2018/09/12

罪のなすりつけ合いゲーム

ケネス・ワプニックさんは、こう言います。

「この世界の目的は、 他人の罪を証明することによって、 自分は無罪だと証明すること。
 それが、この世界の目的です。」と。

そのことばが、今の自分にはよく理解できます。

自分にも十二分に心当たりがあると自覚するのです。

つまり、自分は無罪だと証明することで「この自分は無垢な存在である」としたいし、
そうすることで「自分は無垢になれる」と信じているということです。

なぜなら、無垢であれば、ゆるされる、愛される、と思っているからです。

そう、わたしたちは、神にゆるされたいし、神に愛されたいのです。

そのために、わたしたちはお互いに投影し合って、罪のなすりつけ合いのゲームをしている
というふうに言うことが出来ます。

コース(ACIM/奇跡講座)の中のイエスはこう言います。

これは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外のなんだろうか。
ー「ワークブック レッスン191」よりー

たしかに自分は、この世界でそのゲームをしてると気づきます。

自分がこの世界でしていることとはそういうことなのだと、認めるとき、
そして、そもそもこの世界とはそういう世界なのだと、認めるとき、
そんなこの世界に執着することになんの価値があるというのでしょう!
むしろ、そんな世界にはなんの価値もないと思うのが正気だと言えます。

この世界に価値や希望を見い出そうとしていた自分はなんて滑稽なのでしょう。

そんな自分に思わず苦笑いしてしまう今日この頃です。

http://www.jacim.com/jcm/?p=1068

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2018/09/12

形而上学の理解なしでそれはあり得ない

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース/奇跡の道)をよく理解していないうちから、

聖霊を信頼しなさい、とか、神を第一としなさい、とか、神のみを求めなさい、

といったことをいくら教えられても、それはかなり難しいことだと思います。

というよりも、
それは、やみくもに信仰しなさい、信頼しなさい、と言っているようなもので、
そういう教えは、むしろ、コースとはちょっとちがうかなと思ったりします。

なにせ、コースを学んでいるわたしたちは、
自我の思考システムで生きているわけですから、いつも自我の目的を選択しているわけです。

つまり、自我は、神から遠ざかろうとしているわけですから、
やみくもに「神を第一に求める」としたところで、
結局、自我と戦うことになってしまい、かえって葛藤を生むように思います。

それよりも、コースの形而上学(理論)をしっかり学んでいくほうが、
その「信」というものを培っていくには最短な道だと思います。

なぜ聖霊なのか?
なぜ自我を直視していくのか?
その形而上学をしっかり理解していくならば、なぜそうなのかが明白になるからです。

「明白になる」とは、明らかにそれが当然のことだから、というふうになるということです。

コースの形而上学が理解できてくると、
聖霊の思考システムでものごとを捉えることができるようになってきます。

そのときこそはじめて日常生活の中で実践(応用)できるようになるといえます。

なので、コースの形而上学を学んでいくことは本当に大事だと実感しています。

正直なところ、私は、形而上学の学びをそれほど重要だとは思っていませんでした。
むしろ、概念(理論)よりも実践、体験だと思っていました。

かくいう私もさまざまな覚醒体験や至高体験をしてきたわけですが、
いくらどんな素晴らしい体験をしようとも、
やっぱり赦しをしていくことに変わりはない、というのが今の私が思うところです。

赦しとは、聖霊と共に自我(幻想)を直視していくということであり、
聖霊と共にみるとは、そのすべてを聖霊に明け渡していくということだと言えます。

そして、形而上学の理解がそれを加速してくれていると実感するのです。

むしろ、コースのちゃんとした理論(形而上学)を理解していないと、 
その理解なしで赦しはあり得ないと言うことができると思います。 

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