2017/11/18

開かれた心で、ありのままであるということ

今日は、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを紹介したいと思います。


  「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  


  「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、『神の小屋』の著者であり、その著作は映画化もされています。

その映画は『アメイジング・ジャーニー』というタイトルで上映されて、最近日本でも話題になったばかりの映画です。

私も、その映画は気になっていて、知ってはいたのですが、いざその映画を観に行こうと思ったら、福岡では上映がすでに終了していたということもあり、観ることが出来ませんでした。

ですので、原作の『神の小屋』をこれから取り寄せて読もうと思っているところです。


なにせ、ウィリアム・ポール・ヤングさんのトークYouTubeを観て思ったのは、見事なまでに「自我」というものについて的確に語られているということです。

また、彼自身の体験を通しての「癒しのプロセス」について語られているところはじつに興味深いと思いました。

それによって、自分の内側と向き合っていくことがどれだけ重要かも感じましたし、そして「癒し」というものの重要性をあらためて思い直した次第です。


「彼は幼少の頃に性的虐待を受けていた」ということもありますが、それは、なんら他人事ではありません。

というのも、わたしたちはだれもが、心の中に少なからずや大なり小なり、程度の差はあれ、トラウマ(心の傷)というものを抱えているからです。

そう、だれもがみんな、自分を護るためにいくつもの仮面(ペルソナ)を被っています。

ただそれが自分の人生に支障をきたしているか?きたしていないか?の違いだけです。

あなたが、心にトラウマ(心の傷)などないとしたなら、あなたはすでに幸せを感じて生きています。

もし、そうだとしたなら、あなたは神(父)の愛をいつも受け取っているはずだからです。

そう、幸せを感じて生きてはいないとしたなら、癒されるべきトラウマを抱えているということです。

ただ、わたしたちはその自覚がありません。

わたしたちは、ほとんどの場合、自分はそれほどのトラウマ(心の傷)は抱えてはいない、と思っています。

自覚がないからこそ、それは心の奥底の無意識に追いやられてしまっているということです。

でも、たとえ無意識の奥底に追いやったつもりでいても、それは自分の外側の人生に投影として反映されていきます。

そして、それを知覚しているのがこの世界だと言えます。


この世界で起きていることは、すべて心の現れです。

もっと言えば、自分が作り上げたドラマです。

そこから解放されるためには、自分を護るために作り上げた「自我」を明るみにしていくことが必要です。


ウィリアム・ポール・ヤングさんは、神のもとで秘密を明るみにしていくこと、隠しておきたい心(の闇の部分)をあらわにしていくこと、が大事だと言います。

そして、「癒し」とはそういうものだと。


わたしたちは、癒されるために、ここに生きていると言っても過言ではありません。

というのも、開かれた心で、ありのままであるとき、わたしたちは、神に愛されていることを思い出すことが出来ます。


神は、あなたが向き合おうとしない心の闇の扉の向こうで、あなたを待っています。


もし、自分の人生が行き詰ったと感じているのなら、あるいは人生に苦痛を感じているのなら、今こそが、内側の奥底に追いやっていた闇の部分(心の傷)が癒されるときにあるということです。


もし、自分はもっと癒しが必要だと感じているなら、もっと自己の内面と対峙して心を癒していきたいと感じているなら、今が自分の人生と向き合う時期だと感じたなら、心理カウンセリングや心理セラピーの助けを借りることを私からもお薦めします。


興味のある方は、下記のウィリアム・ポール・ヤングさんのトークをぜひご覧ください。


・「性的虐待を受けた宣教師の子」 Paul Young Part1

  https://www.youtube.com/watch?v=ZjLRSnxIPn4&t=8s


・「全ての秘密を明かす時」 Paul Young Part2

  https://www.youtube.com/watch?v=1eEJJURJ_ko&t=1s


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■イベント情報■


ACIMシェア会 in 福岡

 2017年11月19日(日) 13:30~16:30

 いよいよ明日となりました。参加をご希望の方はまだ間に合います。詳細はこちら


・1day ACIMシェア会 in 横浜

 2018年1月8日(月・祝) 10:00~17:00

 来年の年明けに関東での開催が決定しました。12月上旬に告知予定です。


2017/11/17

夢見る者

わたしたちは、この「世界」についてどのように捉えているかというと、「この世界は、この自分がこの世に生まれてくる前から存在していた」とそう想って生きています。


そして、「この自分が死んでこの世を去っても、この世界はその後も存在し続ける」とも想っていますし、そう考えるのが、当たり前のことのように想っています。


それというのも、わたしたちは、誰かが死んでもこの世界は相も変わらず存続し続けているのを見て、「当然この自分が死んだその後も世界は在り続けるだろう」という考えになるわけです。


