」という自己概念の考えを疑うことから、この世界から解放され自由になるヒントがある、とジーザスは云っています。


自分の見ているこの「世界」を疑いつつ、『奇跡講座』ワークブックのレッスン132をどうぞ読んでみてください。

「世界」についての考えが変わるとき、この「自分」の概念も大きく変わることでしょう。


Lesson 132
I loose the world from all I thought it was.
これまで自分がこの世界はこうだと思い込んでいたすべてから、私はこの世界を解き放つ。


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2017/11/15

手ぶらで帰る

手ぶらでわが家に帰ることがわかっているのに、この自分は、手ぶらになることをひどく恐れています。


そう、この自分は、手ぶらになること、つまり、何も持たないことを恐れています。


お金、家族、愛する人、仕事、地位、名声、役割、知識すらも、、、この身体も、、、所有しているものを手放すことを恐れています。


たとえ、所有しようとするそれら一切すべてがこの自分を真に幸せにしてくれるものではないことをわかっていても、それらを手放したくないと想っています。


それは、神を求めていながらも、神ではないものを大事にしようとしているということです。

それは、父(神)に保護してもらうことを、そして、父(神)に養ってもらうことを、自ら拒否しているということです。


この自分は、手ぶらになることをひどく恐れているのです。

それが自我というものです。

自我は、わが家に帰ることをひどく恐れているし、わが家に帰りたくないのです。


まずは、わが家に帰ることを拒んでいる自分がいるということを自覚すること。

その自分を決して裁くことなく、聖霊に明け渡していくこと。


そうやって、わが家への歩みは一歩一歩前進していくのだと言えます。


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2017/11/13

スピリチュアルをビジネスにすることについて

スピリチュアルをビジネスにすることについて、私が想うことを書いてみたいと思います。


それと言いますのも、そのことについての批判めいた記事を目にしたからです。

あるスピリチュアリスト(スピリチュアル・リーダー)の方が、とある悟りの教師(ノンデュアリティ・ティーチャー)に対して、「○○さんは、悟りをうたい文句にしてビジネスをしている」というようなことを書いておられるのを目にしたのです。


結論から申せば、私自身は、人がスピリチュアルをビジネスにしていようが、悟りをビジネスにしていようがいっこうに構わないと思っています。

私自身は、スピリチュアル・ビジネスには興味ありませんが、だからといって、それを否定する気もありません。

むしろ、そういうこは、どうだっていいことなのだと思っています。


神聖なスピリチュアルや悟りを求めている人にとって、清らかさ、高貴さ、高潔さ、正しさをつい追究しがちになったりするのもよく理解できます。

ただ、肉眼で知覚する世界(形態レベル)のことはすべて、真の神聖さ(真理)とは一切関係がないということです。


かくいう私も、想い起こせば数年前、私が「ジーニー」と呼ばれていた頃の自分を振り返ると、自分で言うのも何ですが、その活動はまさにビジネスをやってなぁ、って想います。笑

たしかにその頃は、「2012年」だとか、「アセンション」だとか、「目覚め」「悟り」といったものが注目されて、スピリチュアル・ビジネスという言葉すら流行った頃であり、いかに集客するか?というものが(今もそうなのかもしれませんが)流行った時期でもありました。

当時の私も、その流れに乗ってビジネスをしていたなって正直そう想うのです。


さて、そんな当時、私はある方からこんなコメントをいただいたのを思い出します。

それは、「悟りをビジネスにしないでいただきたい」というものでした。

その当時の私は、そのコメントに対して、何を言っているのだろう??と想ったのを覚えています。

悟りをビジネスにすることの何がいけないの???と。

というのも、私は、ビジネスのスタイルこそ健全なかたちだと思っていたからです。

(ちなみに、この今もそう思っています。)

ビジネスというものは、与える側と受け取る側において互いに対等な立場で等価交換をしているわけで、その双方の了解のもとにそれは成立するものであるからです。

ビジネスとはそういうものです。

それに比べ、むしろ、宗教やスピリチュアルにありがちな「ドネーション(お布施/寄付)」といったもののほうが、かなり曖昧だし、紛らわしくて、面倒くさい、怪しい、誤解を生みやすい、という感覚がありました。

(現在は、その見方も変わって、この私自身こそ、そのドネーションというかたちで心理セラピストの仕事をしているわけですが、、、そのことにつきましては、また別の機会に書きたいと思います。)


つまり、ビジネスというものほどハッキリしていて、明確で、健全なものはないと、私は思うわけです。


悟りをビジネスにするのも、スピリチュアルをビジネスにするのも、モノを売ってビジネスにするのも、何かサービスを売ってビジネスにするのも、何がどうちがうというのでしょう?


