2018/04/30

<告知> 5/20「ACIMウェブシェア会」のお知らせ

5月の「ACIMウェブシェア会」のお知らせです。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、

「テキスト」「ワークブック」「教師のためのマニュアル」」の3冊があれば、

自学自習で十分に学べるものだと私は思います。


ただ、そうは申しましても、私自身のことで言いますと、

一人で学んでいた頃と比べると、

今はシェアできる仲間がいたり、先にコースを学んで実践している人たちの言葉によって、

その学びを飛躍的に進めてくれていると感じています。


この「ACIMウェブシェア会」をそのようなものとしてお役立ていただけたらと思います。


ACIMに興味のある方、 ACIMを学んでいる方など、

ほんの少しの意欲をもって、お気楽にご参加ください。



【5/20 ACIMウェブシェア会のご案内】


■日時: 2018年5月20日(日) 10:00~ (90分~120分程度)

■開催形態: スカイプ(原則的にビデオ通話)にて行います。

■参加費: 無料

■参加対象者:ACIM(奇跡講座)を学んでいる方、これから学ぼうと思っている方

■お申込み・お問合せ:

 詳細につきましては、空禾さん(主催者さん)のブログ記事をご覧ください。


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2018/04/29

何のための学びか

「スピリチュアルの学び」と「アウェイクニング(目覚め/悟り)」との関係性は、

どのように捉えたらいいのでしょう?


アウェイクニングについて言えば、

わたしたちは、魂を磨いていけば、魂を成長させていけば、

そこへ辿り着けると信じてスピリチュアルな学びをしてきたといえます。

ですが、本当は、いまここにあるのだということです。


魂とは、輪廻転生していると思われている個人的なスピリットのことですが、

それこそ、魂とは、時間の中を旅する分離意識ゆえの幻想でしかないと言うことが出来ます。


わたしたちの本質は一つです。

スピリットは一つです。

本当は、個別の「魂」というものがあり得るわけがないのです。


ゆえに、魂をいくら磨いていったところで、魂をいくら成長させていったところで、

いくら洗練していったところで、分離が終わるわけでもなく、学びが終わるでもなく、

ようするに、アウェイクニングとは一切関係がないといえます。


わたしたちはこの幻想の中で、幻想から目覚めようとしているわけで、

ある幻想からまたあるより良い幻想へなっていったとしても、幻想は幻想でしかありません。

幻想を実在しないものと見切って幻想から離れていくことでしか、

幻想からの目覚めはないということです。


アウェイクニングは、幻想とは一切関係がないということ。


スピリチュアルの学びというものについていえば、

学ぶということを終わっていくことがわたしたちの目的であることを忘れてはいけません。


わたしたちが最終的に帰っていくところとは、そういうものだということです。


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2018/04/28

奇跡を生きる

私にとって、
「これまでの考え方」というものは、もうこの先には持っていけないと気づきます。

「これまでの考え方」とは、
自分の常識としてきた考え方、あるいは一般的に常識としている考え方のことです。

むしろ、
この先の歩みはもうそういうものが要らないのだ、ということなのだと思います。

それは、これから(いい意味で)突拍子もないことが起きていくということであり、
そういう段階へとシフトしていくその準備をしているようにも思えます。

私の中で、アライメント(調整)が起きているのがわかります。
いろいろな考え方、想念、記憶が湧き起こっては、ただひたすらそれらを眺めていっています。
心の奥にしまっていたダークネス(暗い)な部分がどんどん湧き起っては、
明るみにされていっており、それによってさまざまな気づきが起きています。

すべてはただ必要なことが起きているだけなのだと自覚します。
神の計画のもとに起きることが起きていっているだけです。

ますますサレンダー的な生き方へとシフトしていっている状態です。
それが飛躍的にシフトしていっているような今の私の状態です。

それでも私がしていくことは、聖霊と共に赦しをしていくだけなのだということです。
そして、その実践はこれからもやり続けることに変わりはないということです。

究極は、私が幸せで、楽しんでいればいいのだと。
そうあるだけでそれは延長されていくのだろうと思います。

すべてはただ唯一の目的のためであり、そこへと私は運ばれているだけなのですから。

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2018/04/18

聖霊の必要性

これから先に進んでいこうとするとき、
これまでの(自我の)思考体系のままではもう先に行けないと思ったりします。

これから先のことは自分ではわからないし、
もう自分でどうのこうのするものでもないといった感じです。

だからといって、深刻さもありません。

あえてことばにするなら、神の道にいよいよ踏み込むのだなという気がしています。

自分で生きていくのではなく、聖霊に動かされていく、、、
この世界をリアルとするのではなく、すべては唯一の目的のために、
すべてをレッスンとして、この世界をそのための教室として、、、
というふうに思考(考え方)を逆転していかないと先には進めないという気持ちです。