そういう考えこそが自我のトリックだと、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中のジーザス(イエス)は云います。


この世界は、自分が見ている夢にしかすぎません。

この世界は、自分がこの世に生まれてくるときに同時に自分が作り出した夢(幻想)です。

この身体が生じたときに、一緒にこの世界も生じたということです。

父も、母も、兄も、姉もこの世界の人々もすべてのものも、そのときに一緒に作り出したのです。

ゆえに、自分がこの世を去るときには、この世界も含めてそれらすべても無になるということです。

そう、もともと何も無かった「無」に帰するだけと。

自分が知覚しているこの夢の中では、すべての人たちが自分の見ている夢の中の登場人物であり、すべての状況が自分の見ている夢の中の出来事だとジーザスは云います。

また、コース(奇跡講座/奇跡のコース)では、そのことを「Dreamer of the Dream(夢見る者)」という言葉で表現しています。


そのような考え方は、まるで狂気のようにも思えますが、たしかにこの「世界」と呼んでいるものは、自分が主観的に見ている世界であり、それは、自分だけのオリジナル世界であり、つまり、自分だけのドラマをこの世界で体験しているだけと言うことが出来ます。

そして、それをわたしたちは「人生」と呼んでいるということです。

ということは、人生とは、かたち(形態)がちがうだけで、そのドラマの中身(内容)は、人や状況や出来事を変えて同じドラマの体験を繰り返しているだけというふうにも捉えられます。


コースを実践しているのならば、そのような視点で日々の日常を過ごされるのをお薦めします。


「世界それ自体が無である。」

世界は存在しない!これがコースが教えようとしている中心概念である。」

ー『奇跡講座』ワークブック レッスン132 よりー


「自分は、もともとあったこの世界に自分は生まれてきて、つかの間の人生を生きて、そして死んで去っていく存在である」という自己概念の考えを疑うことから、この世界から解放され自由になるヒントがある、とジーザスは云っています。


自分の見ているこの「世界」を疑いつつ、『奇跡講座』ワークブックのレッスン132をどうぞ読んでみてください。

「世界」についての考えが変わるとき、この「自分」の概念も大きく変わることでしょう。


Lesson 132
I loose the world from all I thought it was.
これまで自分がこの世界はこうだと思い込んでいたすべてから、私はこの世界を解き放つ。


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2017/11/15

手ぶらで帰る

わが家に帰るときには、手ぶらで帰ることがわかっているのに、この自分は、手ぶらになることをひどく恐れています。


そう、この自分は、手ぶらになること、つまり、何も持たないことを恐れています。


お金、家族、愛する人、仕事、地位、名声、役割、知識すらも、、、この身体も、、、所有しているものを手放すことを恐れています。


この自分は、所有しているものを手放すのをひどく恐れています。

たとえ、所有しようとするそれら一切すべてがこの自分を真に幸せにしてくれるものではないことをわかっていても、それらを手放したくないと想っています。


それは、神を求めているのに、神ではないものを大事にしようとしているということです。

それは、父(神)に保護してもらうことを、そして、父(神)に養ってもらうことを、自ら拒否しているということです。


そう、わが家に帰るときには、手ぶらになることがわかっているのに、この自分は、手ぶらになることをひどく恐れています。


それは、わが家に帰ることをひどく恐れているということです。

それは、わが家に帰りたくないということです。


まずは、わが家に帰ることを拒んでいる自分がいるということを自覚すること。


その自分を自覚することから、わが家への歩みは前進しはじめるのだと言えます。


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2017/11/15

もりGプライベートセッションのご案内

現在提供中のセッションの料金は,、ドネーション制 となっております。


もりGが提供しているセッションは、「心理セラピーセッション」と「ACIMセッション」の二つつのコースに分かれております。


心理セラピーセッションは、カウンセリングと心理セラピー(インナーインクワイアリー・ワーク)によって内側を見ていくことで、無意識の感情、記憶、想念、信念などを整理しながら絡まった心を解きほぐしていきます。

