2018/09/28

ノープラン、ノーフューチャー、ノーアイデンティティー

現在、沖縄は、台風が接近中です。

たぶん明日は、台風の目が私の住んでいる沖縄上空を通り過ぎていく感じです。


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↑これは天気がいい日に撮った近所の海岸の写真です


沖縄に引っ越してきて、やがて3ヵ月になります。

暮らしもずいぶん落ち着いて馴染んできた感じがあります。

それと同時に、やっとその準備が整ったような気もしています。


なんの準備なのか???

それがなんなのか?はこの私自身もよくわかっていないのですが、

わかる必要もないと思っています。


というのも、ただ起きることが起きていっているだけ、という感覚があるだけで、

そこには不安も迷いもないからです。


確実なところで自分自身でわかっていることといえば、

アイデンティティーを手放す(終わる)時が来た

ということです。


それは、未来を手放すという意味でもあり、世界を手放すという意味でもあります。


3か月前、沖縄に引っ越してくるときに、

身の回りの物や、身辺を整理してきたのですが、

それはあくまでも物理的なレベルのものだったわけで、

今ではそれもすべてそのための準備だったのだと気づきます。


この私も、肩書の上では心理セラピストと名乗っていますが、

前回の記事でもお伝えしましたように、

もうそれも手放すときがきたと受け入れている次第です。


この形態レベルにおいていえば、

もうこの自分は目標がないことに気づきます。

したいこともなければ、これからの計画やプランもなければ、

なにかのためにとか、だれかのためにとか、目的もないです。


ただ赦しをしていくだけがこの自分の機能(役割)であって、

それ以外になにがあるというのでしょう。


形態レベルの目標も、目的も、計画も、、、今の私にはなにもないです。

そして、もう必要ないという気がしています。


事実、そのことを受け入れることのできる状態(現状)にあるということも、

神と、聖霊の導き以外のなにものでもないという確信があります。


沖縄に引っ越してくるときも、とくに計画やプランがあったわけではないのですが、

それでもそれまでの活動の形態は変わらず続けていくんだろうなと思っていました。


ただ、正直、この今、まったくの白紙となってしまいました。笑


でももう、過去も未来もそしてこの今も自分の見ている夢だとわかっている以上、

なんの問題があるというのでしょう。


さらに、夢をみている者である「この主体」すらも夢(ニセモノの自分)なのですから。



ということで、


これからどうなるのか?


このブログも続くのか?どうなるのか?



そんな形態レベルのことを考えることすら必要ないなと想えてきている今日この頃です。笑


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2018/09/27

愛の延長

「赦し」がただ自分のしていくことだとわかっている今、
もはやセラピーの無意味性を認めざるを得ません。

真の「赦し」を実践している者にとって、
セラピー、ヒーリング、自己啓発といったものに何の意味があるというのでしょう!

心理セラピストととしてはもうやっていけないなと、もう無理だなと、そう想う次第です。

今の現状をみても、実質のところ、
セッションの相手はそのほとんどがコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)学習者です。

セッションの相手(クライアント)をコース学習者の方に限定しているわけでもないのですが、
結果的に、そうなってしまっていることに気づきます。

自分はもうだれかを癒す(セラピーを施す)必要がなくなったのかもしれません。
それは、もう自分の癒しが必要がなくなったことを意味しているのかもしれません。

私が心理セラピストとしてすることはもうなくなったということです。

心理セラピストとしてこの自分にできることはもうないなぁ、、、と。

と、そう思った瞬間、内なる声が私に語りかけてきたのでした。

それは、内なる声というよりも声なき声なのですが、
それを、あえてことばにするとこんな感じです。

「ただ在りなさい。
 あなたは愛でいればいいのです。
 あなたが愛でいるとき、その愛は延長されていくのです。
 あなたがしていくことはそれです。」

一言で言えば、それは、愛の延長、というもの。

その瞬間、あぁそうかぁ、、、自分にはそれができるし、自分はそれをしていくんだっけ、、、
と忘れていたものを思い出したような感覚でした。

愛を延長していくこと、それが自分の機能であったことを思い出した瞬間でもありました。

自分はもうなにかをする必要がないのだ。
神の愛の中で安らいでいればいいのだ。
なにをしていようと、だれといようと、どこにいようと、
愛と共に、愛でいればいいのだ。

それならば、心理セラピストとして自分にできることがある、、、と腑に落ちます。

たぶん、これからしていくものとはそういうものだろうと予感します。

ただそれはもう、
セラピーやコース(ACIM/奇跡講座)といった枠組みでなくてもいいいわけで、
どういった形態であろうが、どこにいようが、だれといようが、なにをしていようが、
私の機能はそういうものだと自覚します。

