2018/03/30

教えるということ

わたしは神の子として祝福されている。
わたしは幸せで、安らかで、愛に満ちていて、満足している。
 ー『奇跡講座』ワークブック レッスン40よりー

それが、わたしたちの本性です。

それらのことばの真実が今ようやく私の腑に落ちてきています。
そのことを実感しはじめている私がいます。
そう、知覚のシフトとは、こういうことをいうのだろうと思います。

そして、そんな私はあらためて気づくのです。
これまで自分は自分自身をまったそのようには思ってなかったと。

つまり、自分は幸せで、安らかで、愛に満ちていて、満足している、、、などと、
そもそもそれが自分の本性(本来の状態)だとは思ってもいなかったということです。

むしろ、その真反対を自分自身で信じ込んで(思い込んで)いたと気づくのです。

そして、その真反対の自分を揺るがない信念に仕立てるべく、
私はこの世界で、この人生で、ことあるたびに自分に教え込んできたと気づくのです。

それは、だれに教え込まれたのではないのだということ。
それを教え込んできたのは、まさに、この自分自身だったということです。

だからこそ、この私は、自らの本性について自分に教え直していく必要があると、
あらためて自覚するのです。

教えることは学ぶこと。
だれに教えるのか?だれが学ぶのか?と言うなら、それは、まさに自分自身にです。
そのプロセスは必要不可欠な道なのだと気づきます。
それなしで、神のもとに帰ることはあり得ないということです。

次なるステージの学びのはじまりだと感じています。

贖罪が訪れるその時まで、
その学びが終わる時まで、
この歩みは、目の前に現われる兄弟を通して、
そしてその兄弟らと共に、成し遂げられていくのでしょう。

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2018/03/29

ネクストステップ

もう、飽きた、と感じています。

なにに飽きたのか?というと、
このまでの自分や、これまでの生活や環境も含めて、
このまで自分がしてきたやり方、考え方、生き方、なにもかもに、飽きた、と感じています。

だからといって、あれがしたい、これがしたい、ああなればいいな、こうなればいいな、
とか、今の状態が嫌だというわけではありません。

ただ、もう飽きた、と。
なにかの変化、変容、シフト、を望んでいる自分がいます。

その「飽きた」という感覚は決してネガティブな意味で感じているのではないということです。

どちらかと言えば、
「maximized(最大限に達した/満喫した)」という言葉のニュアンスに近いかと思います。

それは、この段階での経験の広がりは、広がるところまでいった、Maxまで到達した、
という感じに似ています。

そう想うと、なんだか腑に落ちます。

私が「飽きた」と感じているその感覚は、
次のフェイズ(phase)への訪れといいましょうか、
次の(変化・発展の)段階、 局面、 時期が来たことを直感的に感じ取っているのだと、
捉えていただいていいと思います。

それは、これまでとはまったく別の考え方(思考)への誘いだとも捉えられます。

ネクストステップ。
それを意識的に強く感じる今日この頃です。
 
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2018/03/27

セラピストとしての進化の果てに

私のセラピストとしての歩みも、今年の4月で丸14年になります。

そのセラピストとしての道のりは、振り返ればそのときそのときで
必要なスピリチュアリティの学びの経歴と経験をたどってきたように思います。

私個人のスピリチュアルな学びの段階に伴って、
私が施すセラピーのその内容も変容とシフトを遂げてきたといえます。

たしかに、それを「進化」と呼べばその通りだといえますが、
最近では、私の施すセッションにおいては、
セッションのスタイルにかたちがなくなってきている次第でありまして、
もっと言えば、セラピーをしているという感覚すらなかったりする今日この頃です。

誰かを癒す、誰かが癒される、ということには興味がなくなってしまったのは事実です。
私がセッションをしているのはそういうところのものではなくなったということです。

じつは、そのようなことを私は一年ほど前くらいから感じていて、
一年前の自分の書いた「セラピストを放棄します」の記事を読み返すと、
まさに、そのような心境が述べられているのがわかります。

