2018/04/07

放棄するということについて

「放棄する」とか「手放す」というのと、「ゆだねる」ことは同じ意味をさします。


ですので、この世界を放棄しないまま、すべてをゆだねるということは、

まるで相矛盾していますし、無謀なことをしているといえます。


それは、ちょうどアクセルを踏みながらブレーキをかけているようなものです。

それでは、いつまでたっても自我は止むことはありません。

もちろん、それではゆだねるということなど不可能です。


放棄することのないまま、ゆだねる、ということが、いったいあり得るのでしょうか?


でも、自我は、そういうことができると思っています。

そして、自我は、そうやってでも存続しようとします。


正直なところ、これまでの私自身のことを顧みると、

自分はまさにそういうことをしていたのだと気づきます。


「放棄する」とか、「ゆだねる」とか、頭で理解していただけで、

実際のところ、私自身、まったくそれが出来ていなかったと気づきます。


自分がしていた「放棄」とか「ゆだね」というものは、部分的なものだったと気づくのです。


それは、ある部分ではこの世界は幻想だと放棄しておきながら、

他の部分においてはやっぱりこの世界を現実だと信じていたということです。


ただ、もう、そのような部分的な「放棄」といったものでは、うまくいかないと気づきます。


うまくいくわけがありません。

そう、この世界や、この世界のものを現実だと思いながら、

放棄する、手放すということをしても、不安、恐れから逃れられることは決してありません。


すべてに例外なく幻想であると見限っていく、価値のないものとして見切っていくほか、

本当の「ゆだねる」ということはできないのだと気づきます。


それは、全面的なもの、包括的なもの、でなければ意味がないということです。


そして、私にとって全面的な放棄の実践のはじまりだと自覚します。

ようやくそのスタート地点に立ったと感じています。


「放棄すること、手放すこと」とは、

幻想に価値を置かないで、神を選択していることと同じことです。

またそれは、内なるガイド(聖霊/イエス)の手にゆだねていくということなのだと、

あらためて気づく今日この頃です。


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