それと共に、聖霊(内なるガイダンス)の必要性、重要性にあらためて気づきます。

「聖霊」でも「大いなる自己」でも「神」という呼び方でもかまわないのですが、
そういった自己を超えた存在なしで、これからの道のりはあり得ないなと思うのです。

これまでの自分は、聖霊をさほど重要だと、必要だとは思っていなかったと気づきます。
むしろ、都合のいいときにだけ聖霊にゆだねるということをしていて、
それ以外は、やはり自分(の力)でどうにかしようとしていたと気づくのです。

この学びも、この人生も、この歩みも、
もう、聖霊なしではこの先へ進むことはできないと感じているということです。

もう自分ではどうしていったらいいのかわからない、
その反面、自分の力ではないところで目に見えない大きな力が働いて導かれている、
というのがいまの私の正直な心境といったところです。

言い換えれば、もう自分でどうのこうのする必要はないのだということなんだと思います。

ただ素直になって聖霊に従っていくのみだと。

もう本気でサレンダーしていくほかないのだと思う今日この頃です。

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2018/04/17

聖なる呼び声

わたしたちは、「この自分がいかに満たされていないか、幸せでないか」

ということにまったくと言っていいほど無自覚だといえます。


 無意識的なところではそのことを常に感じているにも関わらず、

この世のものでそれを埋め合わせることに躍起になって、

そのことが不自然なことだとはだれも疑うことがありません。


本当は「幸せ」ではないのに、自分自身を欺いているということです。

まんざらでもない状態でそれなりに満足しているというか、妥協している

というのがわたしたちのしていることです。

もしくは、その状態にマヒしてしまっているといえます。


そんなわたしたちにとって、

「自分は満たされてはいない、自分は幸せでない、自分は不幸である」

と自覚することは真の幸せを求めるためにとても重要なことだといえます。


そして、もしあなたがそう感じているのなら、

ある意味でとてもラッキーだと捉えていいと思います。

なぜなら、その自覚によって真の幸せを求めるきっかけになり得るからです。


自分はまだ真に満たされてはいない、自分はまだ真に幸せではない、と、

わたしたちはもっともっと自覚的になる必要があるといえましょう。


その自覚こそが、真の幸福へと、神のもとへと帰るべく、

あなたをその旅へと誘うことになるでしょう。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の中のジーザスはこう言います。

その旅は、時間の中の旅における最後の旅路になると。

でも、この旅は、けっして一人で歩むというものではありません。

道を示してくれるジーザス(イエス)がいます。

共に歩んでくれる聖霊がいます。


自分は幸せでない、満たされてない、と感じる時、

それは、イエスからの、聖霊からの、聖なる呼び声だと理解していいでしょう。


どうぞ、静かになって、

ハートからの聖なるコーリング(calling/呼び声)にもっと耳を傾けてみてください。

それを試みるとき、あなたはきっとその声を受け取ることでしょう。


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2018/04/16

分裂した心

心が分裂している症状を統合失調症と呼びます。

以前は、精神分裂症という呼び方で呼ばれていました。


真理からみれば、わたしたちはだれもがみんな精神分裂症だということが出来ます。

例外なくだれもがみんな、です。

この二元性の世界を知覚しているかぎり、そうだということです。


自分の内側をよくよく内観(Inner Inquiry)するならば、

自分の心の中に「神を求める自分」と「神を拒否している自分」の

相矛盾する両方の心があることがはっきりと認識されます。


つまり、それは心が分裂した状態であり、

それこそがこの分離の世界を、この二元性世界を生み出す原因となるものだと言えます。


わたしたちは、神のもとに帰りたいと望んでいながらも、

同時に神を怖れている、神に抵抗している、神と戦っている、、、

ということが心のなかで起きているのです。


「神」という言葉を、「愛」といった言葉で置き換えてもかまいません。

さらにまた、「神」という言葉を、「平安」や「幸せ」という言葉で置き換えてもいいです。


もし、あなたが、自分はなぜ不幸なのだろう?

どうして、自分は幸せではないのだろう?

