2018/02/24

咎めずにみるということ

私は、目覚めるためには心の浄化をしていかねばならないと、ずっと思っていました。
そうやっていくことで、自分はこの世界から目覚めていくのだと思っていました。

そのためにどれだけ自分の内側を掘り下げて、癒し、解放、統合のワークをしてきたことか。笑

でも最近、私が気づくのは、
この自分の心(内側)を浄化していくことでこの世界から目覚めるのではない、
ということです。

そういうことをしながら、目覚めのような覚醒体験も何度か経験しましたが、
それでも、それらの体験はこの世界から目覚めるものではなかったということです。

もちろん、自分がやってきたそれらは無駄ではなく、
それらはこの道こにたどり着くための準備だったと捉えられます。

今私が気づくのは、この自分を変えようとする必要がないのだということ。

この自分は、つまりは自我であり、
この自分が変わっていって神へとたどり着くものでもないということです。

この自分というものは、目覚めるときには、ただこの世界と共に止滅するだけで、
この自分が目覚めるのではないのだということ。

この自分と思っているものは、
聖霊に明け渡していくことで「無」へと帰していくだけなのだと気づくのです。

自分を変える必要はまったくなくて、
自我と同一化している自分に気づいていくだけでいいのだと。

気づいているそれは、自我とは同一化しておらず、もはや自分ではありません。
気づいているそれは、ただみているだけです。

自分を変えようとすることは、自我を変えようとしていることであり、
自我をどうにかコントロールして理想の自分になろうとしているといえます。
それは、ただ自分の中に戦いを生み出すだけです。
そういうときこそ、自分でどうにかしようとするのではないということ。
そのときこそ、聖霊とともに、咎めずにみることをしていくだけです。

この世界を変える必要もありません。
他者を変えようとする必要もありません。
そして、自分を変える必要はないのです。

ただありのままに、すべてをゆるすだけ。

咎めずにみることの意味がようやく分かりかけた今日この頃です。

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2018/02/22

この世界からの脱出法

「自分はこの世界にいる」と知覚しているかぎり、

攻撃の対象を作り出してしまうことは免れないといっていいと思います。


この世界においては決してそれを避けることは出来ないということです。


この世界において「知覚する」ことそのものが、攻撃することを意味するからです。


それが、この世界なのだといえます。


攻撃の対象を外側に作り出すことを「投影」と言います。


本当は、ただ自分自身に向かって攻撃しているにしかすぎません。


コースの中のイエスも、「攻撃するためにこの世界は作られている」と言っています。


そうすることで、自らを分裂(分離)させておくゲームを続けていたいのです。


それが、この世界です。

それゆえ、心休まることがありません。


一時的な平安からまた次の一時的な平安へとまるで綱渡りをしているようで、

それは、永遠に心休まることのない無意味な時間の旅ようですらあります。


そんな孤独で空虚な時間の旅を続けていたいのか?

それとも、神のもと(実相なるワンネス)へと帰りたいのか?


それを選択する力は、今この瞬間に、わたしたちに与えられています。


ただ、この自分がこの世界にいるということは、

前者、(神から離れて)孤独な時間の旅を続けることを選択し続けている、ということです。


まずは、そのことをわたしたちは自覚する必要があるといえます。


この私自身の心のなかをみても、

攻撃の対象を作り出そうとする誘惑にかられることがよくあります。

自分がこの世界を作り出しているというのに、

あたかもその被害者であるかのように振る舞ってしまうのです。


自分はこれまでどれだけ無意味な戦いを続けてきたことか。


そのことにうんざりするならば、

日々の日常の中で、そのことに気づいていくことが大事になっていきます。


エゴ(自我)のトリック(罠)だと気づいていくことは「赦しの第1ステップ」であり、

それこそが、まずはこの世界から出るための第一歩なのだといえます。


この世界から自由になるために。


赦し(ゆるし)とは、そういうものだといえます。


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2018/02/19

謙虚さ

謙虚さとは、どういうことをいうのでしょう?


あなたは神の子です。

あなたは光です。

あなたはこの世の光です。


その真実に対して、

「そんなわけない、、、」「そうは言っても、、、」

という想いを抱くことこそが傲慢だと、イエスは言います。


謙虚でありなさい。

素直でありなさい。

真実のままでありなさい。


あなたは神の子です。

神に創造されたままのあなたが本当のあなたです。


あなたは、神の子(キリスト)なのです。

つつましやかに、「はい、その通りです」と認めればいいのです。


聖霊は、私にそう告げています。


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2018/02/18

隠された真実

なぜ幸せでないのか?

なぜ幸せは続かないのか?

なぜずっと幸せを感じたままではいられないのか?