あれから一年経ってようやく、私の中でなんとなく符合していなかったものが、
ここに来て整合されてきたように感じています。

これからも(心理)セラピストとして活動を続けていくのか?というならば、
それに関しては、正直、もう神の思召しにゆだねているところがあります。笑
ニーズがあるならば(セッションを必要とする人がいるのならば)、
それは続けられていくだろうし、もし、ニーズがなくなっていくのであれば、
私が続けたくともその必要性がないということだけのことだと。

かたち(形態)のレベルでは、そういったことは関係ないということです。
なにをしていても、どこでだれを相手にしようとも、
このサイコセラピストというその機能は果たされていくだろうとさえ思えます。

なにせ、新たな局面の歩みのはじまりを予感しています。
それは、神の教師としての歩みのはじまりだと、私は自覚するのです。

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2018/03/26

どちらに「信」を置いているか

「自分は神を信頼できない」と言葉にするとき、
それは、「自分は神じゃないものを信頼しています」と言うのと同じことを意味します。

それは、「信」があるとかないとか、そういうことではないということです。

神か?神じゃないものか?
実在か?実在しないものか?
そのどちらかしかなく、
いずれにせよ、わたしたちは、そのどちらかに「信」を置いているのだということです。

自分は神に対して、「信」がない、「信」を置くことができない、
と思うのなら、
その自分は、この世界に、そして自我である自分に、
「信」を置いているだけのことだといえます。

神に「信」を置けるようになるために、まずその前に、
自分は、この世界に「信」を置いている、
自分は、この幻想に「信」を置いている、
ということを自覚し、認めていくことが大事なのだといえます。

この道の歩みは、そこからはじまるのであり、
そこからしかはじまらないのだと言うことが出来ます。

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2018/03/25

真理は、この世界とは一切関係がない

先日、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学習をはじめて8年ほどになるという
コースの実践をし続けている方とお話をする機会がありました。
私自身にとってとても参考になったと申しましょうか、大きなヒントをいただき、
気づきがありましたので、そのことについてシェアしたいと思います。

その気づきとはどういうものかと言いますと、
「神は、この世界とは一切関係がない」のと同じように、
真理は、この世界とは一切関係がないのだ」とあらためて気づくのです。

というのも、これまでの私は自分の中に、これが真理だ、というものがあったせいで、
自分なりにわかったつもりになっているその(想い込んだ)真理で、
他人を、この世界の人を、兄弟を、裁いていたということに気づくのです。

スピリチュアル探究の旅における私なりの学びや体験から、
私は「真理」をわかったつもりになっていたし、
私なりの真理に対する観念があったと気づきます。

でも、その真理とは私なりの思い込んでいる真理であり、
ほんとうの(実相である)真理とは一切関係がないのだと気づくのです。
この思考で考えているこの自分(自我)が真理というものを理解できるわけがないのに、
私は真理をわかっているつもりでいたと、そしてそれをこの世界で振りかざしていたと。
それは、私なりに想っている(知っていると思い込んでいる)真理であり、
その真理も、じつは自分が作り上げたものにしかすぎないということです。

正直なところで言いますと、
スピリチュアル・ティーチャーやノンデュアリティ・ティーチャーや
ましてやコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)においてさえも、
誰とは言いませんがティーチャー(教師)みたいなことをしているある一部の人に対して、
嫌悪感といいましょうか、否定したい、裁きたい衝動にかられてしまうところがあり、
これは一体何なのだろう?という想いがずっと自分の中であったのでした。

とくに、真理の核心に近いところを教えようとするティーチャー(教師)に対しては、
見過ごすことができなくて、なかなか赦しというものができなかったのが事実です。
悟り、覚醒、目覚め、非二元、といったものについて語ろうとするある一部の教師たちに、
つい、それはちがう!と裁きたくなる自分がいたのです。

