2018/08/31

ラッキーでいることなんて当たり前なんだよ

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沖縄に引っ越して来て丸二ヶ月になります。

この写真は、朝、通り雨が降ったとき、その後に現れた虹の写真です。

あまりに虹のアーチが大きすぎてカメラのフレームには収まりきれず、
2枚の写真に分けて撮るしかありませんでした。
(もう半分の虹のアーチは、この記事の終わりにもう1枚の写真に撮ってあります)

最近は、朝に通り雨が降るとよく同じ位置に同じような虹をもう3回ほど見ています。

ここ沖縄に越してくるまでは、虹をみることは稀で、
虹が現れたときには、ラッキー!と思っていましたが、
こちら沖縄はさすが南国といいましょうか、
通り雨が降ろうものならば、かなりの確率で虹が現れます。

いまでは虹が現れても驚くこともなく当たり前という感じです。

外側にみる光景が内的状況の反映であるなら、
私は虹というシンボルを通して自らの内側をみているのでしょう。

私にとって虹とは?と問いかけるとき、
内なる声は、「懸け橋」と答えます。
つまりは、聖霊のことかなと。

虹をみることが当たり前だと思えてきている私に、
きっと聖霊は、
「ラッキーでいることなんて当たり前なことなんだよ」
と伝えてくれているように感じる今日この頃です。

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2018/08/30

天国にいちばんちかい島

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聖霊は、
この世界を幻想だと知っており、天の国(神の国)だけが実在すると知っています。

自我は、というと、
天の国(神の国)こそ幻想だと見て、この世界をリアル(実在する)だと見ています。

で、この「自分」は、
以前は、後者の思考システムでこの世界を見ていたわけですが、
前者の視点で見る訓練(赦しの実践)をしているうちに、
次第に本当にその視点へとシフトしていっているのに気づきます。

なにひとつ深刻になる必要はないのだと、
あまりにも当たり前すぎるというか、そりゃそうだとわかります。

そこには平安ということばさえもいらないほどの、平安、があります。

その瞬間は、イエスと共に、すべてを聖霊にあずけ、
神の愛だけが実在するのだと祈りを捧げている瞬間だともいえます。

そんな瞬間は、きっと天の国にちかいところにいるんだろうなと思います。

自分の拠りどころを「島」と呼ぶならば、
天国にいちばんちかい島とは、まさにこの瞬間こそそうだなと想ったりする今日この頃です。

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2018/08/29

カースティンそしてデイヴィッドたちについて

カースティンさんが10月に来日して、イベントもあるらしいです。

一年前、いや半年前だったなら、私はぜひ会いたいと思ったはずですが、
今となっては興味がないといいますかそんな気にならない自分に気づきます。

以前はあんなにデイヴィッドやカースティンに傾倒していたにも関わらず、
今やほとんど興味がなくなってしまったというのが正直なところです。
それは、けっしてデイヴィッドやカースティンを否定するものではなく、
ただたんに私の感じ方が変わったのだといえます。

コースの学びを進んでいく上において、「踏み台」みたいなものがあるように思います。
そう、わたしたちはそれぞれのプロセスをたどって、それぞれの踏み台をたどりながら、
最終的には内なる教師(聖霊)だけを自らの教師とするところへと向かっていくのでしょう。

彼らにはこれまで、私自身のコースの学びをとても進めてくれたと感じています。
そのことは事実で、今もとても感謝しています。

ただもう今となっては彼らを必要としなくなったと感じているということです。

タイミングのいたずらと言ったらいいのでしょうか、
不思議なものです。
ご縁があるとかないとかでいうならば、すべて決まっているのだと思います。

カースティンさんのこんどの来日についてそんなことを感じている今日この頃です。

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2018/08/28

『奇跡講座入門 講話とQ&A』を読んで

最近、『奇跡講座入門 講話とQ&A』/ケネス・ワプニック(著)加藤三代子(翻訳)
の本をはじめて読みました。

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コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)を学んでもう何年にもなりますが、
自分のコースの理解度を確認するかのように読ませていただきました。

個人的な感想としましては、
私にとってちょうどいいタイミングでこの本が私の手元にやって来たのだと、
この本を読んでみて私はそう思いました。

つまり、この時期になってようやく私は読むことのできた本だったということです。

たぶん、今以前に読んだとしても、きっと読みこぼすところがたくさんあって、
あまり頭に入っていかなかっただろうなと自分で思うのです。

ようするに、『入門書』とはいえど、
コースをある程度理解し実践している方にとっても
コースの形而上学の理解を確実に深めてくれる本だといえると思います。

そして、もう一つ言えるのは、
『ア・コース・イン・ミラクルズコース』という書物が出来上がった背景を知っておくことは、
コースの形而上学を理解をする上でもさらに深みを増してくれる感じがします。

