2018/10/27

もっともっと聖性に触れたいから

きのう、「Palm Church」にて、オアシムの仲間たちで沖縄ACIM勉強会をしました。

私にとって、そのひとときは聖性に触れているような時間でした。

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私は、ときどき、ある瞬間、”ふっ”と聖性に触れる瞬間を感じるときがあります。

そこに聖霊(ホーリースピリット)がいる感覚といいましょうか。

神に愛されているという感覚。

ハート(胸のあたり)がふわっと温かい喜びを感じる瞬間。

そこにはもはや他者などいるわけでもなく、ただ愛があるだけ。

それは、まさに聖性(全体性、一体性)に触れている瞬間。

それはまるで、聖霊はここにいて、どこにでも聖霊をみている(感じている)、
時空を超えたところで聖霊とともにいる感覚と言えばいいのでしょうか。

それは、聖なる瞬間、でもあります。

ふと、よくよく考えてみると、
そんなふうに聖性に触れている瞬間とは、きまって兄弟たちといるときだと気づきます。

もちろん、真の赦しをしているときもそんな瞬間はありますが、
兄弟といるときのほうが、聖性に触れやすい感じがあります。

しかも、いろんな兄弟がいたほうが多面的にその聖性に触れることが出来るのです。

その聖性に触れていることによって、
きっとすべての兄弟、自分の見ている世界の隅々までに、愛が波及しているのだと思います。笑

そう思ったとき、
もっともっといろんな兄弟と会って聖性に触れていきたいと欲求している自分に気づきます。

自分の中でなにかが変化しているのを感じます。

そうなんです。

コースを通してもっと仲間兄弟たちと会っていくためにその機会をつくっていきたいなと、
そういう想いにかられ始めている今日この頃です。

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沖縄の海の色は感動するくらいホント美しいです

2018/10/26

それは実践的で確実な道である

当たり前といえば当たり前なんですけど、
コース(ACIM/奇跡講座)を学べば学ぶほど、
ノンデュアリティ(のスピリチュアリティ)に近づいていっている自分を感じます。

というのも、自分が気づいたことを言葉にして伝えようとするとき、
ノンデュアリティで云っているところの言葉になってしまいますし、
実際に、ノンデュアリティのティーチャーたちのおっしゃる通りだなって思うのです。
 (ときには、とんちんかんな悟りやノンデュアリティを謳うティーチャーもいますが、笑)

もうコースもノンデュアリティのスピリチュアリティも、一緒だなって。

あんまり変わりないじゃんって、今ではそんなふうに感じます。

ちがいがあるといえば、たしかに、あります。

でも、もうそこにこだわることもないなって思います。

以前はと言えば、
コースとノンデュアリティのちがいみたいなところにこだわっていた自分がいたわけですが、
それはきっと「コースこそがもっとも素晴らしい霊性の道である」と
言いたかった(主張したかった)んだと思います。

ただ、赦しの実践が日常になってきた今、なんだ一緒じゃんって思ったりするのです。

そういうことからいえば、コース(ACIM/奇跡講座)は、
ノンデュアリティ(非二元)へと橋渡しをしてくれる一つの道にすぎないと言えます。

とはいうものの、
コースは、「実践的な道、なおかつ確実な道である」と言うことは出来ると思います。

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2018/10/25

ジャーニーからインスタントへ

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以前と比べたら、ずいぶんと心が平安な時間が増えたなぁって気づきます。

だからといって、まったく心が動揺しないわけではありません。

それは、平安な時間の割合が増えたというだけで、
その自分は、真の自己(神の子/キリスト)とはまったく関係ないわけで、
このいまも時間と空間の分離の夢を見続けているということです。

そうなんです。
この時間の中でスピリチュアル・ジャーニーを続けていることには変わりないということです。

とはいえ、最近の自分は、心の平安が標準(当たり前)になってきているといいましょうか、
常々が平安なので、心が動揺したときにはすぐに自我に気づけるようになってきています。