それで、自分でふと気づいたのが、
それはちがう!と裁くということは、
自分が「これが真理だ」と思っているもの(ものさし)があるからだと気づくのです。

自分はわかっていると思っているその真理こそ、
じつは、自分の想い込んでいる観念(幻想)なのだということです。

私は、その(自分の知っている)真理すら、もう要らないと気づきます。
私は、それだけは別ものとして例外をつくっていたと気づきます。
例外なくすべてを明け渡すしかないのだということです。

私は、なにもわからない。
それが、無辜になるということなのだと。

もう今では、言葉で表現される真理なんてどうだっていいのだと思える今日この頃です。

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2018/03/24

私が歩んでいるこの道は

私が歩んでいるこのコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の実践の道は、
自分の意識を高めていくようなスピリチュアリティでもなければ、
真理を追究していくようなスピリチュアリティでもありません。

前者に関して言うならば、
自分を高めていけば、あるいは自分がより良い自分へと変わっていけば、
その延長に覚醒とか悟りとかがあると、あるいは神になれると信じていますが、
そうではありません。
自我がいくら意識(波動)を高めていったところで、自我はやっぱり自我でしかありません。
でも、ついスピリチュアルな世界を探究しているわたしたちは、
自分(自我)が覚醒していく、あるいは、悟りを得ていく、神になれると勘違いしがちです。
私自身もそのように勘違いしてまさにさまざまなスピリチュアリズムをたどって来たことは、
否定できません。

また、後者に関して言えば、
真理をこの幻想世界に持ち込もうとするのではなく、
むしろその真逆で、幻想を真理へと運んで明け渡していくのがこの道だといえます。
この世界を知覚しているわたしたちではけっして理解することのできない真理を、
言葉にして表現しようとして、わたしたちは真理をこの世界に持ち込もうとします。
自我は、つい真理をこの世界に持ち込もうとしたがるのです。
そもそも言葉にすることなどできないものを言葉にしようとするスピリチュアリズムに
自我は惹かれてしまうのです。
それはまるで、自分は檻の中にいるのに檻の外に出ようとはせずに、
むしろ、檻の出入り口で「檻から外の世界に出なさい」と語りかけているイエス(導き手)を
檻の中に引きずり込もうとしているようなものだといえます。
これまでの自分を振り返っても、そういうことをしていた心当たりがあります。

今、私が実践しているこのコースは、
そういうものをたどってきた旅路の果てにたどりついた道だと言うことが出来ます。

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2018/03/23

前と同じ様な自分に見えても、そこに罪悪感を持たず

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学習をはじめられたばかりのSさんから
セッションの感想・体験談のメールをいただきました。

「前と同じ様な自分に見えても、そこに罪悪感を持たず、コースを一つ一つ歩んで行けば良いんだと、気持ちを楽に持とうと思っています。」

この道は、前進してはまた後退したかのように感じたりしますが、
それでも一歩一歩、自分で心を訓練していくしか成し得ない道だといえます。
私も同じ道を歩んでいる者の一人です。
コースの道を歩みはじめた方々にとって参考になると思いますので、
ご本人のご了承のもとに、いただいたメールのままご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・

<Sさんからの感想メール>

もりG様

セッションでは、本当にお世話になりありがとうございました。

もりGさんの導きで、目の前の許せない事から始まり、どんどん深い所迄絡まった糸を紐解く様に、掘り下げて(内側を明るみにしていくお手伝いをして)頂きました。
過去世での体験(記憶)=「無念さ」をずっと引きずり、何をしても(すべてが)無駄になってしまうのが嫌‼️と言う感情が私の根元に常にある事に気付かせて貰えました。
そして、マリア様とイエス様が出て来て下さり、(これ迄の人生でイエス様とのご縁を感じなかった私には正直驚きでしたが…)、もりGさん立ち会いの元に、まるで洗礼を受けているかのように様に感じました。
新しい一歩を、イエス様に導かれて踏み出せた喜び(を感じました)。