癒しは、あなたに赦しと解放をもたらし、心はより自由な視野へと広がっていくことになるでしょう。


ACIMセッションは、ACIM学習者ならびに教師たちに向けたセッションです。

意識の方向転換(思考の逆転)と知覚の訂正を促していきます。

キリストのビジョンを分かち合う場として、また学びの場としても活用していただけます。


セッションでは、自ら意欲的に自己の内側をあらわにする(オープンマインドにする)気持ちが必要です。

その意欲さえあれば十分です。


心の平安を本気で求めている方、自分はもっと癒しが必要だと感じている方、自分の内面をもっと整理していきたいと思っている方は、ぜひセッションをお薦めします。


もりG



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2017/11/14

ドネーション制について

私が提供するセッションがドネーション制(寄付制)になって、もうすぐで半年になります。


それは、私自身にとっては赦しの実践として、そして、神への献身として聖霊に仕えていくことを目的にはじまりました。


セッションの料金をドネーション制にしたことで、これまでみえなかったものがいろいろ見えて来たり、気づかされたりして、とても学びになっているという感覚があります。

何よりも、ドネーション制にして想うのは、このスタイルこそがもっとも自然なかたちなんだなと気づかされたことです。

自然なかたちとはどういうことかというと、「神の摂理に則っている」ということです。

それは、完全に聖霊にゆだねられており、コントロールの余地がないということ。

私は、ただただ「赦し」とともに、聖霊に仕えていくだけだという想いです。


私が提供するセッションがドネーション制になったいきさつにはいくつかの理由があります。

その大きな理由としましては、単純に、聖霊の促しと導きがあったからです。

はじめはドネーションにすることにとても躊躇がありました。

でも、私の心の準備が出来たそのタイミングで私は聖霊の導き(意志)に合意したということです。

もちろん、そこには自分の人生を放棄してすべてを神に明け渡していくという決断も必要でした。

そして、それは聖霊への信頼がなければ、とうてい決断できるものではありません。


ただもう一つ言えるのは、私は、以前からずっと、ビジネス、ひいてはこの世界のマネーゲームから自由になりたいという想いを抱いていたということもあります。

なので、その想いが願望として叶ったのだと言うことも出来ます。


わたしたちは、人生の時間のほとんどをマネーゲームに費やしているといえます。

わたしたちが求めている本当の幸せはそこにはないということを頭ではわかっているのに、そこに自分を幸せにしてくれるものがあるはずと信じ込んで、この世界を生きています。

そう、わたしたちは神よりもそういうものに信頼、価値を置いているということです。

ドネーション制にした理由に、そのことも大きく関係あります。

ドネーション制には、この私自身にとっても、セッションを受ける側の人にとっても、その意味合いが大きく反映されたものだといえます。


私の個人的な気持ちとしては、セッションを受けたいと思った方々にとって経済的なものの理由でセッションを躊躇して欲しくないという想いもあって、料金制を廃止してドネーション制にしたというのもあります。

幸せを心から求めている方々にとって、それはオープンに開かれたものでなければならないと。

なおさら、神や真理を求めている方にとっては、それは制約されることなくもたらされなければならないと思うのです。


それは、神への奉仕というものにもつながるものでもあります。

この今となっては、私が心理セラピストをしているのは、神への献身、と言ってもいいです。

きれいごとに聞こえるかもしれませんが、この私にとってそのほうがしっくりきますし、何よりも、「与えることは受け取ること」という実践的な道だというふうに受け止めています。

そして、それによってたしかに私の内側には平安がもたらされているのは事実です。


この自分がこれまで培ってきた心理セラピストとしてのスキルと経験が、この身体を通して聖霊に使われていくことを私は心から願っています。

それと同時に、セッションは、この私にとって往古の瞬間に戻っていく作業であり、神の記憶を思い出すためのものでもあります。

この道を歩んでいる私にとって、自分の目の前に現われる人はキリスト(救世主)以外の何ものでもありません。

セッションを通して対峙する相手は、自分自身でもあり、神の子でもあります。


そのような気持ちで、私はセッションに臨んでいますことをご理解いただけたらと思います。

みなさま方の志(こころざし)に感謝しています。

ありがとうございます。


これからもどうぞよろしくお願いします。


2017年11月14日

もりG


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2017/11/13

スピリチュアルをビジネスにすることについて

今日は、スピリチュアルをビジネスにすることについて、私が想うことを書いてみたいと思います。


それと言いますのも、そのことについての批判めいた記事を目にしたからです。

あるスピリチュアリスト(スピリチュアル・リーダー)の方が、とある悟りの教師(ノンデュアリティ・ティーチャー)に対して、「○○さんは、悟りをうたい文句にしてビジネスをしている」というようなことを書いておられるのを目にしたのです。


