2018/09/28

ノープラン、ノーフューチャー、ノーアイデンティティー

現在、沖縄は、台風が接近中です。

たぶん明日は、台風の目が私の住んでいる沖縄上空を通り過ぎていく感じです。


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↑これは天気がいい日に撮った近所の海岸の写真です


沖縄に引っ越してきて、やがて3ヵ月になります。

暮らしもずいぶん落ち着いて馴染んできた感じがあります。


現在の活動状況といえば、週に2,3回のペースで「沖縄ACIM勉強会」と称して、

JACIMのコース(ACIM/奇跡講座)を学習していっているだけで、

それ以外になにかをしていこうという気が起きないといった感じです。


沖縄に引っ越してくるときも、とくに計画やプランがあったわけではないのですが、

それでもそれまでの活動の形態は変わらず続けていくんだろうなと思っていました。


ただ、正直、この今、まったくの白紙となってしまいました。笑


この形態レベルに関していえば、この自分にはしたいこともなければ、

これからこうしたいああしたいといった計画やプランもなければ、

なにかのためにとか、だれかのためにとか、目的がないという状態です。


これからどうなるのか?


形態レベルのことについてはそんな状態です。


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2018/09/23

主張したがっている自分

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最近は、記事のアップの頻度がかなり増えているというのも、
私にとって、それだけコースの学びにおいてその理解や気づきがあるということです。

「書く」という作業をすることで、
さらに自分の中で整理して腑に落としていっている感があります。

その一方、自分の心を正直になって観察してみると、
私がブログで記事を書くのは、もちろん理解を整理しているということでもあるのですが、
それだけではないことにも気づくのです。

それは、この自分は主張したがっているということです。

たしかに、そういう部分があるからこそブログを書いていられるところもあります。

というのも、もしそういう部分がないとしたなら、
ブログでいちいち発信する必要なんかなくて、
ノートや紙切れなどに書いて自分の中で完結すればいいわけですから。

一方、主張することの無意味さにも気づきはじめている部分もあります。

もうそんなことしなくてもいいのにって。

とはいえ、主張がなくなったら、この自分はいったいどうなるのでしょう?笑

主張のないところから表現する(書く)ことなんて、果たしてできるんだろうか?

そんなことを想う今日この頃です。

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2018/09/22

行く当てのない旅

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自分の心をみていると、
しなきゃいけないことがなにもなくても、
ホントは何も考える必要はないとしても、
それでも、いろいろ考えようとしている自分を自覚したりします。

この自分はよほど平安の中にくつろぐことを拒否してるんだなって気づくのです。

この自分は、自らあえて平安を拒否しているということ。

平安の中に居てもいいのに、それでも平安じゃないどこかに向かおうとしている、、、

これこそが自我の精神力動なんだと気づきます。

まったく自我はどこにゆこうとしているのでしょう!?笑

自分は、そうやって終わりのない時間の中で行く当てのない旅を続けているんだろうと思う。

2018/09/20

第12回ACIMウェブシェア会の感想

毎月一回のペースで開催されている「ACIMウェブシェア会」は、
とくに何か題材を決めて学習形式で行っているわけではありませんが、
結局は、その場にいる参加者によってテーマ(題材)が挙げられ、
それを通して学びや気づきがもたらされている会だなと私は感じています。

参加者の方々から「ACIMウェブシェア会」の感想をいただいています。
ありがとうございます。

共に、シンプルな原点を確認して、
共に、歩みが進んでいることが、
なんとも有難く、
なんともあたたかい。
ほんとありがとうございます。
ーみっちゃんさんの感想ー


他にも、先日開催した「第12回 ACIMウェブシェア会」の感想を
主催者(空禾さん)からいただきましたので、シェアさせていただこうと思います。
ありがとうございます。