と言いましても、この今となっては、スピリチュアルをビジネスにしていたあの頃の自分を思い出すと、我ながら微笑ましい感じすらあります。

あの頃の自分の心の中をよくよく覗けば、ビジネスをするその原動力は「恐れ」からだったということがよくわかるからです。

心の奥底にある「恐れ」と向き合うことのないように、外側の世界に意識を向けていたということです。


もう今では、あの頃の自分に戻ろうとは思いません。

ビジネスというものに、興味もありません。

だからといって、スピリチュアルでビジネスすることを、あるいは、スピリチュアルでビジネスをやっている人たちを否定するつもりもありません。

むしろ、それの何がいけないのでしょう?という想いです。

この世界では、みんな同じなのです。

スピリチュアルを特別に、とくに、悟り、というものを特別にみる必要もありません。


もし、悟りやスピリチュアルをビジネスにすることに関して何か否定したくなる気持ちがあるとするならば、それこそ、その心の中にビジネスかお金か、もしくは他の何かにまつわる思い込み(信念、観念)があるということです。

あるいは、「悟り」とか「神聖さ」というものに対してある観念(妄想)を抱いている可能性があると言えましょう。


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2017/11/12

聖霊とともに歩む

今日は、先日セッションをした空禾さんがそのときの感想をご本人のブログで書かれていますので、紹介したいと思います。

その内容は、赦しの実践をしている方々にとって、インスピレーションをもたらすものだと思いますのでシェアさせていただきます。


ちなみに、赦しにおけるその体験とプロセスは、それこそ人それぞれ異なります。

どうぞ、そのことをご理解の上でお読みください。


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<空禾さんのブログ記事「聖霊とともに歩む」より>


もりGさんのセッションを受けました。

そんなに回数をうけているわけではありませんが、今回も素晴らしいセッションでした。

感想を書こうと思ったら、 セッションの一部で見えていた情景や 感想を主観的に捉えた内容と なってしまいました。

よろしければご覧ください。

セッションありがとうございました。



セッションの導入部分は 失う恐怖と寂しさを見つめていく というところからだった。

この世界にはまだとても大切なものがあると思っていて、それを失ってしまう という恐怖。

でもそれは内側を見ないために 映し出された実在していない投影で それを見て手放していくこととなった。


神への怒り。

何もしてくれないじゃないか。

守ってくれないじゃないか。

私は神に怒っていた。

自らが神から離れたのに 見捨てられたと思っている私は まだ被害者となって神を恨んでいた。

だから私が守らなくては だから私がコントロールしなくては 大切なものは失ってしまう と思っていた。


☆ ☆


実在だと思っていた世界の 端っこの崖から 意を決して飛び降りた。

思い切って飛び降りた。

聖霊を信じて、 聖霊とともに落ちていった。

手のひらは上に向いたまま 何も掴めるものがなく 身体は恐怖で硬直し ただただ怖い。

怖い。 怖いだけだった。

泣きながら飛んだ。 泣きながら飛び降りた。

片時も聖霊は離れないでいてくれたけど 本当に怖かった。

実在すると思っていた世界を 放棄していくということ。

それはまだ、情けないけど とてつもない恐怖でしかなかった。


やがてどこかにたどり着いた。

真っ暗闇で何も見えないけど 聖霊は私の背中に手を添えて 一緒に寄り添ってくれている。

懐中電灯のようなもので 私の足元を照らすと 足元だけが光り、 ぼんやりとかすかに道が見える。

それはどこかにつながっているようで もりGさんにも促されて その一歩を踏み出す。

何も見えなくて怖いけど 聖霊が後ろから押してくれるから 私は操られるようにして前に進む。

気がつくと私はゲームの中にいた。

昔、唯一やったことがある どうぶつの森というゲームの中のような 森の中だけと そこには全くリアリティーがない。

光の色付きドットが重なり合った 古いゲームのような世界だ。

その中で 私は私というゲームのキャラクターと なって聖霊に操られて歩いている。

他の人も、私の大切な人たちも 聖霊に操られて歩いている。

それは無造作のように見えて 完璧なタイミングで 動かされているようだった。


そういうことか。

これがこの世界か。

私たちは完全にアバターだ。

ここは実在していないのだ。

ここに私はいないのだ。

ここには何もないのだ。