なぜ、自分は幸せになれないのだろう?と感じているのならば、

つまりは、そういうことだと言うことが出来ます。


幸せを求めていながらも、真に幸せになることを拒否しているということです。

そのように分裂した心のままでも幸せになれる、と信じているということです。


まさに、その分裂した心とは、狂気としか言いようがありません。


分裂した心のままいくら幸せ(神)を追い求めても、

幸せ(神)に到達するということは絶対にあり得ません。

というのも、いくら幸せ(神)を求めようとも、

幸せ(神)に向かおうとするのを邪魔する自分と悪戦苦闘することになるだけです。


たぶん、これまでのわたしたちは、スピリチュアルや宗教や修行という名のもとに、

そのことに計り知れないほどの時間と労力を費やしてきたのだといえるでしょう。


まさか、自分の中に、自分が幸せになることを咎める自分がいるとは、思えないことでしょう。

とくに、スピリチュアルの探究者たちは、自分の中に神(幸せ)から遠ざかりたい自分や、

神(幸せ)に抵抗している自分がいることを認めたくはないかもしれません。


神を咎めている自分、神に抵抗している自分、、、それを、自我(エゴ)と呼びます。


その自我に気づいていくことが、神に向かうための一歩になります。

そして、その自我を取り消していくことが、わたしたちが取り組んでいく道だといえます。

その道は、けっして、自我を無視したまま神(愛)へと向かうものではありません。

もし、そうするならば、それは自我と戦うということであり、その戦いに終わりはありません。


まずは、神(愛)に抵抗している自我に気づいていくことです。

そのために、自分の内面の無意識に取り組んでいく必要があります。

それによって、自我と同一化していたアイデンティティから解放されていきます。


私がしているセラピーとは、そういうものだと理解していただけたらと思います。


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2018/04/12

幸せになることへの抵抗

これからこの先、
つまり、これからこの時間と空間の世界の中で、
限りなく無限にハッピーになっていくんだろうな、という予感がしています。

もちろん、それは、心のレベルにおいてのことであって、
かたちのレベルでのことを言っているのではありません。

そう、この平安と幸福の感覚は、この世界に反映されて知覚されていくのだろうなと。

神はわたしたちをいつも祝福しておられるのですし、
神の意志に従うということは、
この時間と空間の世界の中にいるあいだは、
神の性質をこの身を通して体験していくのだろうなという想いがするのです。

そう、その体験を重ねていくことによって、
神への信頼がより確信へとなっていくのだと思います。

ただ、そんな私も自分の心の一部に、
幸せになっていくことへの抵抗が自分のなかにあるなぁって気づきます。

想像を超えていく体験をやはり自分は恐れているということです。
たとえそれがハッピーなことであっても、です。
無限に幸せになっていくことが、自分は、恐いのだなと。

自我は愛を恐れている、と言われていますが、まさにそういうことなのだと思います。

自我は自分の想定内のハッピーでいたいのだと。
制限なくハッピーになることを、自我は望んではいないということです。

そう、自我とは、もともとそういうものだと認めることが大事なのだと思います。
自我に恐れは付きものであり、自我は絶対に真にハッピーになることはないということです。
自我は、この世界でほど良く幸せであればいいと思っているのです。
それによって、この世界の幻想の中に自らを留めておきたいのです。
(ただ、その「ほど良く幸せであればいい」というものこそが、叶えられぬ幻想なのです。)

それは、どうにかして恐れを克服しようとするものではないということを意味します。

自我は、どう変わっていっても自我です。
それはニセモノの自分なのであり、そしてそのニセモノの自分はこの世界を信じたいのです。
つまり、この世界を信じているかぎり、
その恐れは小さくすることは出来ても、絶対になくならないのだということ。

自我とは、そしてこの世界とは、そういうものだとあらためて自覚する今日この頃です。

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2018/04/09

兄弟との関わりを通して

兄弟と関わっていきたい、という私の想いは、どこからくるのだろう?と自分でも不思議です。

私がサイコセラピストとしてセッションをしているのも、
その想い(衝動)があってこそ続けていられるのだと思います。

そして、それについて答えるとするならば、
私が兄弟と関わるその目的といいましょうか、
セッションをしていくその理由は、「joining(結合、接合)」なんだと思います。