そしてそのたびに、いまこの瞬間に立ちかえって赦しをしていく、という感じです。

赦しは、この自分を「いま」というこの瞬間へと向かわせているように思います。

それは、聖なる瞬間でもあり、
そのとき、そこに平安がありますし、そこにしか平安はないと気づきます。

言い換えれば、
赦しは、「いまここ(今この瞬間)」に立ちかえらせてくれる手段だと言うことができます。

過去から未来へと時間が流れていると知覚している自分(自我)にとっては、
この道をスピリチュアル・ジャーニー(霊性の旅)だと捉えているのに対して、
一瞬一瞬を聖なる瞬間に捧げていくことがこの道だと捉えている自分もいて、
なんだか不思議な感覚になります。

時間の旅(スピリチュアル・ジャーニー)をしているようで、
じつは、自分の生きてきた過去なんてものは無くて、一切がたんなる夢であって、
もちろん未来などあるわけでもなく、どこへ向かうでもなく、
いまこの瞬間(インスタント)へと向かっていくだけなんだなって。

ジャーニー(旅)からインスタント(この瞬間)へ。

それこそ、「ア・コース・イン・ミラクルズ」は、
スピリチュアル・ジャーニーを終わらせる道なのだとあらためて腑に落ちる次第です。

それは、時間の終わりへと向かわせてくれる道であると同時に、
時間のはじまりへと帰っていく道だというふうに実感しています。

そういう意味においては、この旅もずいぶんと遠くまで来たんだなぁって思います。

そして、残されたこれからの人生という名の時間の旅は、
この時間の旅を終わらせるために与えられている時間だと捉えている今日この頃です。

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2018/10/23

こんな生き方があるんだぁ

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先日、かみさん(妻)の友人の来客がありました。

彼女は、沖縄に用事があって、そのついでに(糸満の)ウチに立ち寄りたいということで、
ほんの数時間でしたが、
一緒にお昼を食事したり、散歩したり、おしゃべりを楽しんで帰っていかれました。