先日のウェブシェア会は本当にありがとうございました。 いつもそうであるように、 おかげさまで、 とても深い気づきのある素晴らしい時間となりました。 本当にありがとうございます。 もりGさんのお話が光をもたらせてくれるように感じます。 私の感想となりますが、 すでに「ある」もともと「ある」ところから見る というのが、今回(のウェブシェア会)でかなりわかってきたような気がします。 それは、まだ 私は本当に満ちていて、幸せな状態とは言えないくらいの、 「これでいっか。」くらいの落ち着きや平安さ程度のものなのですが、 それが腑に落ちてくると、 ここから本当に何もしなくていいんだ。 そうではない状態になった時に、 その障壁をみていけばいいんだ。 そして、その障壁とは、 いままでのパターンで、 障壁を自ら好んで選んで作っているんだ。 というところが見えてきました。 そうすると、 平安じゃない状態になったとき、 目の前に光を隠す壁が見えてきます。 そうして、少し遅れてですが、 「あ〜、私が何かしたんだな〜」 と思えてきます。 そこからの赦しのステップ。 ブログも含めて、本当にありがたいです。 きっと参加者の皆様も、その方なりにそうだったのではないかと思います。 ありがとうございました。
ー空禾さんの感想メールよりー

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2018/09/19

この機能が果たされますように

ホントは、目に映るこの世界は無でしかないのに、
この自分は何してんだろう?って思います。笑

ホントは、何も起きていないのに、
それでも、この世界の事象にいちいちこの自分は一喜一憂しているのですから、
呆れてしまうほどです。

すべては、自分で「神から分離した」と信じたがゆえに、
この分離の世界があたかも実在しているようにみせているだけなのです。

ということは、やっぱりその原因に戻って、
「神からの分離はあり得ない」という聖霊(正しい心)を選び直していくしかない、
ということです。

いわゆる、それが「赦し」というものです。

この世界は、「自らがあえて神からの分離を信じた」という真実を隠蔽するために、
そこに目を向けさせないように、それをごまかすためのトリックだなんて、
いったいだれが気づくでしょう!

この世界にみえているものなんてホントはすべて取るに足らないって、
だれが見抜くことができるでしょう!

それでも、そんなふうにはみえていないのだから、やはり、赦しをしていくほかないのです。

それは、赦しを実践していくほかないということ。

いくら形而上学的に理解したところで、実践せずしてになんの意味があるというのでしょう。

この世界は実在していない、と心底そう思えるまで、
この自分はただひたすら赦しをしていくしかないのだなぁって思います。

むしろ、それ以外、ホントはこの世界ですべきことなんてないのですから。

それが、この自分の機能なのだということ。

この機能が果たされますように。

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2018/09/18

心ごまかそうする自分にご用心

非二元(ノンデュアリティ/一元論)のスピリチュアリティでいうところの

この世界は幻想(マーヤ)なんだよ、
この世界は神の戯れ(リーラ)でしかないんだよ、

だから大丈夫なんだよ、
深刻になる必要なんてないんだよ、
安心してゆだねていればいいんだよ、

ということをいくら知的にわかっていたところで、

実際に日常の中で心が動揺した時には、
いくらそんなことばで言いくるめようとしても、ホント無駄なんだなって実感します。

ようするに、そうやっていくら自分を言いなだめようとしたところで、
ただ抑圧、否認してるだけで、動揺している心(感情)はごまかせないってことです。

むしろ、
「幻想なんだから、深刻になることはない、大丈夫」
ということばはウソくさいといいましょうか、
そうやって納得させようとすることばは自我の策略だと言っていいと思います。

そういう意味で、「自分の心に正直になる」ということは、ホント大事なんだと思います。

なにせ、自我は肝心なところを隠蔽しようとしますし、それが自我の目的でもあるのです。

自我は、大丈夫だと納得させ隠蔽するためにその証拠、理由を並べ立てることをしますし、
もしくは、さまざまな(感情解放の)テクニックを駆使したりして
動揺した心を平常に戻そうと何かをしようとします。

なにせ、動揺している心のその向こう(奥)には、
それらはすべて自らがでっち上げた幻想だと知っている聖霊(正しい心)がいるから、
そこに目を向けさせないようにするのが自我の目的なのです。