それは、この世の(かたちの)レベルでつながるというものとはまったくちがいます。

実相レベルでの  joining です。

ただそれだけなんだと。
本来、わたしたちは神の子として一つなんだと思い出したいのだと。

わたしたちは、実相では一なる心でつながっています。

あなたという存在のその奥に在る実相と、
私(もりG)という存在の奥に在る実相は、 同じものです。

一なる心でつながっていて、同じ一つのものです。

私は兄弟たちとそれを分かち合いたいのだと、自分なりにそう想います。

あなたと私との出会いがそういうものであったらいいなと思います。

私のこの想いが、あなたのもとへ届きますように。

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2018/04/08

信頼について

ガイダンスからのメッセージです。
今日のテーマは、「信頼について」です。

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目的は何か?を忘れないように注意深く警戒していなさい。
見守っていなさい。

何のために?何の目的でこの学びを進めているのか?その目的を忘れずにいるなら、
あなたの平安は決して乱されることはありません。
むしろ、あなたは確実な道を歩んでいるということを信頼の中で育んでいくことになります。

この世界がその目的のための「教室」であることを知りなさい。
あなたの心を動揺させるものがあるとき、
それがあなたをこの世界から自由にするためのアイテムとなるということです。

もし、あなたの心が動揺するのなら、
あなたは自分で人生をコントロールできると信じているといえます。
目の前に起こる局面を自分の力でどうにか対処できると信じているとき、
目の前にある問題を自分で解決しようとするとき、
あなたは「信頼」というものから離れていることになります。

自分の力でどうにかしようと、どうにかできるとあなたが信じ込んでいるとき、
あなたの心に心配、不安、憂鬱、恐れ、怒り、、、を抱くことは避けることができません。

自分は何が最善なのか?がわからないのだと、
そして自分はそもそも人生をコントロールなど出来ないのだと知りなさい。
そのことをただ受け入れる時、
あなたの心は、この世界を超えたものに信頼を置きはじめたことになります。

自分の力でコントロールすることを手放すことが、「信頼する」ということなのです。

あなたひとりでは、何もできないということを知りなさい。
あなたはひとりでは何も成し遂げられないのです。
むしろ、あなたは自分ひとりで成し遂げる必要はないのです。

任せていればいいのです。
ただ安心していればいいのです。

それが信頼するということであり、その信頼からこそ奇跡の延長はじまっていくのです。
信頼によって、あなたはすべてのコントロールを手放し、自分を放棄し、この世界を放棄して、
やがてあなたはこの世界から完全に自由になっていくことでしょう。

それが神の意志であり、真のあなたの意志であるのですから、
それは、必ずや成し遂げられることになります。

そのただ一つの目的のために、あなたはこの時間と空間の世界にいるのだと気づいていなさい。

それが、わたしからあなたへのメッセージです。

わたしはあなたを愛しています。

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2018/04/07

放棄するということについて

「放棄する」とか「手放す」というのと、「ゆだねる」ことは同じ意味をさします。


ですので、この世界を放棄しないまま、すべてをゆだねるということは、

まるで相矛盾していますし、無謀なことをしているといえます。


それは、ちょうどアクセルを踏みながらブレーキをかけているようなものです。

それでは、いつまでたっても自我は止むことはありません。

もちろん、それではゆだねるということなど不可能です。


放棄することのないまま、ゆだねる、ということが、いったいあり得るのでしょうか?


でも、自我は、そういうことができると思っています。

そして、自我は、そうやってでも存続しようとします。


正直なところ、これまでの私自身のことを顧みると、

自分はまさにそういうことをしていたのだと気づきます。


「放棄する」とか、「ゆだねる」とか、頭で理解していただけで、

実際のところ、私自身、まったくそれが出来ていなかったと気づきます。


自分がしていた「放棄」とか「ゆだね」というものは、部分的なものだったと気づくのです。


それは、ある部分ではこの世界は幻想だと放棄しておきながら、

他の部分においてはやっぱりこの世界を現実だと信じていたということです。


ただ、もう、そのような部分的な「放棄」といったものでは、うまくいかないと気づきます。


うまくいくわけがありません。

そう、この世界や、この世界のものを現実だと思いながら、

放棄する、手放すということをしても、不安、恐れから逃れられることは決してありません。


すべてに例外なく幻想であると見限っていく、価値のないものとして見切っていくほか、

本当の「ゆだねる」ということはできないのだと気づきます。


それは、全面的なもの、包括的なもの、でなければ意味がないということです。


そして、私にとって全面的な放棄の実践のはじまりだと自覚します。

ようやくそのスタート地点に立ったと感じています。


「放棄すること、手放すこと」とは、

幻想に価値を置かないで、神を選択していることと同じことです。

またそれは、内なるガイド(聖霊/イエス)の手にゆだねていくということなのだと、

あらためて気づく今日この頃です。


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