自己のコントロールも意思も何もない。

これが何もない自由な世界か。

私はただ聖霊の導きのままに 動かされていればいい。

それをなんとかしようとするのは コントロールであり 導きを邪魔することでしかないと。

そしてそれらは 計画どおりに完璧にすすめられている。

何も恐れることはない。

何も邪魔することもない。

完璧な出会いと出来事が繰り広げられる 聖霊との赦しのゲームが始まったのだよ と言われた。


そして、私はもりGさんに促されて 失うと思っている愛する息子を 聖霊に託した。

もう私が守ったり、 安全のためにコントロールをしなくても いいのだ。

私がもつ恐れのために 彼を縛り付けていた。

それは私自身も不自由にしていた。

彼も聖霊に守られていて、 導かれているから安心だ。

同じ赦しのゲームの世界の住人なのだから。

そして私も同じように 聖霊とともにあり、導かれている。

ぴったりとくっついて、私の前を照らし、 背中を押してこの世界を赦しのために 案内してくれている。

だから、 私の手のひらは何も掴まず 開かれたままだ。

そう。今のところは。


これは、私がもりGさんの セッションを受けた個人的な感想と セッション中に見た個人的イメージであり、 あくまでも私自身の主観によるもので もりGさんのセッションや 他の方が受けた場合のセッションが 必ずしもこのようなものである ということではありませんので ご了承ください。


ー 空禾さんのブログ記事『聖霊とともに歩む。<もりGさんのセッションにて>』より ー


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2017/11/10

幸せを選択する 3/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でフランシスさんがトークしたときのYouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness - Frances Xu ACIM 』の翻訳です。今日は、そのパート3(最終回)です。


パート1:幸せを選択する 1/3

パート2:幸せを選択する 2/3




今回は、『奇跡講座』テキスト第二十章「聖性の心眼」のセクションⅦ「手段と目的の一貫性」と関連しているところもありますので、ぜひそちらも読まれることをお薦めします。


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<幸せを選択する 3/3>


フランシス:

わたしが「放棄する」と言うとき、何を放棄するかというと、「決断のプロセスを放棄する」ということです。

自我の自己概念を基準に決断することを止めるのです。

あなたがあなた自身にとって最適だと思うことを基準に決断することを止めるのです。

自分が誰であるかを知ることなしに、わたしたちは自分自身にとって最適なものが何なのか知り得ません。

これは非常に単純で、非常に実践的です。

実際に実践する必要があり、すべてに応用する必要があります。

わたしは、聖霊が何を望んでいるか?についてたくさんの祈りの機会を与えられたことを喜ばしく思っています。

なぜなら、この身体、この口、この目、このヴィジョン(心眼)はすべて、聖霊のメッセージを拡張するために、聖霊によって使われるものだからです。

聖霊のプランに仕えるとき、そのような考え方を止めるような他の考えはありません。

考え方が一致しているとき、心は幸せです。

そこにはもう矛盾がないからです。

矛盾とは、欲求の中に存在します。

「自我の欲求」と「聖霊の欲求」が(心の中に)あるとき、わたしたちの本性ゆえ、100%自我でいることはできません。

「神の一部である」ということが、わたしたちに本来備わっているアイデンティティです。

それが、わたしたちが100%完全に自我でいることができない理由です。


わたしたちが自我にしがみついている間は、(「自我の欲求」と「聖霊の欲求」に)欲求を分裂させます。

そして、わたしたちは外側にその分裂と矛盾を知覚します。

わたしたちが心の中に矛盾を見ることができないので、外側に(投影して)知覚することになります。

そこに答えがあります。

そして答えはとてもシンプルです。

すべての決断に戻ってください。

考え方に戻ってください。

そして、考え方を聖霊が欲するものと一致させてください。

聖霊が欲するものは、あなたが欲するものです。

聖霊が欲するものは、あなたの幸せです。

聖霊が欲するものは、全体が幸せであることです。

あなたは、実際に誰かを放棄することなどできません。

なぜなら、その誰かはあなたの心の中にいるからです。

どうやって放棄できましょうか?

