2017/02/05

救済主とはだれか

この世界は、癒されていない心によって作り出された世界である。


なぜなら、癒された心は、この世界を必要としない。

癒された心は、未来を必要としない、つまりは、この時間の世界を必要とはしない。

もう癒しを必要とはしない、それゆえに、もはやこの世界が無意味なものになる。


この世界にいる者たちは、

自分自身も含めて、まだ癒されていないということであり、

そのためにこの世界にいるのだと言うことが出来る。


もっと言えば、他者とは、自分の心の写し鏡である。

ということは、もっとも癒されるべき存在とはこの自分自身であり、

この自分を癒すために、他者は存在しているといえる。


そう、じつは、

だれもが癒し手であり、なおかつ、癒される者であるということ。

自分の目の前に投影した他者を通して自分を癒し、

そして、真の(大いなる)自己に帰っていけるようになっているのがこの世界の仕組みである。


そう、この世界では、だれもがだれかのための癒し手の役割を果たしている。

しかもそれは、この世界で癒しに関わることをしていようがいまいが、

どんなことをしていようが関係がないということ。


他者は、そのために存在し、じつのところ、その他者とは自分自身(の一部)である。


結局は、自分を救済するのは、この自分自身である。

そして、救済すべき存在とは、他のだれでもなく自分自身である。

だれも他の誰かを救済することはできないし、ましてや、救済すべき他者などいない。

それよりも自分を救済することこそが、

他者を救うということであり、ひいてはこの世界の救済になるということだ。


この世界に、他者はいない。

自分しかいないゆえに、救うのは自分であり、救われるのも自分である。

癒すのも自分であり、癒されるのも自分である。

そして、この世界では、だれもがお互いに他者を通して自分を癒すために、

自己と他者の関係として存在している。


自分が救われるとき、自分だけが救われるのではない。

自分の見ている世界の生きとし生けるものすべてが救われるのだ。


その真理(仕組み)を悟る者は、その真理を生きはじめることになる。

つまり、自分自身の救済のための道を歩みはじめる。

そして、その道を歩む者は、

自らが見ている世界において救世主(キリスト)として君臨するようになるであろう。


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