2018/01/29

無条件の愛

だれもがいずれ天国に還ることになっています。

どんな人であろうが必ず、天国に、父のもとに還ることになっています。


もっと言えば、非二元からいえば、天国はいまここにあります。

わたしたちは、このいまも父の腕に抱かれて愛されています。

わたしたちは、このいまも愛の中にいます。

愛と共に、愛の中で、愛としているのです。

ただ、わたしたちは、分離した夢を見ていいて、そのことを忘れています。


このいまもすべてが愛であり、そしていつのときも愛に包まれているとはいえ、

たしかに、悲しみ、苦しみにいる人にそんなことばと言ったところで、

あまり意味をなさないように思います。


悲しいのなら、つらいのなら、落ち込んでいるのなら、泣きたいのなら、

怒っているのなら、イライラしているのなら、怖れや不安にかられているのなら、

それもそれで感じていけばいいのだと思います。


それでもわたしたちはどんなときもいつのときも愛されています。

どんな自分であってもいつも愛されているということです。


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2018/01/28

実在か?無か?

ゆるしとは、全一的なものなのだと気づきます。


ゆるしは、オール・オア・ナッシングだと。


すべてをゆるすか、まったくゆるしていないか、のどちらかであると。

つまり、部分的なものではないということです。


むしろ、これまでの自分は、そういうことをしてきたと気づくのです。

これこれが起きたことをゆるすとか、

これこれについてゆるすとか、

この人についてゆるすとか、

分離した部分部分の一つ一つをゆるしの実践の対象としてきたのですが、

そういうことではないのだと気づいたのは、まるで目から鱗のような感覚です。


はなっからすべてが自分が見ている夢でしかない、という自覚にあるとき、

すべては「無」でしかなく、そこに例外などありません。


夢であるものを夢とするか?夢ではないとするか?のどちらかです。


「無であるものをただ無とする」

それが「ゆるす(赦す)」ということなのだと思います。


ときに、ゆるしの実践において、

こういうやり方でやるのが正しいとか、それは間違っているとか、

ゆるしのやり方がよくわからないとか、

ゆるしはうまく出来ているのだろうか?とか、

そんなことについて固執しがちなコース学習者もいたりしますが、

そういうことに固執する必要はないと思います。


実在か?無か?


ただそれだけのことなんだと。

ゆるしとは、そういうことなんだと思います。


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2018/01/26

霊的な修行、成長、進化

スピリチュアルな学びには、霊的な修行、成長、進化、、、といったものがつきものですが、今想うのは、そういったものは本当に要らないのだなということです。


むしろ、そういったものから自由にとらわれなくなっていくことが、スピリチュアルの学びのゴールなのだということです。


ということは、はじめからそういうものを必要としないスピリチュアルとは無縁な人たちとは、はじめからスピリチュアルを学ぶ必要などない人たちなのかもしれません。


だれもが神に愛されています。

そして、そのだれもが神の子です。


スピリチュアルな探究をしていようが、それとは無縁な人たちであろうが、わたしたちは等しく神に愛されています。

同じ一つのスピリットです。

だれだれが天国に召されて、だれだれが地獄に落ちるなどというものもありません。

わたしたちは、一なる神の子なのです。


魂の成長、魂の進化とは、非二元からみれば一なる神の子が分離した夢を見ているにしかすぎないとわかります。


そして、私にとってスピリチュアル探究のその目的であった「目覚め」「悟り」といったものは、霊的に修行、成長、進化していくその先にあるのではなく、いつかどこかにあるものでもなく、「いまここ」にあると気づきます。


今この瞬間。

それ以外のどこにあるというのでしょう。

もうどこへも向かう必要などなく、なにもする必要もなく、何かになる必要もありません。


ならば、なぜ、私はコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学び、実践しているのか?


その問いに対して私なりに想うのは、


死によって、肉体を離れこの世を去って神のもとに還るのか?

生きながらにして、真理によってこの世を去って神のもとに還るか?