この自分が愛でいるだけで、それはこの自分が見ている世界に波及していくであろうと。

そう、愛を延長していくことが自分のできることであり、
それが、自分のしていくことであろうということです。

(自我の部分の)自分が、そのことをひどく納得するわけですが、
実際のところ、愛は「延長されていく」のであって、
この自分が愛を「延長する」のではないのだということです。
むしろ、この自分がなにかをするのをやめたときそれは延長されていくのだということであり、
やっぱり、この自分はなにもすることはなくなったのだと気づきます。笑

もはや、この私にとって、
「赦しをしていくこと」と「愛でいること」は同義語にすら感じられます。

それらは、同じ一つのことだったのだと悟る今日この頃です。

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近所の散歩道

2018/09/26

無理でしょ!笑

ヤバイです。笑

これといって深刻なわけではないのですが、
正直、心理セラピストとしてやっていくのはもう無理かもしれないと思っています。

というよりも、やっていけるわけがないと。

赦しを実践している人に対して、
セラピーとかヒーリングとか、はたして必要なのだろうか?

と思うとき、もはやそんなものなど必要がないのは明らかです。

百歩譲って、「赦し」というものを知らない人にとっては、
セラピーやヒーリングといったものを必要とすることはあると思います。

だとしても、
「赦し」以外に本当の癒しはあり得ないとわかっている私にとって、
セラピーとかヒーリングとか、そんなものにはやっぱり何の意味もないと気づきます。

そうなのです。
この私自身が、もう外側に自分を救ってくれる偶像など必要ないと思っているのですから、
この私だって、心理セラピストとしてやっていくのはいかがなものか?
と想う次第なわけです。

もう無理でしょ!笑

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近所の散歩道にて

2018/09/25

無意味

何の意味もない。

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すべては無意味だと気づきます。

それは、虚無とか絶望とかというものとはまったくちがいます。

それは、真実(実在)を選べるようになってきたということ。

それは、真理を思い出しはじめたということ。

さらに言うとするならば、
そんなことをことばにすることすら無意味だということ。

2018/09/24

懐かしい匂いがした

ほんの一瞬、
懐かしい匂いがした。

それは、五官で感じる匂いというよりも、ずっと忘れていた記憶のようなもの。

そうそうこれこれ。

この感覚。

もともとそうだった、という記憶。

神の子(キリスト)を自覚した瞬間。

いまこの瞬間の中に、ほんの一瞬、わが家を思い出した瞬間。

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2018/09/23

主張したいんだなぁ

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最近は、記事のアップの頻度がかなり増えているというのも、
私にとって、それだけコースの学びにおいてその理解や気づきがあるということです。

「書く」という作業をすることで、
さらに自分の中で整理して腑に落としていっている感があります。

その一方、自分の心を正直になって観察してみると、
私がブログで記事を書くのは、もちろん理解を整理しているということでもあるのですが、
それだけではないことにも気づくのです。

やっぱり、この自分は主張したがっているんだぁってことです。

言い換えれば、
そういう部分があるからこそブログを書いていられるところもあるのです。

というのも、そういう部分がないとしたなら、
ブログでいちいち発信する必要もなくノートや紙切れなどに書いて
自分の中で完結すればいいわけです。

でもそれと同時に、主張することの無意味さにも気づきはじめている部分もあります。

もういいかなって。

内なる源の愛にただ触れていればもうそれでいいってさえ思いはじめているところもあります。

主張がなくなったら、この自分はいったいどうするのでしょう?笑

主張のないところから表現する(書く)ことなんて、果たしてできるんだろうか?

そんなことを想う今日この頃です。

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2018/09/22

いまここから離れていたい

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自分のことで言えば、
目の前になにか問題があるわけでもなく、
なにかしなきゃいけないことがあるわけでもなく、
今日も一日ただすることをしていくだけのことで、
ホントは何も考える必要はないんだなぁって気づきます。

それでも、なにかしようと考えている自分に気づくたびに、
この自分はよほど平安の中にくつろぐことを拒否してるんだなって気づきます。

幸せは、いまここ、いまこの瞬間にあるのに、、、
幸せは、いまこの瞬間にしかないのに、、、
それでもどこかに向かおうとしている、、、

それが自我の罠なんだと気づきます。

まったく自我はどこにゆこうとしているのでしょう!?って想います。笑

2018/09/20

第12回ACIMウェブシェア会の感想

毎月一回のペースで開催されている「ACIMウェブシェア会」は、
とくに何か題材を決めて学習形式で行っているわけではありませんが、
結局は、その場にいる参加者によってテーマ(題材)が挙げられ、
それを通して学びや気づきがもたらされている会だなと私は感じています。