結論から申せば、私自身は、人がスピリチュアルをビジネスにしていようが、悟りをビジネスにしていようがいっこうに構わないと思っています。

私自身は、スピリチュアル・ビジネスにはまったく興味ありませんが、だからといって、それを否定する気もありません。

むしろ、そういうこは、どうだっていいことなのだと思います。


神聖なスピリチュアルや悟りを求めている人にとって、清らかさ、高貴さ、高潔さ、正しさをつい追究しがちになったりするのもよく理解できます。

ただ、肉眼で知覚する世界(形態レベル)のことはすべて、真の神聖さ(真理)とは一切関係がないということです。


かくいう私も、想い起こせば数年前、私が「ジーニー」と呼ばれていた頃の自分を振り返ると、自分で言うのも何ですが、その活動はまさにビジネスをやってなぁ、って想います。笑

たしかにその頃は、「2012年」だとか、「アセンション」だとか、「目覚め」「悟り」といったものが注目されて、スピリチュアル・ビジネスという言葉すら流行った頃であり、いかに集客するか?というものが(今もそうなのかもしれませんが)流行った時期でもありました。

当時の私も、その流れに乗ってビジネスをしていたなって正直そう想うのです。


さて、そんな当時、私はある方からこんなコメントをいただいたのを思い出します。

それは、「悟りをビジネスにしないでいただきたい」というものでした。

その当時の私は、正直、そのコメントに対して、何を言っているのだろう??と想ったのを覚えています。

悟りをビジネスにすることの何がいけないの?と。

というのも、私は、ビジネスのスタイルこそ健全なかたちだと思っていたからです。

(ちなみに、この今もそう思っています。)

なぜなら、ビジネスというものは、与える側と受け取る側において互いに対等な立場で等価交換をしているわけで、その双方の了解のもとにそれは成立するものであり、双方に利をもたらすものであるからです。

ビジネスとはそういうものです。

それに比べ、むしろ、宗教やスピリチュアルにありがちな「ドネーション(お布施/寄付)」といったもののほうが、かなり曖昧だし、紛らわしくて、面倒くさい、怪しい、誤解を生みやすい、という感覚がありました。

(現在は、その見方も変わって、この私自身こそ、そのドネーションというかたちで心理セラピストの仕事をしているわけですが、、、そのことにつきましては、また別の機会に書きたいと思います。)


つまり、ビジネスというものほどスッキリしていて、明確で、健全なものはないと、私は思うわけです。


悟りをビジネスにするのも、スピリチュアルをビジネスにするのも、モノを売ってビジネスにするのも、何かサービスを売ってビジネスにするのも、何がちがうというのでしょう?


と言いましても、この今となっては、スピリチュアルをビジネスにしていたあの頃の自分を思い出すと、我ながら微笑ましい感じすらあります。

あの頃の自分の心の中をよくよく覗けば、ビジネスをするその原動力は「恐れ」からだったということがよくわかるからです。

心の奥底にある「恐れ」と向き合うことのないように、外側の世界に意識を向けていたということです。


もう今では、あの頃の自分に戻ろうとは思いません。

ビジネスというものに、さらさら興味もありません。

だからといって、スピリチュアルでビジネスすることを、あるいは、スピリチュアルでビジネスをやっている人たちを否定するつもりもありません。

むしろ、それの何がいけないのでしょう?という想いです。

この世界では、みんな同じなのです。

スピリチュアルを特別に、とくに、悟り、というものを特別にみる必要などありません。


もし、悟りやスピリチュアルをビジネスにすることに関して何か否定したくなる気持ちがあるとするならば、それこそ、その心の中にビジネスかお金か、もしくは他の何かにまつわる思い込み(信念、観念)があるということです。