そして、あたらめてケネス・ワプニック博士の果たした功績は偉大なるものだと思いました。
なぜなら、コースはいかようにも誤った解釈で学ぶことが出来るからです。
コースの解釈についてけっして妥協のないところでコースとはどういうものか?を明確にし、
的確に論理的に解説したケネス・ワプニック博士に感謝の念を感じずにはいられません。

ということで、この本に興味があられたらぜひお読みください。

ワプニック夫妻に感謝を込めて。

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2018/08/27

この旅路がはじまった場所へ

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この旅路が終わる場所とは、この旅路がはじまった場所でもある。

そのときとは、日暮れのようにも見えるし、夜明けのようにもみえる。

夜が明けるとき、闇に光が差し込むのをあなたは見るだろう。

そのとき、あなたに目覚めのときはやって来る。

そのときは、必ずやって来る。

そしてそのとき、
あなたはけっして脆く弱く卑小で孤独な存在ではなかったことを思い出すだろう。

2018/08/26

だれかが見ている夢

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今日は、朝の瞑想が終わってから妙な感覚です。

この世界は自分が見ている夢だと想っていたのですが、
瞑想中に、ふと、この(世界の)夢はいったいだれが見ているのだろう?
という想いを抱いた瞬間から、
その夢を見ている「自分」がいないといいましょうか、
言葉にすると難しいのですが、
まるで見知らぬだれかが、
「私(もりG)が主人公の夢」をもりGの知覚を通して見ているという感覚です。

もはや、もりGがすること、為すこと、考えていること、
そのすべてがまるで他人事のように感じられるのです。

このブログ記事を書いているこの「今」もそれはただ起きているという感覚で、
それが、じつに面白いです。笑

この感覚はいったいなんなのだろう?
と自らの内に問いかけると、

一歩下がって、聖霊にゆだねる

というインスピレーションがやってきたので、
なんとなく腑に落ちる感覚があり、
しばらくこの感覚で過ごすことを心がけて、これを日常的にしようと思った次第です。

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2018/08/25

時間の終わる瞬間へ

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)の形而上学の理解が深まるにつれて、
自分の内側で湧き起ってくる自我の精神力動(思考メカニズム)が
よく見えるようになってきたのがわかります。

いわゆる、よりたやすく自我のトリックに気づけるようになってきたということです。

それによって、赦しがより頻繁になり妥協がなくなってきたと感じています。

だからといって、いつも心が平安だというわけではなく、
むしろ、より感情が湧き起って来ている感じもありますが、
それに気づいたら、ただひたすら赦しをしていくだけですし、
していくことはただそれだけなのだという気持ちです。

そうやって赦しをしながら自我を直視することをしていくと、
自我はただ時間稼ぎをしたいだけなのだと気づきます。

むしろ、この世界はその目的(時間稼ぎ)のためにあるのだなと。

自我は、真実と向き合うことを先送りにしたいのです。

自我は、時間の中でしか存在できないがゆえに、
いまこの瞬間にいようとすることを、避けているのです。
いまこの瞬間の平安にいようとすることを、避けているのです。
いまこの瞬間へと帰還していくことを、避けているのです。

自我は、目覚めないように時間稼ぎしたいのです。
自我は、少しでも長くこの(時間の)世界にいたい、留まりたいというわけです。

そのように自我を直視するとき、そんな自我が滑稽にさえ思えます。

時間とはそういうふうにして作られているのだなと。
ただ、もう私は、その時間も聖霊に明け渡しつつあります。

コースの中でイエスは、「赦しは時間を短縮する」という言い方をしていますけど、
なんとなくわかる気がします。

わたしたちは、いずれ「いまここ」「いまこの瞬間」へと帰っていくのだということです。

コースを学んでこの道を歩んでいるわたしたちはそこへ向かっているのだと。

まさに、時間の終わる瞬間へと向かっている、、、ということです。

明日もなけれな、未来もない。
この世界にはもはや目標がない。
だから、ただ今日を生きるだけ。
もっといえば、この瞬間を聖霊に明け渡していくだけ。

そんな感覚になっていっている今日この頃です。

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2018/08/22

コースを学ぶのはなぜ

私の死生観いついて書いてみたいと思います。

私は、死を迎えるときとは神の国(天国)に帰るときなのだと思っています。

この自分だけにかぎらず、
だれもが肉体の死を迎えたなら神の国に帰るのだと思っています。

もちろん、そこには輪廻転生というものはありません。
以前は、そのようなことも信じていましたが、
今ではそういう概念が私(の中)から消えてなくなっていることに気づかされます。

だれもが肉体の死とともに、自我の死を迎え、
そして、この世界とともにただ無へと帰すだけなのだというふうに捉えているということです。

だれもが自我の象徴である「肉体」から解放されたなら、
自我の見ている夢から目覚めて、真の自己に目覚めるのは当然のことだと。

つまり、この私にとって、「肉体の死」=「自我の死」だということです。

ゆえに、だれもが肉体の死を迎えたなら、自我から解き放たれ、神の国に帰るだけだと。

もっと言うならば、「肉体の死」=「自我の死」=「この世界の消滅」であり、
自分が死ぬとき、その反映でしかないこの世界も一緒に終わる(消える)ということです。

逆に、自分が死んでもこの世界は存在し続けるという観点でみるならば、
肉体の死を迎えても自分(魂)は存在し続けると想うのは当然のことで、
ゆえに輪廻転生という概念があり得るようになるということになります。

