2016/09/12

転がり続ける岩のように

若かった頃の私と云えば、

社会に対してもそうですが、この世界に対して斜に見ているところがあって、

ずいぶんと尖がって生きていたように思います。


そんな私は、現世否定の思想に共感して、

この現世から離れようと宗教にのめり込んだこともありましたし、

そしてまたある時はそんな宗教にもうんざりして、

あえて物質主義的に生きている時期もありました。


そんなこと経験しながら、いつしか私は生きることにすら行き詰ってしまったのでした。


そもそもがこの社会を斜にみていたわけですから、

人間関係、友人関係に支障がでてくるのも当然だったと思います。


そして、生きることに行き詰った私は、

日本社会から逃げ出すようにバックパッカーとしてアジアを放浪した時期を過ごしました。


約一年間に渡ってチベット、ヒマラヤ、ネパール、インドを渡り歩いたその旅は、

私にとってはそれまでの生き方、人生をリセットするためのものだったように思います。


そのアジアの旅は衝撃的でした。


自分はこれまでなにをみて生きていたのだろう!?


目に映る光景、そのすべてが新鮮でしたし、

日常の世界を離れたことによって、

自分の内面と対面することのできた旅でもあったように思います。


いろんな霊的な体験もしました。


ヒマラヤの夜空に浮かぶ月を眺めながらただ恍惚のなかにいる夜もありました。


一人、満天の星空とヒマラヤの雄大な景色の中で、

至福に包まれて夜明けを待っていたこともありました。


その旅では、たくさんの奇跡を当たり前のように体験していました。

(ヒマラヤは、そんな波動エネルギーを持った場所だと思います。)


そんなある夜、私は、ヒマラヤである印象的な体験をしたのを覚えています。


たしかインドのダラムサラに滞在していたときだったでしょうか。


それはたしかある満月の夜でした。

これからどう生きていけばいいのだろう?生きてどうなるのだろう?と

一人何気なくそんなことを自問していたのでした。

その瞬間、なにかが閃いたといいましょうか、なにかがハッと開いたのでした。

それをあえてことばにすると、

「生きろ!生きるのだ!生きれば今自分が問うているすべての答えが見いだされるであろう。」

という内なる答えが返ってきたのです。

そのとき、私はまるで夢からさめたような、目の前の世界がパッと開かれたような、

そんな感覚が起きたのを覚えています。


そして、私は、

「この現実世界を生きよう、もう大丈夫。日本で生きよう。」

という想いに変わったのでした。


とはいっても、

それらの霊的な体験が私にとっての着地点にはけっしてなり得ませんでした。


その後、アジアの放浪から日本に帰国したものの、

私の人生には、私のアイデンティティの最大なる崩壊が待ち受けていました。


それまで生きて築き上げてきたアイデンティティが崩壊する必要があったということです。

自分ではどうすることもできない無力さを想いっ切り痛感させられました。

人生は自分の想いとはまったくちがう方向へと運ばれていったのです。

すべてがうまくいかないどころか、

むしろ、すべてを奪い去られるようなことばかりが起こっていきました。

もう自分ではどうすることもできないと受け入れるほかなかったのですが、

人生を放棄させられたことによって、

私は、自分の人生がみえない力によって運ばれているということに気づきはじめたのでした。


そして、人生の流れに従うにつれて

やがてそのみえない力に導かれて生きる方が楽なのだということがわかってきたのです。


そうやって、私は、この現世を否定する生き方から、

この社会のルールに合わせて生きる賢明さを身に着けたように思います。


そしていつのまにか、この社会やこの世界に対して斜にみるということもなくなったのです。


かつては尖がっていた私もずいぶんと角がとれて円(まる)くなったのがわかります。


もちろん、まだまだ角(かど)が立つときもありますが、

生きるとは、歳を重ねるとは、転がり続けるということなのかもと思ったりします。


転がり続けることで、角がなくなって円になっていくのだと。

円くなっていくために人生はあるのかもしれません。


生きることは、そういうことかもしれないと、私はふと思ったりします。


その旅は、まだ終わったわけではありませんから、これからも転がり続けていくのでしょう。


転がり続ける岩のように。


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