怖れているなら、ただその怖れを認めて、聖霊(正しい心)とともに直視していく。
気が沈んで落ち込んでいるのなら、ただその落ち込んでいるのを認めて、
聖霊とともにそれを直視していく(運んでいく)だけ。

そうやってただ「赦し」を実践していけばいいだけなのに、
そうはさせないようにするのが自我だと気づきます。

自我に気づいていくこと。
そして、その自我を聖霊と共に直視していくこと。

自我を直視せずに、自我から自由になろうなんて、所詮、無理なはなしです。

赦しを実践していて、ホントそう気づきます。

自分の作り出したこの幻想世界(マーヤ/リーラ)から抜け出すには、
自我を直視していくことなしにはあり得ないと深く深く納得する今日この頃です。

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2018/09/17

知覚とは

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「知覚」ということばをいうとき、
わたしたちはつい五官の感覚による知覚のことをイメージしがちです。

ですので、「知覚が変わる」というとき、
五官で知覚している(外の)世界のほうが変わるものと思いがちです。

攻撃してきていた人が優しくなったりとか、
うまくいかなかったものがうまくいきはじめたりとか、
目で見える状況が変わったり、とか、
たしかに、そういうこともあるといえばあるのですが、
「知覚が変わる」というのは、そういうことを言っているのではないということです。

ケネス・ワプニック博士は、
「見る」ということについて、すなわち、「知覚」ということについて

「知覚」とは、「解釈」のことである

と語っています。

つまり、「知覚が変わる」とは、「解釈が変わる」ということなのだ
というふうに受け止めると、わかりやすいし、納得がいきます。

なので、誤った知覚を聖霊に訂正してもらうことをお願いする(赦しの実践)とき、
「聖霊よ、どうぞあなたの視点で見させてください、別の視点で見させてください」
というふうな言い方で明け渡したりしますが、
「聖霊の視点で解釈させてください、別の視点で解釈させてください」
というふうな意味合いで明け渡すといいかもしれません。

http://www.jacim.com/jcm/?p=2010

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2018/09/16

笑いと深刻さ

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お笑い、いわゆる、コメディ、というものは、
深刻さと表裏一体なのだなって思います。

たとえば、この世界も、それが夢(妄想)だとわかっていたなら、
深刻であればあるほど滑稽にみえてくるといいましょうか、
あまりにも、バカバカしくみえて思わず笑ってしまうものです。

そう、この世界こそ、まさに妄想を信じてしまっている夢だということが出来ます。

そもそもが不可能なことを、
「もしも可能だったら、、、」という設定のコントででっち上げたようなものだということ。

ホントは、このいまも神の一体性の中にいるのに、神の愛に抱かれているのに、
もしもそうじゃないことがあり得るとしたら、、、という妄想の夢をみているだけなのです。

ホントはその妄想の夢の中で起きていることに影響される必要はないのに、
それを深刻にしてしまった(幻想を信じた)ことがそもそもの誤りなのだということ。

この世界にいくら心が動揺させられようとも、それはそれでいいのだってことです。

そのことに深刻になることが、それをリアルにしてしまうのであって、
それも夢の中で起きているのであって、ホントは、何も起きていないのだということ。

そう、たとえば劇場の映画を観て心動かされようとも、だれもそれを深刻にしたりはしません。

聖霊は、そのことを知っています。

大丈夫だよ。
妄想の夢をみているだけだよ。
その夢をみたいって自分で決断したでしょ!