そんな彼女が言ってた言葉が、「こんな生き方があるんだぁ」でした。

何回もその言葉を彼女は繰り返すのでした。

「こんな生き方」とは、どんな生き方なのか???よくわかりませんが、
よほど、私と妻の暮らしは普通じゃないんだなってことなんだなと思います。笑

もしくは、彼女の生き方の中にはなかったものなのだということです。

なんとなくは言っている意味はわかりつつも、
なにせ、自分たちにとってはこの暮らしが当たり前なのでなんとも言いようがありません。

ただ、「こんな生き方があるんだぁ」って彼女が想ったってことは、
私と妻とその暮らしぶりから、彼女はなにかしらのものを感じたんだろうなってことです。

それがなんなのかはこの私にもわかりませんが、
彼女のこれまでの生き方や視野に風穴が開いたきっかけになったのだと思われます。

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近所には、こんな海と空があります

そう思う時、私と妻はそんなことをしていくのかなぁって”ふっ”と思ったりします。

そして、自分たちが暮らしている場所「Palm Church」を、
そんな空間としてご縁のある方々に提供していけたらいいなぁって。

そんなかたちで兄弟たちと関わっていけたらいいなって思うのでした。

そんなふうになっていくのか?いかないのか?さほど重要なことではありませんが、
そうなるといいななんて思いはじめている今日この頃です。

2018/10/22

いまこの瞬間が選択のとき

腰痛は、痛みに慣れてきたのか?もしくは治っていっているのか?わかりませんが、
若干、ラクになってきているように感じます。

というわけで、最近はなんだか腰痛の具合の報告みたいになっておりますが。笑

病気といった身体の健康に関する不具合は、他とは比べようがないくらい深刻になりがちです。

だとしても、純粋非二元の実践においては、
どれも他の問題と等しく同じ形態のレベルのものとして扱って赦しをしていくだけです。

ここにこそ神の平安があります。
それ以外に本当の平安などあり得ないと今ではわかります。

自分の身に何が起きようとも、あるいは、兄弟の身に何が起きようとも、
すべては自分が望んで作り出している夢にすぎないのだということ。

もうそこには加害者も、被害者もいません。
そこにはただ夢を見る者がいるだけです。

その視点からこの世界を眺めようとするとき、
そのとき、わたしたちは聖霊を選択していることになります。

聖霊の視点か?
自我の視点か?
その両方を同時に選択することはできません。
かならず、どちらか一方をわたしたちは選択していることになります。

その一瞬一瞬が、その選択の決断を迫られているのだと気づきます。

この瞬間、瞬間を、聖なる瞬間にしていくことが自分のしていくことなのだと。

いつか自我を選択しなくなるそのときまで。
それは、選択すらなかったのだとわかるときなのだと思います。

そのときまで聖霊とともにただ赦しをしていくだけなのだというふうに思います。

実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。
ー『奇跡講座』よりー

その言葉の意味がとても腑に落ちる今日この頃です。

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2018/10/21

「神を否定したこと」を否定する

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相変わらず、腰痛は続いています。

これも年齢のせいなのでしょうか。
(年齢のせいにしたがっている自分がいますが、笑)
慢性的な腰痛がこれほど続くのははじめてのように思います。

ひょっとしたら、このままずっとこの痛みは続くのかもしれない、、、
、、、いやひょっとすると、この痛みはもっとひどくなっていくんじゃないか、、、
と、そんな不安さえよぎります。

そのたびに、この自分は、未来がある(存在する)と思っていると気づきます。

むしろ、未来なんてないんだ、「いま」があるだけなのだ、と思うと、
不安がふっと消えてなくなるのは面白いです。

そうやってこれまでどれだけ未来に向かって不安を生きてきたことか!

もちろん、未来に希望を見い出す生き方をしてもいいのですが、
所詮、そこには死と絶望しかないということがわかっている今、
やっぱり、未来なんてこの世界と同様に無(幻想)でしかない
としたほうがどれほど救われることでしょう。

自我は、この時間と空間の世界をリアルにしたがっていることに気づきます。

そして、自我は、この身体が自分であるというふうにしたがっています。

私は、それを「自我のトリック(自我の罠)」という言い方をしますが、
そこで大事なことは、トリックはトリックなのですが、それと戦うのではなく、
それがトリックだと気づいたならば、
「自分が望んでそのトリックに引っ掛かりたがっているのだ」ということです。

言い換えるならば、自分が自分でその夢を見ているし、
そもそも自分がそういう夢(幻想)をみたいと願望したのだということです。

この自分(自我)は、夢(幻想)を見続けていたいのです。
ということは、自分が神(神の子)だということを否定し続けていたいのだということ。

そのことを自覚し認めたときに、訂正(真の赦し)が可能となります。

「私は、神を否定できる(ホントは不可能なことなのに)と想っていました。
 私は誤っていました。聖霊よ、どうぞ私の誤りを訂正してください」と。

わたしたちは、神(実相/真理)を否定したし、この今も否定しているのだということ。

だからこそ、夢(幻想)を知覚しているのであり、
神じゃない(神に創造されたままの自分じゃない)自分を体験しているのだということです。

神を否定したことを取り消してもらう。
それは、「自分は神じゃない」と否定したことをさらに否定すると言うこと。

そのことを、コース(ACIM/奇跡講座)の中では、
「真理の否定を否定する」(テキスト12章)ということばで表現されています。

真の赦しは、
自分はこの時間と空間からをも自由な存在であることを思い出させてくれます。

真の赦しによって、
この世界とは一切関係なく一切影響を受けていない自分を思い出すことが出来ます。

「真理(神)の否定」の否定。

赦しとは、まさにそういうものだと言い換えられます。

そして、赦しが必要なくなるまで、ただその赦しをしていくだけだと思う今日この頃です。



2018/10/18

献身

ここ数日、腰痛が続いてます。

日常生活に支障をきたすほどではありませんが、それでも通常のようにはいきません。

ちょっとした動作をするたびに、腰に気を使いながらの動きになって、
さもないと、アイタ!タ!タ!となる次第です。笑

そのたびに、これまで無意識だった身体の筋肉の使い方にすら気づきがあったりします。

あーこんなふうに腰に負担がかかっていたんだな、って。

そんな状態においても身体は、
どのように身体を動かしたら腰に負担がかからないか?をまるで知っているかのように、
自動的に、腰に負担のかからないような動きをしていることにも気づかされます。