その答えは、いたってシンプルで、

その原因は、自分の内側に隠されています。


じつは、わたしたちは、心の無意識では幸せを拒否している、という事実を知りません。


拒否しているのは幸せだけではありません。

愛を拒否しています。

平安を拒否しています。

喜びを拒否しています。

神の性質であるそのすべてを拒否、否定しているということです。


この世界にいるということが、そういうことなのです。


幸せを求めておきながら、幸せを否定している、、、

そんな自己矛盾の中で、わたしたちはこの世界で幸せになろうとしているということです。


この世界にいるわたしたちだれもがそうだということ。


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2018/02/16

真理によってこの世を去る

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すべてを放棄することは、死へと向かっていくプロセスと似ているように思えます。


なぜなら、どうせ死ぬときは、

自分のものだと思っていたものや手に入れたものすべてを手放すことになるのですから。


なので、私は、

「この世を放棄する」というものを、まるでそんな気持ちでやっていたと気づくのです。


そう、放棄して(手放して/ゆだねて)いくプロセスにおいて、

私はある意味で死へと向かっているような心持ちでいたと自覚するわけです。


私は、この道の歩みを「生きながらにして死へと向かう」というふうに捉えていたのです。


それというのも、この世を超えていくために、この世への執着を手放すために、

そのような捉え方をしたほうが私にとって都合が良かったからです。


ただ、そういう考え方は誤った私の信念(観念)だということに気づきます。


そういう考え方は、まさに自我にとっての都合のいい解釈でしかないと。


それは決して死へと向うようなものではない、ということです。


実在させておいてそれを放棄する、ということをしていたと気づくのです。


それは、実在しないからこそ、無意味、無価値であるからこそ、放棄、なのだであり、

無であるもあるのは、無でしかないということです。


もちろん、死というものも無いのですから、

「死に向かうつもりで」という考え方すらも無用っだってことに気づくわけです。


つまり、放棄する、とは、死に向かうものとはまるで真逆だったのだということです。


むしろ、放棄する、ということは、神の平安を望むということなのだといえます。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、こう述べられてあります。


この世界は死によって去るのではなく、真理によって去るのである。

- 『奇跡講座』テキスト第3章より  -


この道は、死に向かうものではなく、死を超えていくものであると。


まるで死に向かうつもりでこの道を歩んでいると思っていたのは、

まさに私の勘違いだったということです。笑


2018/02/16

<告知> 2/25「ACIMウェブスタディ会」のお知らせ

次回の「ACIMウェブスタディ会」のお知らせです。


この「ACIMウェブスタディ会」は、昨年末から始まったばかりの会です。

内容も進行もまだ手探りの状態ですが、少しづつかたちになってきている感じがします。

参加者のみなさんと一緒にこの会を創り上げられたらと思います。


あくまでもコースは、内なるガイド(聖霊)を自らの教師としていくのが目的です。

それでもコースを日々の中で実践している兄弟の言葉はときに有意義だったりします。

お時間のとれる方はぜひご参加くださいませ。


【2/25 ACIMウェブスタディ会】


■日時:

 ・2018年2月25日(日) 13:30~ (約2時間程度)


■開催形態:

 スカイプ(原則的にビデオ通話)にて行います


■参加費:

 無料


■参加対象者:

 ACIM(奇跡講座・奇跡のコース)を学んでいる方、これから学ぼうと思っている方


■お申込み・お問合せ:

 詳細につきましては、空禾さん(主催者さん)のブログ記事をご覧ください。


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2018/02/07

機能

聖霊の視点、自我の視点、といった場合、

わたしたちは、ふだん、自我の視点からこの世界をみていると言うことができます。


そして、聖霊の視点から見ようと(意図)するとき、

この世界を自分が目覚めていくための「教室」としてみていることになります。

それは、この世界が赦しのためのレッスンの場になることを意味します。


ただし、自我の視点では、そのようには見えていません。

なにせ、自我は、この世界でいかにこの身体を護っていくか、とか、

得ること、所有すること、コントロールすること、といったものにしか心が向いていません。


ただ、聖霊は、その自我を使ってわたしたちを目覚めのほうへと導いてくれているのですから、

自我の視点でいることを咎めたり、ジャッジしたりする必要はないといえます。


わたしたちがしていくことはただ赦しだけなのだと思います。


そして、わたしたち一人ひとりにその機能を与えられています。

この世に生きているだれもにその機能は与えられています。

わたしたちは、その機能を果たさない限り本当に幸せになることは出来ません。

むしろ、その機能を果たしていくならば、本当の幸せがもたらされるということです。


わたしたちは、そもそも自分が知覚しているもの(見ているもの、こと)について、

なにもわかっていないし、わかることなどできないのです。


なにが自分にとって幸せをもたらすものなのかわからないのですから、

これが自分にとって幸せをもたらすものだと信じ込んでいるものを手放し、

赦し、明け渡していくことがこの自分の機能だといえます。


「機能」とは、目に見える形態のレベルでのことを云っているのではありません。

それはどこで何をしていようと、どんなことをしていようと関係ありません。

形態のレベルで何をしているか、何かを成したかというものではありません。

むしろ、そういう形態のレベルにおいては、聖霊にゆだねて明け渡していくこと。

それが、自分がしていくことだと思うのです。


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2018/02/05

我が心のイエス

聖霊の導きによって、

イエスのプレゼンス(存在)をより身近に感じています。


イエスは、生きています。

イエスは、いまここに生きています。

イエスは、私の中に生きています。

イエスは、兄弟の中に生き続けています。


この私にとって、「キリスト」という呼び方よりも、

かつてこの地上に生きたイエスのほうがよりシンボルとして身近に感じることが出来ます。


生きる意味を求めて、25歳の時から私の真理探究の旅がはじまりました。


これまでスピリチュアルの旅の中で私もさまざまな次元のエネルギーに触れてきましたが、

イエスのプレゼンス(存在)のエネルギーは、この上ない清らかさと心地良さを覚えます。


目を閉じて、今この瞬間へと入っていくとき、それはそこにあります。


安らぎ。

静寂。

安心感。

愛。


それは、なんともいいようのない居心地の良さです。

そのしっくり感は、あまりにも自然としか言いようがありません。


イエスのプレゼンス。

それは私をこの世のすべてから解き放ち、

目の前に見ている世界を忘れてしまうほど、今この瞬間へと誘ってくれます。


イエスのプレゼンス(存在)を感じるとき、それはすべてを超越していきます。


ことばを求めることよりも、答えを求めることよりも、

イエスのプレゼンスに触れていることがどれほどこの私の救い(希望の光)となることか。


私が無駄に死んだと教えてはならない。

そうではなく、私があなたの中に生きていると示すことによって、

私は死んでいないと教えなさい。

ー『奇跡講座』テキスト 第11章よりー


そのイエスは、象徴でしかないこともわかっています。

でも、この私にとって、彼の存在は救い(希望の光)です。

そして、彼は、この今も私の中で生きています。


イエスのプレゼンスに触れているだけで、救われます、癒されます。


それは、ある意味祈りにちかいものがあります。

それを信仰心といってもいいと思います。

本当はそれで十分なのかもしれないと思ったりします。

信仰心とは、神のもとに還るための祈りだったのだと気づきます。


この信仰心と祈りによって、

この時間と空間を超えて神のもとへと還った存在たちもいたのかもしれません。


そんな気がするのです。


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2018/02/04

否定することなく

今日は、立春です。

一新した流れがはじまる日だともいえます。

今日の福岡の空は、朝から雪が舞っております。

ときには晴れ間もみせながら雪が降っております。

今日は、一日中降り続けると思われます。


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どうにかして人生をコントロールしようという気がない自分に気づきます。

人生をどうにかしようという気が起こりません。


なにかしたいことがあるわけでもない。

だからといって、なにかしなきゃいけないというわけでもない。

どうしようもありません。


もう、どうのこうのできるものでもないとわかっているところもあります。


それでも、自我(エゴ)はこうささやいてきます。


「そんなんじゃ、ヤバイよ。ダメだよ。

そんなんじゃ、とんでもないことになるよ。生きていけなくなるよ。

これからどうするんだよ。

この世界に希望をさがそうよ。さがしにいこうよ。」


不安や怖れとともに、そういう想いも湧き起こってきます。

そして、もっとこうしたらいい、ああしたらいいという想いも湧きますが、

それでも行動に移すほどの衝動までには至りません。

たとえ、それらの想いに従ったとしても、うまくいかないこともわかります。

なぜなら、もう本当の自分の心をごまかすことはできないからです。

そうしたとしても、これまでの繰り返しだということがわかります。

それは、ただ時間の先延ばしをしているだけのような気がします。


この自分を、この身体を、行動に駆り立てるものがない、といった状態なのです。

それでも自我と聖霊の両方の間で、私の心は行ったり来たりしながら揺れ動いています。


この世界を放棄していくほうへと私の心は導かれていっているように思われます。

ホーリースピリット(聖霊)がそっちへと誘っているように感じます。

よりジーザス(イエス)のプレゼンス(存在)を感じる時間が増していっています。


もう引き返せないと感じています。

この道を前に進むしかないという気持ちです。


自我と聖霊との心の葛藤はまだまだ続いておりますが、

それもまた一つ一つ否定することなく、ただ流れにまかせて従っていくしかありません。