そうやっていつも聖霊は語りかけてくれています。

そう、だから聖霊とともにただ決断し直すだけなんだなって想います。

つまりは、それが「赦し」であると。

いつか、この世界のすべてを微笑みながら見れるように。

そうなりますように。

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2018/09/15

自分に優しくなろう

自分に優しくなろうって、最近はそう思います。

「優しくなる」とは、どういうことか?と申しますと、
自分を裁いたり、咎めたりするのをもうやめて、
どんな自分であったとしてもそれでいいじゃんってことです。

この外側の世界に影響されて動揺している自分がいたとしても、
それでいいってことです。

怖れたり、怒ったり、不安になったり、落胆したり、みじめな想いになったりしても、、、
それでいいんだってこと。

なぜなら、その動揺している自分は、
本当の自分(真の自己)とは、一切関係がないのですから。

本当の自分(真の自己)は、一切影響されていないのです。

これまでの自分と言えば、動揺している自分をどうにかしようとしてた、
つまり、それじゃダメだと咎めてた、裁いてたってことに気づくのです。

「動揺している自分をどうにかしなきゃ」とか
「この動揺している気持ちをどうにかしよう」っていう想いが要らないってこと。
そうやってありのままの自分を裁いていたなぁって気づきます。

たとえば、攻撃したくなる自分(自我)に気づいたとして、
その自分(自我)を咎める必要はないんだなって。

そして、攻撃したくなる気持ちも、それにただ気づいていればいいだけで、
咎めずに、そのままに(自由に)してあげればいいんだってことです。

その気持ちをどうにかしよう、その自分(自我)を変えようとすることは、
むしろ、自我を強めていく(リアルにしていく)ことなんだなって気づくのです。

ただ気づいているだけ。
そこから聖霊と共にただ正視するだけ。
あとは何もしない。咎めない。裁かない。

赦しは、静かにじっとしていて、何もしない。
 、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
 ー「ワークブック 赦しとはなにか」よりー

気づいているだけ、、、それでいいんだなって思います。

あるがままに。

なるがままに。

自分にそうさせていくなら、
きっと他者に対しても、世界に対してもそうなれるのだと思います。

もっと自分にやさしくなろう。慈しんでゆこう。

そんなことを想う今日この頃です。

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2018/09/14

聖霊とともに戦場の上から眺める

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不動の心。

それは、この世のものに一切揺るがされることのない心のことをいいます。

真理探究の道を歩みはじめた当初は、
「不動の心」というとき、弱い心を克服したり鍛錬していくことで、
心が強くなっていってそうなるものだと思い込んでたなぁって気づきます。

でも、そういうことじゃなかったんだって、今ではわかります。

心を強くしていくようなものでななくて、そういうこととは一切関係がないんだってこと。

変化する自分(動揺する自分)とはまったく別に、
変わることなくただ在り続けている本当の自分がいるのだということ。

たとえ、この自分は心揺るがされて影響を受けたとしても、
その自分(だと想っている自分)こそが本当は実在なんかしていなくて、
真の自己(神)は一切影響を受けていないのだということ。

そして、そっちが本当の自分だってことを思い出していくことが、
赦しを通してしていくことなのだと気づきます。

ようするに、心動かされてる自分は、「本当の自分」じゃないのだから、
つまり、その自分(自我)をどうのこうのしようとする必要はないってことです。

むしろ、その自分を変えよう(より良き自分になろう)とすること自体が、
自我の幻想(トリック)に付き合っているということであり、
それによって自我をリアルに(実在するものと)してしまっているということです。

そう、自分の内には、その真実を知っている聖霊がいます。

聖霊とは、神の記憶を覚えている「正しい心」の部分だといえます。

自我に気づいていくこと、そして聖霊と共にその自我を直視していくこと。
それが、わたしたちがしていくことだといえます。

コース(ACIM/奇跡講座)の中のイエスはこう言います。

赦しは、静かにじっとしていて、何もしない。
、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
ー「ワークブック 赦しとはなにか」よりー

あらためてこのことばが深く腑に落ちます。

そして、ワプニック博士のこのことばにも頷かされます。

「赦しが何をするかと言えば、この「戦場を超えたところ」に戻ってくるだけで、、、
あとは何もしないのです。
なぜなら、存在してもいないものについて為すべきことなど何もないからです。」

不動の心とは?
そして、赦しとはなにか?

今になって、そのことがよくよくわかってきた今日この頃です。



http://www.jacim.com/jcm/?p=3495