そんな感じでこの身体を観察していると、
この身体自体は、どうなりたいのか?なにがしたいのか?
まったく意志など無いことに気づきます。

それと同時に、この自分は、この身体を何の目的で使っていきたいのか?
と、そう問われているようにも感じるのでした。

もう、これまでのようにはいかないのかもしれません。

そう、これまでの自分といえば、この身体をこの世界で生き残るため、
もしくは、この人生をより良くするための道具として駆使してきたことに気づかされます。

それだけではありません。
この身体の人物をもっとより良き人間に、より優秀な人間にすることで、
この自分は幸せになれると想ってきたのです。
そのために、この身体の人物を咎めては戒めてきたのです。
もっと霊的に崇高にならねば、もっと清らかにならねば、と。

そのすべてが(一なる)神の子が見ている夢(妄想)であり、
そこには何の意味もない、なんの価値もない、と気づく今、
自分はもうこの身体をそんなふうなことに使わない、と決断するときなのかもしれません。

とはいえ、この時間と空間の中で、この身体はどのように使われていくのか?
そういうことは所詮形態レベルのことであって、
自らの本来の機能(役割)である「赦し」とはなんら関係がないと気づきます。

むしろ、この世界をどのようにみるか?ということが肝心なことなのだと。
なぜなら、それによってこの身体はその目的のために使われていくからです。

献身(devotion)とは、そういうものだと思うのです。

この腰痛も、「自分はこの身体である」と思わせるための自我のトリックにしかすぎません。

そのことに気づくたびに、ただ「赦し」をしていくだけだと思う今日この頃です。

赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。
、、、自らが好む外観へとねじ曲げようともしない。
ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
ー「ワークブック 赦しとは何か」よりー

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10月中旬でも、沖縄の晴れた日の昼間はまだまだ夏です

2018/10/16

コース(ACIM)じゃなくてもいいじゃん

一年前の自分と言えば、
デイビッド・ホフマイスターカースティンそしてフランシスといった彼らのサイトや動画で、
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んでいたわけですが、
やっぱりその当時の自分にとってはそのような教師が必要だったのだといえます。

そして今、あらためて想うのは、(それは当時としては当然のことなのですが、)
彼らを教師として特別な存在として見ていた、ということに気づかされます。

というのも、最近、彼らの動画を見ていて気づいたのが、
もう彼らをそのようには(教師としては)見ていない自分に気づかされるのです。

今となっては、教師というよりも同じ道を歩む近しい仲間に思えてきます。
自分と何ら変わらない同じ存在として見えてくるとともに、
より身近な兄弟として見えてくるのでした。
(とくに、フランシスに関してはより親近感を覚えて、
ひょっとしたら近いうちに会うことになっているのかな!?とさえ感じられます、笑)

以前は、彼らのことを自分よりもずっと前を歩いている教師だと思っていたわけですが、
そういうことではないのだと深く理解するのです。
そんなことは関係なくその本質は同じなのだと。

と同時に、そのまた逆も言えまして、
コースを学びはじめたばかりで、自分よりも後を歩んでいると思える兄弟たちに対しても、
自分と同じなのだ、と見えてきているということです。
彼らもこの自分と同じであり、その本質はキリストでしかないのだと気づくのです。

さらにもっと言うと、
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んでいようがいまいが、
スピリチュアルであろうがなかろうが、どんな兄弟であろうが、
そういったことはホントは関係ないのだ、同じなのだ、と思えてきているのを自覚します。