不可能です。

「それは不可能である」ということは、究極的に良い知らせです。

なぜなら、「誰かを放棄することは不可能である」ということが根本原理だからです。


わたしは、非常に実践的だと言いました。

すべてを理解することが最終的な目的ではありません。

何年も前に、ヨーロッパでのカンファレンスでデイヴィッドが言っていました。

「コースは、あなたが彼岸(向こう側)に達するまでは理解できませんよ」と。

わたしは、(そのことばを聞いて)ホッとしました。

形而上学を頑張って努力して理解しようとする必要がなくなったからです。

その後、わたしが気づいたのは、彼岸は未来の遠い先にあるわけではないということです。

彼岸は、実際には”いま”です。

あなたが聖霊から与えられた一歩を踏み出したとたん、そこは彼岸なのです。

なぜなら、手段と目的は同一だからです。

しかし、自我の心はそのようには考えません。

わたしたちは時間軸の中で考えています。

聖霊はわたしたちに、従うきっかけを与えます。

わたしたちが聖霊に与えられたそのきっかけに従うと目的地に着きます。

目的地に到着するのは、わたしたちが聖霊の導きに従った後のことです。

そこには、時間の要素が含まれています。


実際の経験で言うと、そうではありません。

(時間の要素はまったくないということです。一瞬のことです。)

手段は目的なのです。

あなたが手段に心を開いたとたんに、あなたは目的地にいます。

幸せは、まさに即時的なものです。

もし手段が与えられるなら、被害者の状態でいる場所などどこにもありません。

手段は自分で考え出すものではなく、毎瞬与えられているのです。

ときに、人々は、わたしにこう言います。

「私は幸せだけを望んでいます。私は神の平安を求めています。私はこれを求め、あれを求めています。でも、私は(聖霊が)私に与えられたことをしたくはありません。」(笑)

これを最適な方法で言い換えるならば、「私は神の平安を求めていません」となります。

実際に、こちらのほうが、より良い言い方です。

なぜなら、そのほうが正直だからです。

内容が何であるかは問題ではなく、自分自身に対して正直であることのほうが良いのです。

あなたは心を統合させるよう訓練しはじめる必要があります。

一番重要なのは、「自分は知らない」ということではなく、わたしたちは自分自身に嘘をつき自分自身を騙しているというところです。

心を完全に統合させて、「私は手段を求めていません。私は目的に到達したくありません。」と言って訓練を始めたほうがより良いです。

そうすれば、心の中で、目的地に着きたいのになぜそれが与えられないのか?と葛藤する必要がなくなります。

わたしは、あらゆるものの被害者ではない状態を好んでいます。

イエスは、すべての人は呼びかけられている、と言います。

その意味は、すべての人は幸せになるための手段をすでに受け取っているということです。

そして、わたしたちはその手段を受け入れることによって、幸せになることを選択できる、ということです。


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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2017/11/09

幸せを選択する 2/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でフランシスさんがトークしたときのYouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness - Frances Xu ACIM 』の翻訳です。今日は、そのパート2です。


パート1:幸せを選択する 1/3



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<幸せを選択する 2/3>


参加者:(内容は短くまとめています)

コメントさせてください。わたしは、執着や失うことへの恐れや罪悪感などを放棄する必要がありました。しかし、人々にとって重要なことは、放棄するということを(形態のレベルで)文字通り受け取る必要はないし、また、幸せや安心を与えてくれる人を放棄しないといけないと思う必要もないと私は思います。

そうではなく、(心のレベルで)執着や恐れや罪悪感を放棄するのであって、大切な人と一緒にいるのかそうでないのかは聖霊に任せるしかないし、それは自分でコントロールできるものではないと理解することだと思います。


フランシス:

それはいいポイントですね。

それについて話したいと思っていました。

この(スピリチュアルな)旅は、けっして犠牲の旅ではありません。

人々はわたしにこうたずねました。

「あなたはいろんなものを放棄してきたようですが、その後困難なことはありませんでしたか?