あるいは、「悟り」とか「神聖さ」というものに対してある幻想(空想)を抱いている可能性があると言えましょう。


もし、そうならば、その自分の内側にあるものをただただ内観して、赦しをしていくだけです。


それが赦しの実践というものであり、それが、私が歩んでいる道だと言うことができます。


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2017/11/12

聖霊とともに歩む

今日は、先日セッションをした空禾さんがそのときの感想をご本人のブログで書かれていますので、紹介したいと思います。

その内容は、赦しの実践をしている方々にとって、インスピレーションをもたらすものだと思いますのでシェアさせていただきます。


ちなみに、赦しにおけるその体験とプロセスは、それこそ人それぞれ異なります。

どうぞ、そのことをご理解の上でお読みください。


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<空禾さんのブログ記事「聖霊とともに歩む」より>


もりGさんのセッションを受けました。

そんなに回数をうけているわけではありませんが、今回も素晴らしいセッションでした。

感想を書こうと思ったら、 セッションの一部で見えていた情景や 感想を主観的に捉えた内容と なってしまいました。

よろしければご覧ください。

セッションありがとうございました。



セッションの導入部分は 失う恐怖と寂しさを見つめていく というところからだった。

この世界にはまだとても大切なものがあると思っていて、それを失ってしまう という恐怖。

でもそれは内側を見ないために 映し出された実在していない投影で それを見て手放していくこととなった。


神への怒り。

何もしてくれないじゃないか。

守ってくれないじゃないか。

私は神に怒っていた。

自らが神から離れたのに 見捨てられたと思っている私は まだ被害者となって神を恨んでいた。

だから私が守らなくては だから私がコントロールしなくては 大切なものは失ってしまう と思っていた。


☆ ☆


実在だと思っていた世界の 端っこの崖から 意を決して飛び降りた。

思い切って飛び降りた。

聖霊を信じて、 聖霊とともに落ちていった。

手のひらは上に向いたまま 何も掴めるものがなく 身体は恐怖で硬直し ただただ怖い。

怖い。 怖いだけだった。

泣きながら飛んだ。 泣きながら飛び降りた。

片時も聖霊は離れないでいてくれたけど 本当に怖かった。

実在すると思っていた世界を 放棄していくということ。

それはまだ、情けないけど とてつもない恐怖でしかなかった。


やがてどこかにたどり着いた。

真っ暗闇で何も見えないけど 聖霊は私の背中に手を添えて 一緒に寄り添ってくれている。

懐中電灯のようなもので 私の足元を照らすと 足元だけが光り、 ぼんやりとかすかに道が見える。

それはどこかにつながっているようで もりGさんにも促されて その一歩を踏み出す。

何も見えなくて怖いけど 聖霊が後ろから押してくれるから 私は操られるようにして前に進む。

気がつくと私はゲームの中にいた。

昔、唯一やったことがある どうぶつの森というゲームの中のような 森の中だけと そこには全くリアリティーがない。

光の色付きドットが重なり合った 古いゲームのような世界だ。

その中で 私は私というゲームのキャラクターと なって聖霊に操られて歩いている。

他の人も、私の大切な人たちも 聖霊に操られて歩いている。

それは無造作のように見えて 完璧なタイミングで 動かされているようだった。


そういうことか。

これがこの世界か。

私たちは完全にアバターだ。

ここは実在していないのだ。

ここに私はいないのだ。

ここには何もないのだ。

自己のコントロールも意思も何もない。

これが何もない自由な世界か。

私はただ聖霊の導きのままに 動かされていればいい。

それをなんとかしようとするのは コントロールであり 導きを邪魔することでしかないと。

そしてそれらは 計画どおりに完璧にすすめられている。

何も恐れることはない。

何も邪魔することもない。

完璧な出会いと出来事が繰り広げられる 聖霊との赦しのゲームが始まったのだよ と言われた。


そして、私はもりGさんに促されて 失うと思っている愛する息子を 聖霊に託した。

もう私が守ったり、 安全のためにコントロールをしなくても いいのだ。

私がもつ恐れのために 彼を縛り付けていた。

それは私自身も不自由にしていた。

彼も聖霊に守られていて、 導かれているから安心だ。

同じ赦しのゲームの世界の住人なのだから。

そして私も同じように 聖霊とともにあり、導かれている。

ぴったりとくっついて、私の前を照らし、 背中を押してこの世界を赦しのために 案内してくれている。

だから、 私の手のひらは何も掴まず 開かれたままだ。

そう。今のところは。


これは、私がもりGさんの セッションを受けた個人的な感想と セッション中に見た個人的イメージであり、 あくまでも私自身の主観によるもので もりGさんのセッションや 他の方が受けた場合のセッションが 必ずしもこのようなものである ということではありませんので ご了承ください。


ー 空禾さんのブログ記事『聖霊とともに歩む。<もりGさんのセッションにて>』より ー


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2017/11/10

幸せを選択する 3/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でフランシスさんがトークしたときのYouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness - Frances Xu ACIM 』の翻訳です。今日は、そのパート3(最終回)です。


パート1:幸せを選択する 1/3

パート2:幸せを選択する 2/3




今回は、『奇跡講座』テキスト第二十章「聖性の心眼」のセクションⅦ「手段と目的の一貫性」と関連しているところもありますので、ぜひそちらも読まれることをお薦めします。


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<幸せを選択する 3/3>


フランシス:

わたしが「放棄する」と言うとき、何を放棄するかというと、「決断のプロセスを放棄する」ということです。

自我の自己概念を基準に決断することを止めるのです。

あなたがあなた自身にとって最適だと思うことを基準に決断することを止めるのです。

自分が誰であるかを知ることなしに、わたしたちは自分自身にとって最適なものが何なのか知り得ません。

これは非常に単純で、非常に実践的です。

実際に実践する必要があり、すべてに応用する必要があります。

わたしは、聖霊が何を望んでいるか?についてたくさんの祈りの機会を与えられたことを喜ばしく思っています。

なぜなら、この身体、この口、この目、このヴィジョン(心眼)はすべて、聖霊のメッセージを拡張するために、聖霊によって使われるものだからです。

聖霊のプランに仕えるとき、そのような考え方を止めるような他の考えはありません。

考え方が一致しているとき、心は幸せです。

そこにはもう矛盾がないからです。

矛盾とは、欲求の中に存在します。

「自我の欲求」と「聖霊の欲求」が(心の中に)あるとき、わたしたちの本性ゆえ、100%自我でいることはできません。

「神の一部である」ということが、わたしたちに本来備わっているアイデンティティです。

それが、わたしたちが100%完全に自我でいることができない理由です。


わたしたちが自我にしがみついている間は、(「自我の欲求」と「聖霊の欲求」に)欲求を分裂させます。

そして、わたしたちは外側にその分裂と矛盾を知覚します。

わたしたちが心の中に矛盾を見ることができないので、外側に(投影して)知覚することになります。

そこに答えがあります。

そして答えはとてもシンプルです。

すべての決断に戻ってください。

考え方に戻ってください。

そして、考え方を聖霊が欲するものと一致させてください。

聖霊が欲するものは、あなたが欲するものです。

聖霊が欲するものは、あなたの幸せです。

聖霊が欲するものは、全体が幸せであることです。

あなたは、実際に誰かを放棄することなどできません。

なぜなら、その誰かはあなたの心の中にいるからです。

どうやって放棄できましょうか?

不可能です。

「それは不可能である」ということは、究極的に良い知らせです。

なぜなら、「誰かを放棄することは不可能である」ということが根本原理だからです。


わたしは、非常に実践的だと言いました。

すべてを理解することが最終的な目的ではありません。

何年も前に、ヨーロッパでのカンファレンスでデイヴィッドが言っていました。

「コースは、あなたが彼岸(向こう側)に達するまでは理解できませんよ」と。

わたしは、(そのことばを聞いて)ホッとしました。

形而上学を頑張って努力して理解しようとする必要がなくなったからです。

その後、わたしが気づいたのは、彼岸は未来の遠い先にあるわけではないということです。

彼岸は、実際には”いま”です。

あなたが聖霊から与えられた一歩を踏み出したとたん、そこは彼岸なのです。

なぜなら、手段と目的は同一だからです。

しかし、自我の心はそのようには考えません。

わたしたちは時間軸の中で考えています。

聖霊はわたしたちに、従うきっかけを与えます。

わたしたちが聖霊に与えられたそのきっかけに従うと目的地に着きます。

目的地に到着するのは、わたしたちが聖霊の導きに従った後のことです。

そこには、時間の要素が含まれています。


実際の経験で言うと、そうではありません。

(時間の要素はまったくないということです。一瞬のことです。)

手段は目的なのです。

あなたが手段に心を開いたとたんに、あなたは目的地にいます。

幸せは、まさに即時的なものです。

もし手段が与えられるなら、被害者の状態でいる場所などどこにもありません。

手段は自分で考え出すものではなく、毎瞬与えられているのです。

ときに、人々は、わたしにこう言います。

「私は幸せだけを望んでいます。私は神の平安を求めています。私はこれを求め、あれを求めています。でも、私は(聖霊が)私に与えられたことをしたくはありません。」(笑)

これを最適な方法で言い換えるならば、「私は神の平安を求めていません」となります。

実際に、こちらのほうが、より良い言い方です。

なぜなら、そのほうが正直だからです。

内容が何であるかは問題ではなく、自分自身に対して正直であることのほうが良いのです。

あなたは心を統合させるよう訓練しはじめる必要があります。

一番重要なのは、「自分は知らない」ということではなく、わたしたちは自分自身に嘘をつき自分自身を騙しているというところです。

心を完全に統合させて、「私は手段を求めていません。私は目的に到達したくありません。」と言って訓練を始めたほうがより良いです。

そうすれば、心の中で、目的地に着きたいのになぜそれが与えられないのか?と葛藤する必要がなくなります。

わたしは、あらゆるものの被害者ではない状態を好んでいます。

イエスは、すべての人は呼びかけられている、と言います。

その意味は、すべての人は幸せになるための手段をすでに受け取っているということです。

そして、わたしたちはその手段を受け入れることによって、幸せになることを選択できる、ということです。


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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2017/11/09

幸せを選択する 2/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でフランシスさんがトークしたときのYouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness - Frances Xu ACIM 』の翻訳です。今日は、そのパート2です。