コースじゃなくてもいいじゃん、って。笑

この自分は、コース学習者としてその実践をしていくだけなのですが、
むしろ、コースへのこだわりがなくなっていっている気がするのです。

コースって、不思議なものです。

コースを深く学べば学ぶほど、コースへのこだわりがなくなっていくのですから。笑

自分の外側に教師を必要としなくなった今、
聖霊だけを教師とするとはこういうことなのか、と気づく次第です。

それは、この自分の学びが進んている証拠だと捉えていいのだと思います。

それでも、この自分はこれからもただひたすら赦しをしていくことに変わりはありません。

そういうことでいえば、コース学習者の一人としてこれからも学びを進めていくだけですが、
そんなこの道の歩みにおいてどんな兄弟たちと出会って関わっていくのか?
(所詮、形態レベルのことではありますが、)ちょっとだけワクワクする今日この頃です。

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2018/10/13

特別な教師

このスピリチュアル・ジャーニー(霊性の道)において、

もうこの今となっては、自分の外側に教師は必要ないと感じています。


そんなふうに感じる今だからこそ思うのですが、

(矛盾した言い方になりますが、)

自分の外側に教師を必要としなくなるまでは、やっぱり教師は必要である、

ということは否定できません。


なので、自分の外側に教師を求めるなかれ、とはけっして言えないどころか、

自分にとって必要な教師は必要なときに与えられているわけで、

教師を求めることについて、それはそれでいいのだと思ったりします。


これまでもそうだったように、これからも次から次へと

いろいろなスピリチュアル・ティーチャーやノンデュアリティ・ティーチャー、

ACIMティーチャーといった教師たちがこの幻想世界に登場してくるのだと思います。


ただ、この自分は、もう自分の外側に教師を必要しなくなった、というそれだけのことです。


もっと正確な言い方をするなら、

「この自分は、この幻想世界に特定の(特別な)教師を作り出す必要がなくなった」

と言い換えることができます。


それは、「もう教師は必要ない」と言いながらも、

出会う人(兄弟)だれもがこの自分にとっての教師であるとも言い換えられます。


教師とは、どこにでもだれでもがそうだと。


そこにはたった一人の教師(聖霊)がいるのであり、

そしてたった一人の教師で十分なのだということを深く理解する次第です。


この自分にとって、この残りの旅路は、

兄弟たちと出会って関わっていくということ自体が、そのようなものになっていくのでしょう。


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近所の散歩道

2018/10/12

オアシム

オアシム???


Okinawa ACIM 。


略して、OACIM(オアシム)。

 

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本日、那覇市内で5名のコース(ACIM/奇跡講座)学習者たちで勉強会をしました。


沖縄に引っ越してきた7月から、

毎週のように定期的に開催してきた「沖縄ACIM勉強会」ですが、

今日は、「OACIM(オアシム)」の発足の日と思えた日でした。


勉強会のファシリテーター(司会進行)は、みゆきさんという方にやっていただいて、

そこに私(もりG)と妻とが参加しているというかたちで、

JAICMの教材を使って毎回テーマを決めて仲間たちと学んでいっています。


毎回、少人数の勉強会とはいえども、

コースをもっと学びたい、もっとわかりたい、という沖縄ACIM勉強会の仲間たちの情熱に、

私自身も本当にコースの学びにおいて手を引いて(助けて)もらっていると感じています。


その勉強会がスタートしてまだ3ヵ月くらいとはいえ、

おかげさまで私自身、相当、コースの形而上学の理解が深まったと感じています。


まあ、そういった感じでこれからも「沖縄ACIM勉強会」は続けていくわけですが、

会を、いずれ「オアシム(Okinawa ACIM)」という呼び名に移行する予定です。


今日は、そのはじまりの日だということを感じつつ、

「沖縄ACIM勉強会」で共に学んでいる仲間に本当に心から感謝したいと思います。