セッション後も、自分が生まれ変わった様な感覚と、胸が軽く平安に包まれ…目の前の人にいつもの様に怒りも沸かず、幸せな3日間を過ごしてました。
でも、そんな幸せな感覚も長くは続かず、徐々に心身が重くなって行き、気が付けば以前の様に怒りを爆発させている私がいました。
そんな自分自身が情けなく、こんな状態の感想をもりGさんにお伝え出来ない…と、お礼のメールが遅れてしまいました。
でも、何とかしたい‼️と切に願う状況だからこそ、コース(ACIM)をもっと理解して赦しを実践出来るようなりたい‼️と強く思います。
未だレッスン29ですが、『神の使者』(ゲイリーレナード著書の朗読)をYouTubeで聞き、とても分かりやすく、ここ数日ずっと聞き続け、今日最期迄聞き終えた所です。
コースの素晴らしさを改めて感じ、このコースに出会えた事、もりGさんのご縁に感謝で一杯です。
本当にありがとうございます。
そして、前と同じ様な自分に見えても、そこに罪悪感を持たず、コースを一つ一つ歩んで行けば良いんだと、気持ちを楽に持とうと思っています。

(大阪 女性)
  
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2018/03/20

戻りの旅路

私にとって、このスピリチュアル・ジャーニーもずいぶんと遠くまで来たなと感じています。

その旅も今や戻りの旅路をたどっており、その旅路の終わりの段階に向かっていると感じます。
この道の歩みを通して私が感じているこの安心感と信頼感がそのことを教えてくれています。
その安心感と信頼感はまだ完全なものではありませんが、
それでもこのスピリチュアル・ジャーニーにおいて、この道でいいのだ、という感覚は、
ますます確信へとなっていっているのを実感しています。

そもそものこの旅のはじまりは、私が20代前半だった頃に遡ります。
真理、悟り、覚醒(目覚め)といったものを求めて、
このスピリチュアルな探究の旅は始まりました。
この旅がはじまったきっかけや理由についてはいかようにも述べることはできますが、
そのどれもが二次的なものにしかすぎず、ただそうなることになっていたのだと思います。
衝動にかられるままに、促されるままに、流されるままに、
ただその流れに従っただけ、あるいは、従わされただけということです。

今から振り返って想えば、
真実を求めたいという衝動といいましょうか、その促しは必然だったのだと思えるのです。

そして、そんな今想うのは、
私が求めていたのは、真理や悟りや目覚めといったものではなく、
この安心感と信頼感だったのだと気づくのです。
その安心感と信頼感を「幸せ」という言葉で言い換えてもいいです。

そう、私は、幸せでありたかったのだと気づくのです。

それは、この世を超えたものからもたらされるものです。
それは、決してこの世のものでもたらされることはなく、
この世のものと引き換えになど、決してすべきではないものです。
でも、わたしたちは、この世のものと引き換えにしてしまったのです。
ゆえに、わたしたちは、この安心感と信頼感を見失ってしまったのです。

この安心感と信頼感と共に佇んでいる時、
時間というものがだんだんとどうでもよくなっていくのがわかります。
幸せであるならば、もう、それでいいのです。

このいま、幸せであること。
この今を、幸せで在ること。
私が、今も歩んで向かっている場所とは、幸せで在る、というそれなんだと気づきます。
神のもとに帰るとは、そういうことなのだと。

この私もまだこのスピリチュアル・ジャーニーを完了したわけではありません。

このスピリチュアル・ジャーニーが終わる時とは、
私にとって時間というものが必要なくなる時なのだといえます。
それは、いまこの瞬間へと帰っていくだけのことなのだと気づきます。

戻りの旅路をたどっているのを直感的に感じる今、
私にとってのゴールは、もはや真理や悟りや目覚めというものではなくなってきています。

それは、もっとシンプルなものだと気づきます。

そう、それは、

いま幸せであること、
いま幸せでいること、

ただそれだけなのだと想う今日この頃です。

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2018/03/17

外側に見える世界の向こう側を

私自身のことで言いますと、
2016年の秋にコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学習を再開して以来、
内側へ内側へとずっと意識を向けてきたように思います。
むしろ内側へと向かうために、外側というものをあえて全面的に否定していたと気づくのです。