パート1:幸せを選択する 1/3



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<幸せを選択する 2/3>


参加者:(内容は短くまとめています)

コメントさせてください。わたしは、執着や失うことへの恐れや罪悪感などを放棄する必要がありました。しかし、人々にとって重要なことは、放棄するということを(形態のレベルで)文字通り受け取る必要はないし、また、幸せや安心を与えてくれる人を放棄しないといけないと思う必要もないと私は思います。

そうではなく、(心のレベルで)執着や恐れや罪悪感を放棄するのであって、大切な人と一緒にいるのかそうでないのかは聖霊に任せるしかないし、それは自分でコントロールできるものではないと理解することだと思います。


フランシス:

それはいいポイントですね。

それについて話したいと思っていました。

この(スピリチュアルな)旅は、けっして犠牲の旅ではありません。

人々はわたしにこうたずねました。

「あなたはいろんなものを放棄してきたようですが、その後困難なことはありませんでしたか?

後悔はありませんでしたか?」と。

その時、わたしはそのことについて考えました。

わたしの人生は、完全に後悔の連続となって後ろを振り向くようになるか、もしくは、この人生はイエスの証としてとても奇跡的なものになるか、わたしは自分自身で見つけ出さなければならないと思いました。

形態の中でこれがこうなるか?ああなるか?という質問への本当の答えはありませんし、はっきりとした言葉でのメッセージもありません。

答えは、経験の中にしかありません。


実際に、コースの中でこのように云っています。

これは先ほどの参加者のコメントに対する答えでもあります。

「眠りは退避することであり、目覚めはつながることである」(T-8.Ⅸ.3.6)

(テキストでは、この文章の後にこう続きます。「夢とは、つながり合うという幻想である。なぜなら、夢は、つながるとはどういうことかについての自我の歪んだ考え方を反映しているからである。」)

わたしたちが放棄することについて話す時、自我の解釈では、放棄することは、「避ける」とか「つながりをブロックする」というふうになります。

それは、放棄することについての聖霊の解釈ではありません。

なぜなら、聖霊は常に手を差し伸べ、繋がり合い、関係性を持ち、心を開くことを目的としているからです。

聖霊の解釈を受け入れると、聖霊のガイダンスがやって来ます。

わたしたちが聖霊のガイダンスに従い、そして聖霊のガイダンスに従うことによって決断をするならば、何かに背を向ける選択をしなければならないことがあります。

あなたが何に背を向けなければならないかというと、それは、「自我のやり方で人と関わる」、「過去との関連を基盤に決断を下す」、「妥協を基盤に決断を下す」、「自己概念を維持することを基盤に決断を下す」というものです。


コースの形而上学は、ものすごく深く深遠なものだということを言っておきます。

心の働きやその複雑さを説明するためにたくさんの言葉が使われています。

しかし、解決や実用性においては、非常にシンプルです。

多くの人々は、彼らの心の中で非常に複雑にしてしまっています。

わたしたちが答えが分からないのは、それが理由です。

非常にシンプルです。

シンプルな答えは、聖霊のガイダンスに従って決断するということです。

そして、わたしは自分の経験からここにさらにもう一つの答えを加えたいと思います。

それは、あなたの心が「自分に役立つものは何ですか?」というこれまでの考えからより上へと飛び越えて、「What serves the whole?(全体に役立つことは何か?)」という考え方ができる段階へと心を開いていくということです。

すると、あなたは聖霊のガイダンスを受け取るために心を開くようになります。


これは、正しい答えをみつけることが目的ではありません。

わたしたちが(全体に役立つことは?という)質問することを試みましょうというくだりに沿った考えについて話すたびに、あなたは正しい答えをみつけようとしますが、それは重要ではありません。

正しい答えをみつけなければ罰せられるということでは決してありません。

これは、考え方についてのことです。

これは、意志についてのことです。

「このライン上に沿った考えを始める」という意志です。

わたしたちが育ってきた中で誰も、何が全体に役立つか?を考えることについて訓練された人はいません。

わたしたちは、自分に何が役立つか?自分の直近の家族に何が役立つか?自分の身体に何が役立つか?自分の金銭事情に何が役立つか?自分の安全に何が役立つか?何が自分を気分良くさせるか?だけについて考えます。

