2016/09/22

出家とは

『奇跡のコース』で表現されているものは、

巷のノンデュアリティや悟り系スピリチュアリズムとは、

まったく異なるものと捉えた方がいいといえます。

それは、さらにもう一歩踏み込んだスピリチュアリズムといいましょうか、

スピリチュアルの最終地点だといえます。

そこには、一切の妥協がない非二元のスピリチュアリティがあるように思えるのです。


『奇跡のコース』は、悟り系スピリチュアリズムみたいに「大丈夫」という言い方はしません。

むしろ、この世界は幻想だと完璧に見切っています。

そう、この世界を現実としない方向で語られています。

ゆえに、幻想から目醒めていくためには、

この世界を幻想とするか?現実とするか?自分で選択していく必要があるのだと。

自分で自分の心を習練していく必要があるのだという言い方をします。

非二元を見い出して楽に生きましょうではなく、完全に二元性の世界を離れよ、と。

およそ現実と信じ込んでいるこの世から完全に離れなさい、と。

『奇跡のコース』では、そんなふうにわたしたちに語りています。


わたしたちは、必ずいつかは、この世を去ります。

それが、死、というものですが、

『奇跡のコース』は、そうではないこの世を去る方法があるというのです。

死によってではなく、真理によってこの世を去ることができると。

生きながらにして、死を超越することができる道があるのだと。


さて、この世を離れることを実践しようとするとき、

それは、物質的なかたちのレベルで行われるものではありません。

それは、心のレベルで行われるものであると、はっきり述べられています。

そもそも「出家」とは、そういうものであります。

「出家」は、かたちの(物理的)レベルでこの世を離れることを言いますが、

それは、心のレベルで行われるべきものであって、俗世間を離れる必要はないということです。

それは、自分だけで、どこにいてもだれといても実践できる道なのです。


二元性を超えるとは、心においてこの世を離れるということであり、

そういう意味でいうならば、心における「出家」だといえます。

心において、この世を放棄していく実践をしていくのですから。

それは、自我にとっては、死、を意味します。

なぜなら、自我はこの世のもので心を満たしてきたわけで、

それらすべてをあきらめるということなのですから。

それは、ちょうど、肉体の死を迎え、この世を離れるときと同じようなものだといえます。


わたしたちは、いつか必ず、すべてを失うことに心の深い部分で気づいています。

この世のものはすべてこの世に置いていかねばならないことに気づいているから、

わたしたちは、「死」というその時が来ることを恐れているのかもしれません。

その時を先延ばしにしたいのです。遠ざけておきたいのです。

なぜならば、自我にとっては、それはまさに喪失でしかないからです。

そう、もし、あなたが真の悟りを求めているのならば、

自我にとって、悟りは「喪失」でしかないことをどうぞ知っておいてください。

何かを得て到達するものではなく、すべてを喪失して到達するものであるということです。

ただし、スピリットにとって、「喪失」は歓びでしかないことも知っておいてください。

その歓びとは、この世を超えたものです。この世のものでは得られない絶対なる歓びです。


この世から離れていく。

それは、「出家」のようなものです。

それは、死へと向かうための準備です。

ただし、それは、かたちの物理的(3次元的)レベルで、そうする必要はないということです。

それは、心のレベルで実践していくものであるということです。

それは、心のレベルで習練していくものであるということ。

それが、『奇跡のコース』というものです。


ちなみに、「出家」は、「家を出る」と書きますが、

本当は、我が家に帰っていくことであり、まるであべこべです。

それは、家を出るのではなく、本当の我が家に帰っていくためのものだということ。

世俗を離れる必要もないのです。

身体は3次元に生きながらにして、人との関わりの中で、

自分の心の習練をして、この世から自由になっていく道があるのだということです。


心のレベルで出家していく道。


心のレベルで死へと向かっていく道。


それは、自我の死滅(止滅)への道。


『奇跡のコース』の道とは、そういうものだということができます。


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