2016/02/29

「プチ断食」をやってみて想ったこと

「不食への道」と称して、「21日間フルーツプチ断食」の実践を試みたわけですが、実際にやってみて体験してみて想ったことを書いてみます。

「21日間フルーツプチ断食」の三週間を終えて、というよりも、実際は、それ以前の9日間「煮小豆プチ断食」からの流れがありますから、実質、4週間の「プチ断食」を終えて、ということになります。

ということで4週間の「プチ断食」をやって想うのは、正直に言って、想いもよらない展開になった、というのが率直な感想です。
やってみなきゃわかんなことって、本当にたくさんあります。
やってみてわかること、やってみてみえてくるもの、開いていくものがあることを体験を以って知った気がします。
そして、まさか、こんな展開になるとは!?という想いです。
それは、いい意味であり、私にとって新たな世界が開かれた!という感じがしていまして、そんな人生を楽しみはじめている私がいます。

今現在(2016年2月29日)、不食生活を始めて、かれこれ80日くらいになるでしょうか。
そして、「21日間フルーツプチ断食」の三週間は終了したのですが、その後も、もう一週間、ということで、この今も「フルーツプチ断食」を継続しているところです。

たしかに、相変わらず空腹感を感じたり、あれ食べたいこれ食べたい、という想いはめぐり、我慢している感があることは否定できません。
なにせ、あとは最後まで、一日一食の「フルーツ食の生活」のラストスパートといった感じで、我慢してでも、耐えてでも、きっちりと達成することの方がとても大事なことのように思えているから耐えれるのです。
気持ちよく、いいかたちで終わりたい、、、その想いの方が強いのです。
それでも、すでに一日一食の「フルーツ食」に慣れた感じはしています。
もう、ほとんど「フルーツのみの食事」に特別さを感じなくなっています。
いわゆる、「フルーツプチ断食」が、i今では、普通の当たり前の食事のようにすら思えます。
「慣れ」とは、すごいものです。
そして、「フルーツプチ断食」も、白菜だの、キャベツだのを食事に加えたりして、「断食」というそんなストイックさも、こだわりもなく、敢行している感じです。

それに伴い、心境にも変化が起きてきました。
というのも、なにか苦行、修行みたいに我慢してやることが、どうも宇宙の流れに反しているような気がしてきたのでした。
もうそういう生き方は、これからは必要ないのかもと直感的にインスピレーションとして感じるのです。
厳しさは要らないと。
これからは、もうそんな時代ではないと直感したのです。
「厳しさ」や「我慢」や「耐える」という時代ではなくなるいうことです。
もっと言えば、「厳しさ」や「我慢」や「耐える」という世界には悟りはないと。
そこには、アセンションはあり得ないと。
苦行、修行に、悟りも解脱もアセンションもあるわけないです。
たぶん、二千六百年まえのお釈迦さまも、きっと、それを悟ったんだとすら感じています。
そして、その後、苦行、修行をやめたお釈迦さまは、瞑想に入りて、真の悟りに到達したのだと。

これまでの私は、なにをしてきたのだろう。

もう、人生に苦行、修行、厳しさは、要らない。
それは、ただ自分の人生を苦しもの、つらいものにしているだけなのだと。
むしろ、甘美さ、甘さを自分の人生に与えていこうと。
これまでどんだけ甘美さ、甘さのない世界でわたしたちは、飢えてきたことか。
そして、そうやって飢えてきたが故に、争い、戦いは、終わることが無かったといえましょう。
奪い合うことの終焉です。
生存競争の終焉です。
自分で自分に与えていく生き方のはじまりです。
そう、与え合う生き方は、そこからはじまっていくのでしょう。
そして、歓びから生きる、そのはじまりでもあります。
そうなのです。
頑張って生きる必要はないのです。
甘えていいのです。
甘やかしていいのです。
人生に甘美さを与えていくのは自分自身であり、これからがそのはじまりです。
我慢は要らないのです。
それは、制限でしかありません。

私の考えといいましょうか、私の想いは、そんなところにたどり着きました。
それよりも、人生を歓びから生きることの方が、わたしたち人間の進化していく方向として、宇宙の流れに合っていると思えてきたのです。

それは、苦行、修行の時代の終焉を意味しているといえます。

そこには本当のアセンショッはあり得ないと、私は、そう確信するのです。
私は、直感的にそう感じています。
そして、至福、歓喜、幸福こそが、アセンションへの道であり、私の歩みゆく方向だと。
それが、「21日間フルーツプチ断食」をやってみて、その三週間を過ごした私が、結論的に想ったことです。
そして、そんなふうに考えるようになった私は、今、四六時中、その歓びと至福と感謝の中に生きています。

さらに言えば、もうすでに次の課題、テーマがみえてきました。
また、次なる制限がみえてきたのです。
そう、次の扉が開こうとしているのです。
なぜ、わかるのか?と申しますと、さらに微細な精妙な違和感が浮上してきているからです。
その制限とは、時間、距離、お金の制限にまつわるものです。
今はまだその制限から自由になれそうな感じがありませんが、必ずや、そこから自由になっていくことを私は知っています。
なぜなら、私は、今、そのプロセスを楽しいと感じているからです。

私は、今現在も、残りあと一週間、「フルーツプチ断食」を続けるつもりでいますが、もうこれで苦行や修行といった我慢して自らを高めていくやり方は終わりにしようと想っています。
我ながら、意外や意外です。
不食を通じて、こんな方向の扉が開くとは!という感じです。
それよりも、「食べること」をもっと楽しもうと。
もっと正確に言えば、「食べる」ということを通して、人生を、この世界をもっと謳歌しよう!と想ったのです。
これまで私は、「食」というものを、「食べる」ということを否定して生きてきたことに気づかされたのです。
それによって、どれだけ人生をつまらないものにしてきたことか。
そのことは、豊かさにも通じるものがあると思います。
わたしたちは、常に、飢えていた。
満たされていなかった。
しかも、それは、自分で自分にそうしていた。そうさせていた。
そう、あらためて気づいたのです。

それは、まったくの想定外でした。
想定外の発見でした。
私に、もたらされた恩恵は、不食とは真反対のものだったのでした。
本末転倒。
それは、まさにグレンとひっくり返った瞬間でした。
この世界は、本当はギフトに満ちた世界なのではないか!ということです。
ただ、それを制限していたのはこの自分自身だったと。
この私が、歓びの世界を許可していなかっただけだったのだと。
そう気づかされたのです。

それらの気づきは、実際にやってみなければ、体験してみなければわからなかったことです。

そういう意味では、「21日間フルーツプチ断食」は、素晴らしい恩恵を私にもたらしたと思っています。

いやいや、その恩恵は、それだけでは終わらないと思っています。
これは、そのほんの序章にしかすぎないのだと。
そう直感しています。
これからが、本番です。
さらなる未知の世界への冒険のはじまりです。

ワクワクします。
嬉しい想いが湧き上がってきて仕方ありません。

天の岩戸はここに開けり。

天の国は、ここに開けり。

私の変容は、今、これ以上になく加速していっている感じがしています。
それは、これからますます加速していくと思われます。
それは、やがて無限に加速され続けて光速度へとなっていく、そんな感覚を感じています。
光になっていくのでしょう。
光に到達していくのでしょう。
光を超えていくのでしょう。
そのとき、私は、永遠を生きるようになるのでしょう。

それは、いまここにありながら、永遠に拡張していくことでしょう。


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