輪廻転生とは、分離した心の記憶の断片の集まりであり、
それをあたかもリニアな時間軸上で経験しているかのように捉えた概念にしかすぎません。

輪廻転生とは、分離した心ゆえにあり得る概念だということ。

わたしたちは、「分離した」という夢を見ているだけで、
肉体(自我)が終わったなら、その夢も終わるだけのことです。

では、死を迎えたとき、だれもが神の国(天国)に帰るのだとわかっていて、
なぜこの私はコース(ACIM/奇跡講座)を学び実践しているのでしょう?笑

なぜ、コースを学ぶのか?というとき、
正直、そこには理由などない、わからないというのが正直なところです。
結局は、コースを学んでいようがいまいが別にどうだっていいってことです。

ただ、強いて(理由付けして)言うとするならば、
この道を歩むことになっていたとも言えますし、
この道を歩むこと以外にもうこの世界ですることがない、
この道を歩むこと以上にこの世界に価値あるものがあるとは思えない、
といったところでしょうか。

そう、コースを学ぶ正当な理由として思いつくのが、
コースの以下の言葉をはじめて目にしたときに、
私の心がわけもなくトキめいたのを思い出すのです。

この世界は死によって去るのではなく、真理によって去るのである。

- 『奇跡講座』テキスト第3章より  -


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2018/08/21

スピリットとしての存在の仕方へ

先日の記事「いったいだれが目覚めるのか」にちなんで、もう少し書いてみたいと思います。

自分が目覚めるのではない、

というときのこの「自分」とは、
「わたしは肉体である」と想っている自分のことであり、
「わたしは人間である」と想っている自分のことだといえます。

いわゆる、そう信じ込ませることが自我の目的であり、
自我は、自分のことを肉体(人間)だと信じておきながら、
この世界を超越して自由になれる(目覚められる)と想っているということです。

自我とは、まさにそういうものであるといえます。

つまり、わたしたちが普段認識している「自分」とは、
自我と同一化している「自分」ということなのです。

それは、まさに夢を見ている状態なわけで、
夢の中にいる「自分」が目覚めたなら、
もちろん、それまで「自分」と想っていた自分は、夢と共に消え失せるだけです。

そのことをきちんと概念的に理解しているなら、
自我と同一化している自分をいちいちジャッジして裁く必要もなくなります。
夢の中の自分(自我)をいくらより素晴らしき存在にしようとしても、
所詮、夢の中でより素晴らしくろうとしているにしかすぎないのですから。
ましてや、いくらそこに時間や労力を費やしても、目覚めとは一切関係がないということです。

むしろ、わたしたちがしていくことは、
その自分(自我)を聖霊に取り消してもらうよう明け渡していくことだといえます。

この道を歩んでいるわたしたちは、聖霊を選択していくことになるわけですが、
その選択とは、聖霊にフォーカスしていくというよりも、
自我にフォーカス(直視)していくことを求められているといったといったほうが、
より的確かもしれません。

そうするとき、わたしたちは聖霊(の思考システム)を選択しているのであり、
赦しとはそういうものであるといえるからです。

それは自我の思考システムから聖霊の思考システムへのシフトととも言い換えられます。

また、そこには、
「肉体(人間)としての存在の仕方からスピリット(霊)としての存在の仕方へのシフト」
も伴わねばなりません。
スピリット(霊)とは、姿、形態、大きさもなければ、
この時空間に属するものでもありません。
それでありながら、この世界の夢を見ている(作り出した)主体でもあります。

そう、自分は肉体(人間)であるという信じ込みを明らかにしながら、
それすらも聖霊に取り消してもらうよう意図していくことが、
この「自分」にできることであり、この「自分」がしていくことだと言えます。

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2018/08/18

いったいだれが目覚めるのか

自分は、よほど目覚めたくはないんだろうなと自覚します。


神のもとによほど帰りたくないのだなって。


でなければ、とっくに神の国を選択し直しているはずで、

この世界を知覚していることはないはずです。笑


神の国か?この世界か?しか選択はなく、

この世界をまだ選択しているということは、

神にのもとに帰りたくない、神を避けていたいのだということです。


そんな自分を自覚したりするのですが、

それと同時に、ふと、気づくことがあります。


その自分とはいったいだれなのだろう?と。


というのも、

この「自分」が神のもとに帰るのだと想っているということです。


そうなんです。

この「自分」だと想っている自分は、

神のみもとに帰るときにはこの世界と共に「無」へと帰していくだけなのであって、

この「自分」が目覚めるのではないのだということです。


この「自分」は、神の国に帰るその瞬間、この世界と共に消えるのです。


この「自分」とは、そういうものであるということです。


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