後悔はありませんでしたか?」と。

その時、わたしはそのことについて考えました。

わたしの人生は、完全に後悔の連続となって後ろを振り向くようになるか、もしくは、この人生はイエスの証としてとても奇跡的なものになるか、わたしは自分自身で見つけ出さなければならないと思いました。

形態の中でこれがこうなるか?ああなるか?という質問への本当の答えはありませんし、はっきりとした言葉でのメッセージもありません。

答えは、経験の中にしかありません。


実際に、コースの中でこのように云っています。

これは先ほどの参加者のコメントに対する答えでもあります。

「眠りは退避することであり、目覚めはつながることである」(T-8.Ⅸ.3.6)

(テキストでは、この文章の後にこう続きます。「夢とは、つながり合うという幻想である。なぜなら、夢は、つながるとはどういうことかについての自我の歪んだ考え方を反映しているからである。」)

わたしたちが放棄することについて話す時、自我の解釈では、放棄することは、「避ける」とか「つながりをブロックする」というふうになります。

それは、放棄することについての聖霊の解釈ではありません。

なぜなら、聖霊は常に手を差し伸べ、繋がり合い、関係性を持ち、心を開くことを目的としているからです。

聖霊の解釈を受け入れると、聖霊のガイダンスがやって来ます。

わたしたちが聖霊のガイダンスに従い、そして聖霊のガイダンスに従うことによって決断をするならば、何かに背を向ける選択をしなければならないことがあります。

あなたが何に背を向けなければならないかというと、それは、「自我のやり方で人と関わる」、「過去との関連を基盤に決断を下す」、「妥協を基盤に決断を下す」、「自己概念を維持することを基盤に決断を下す」というものです。


コースの形而上学は、ものすごく深く深遠なものだということを言っておきます。

心の働きやその複雑さを説明するためにたくさんの言葉が使われています。

しかし、解決や実用性においては、非常にシンプルです。

多くの人々は、彼らの心の中で非常に複雑にしてしまっています。

わたしたちが答えが分からないのは、それが理由です。

非常にシンプルです。

シンプルな答えは、聖霊のガイダンスに従って決断するということです。

そして、わたしは自分の経験からここにさらにもう一つの答えを加えたいと思います。

それは、あなたの心が「自分に役立つものは何ですか?」というこれまでの考えからより上へと飛び越えて、「What serves the whole?(全体に役立つことは何か?)」という考え方ができる段階へと心を開いていくということです。

すると、あなたは聖霊のガイダンスを受け取るために心を開くようになります。


これは、正しい答えをみつけることが目的ではありません。

わたしたちが(全体に役立つことは?という)質問することを試みましょうというくだりに沿った考えについて話すたびに、あなたは正しい答えをみつけようとしますが、それは重要ではありません。

正しい答えをみつけなければ罰せられるということでは決してありません。

これは、考え方についてのことです。

これは、意志についてのことです。

「このライン上に沿った考えを始める」という意志です。

わたしたちが育ってきた中で誰も、何が全体に役立つか?を考えることについて訓練された人はいません。

わたしたちは、自分に何が役立つか?自分の直近の家族に何が役立つか?自分の身体に何が役立つか?自分の金銭事情に何が役立つか?自分の安全に何が役立つか?何が自分を気分良くさせるか?だけについて考えます。

そしてそれが決断の基準となっています。

そしてそれがすべての苦しみの基(もと)です。


わたしは、このスピリチュアルな旅はとても素晴らしいと思っています。

わたしは、この人生で一度も幸せではなかったことを自覚し、自分自身に認めたとき、それはとても憂鬱な瞬間でしたが、そのときを境にすべてが反転しはじめました。

今わたしは、正直に「すべては奇跡である」と言えます。

それは何かが開いたからです。

それはヴィジョン(心眼)です。

すべてを奇跡として見ることに開かれました。

ヴィジョンはわたしにたくさんの歓びと幸せをもたらします。

ヴィジョンがそこにある理由は、考え方が変化しはじめたからです。

何をして、何を言って、どのように決断するか?についての日々の考え方が変化しはじめたからです。


次回につづく


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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