そのちがいだけです。

それくらいのちがいしかありませんが、されどそれほどのちがいがあるといえましょう。


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2018/01/24

スピリチュアル・ジャーニー

スピリチュアル探究の旅。


私にとってその旅のはじまりは、かれこれ20代前半のときまで遡ります。

いや、もっと昔に遡るかもしれません。

物心がついた子どもの頃からだったと気づきます。

私は、物心がついた幼少の頃にはすでに、

「人は死んでもそれで終わりではない、その後も魂として存在し続けていく」と

そう信じて生きていたように思います。

そう、私はその頃からずっと「輪廻転生」というものを信じていきてきたということです。

むしろ、魂として輪廻転生していると信じたほうが、

私にとってはこの人生を生きていくのに意味があると思えたのです。

そうではないとしたなら、この人生はあまりに虚無で儚いと思えたのでした。


そして、20代前半の頃になって、

私は心の底から「この人生で輪廻転生を終わりにしたい」という衝動にかられて、

私のスピリチュアル探究の旅ははじまったのでした。


でももうこの今では、私は、輪廻転生も一つの妄想(信念/観念)だったのだと気づきます。

死後の世界も無ければ、あの世も無いと。

もちろん生まれ変わる魂というものもなければ、輪廻転生なども無いと。

そういったものは、二元性のこの世に(さまよって)生きるわたしたち人間の

想念(思考)によって妄想されたものでしかないと気づくのです。

それは、この世に生きるわたしたちに理解できるように表現された比喩であり、

つまるところ慰めのためのものだということができます。


わたしたちは、唯物論でいうところの「死んでそれで終わり」というものでもなければ、

だからといって、「魂として時間の旅をしながら存在し続ける」というわけでもありません。

それらはどちらも、この世に生きるわたしたちの信念(想念)にしかすぎません。


わたしたちは死んで物質的な身体から自由になったならば、

ただ神のもとへと還っていくだけです。

この物質的な身体から解放されて、

本来の大いなる自己(ワンネス)へと戻っていくだけです。


スピリチュアルな探究をしていようがいまいが、世俗的に生きようが、たとえ罪人であろうが、

殺人者であろうが、みんな肉体を離れこの世を離れるなら、神のものと還っていくだけです。

そこに個人も個性もありません。

もちろん個人の魂、霊というものもありません。

わたしたちは、本来が一つなのですから。

わたしたちは、本来が一なる神の子なのですから。

わたしたちは、そこへ帰していくだけです。


あの世など無かった。輪廻転生も無かった。実在(神)だけがあるのみだと。


ならば、この人生はどう生きても同じだといえます。

どう生きたっていいんだと思えます。

どのような人生であろうと、そういうことはどうでもいいのだと思えます。


私はホッと心の荷が下りたような気がします。

もう気楽でいいんだと。

むしろ、これまで私の辿って来たスピリチュアル探究の旅は、一体何だったのだろうと。

なんだか笑えてきます。

今までの私は「輪廻転生」というものがあってほしかったのですから。

輪廻転生をしているという前提でスピリチュアルの旅をしてきたのですから。


もう何かになる必要もなく、もう何かを求める必要もない。

何か探さなければならないものもなければ、何かしなければならないものもない。


もうどこにも行く必要もないと気づきます。

今、があるだけです。

今この瞬間へと還っていくだけです。

そこはこの世界を超えており、時間を超えたところでもあります。

そうやって時間が終わっていくことになるんだろうなと思います。


そう想うとき、このスピリチュアルな旅も終わりに近いと感じます。


それはまた、時間という名の旅の終わりに近づいているということなのだと思います。


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2018/01/16

『神の小屋』を読んで

以前、このブログでもウィリアム・ポール・ヤングさんの紹介と共に、その著書『神の小屋』を紹介いたしました。


年末年始にかけて、その本を読みました。

それは私にとって、この時期に読むべき本だったのだと思いました。


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一応、物語ではあるのですが、主人公の「癒し」や「赦し」の体験プロセスは、著者自身が経験してきたことなのだということがうかがえる物語です。


それにしても私にとっては珍しく感動的してハートが開き、涙がこぼれそうになった本でした。

(泣きそうになったとはいえ、たぶん、映画だったら完璧に泣いていたと思います。笑)


私は、そもそもが物語やフィクションで書かれた本をほとんど読まない(興味がない)のです。

ですが、この本はさすがに感動しました。

この今でも、その本の中のシーンを思い出すと胸が熱くなってきます。


とても素晴らしい本だと思います。

とくに、主人公が癒され、赦していくプロセスのところは、じつに興味深かったです。


ぜひ機会がありましたら、この本を読んでいただいてもいいし、すでに『アメージング・ジャーニー』という日本語タイトルで映画化されていますので、そちらをご覧になってみてください。




2018/01/15

<告知> 2/11 『1Day ACIMリトリート in 福岡』参加者募集のお知らせ

来月、2月11日(日)に福岡にて、『1Day ACIMリトリート』を開催いたします。
つきましては、参加者を募集します。

「1Dayリトリート」という名のとおり、
いつもの日常の世界から離れ、聖霊の導きに従って過ごす1Dayになればと思っています。


詳しくは、主催者(フジヤマ)さんのブログをご覧くださいませ。


ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)に興味のあるあなたの参加をお待ちしております。



【2/11 1Day ACIMリトリート in 福岡】


■日時:

 2018年2月11日(日)10:00~16:30


■開催場所: 

 福岡市西区姪浜(愛宕神社近く。詳しくは、申込みされた方に別途お知らせ致します。)


■内容:

 ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)スタディ会


■参加対象者:

 ACIM(奇跡講座・奇跡のコース)を学んでいる方、これから学ぼうと思っている方


■参加費:

 ドネーション(寄付)制



■お申込み・お問合せ:

 詳細につきましては、フジヤマさん(主催者さん)のブログ記事をご覧ください。


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2018/01/12

undoing

以前にもまして、自分の思考(想念)に注意深くなっている私がいます。


自分の思考をよくよく眺めてみると、自分のことをどれだけ卑小な存在だと捉えていたかが分かります。

卑小さゆえに、欠乏感を感じ、それゆえ何かを得て満たされようとする必要性にかられてしまうその自分に気づいたりします。

たしかに、そこには、落胆、失望、絶望しかありません。

自分は、たぶん、それを何千生も何万生も繰り返してきたのだと思います。


とはいえ、真理からするならば、その卑小さは自分が作り出した体験です。

それは、自分が作り出したドラマです。

その体験を自分で望んだということです。


だからこそ、そのことを受け入れて、聖霊によって訂正(undoing)もらう必要があるのだということです。


そもそもが勘違いだったものを取り消していく。

そもそもが幻想であるものを幻想とする。


赦しとは、そういうものだといえます。


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2018/01/11

なにも無い。


自分が考えているこの想いも「無」であるゆえ、

言葉も「無」である。


なにが正しいとがなにが正しくないとか、

なにがいいとかなにがよくないとか、

ジャッジする必要もなければ、

すべては自分が作り出した夢であり、

すべては自分が見ている夢である。


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