そしてそれが決断の基準となっています。

そしてそれがすべての苦しみの基(もと)です。


わたしは、このスピリチュアルな旅はとても素晴らしいと思っています。

わたしは、この人生で一度も幸せではなかったことを自覚し、自分自身に認めたとき、それはとても憂鬱な瞬間でしたが、そのときを境にすべてが反転しはじめました。

今わたしは、正直に「すべては奇跡である」と言えます。

それは何かが開いたからです。

それはヴィジョン(心眼)です。

すべてを奇跡として見ることに開かれました。

ヴィジョンはわたしにたくさんの歓びと幸せをもたらします。

ヴィジョンがそこにある理由は、考え方が変化しはじめたからです。

何をして、何を言って、どのように決断するか?についての日々の考え方が変化しはじめたからです。


次回につづく


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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2017/11/08

幸せを選択する 1/3

今年2月に開催された「ハッピー ドリーム リトリート」でのフランシスさんのトークをシェアしたいと思います。




3回に分けてご紹介しますが、後半部分は特に、『テキストの第二十章「聖性の心眼」Ⅶ:手段と目的の一貫性』と通底していて、とても興味深い内容です。

どうぞお楽しみください。


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<幸せを選択する 1/3>


フランシス:

以前、デイヴィッドがコースの教師、タラ・シンについての話をしていたことを覚えています。

タラ・シンは、クリシュナムルティの大ファンでした。

彼は、クリシュナムルティと話す機会を得るために世界中を旅していました。

その当時、クリシュナムルティは、世界中で真理を解いていたからです。

そしてある時、彼はクリシュナムルティと話す機会を得ました。

タラ・シンが、「5分間いただけますか?」と言うと、クリシュナムルティは、「はい、いいですよ」と言いました。

タラ・シンは、「私の人生にいろいろな問題があります。しかし、私は神を求めています。私は本当に神を求めています。私は神を経験したいのです。」と言いました。

クリシュナムルティは、たったの3語で答えました。

「What's stopping you?(何があなたを阻んでいるのですか)」

タラ・シンは、「自分はインドから来ていて大家族があり、その責任や義務や金銭的なことなど様々な問題がある」ということについて話しました。

すると、クリシュナムルティは、2語だけ言ってそのミーティングを終えました。

彼は言いました。

「Drop them.(それらを放棄しなさい)」


わたしは旅をしながらこのようなことについて人々に話すことがありますが、何かを放棄することに関する話になると、人々の心には恐れが生じるようにみえます。

恐れが生じるその理由は、それらのものがわたしたちにとって大いに価値がある(と思っている)からです。

わたしたちが確立しているそれらのものは人生と呼んでいて、自分自身として定義しているものであり、それらが幸せを生じさせてくれるものである、と思っています。

「それらを放棄しなさい」という意味は、自我にとっては「幸せと愛を放棄する」ということになります。

そしてそれは恐れを生じさせます。

しかし、そこには矛盾があります。


というのも、幸せとは何でしょうか?ここで幸せについてみていきましょう。

幸せは、たくさんの同義語があります。

幸せは、歓び、軽い心、平安、愛、と同義語といえます。

ふつうは幸せと結びつけないかもしれませんが、健康や人とのつながりも同義語かもしれません。

幸せは、夢を見ていることへの自覚やキリストとの同一化とも同義語です。

もし、わたしがキリストと自我の両方と同一化しているなら、わたしは幸せではありません。

幸せは、「わたしは分離した(個人的な)自分である」という信念の領域には存在しません。

わたしの仕事の中に幸せはあるでしょうか?

わたしの家族の中に、わたしの身体の健康の中に、幸せはあるでしょうか?

いいえ、そこにはありません。

わたしには仕事がある、家族がいる、身体がある、という思い込みの中には幸せはありません。


わたしは、自分がこれまで一度も幸せではなかった、ということを認めたときのことを覚えています。

その自分を認めることは、わたしにとってとてもつらいものでした。

ときどき、わたしはこのことを人に話しますが、そうすると人はわたしにこうたずねます。

「あなたは子供の頃のトラウマ(心の傷)があるのですか?あなたは愛をもらわなかったのですか?あなたの両親はあなたを愛してくれなかったのですか?なぜ一度も幸せではなかったのですか?」と。

わたしは子供の頃のトラウマはありません。

わたしは一般的な子供時代を過ごしました。

しかし、わたしは、死の可能性があるということに苦しみました。

いつかは愛する人が死んでいく、いつかは愛する人が病気になる、いつかは見捨てられる、排除される、という様々な可能性があるということに苦しみました。

他の人が苦しむのを見ることになるかもしれないし、欠乏や制限を経験することになるかもしれないということにも苦しみました。

そもそもこんな中にいて幸せになれることなどあるでしょうか?

もし幸せになれないと思うなら、それらを放棄することの何がそんなにつらく困難なのでしょうか?


パート2につづく


ー YouTube『A Course in Miracles - How to Choose Happiness 』より翻訳 ー


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