もちろん、外側の世界に見えるものは、何一つたりとも永続することはなく、
つまりは、はかない幻想にしかすぎず、価値に値するものなど何一つない、といえます。

ただ、ここ最近、私の中でなにかがまた反転したのです。

意識のベクトルが外側に開いたといいましょうか。
意識を外側に開くことがようやく許可されたような感じがしています。
それは、延長(拡張)のはじまりといえるのかもしれません。

これまで、私は、外側というものを全面否定して一切を無視していたと気づくのです。

そうではなく、外側に見えるモノの向こう側、つまり実相を見ていこうと。
あらゆるモノのその奥にある実相を見ていこう、と。
かたち(形態)を超えたその向こうにある実相を見ていこう、と。
そんな想いに私は変わってきたのです。

そして、それは兄弟に対する見方に対してもそうです。
兄弟を身体として見るのではなく、兄弟の自我を見るのではなく、
兄弟のその奥にある実相(神/キリスト)だけを見ていこう、というふうにです。
その実相とは、この私の内側にあるものと同じ一つのものなのですから。

私の中の何かが開いたという感覚です。

外側の向こう側にある実相を見ていこうと意図するとき、
もはやこの世界が薄いベールのようにさえ見えます。

そう、実相を内側と外側というふうに隔てているのがこの世界だと気づきます。
そして、ほんとうは内側も外側もないことがわかります。
それは、一なるものでしかありません。

この世界のベールを超えて、内側と外側が一つになる場所へ向かって。

ただそのためだけに、これからのこの私はこの時間と空間の中で生きるのだろうと、
そして、ただそれだけのためにこの身体は生かされていくのだろうと直感する今日この頃です。

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2018/03/16

ガイダンスについて

ガイダンスからのメッセージです。
テーマは、そのままズバリ、「ガイダンスについて」です。

ガイダンスとは、聖霊(ホーリースピリット)のことと言ってもいいと思います。

この道の歩みは、赦しの実践による「心の訓練(マインドのトレーニング)」と
内なる導きである「聖霊(ガイダンス)」が必要不可欠だと言います。

内なるガイダンスとつながることなしにこの道の歩みはあり得ないということに
あらためて気づかされます。

以下が、メッセージです。

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あなたはどうやってこの二元性の世界にやってきたのか?
わかりません。
あなたはどのようにしてこの幻想世界にやってきたのか?
知りません。

ましてや、
あなたがどうやってわが家に帰っていくのか?
あなたにはわかりませんし、
あなたはどのようにしてわが家に帰ればいいのか?
知りません。

ゆえに、あなたには導き手(ガイド)が必要なのです。
あなたには、導き手のガイダンスが必要なのです。

ガイダンスに耳を傾けなさい。
そして、そのガイダンスに従っていきなさい。

それが、ノンデュアリティのスピリチュアリティと(この道との)のちがいです。
ノンデュアリティのスピリチュアリティには、ガイダンスの概念がありません。

たしかに、
「この世界は幻想である」とか、「台本は書かれている」とか、
「すべては一なるもの」、「すべてはいま」といったことばは、
意識レベルの高い視点から述べられたことばであり、その通りだと言えます。

ただ、あなたが、
自分はこの身体である、自分は人間である、自分はこの時間と空間の世界の中に存在している、
この世界はリアルである、世界がある、他者がいる、、、
というところから生きているのなら、またそのように知覚しているのなら、
やはり、あなたにはガイダンスが必要なのです。

ガイダンスにいつも尋ね、耳を傾け、従っていきなさい。
あなたは帰り道を知らないのです。
ガイダンスは帰り道を知っていますし、このいまもあなたを導いてくれています。

ガイダンスは、いつのときもあなたに語りかけていることを知ってください。

ガイダンスに呼びかけなさい。
あなたが呼びかけるとき、かならずや応えてくれるでしょう。

以上が、今日のメッセージです。
 
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