それは、ある意味で、コース学習を目的とした「グループセッション」だと
呼んでもいいと思います。

そう感じているのは私だけではないと思います。

共に、シンプルな原点を確認して、
共に、歩みが進んでいることが、
なんとも有難く、
なんともあたたかい。
ほんとありがとうございます。
ーみっちゃんさんの感想ー

それはこの私も同じです。

他にも、先日開催した「第12回 ACIMウェブシェア会」の感想を
主催者(空禾さん)からいただきましたので、シェアさせていただこうと思います。

ありがとうございます。


先日のウェブシェア会は本当にありがとうございました。 いつもそうであるように、 おかげさまで、 とても深い気づきのある素晴らしい時間となりました。 本当にありがとうございます。 もりGさんのお話が光をもたらせてくれるように感じます。 私の感想となりますが、 すでに「ある」もともと「ある」ところから見る というのが、今回(のウェブシェア会)でかなりわかってきたような気がします。 それは、まだ 私は本当に満ちていて、幸せな状態とは言えないくらいの、 「これでいっか。」くらいの落ち着きや平安さ程度のものなのですが、 それが腑に落ちてくると、 ここから本当に何もしなくていいんだ。 そうではない状態になった時に、 その障壁をみていけばいいんだ。 そして、その障壁とは、 いままでのパターンで、 障壁を自ら好んで選んで作っているんだ。 というところが見えてきました。 そうすると、 平安じゃない状態になったとき、 目の前に光を隠す壁が見えてきます。 そうして、少し遅れてですが、 「あ〜、私が何かしたんだな〜」 と思えてきます。 そこからの赦しのステップ。 ブログも含めて、本当にありがたいです。 きっと参加者の皆様も、その方なりにそうだったのではないかと思います。 ありがとうございました。
ー空禾さんの感想メールよりー

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・・・・・・・・・・・・
次回のACIMウェブシェア会は、10月14日(日)10時~12時で開催予定です。

2018/09/19

此処と向こう側とのあいだに

ホントは、目に映るこの世界の向こう側(内奥)は愛でしかないんだろうなって思います。

そして、その愛は、この<わたし>と距離のない此処(いまここ)にもあると感じます。

そう感じるとき、
この世界に見えているものなんてホントはすべて取るに足らないんだろうなって思えます。

そして、「此処」にある愛と「向こう側」に見える愛をベールで分け隔てているのが、
まさに自我であり、その自我によって作りだしたこの世界だといえます。

私は、この世界を「薄いベール」というふうに表現したこともありましたが、
実際は、まだまだそのベールは分厚い感じがしています。笑

ただ若干ではありますが、そのベールは緩んで優しくなってきた感はあります。

いつのときかそのベールが剥がれ落ちて、
「此処」にある愛と「向こう側」にある愛とのあいだに分け隔てるものを見なくなるまで、
ただ赦しをしていくだけなのだろうなと思います。

そして、その「いつのときか」こそ、じつは、いまこの瞬間なのだと気づきます。

そう想うとき、日々の一瞬一瞬のすべてを聖なる瞬間に捧げていこうという気持ちになります。

そうなりますように。

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2018/09/18

心ごまかそうする自分にご用心

非二元(ノンデュアリティ/一元論)でいうところの

この世界は幻想(マーヤ)なんだよ、
この世界は神の戯れ(リーラ)でしかないんだよ、

だから大丈夫なんだよ、
深刻になる必要なんてないんだよ、
安心してゆだねていればいいんだよ、

ということをいくらわかっていたところで、

実際に日常の中で心が動揺した時には、
そんなことばで言いくるめようとしても、ホント無駄なんだなって実感します。

ようするに、そうやっていくら自分を言いなだめようとしたところで、
ただ抑圧、否認してるだけで、動揺している心(感情)はごまかせないってことです。

むしろ、
幻想なんだから、深刻になることはない、大丈夫、
ということばがウソくさいといいましょうか、
そうやって納得させようとして出てくることばは自我のことばだと言っていいと思います。
(ちなみに、聖霊の声は、声というよりも愛の体験にちかいです)

そういう意味で、「自分の心に正直になる」ということは、ホント大事なんだと思います。

なにせ、自我は肝心なところを隠そうとしますし、それが自我の目的でもあるのです。

自我は、大丈夫だと納得させる根拠をそろえようとするか、
もしくは、さまざまな(感情解放の)テクニックを駆使したりして
動揺した心を平常に戻そうと何かをしようとします。

というのも、動揺している心のその向こう(奥)には、
神の平安、神の愛があるから、そこに目を向けさせないようにするのが自我の目的なのです。

怖れているなら、ただその怖れを認めて、聖霊と共に直視していく。
落胆しているのなら、ただその落胆を認めて、聖霊とともにそれを直視すればいいだけ。

そうやってただ「赦し」を実践していけばいいだけなのに、
そうはさせないようにするのが自我だと気づきます。

自我に気づいていくこと。
そして、その自我を聖霊と共に直視していくこと。

自我を直視せずに、自我(幻想)から自由になろうなんて、所詮、無理なはなしです。

赦しを実践していて、ホントそう気づきます。

自分の作り出したこの幻想世界(マーヤ/リーラ)から抜け出すには、
自我を直視していくことなしにはあり得ないと深く深く納得する今日この頃です。

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