2017/09/17

Let go and forgive 5/6

フランシスさんのトーク「Let go and forgive(解放とゆるし)」の翻訳のパート5です。


パート1:Let go and forgive 1/6

パート2:Let go and forgive 2/6

パート3:Let go and forgive 3/6

パート4:Let go and forgive 4/6


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聖霊に来てもらうというのは、「わたしの人生にいつ聖霊がやってきてくれるのだろう?」というような謎めいた神秘でも何でもなく、それは、筋肉(*)を鍛えるようなものと言えます。


*(このエピソードの初めの方で、英語の発音についての話がありました。中国語で育ってきたフランシスがアメリカンアクセントで”a”を発音しようと試みたとき、今まで自分が中国語では使ったことのない頬や口周りの筋肉を使う必要があることに気づき驚いたそうです。そのことに気づくまでは中国語アクセントの"a"で発音していたことを自覚し、後天的に積み重ねられた慣習を保ったまま新しいものを付け加えていく、という古い学び方の良い例として、この筋肉の話を挙げられました。)


わたしは古い筋肉(思考)を使ってこの世界を見てきたし、古い筋肉を使って「すべては分離しているとか、誰も信用できない、何も信用ならない」と思ってきました。

自分の周りで起きていることはすべて、まるで防御や防衛への呼びかけでした。

それが古いやり方であり、長い間、「防御の筋肉」という古い筋肉を使って、何においても対応してきたのだといえます。


そして今、わたしたちがすべきことは、自分自身にこう伝えることです。

「もし、すべては聖霊から与えられていると信頼して一日を過ごしてみるならば、どんな一日になるだろう?」

ここにシフトがあります。

これがわたしたちに出来ることです。

わたしたちは”警戒”(T6.Ⅴ.C 参照)している必要があります。

今日、リサが、マインドトレーニングについて話していました。

心はフォーカスを必要とし、心は献身的な鍛錬を必要とします。

マインドトレーニング(心の訓練)が何を為すかというと、横道にそれたり、不信感、疑念が入り込むのをゆるす古い筋肉や古い習慣に向かって引き返さないようになるということです。

マインドトレーニングは、「私は聖霊の目を通してすべてを見ることを決心します」と言うことが出来る警戒した心へ最終的に導きます。

わたしが感知するすべての人は、ギフトです。わたしへのギフトです。

一日を通して起きるすべてのことは、わたしへのギフトです。

でももし、あなたがそれをギフトだと思えなかったら、ギフトだというフリをするのはやめてください。

「これはギフトだ。これはギフトだ。これはギフトだ。」と言ってアファメーションを繰り返す必要はありません。

わたしたちは”正しく”ありたいわけではありません。

それよりも聖霊に「あなたを招き入れさせてください。どうやったらこれがギフトだとみえるのですか?わたしの有限の思考では、これがギフトだと解釈できません。」と言いたいのです。

シフトが起きるかは、意欲次第です。

だから、聖霊を呼び、心に聖霊の目を招き入れ、わたしたちのために聖霊の筋肉を使ってすべてのことを解釈してもらうのです。


わたしたちは、そこから「例外はない」というところへ信頼を育てていきます。

わたしたちは、はじめのうちは「ある特定の人々は聖霊を象徴しているが、ある特定の人々はそうではない。ある特定の出来事は聖霊からもたらされているが、ある特定の出来事はそうではない」と例外を設けています。

しかし、”警戒”していることによって、最終的には「例外はない」となります。

確実にすべてに例外はありません。

起きているものごとに偶然というものは絶対にありません。

それは完全に知覚によって生じる、いわゆる解釈によって生じます。

わたしたちがそれをどうみるか?どう自分自身に伝えるか?だれの声を聞いているか?によるものです。


この部分は、他のだれかに代わってやってもらうことが出来ないところです。

どんなスピリチュアル・ティーチャーを支持していようが、何年スピリチュアルな実践をしていようが、どんな体制のスピリチュアリティに身を置いていようが関係ありません。

自分でやるしかありません。

あなたが心にシフトを起こさなければならないのです。

これは、ときにフラストレーションを感じることもあります。

わたしもフラストレーションを抱えていた時期を通り越してきました。

本当にだれかに代わってやって貰いたかったけれど、誰も代われる人はいませんでした。


次回に続く


ーYouTube「Let go and forgive」より抜粋翻訳ー


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コメント

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Re: No title

ユウキさん
ユウキさんの中に真摯に神を求めるあなたを感じます。ありがとうございます。この私も同じく学びの道を歩んでいる者です。共に歩んでいけたらうれしく思います。これからもよろしくお願いします。そしていつかお会いできる日を楽しみにしています。

No title

もりG 様
ご返答ありがとうございました。そういう意味なのですね。何か出来事に対して、相手に罪を見ていることに気づき、赦すことはありますが、まだまだそこまでの境地には至っていませんでした。まだまだ、分からないままコースをやっているところがあり、現在、広島に住んでいますが、一度ゆっくりお話しを伺いたい気持ちになりました。大学時に福岡に住んでおり、大橋、姪浜にも行ったことがあります。また、ブログを楽しみにしています。

Re: No title

ユウキさん

はじめまして。
ブログをコースの学習にお役立ていただいているということ、うれしく思います。

さて、質問に対する答えですが、ユウキさんのおっしゃる通り、比喩です。
神はこの世界に一切関与していない、それどころか、「この世界はない」というのがコースの教えの真髄とするところです。

でも、コースの中では、聖霊が(またはイエス)が、私たちにレッスンを与えるとか、人々を送ってくるとか、あるいはまた私たちが他者のもとに送られるといった表現がされている箇所がいくつかあります。
たしかに、まだ分離した意識でこの二元性の世界を知覚している私たちにとっては、目覚めのプロセスにおいてそのようにみえるというのが私自身の体験です。他者が(たとえどんなに嫌いな人、憎い人だとしても)、神、キリスト、救世主としてみえるということです。それは私自身の体験ともいえるのですが、それをヴィジョン(心眼)体験と呼ぶのだと思います。
もちろん、コースを学ぶ者にとってはそこがゴールではありませんが、そのようなヴィジョン(心眼)体験をすることは赦しを実践していく上で大きく学びを進めてくれるものでもあります。

心眼が開かれていくならば、「わたしたちの前に現れる人々は、神によって送られてきた人々です。」と言われているその意味が自分の深いところでわかってきます。「他者はいなくて、神だけが在る」と。
そして、そのようにみていくこと以外に神のみもとに帰る道はないということもわかってきます。今自分の目の前にいる人、人だけに限らず出来事や人生や世界をその捉え方でみていくということです。つまりは、この世界のすべてが神のみもとに帰るための「教室」になるということです。

目覚めのプロセスは、人それぞれのプロセスがあると思います。
私は自分の体験からしか話すことが出来ないので、私なりに質問に答えましたが、もしちゃんとした答えになっていなければ申し訳ございません。
せめて、私は、以上述べたような在り方で生きていますとお伝えしておきます。
ありがとうございます。

No title

はじめまして。コースを始めて3年になります。もりGさんのブログを最近知りました。とても勉強になっています。
一つ質問があるのですが、昨日の記事の中で、フランシスさんが、「わたしたちの前に現れる人々は、神によって送られてきた人々です。」と言われているのですが、これは、比喩でしょうか?この世界は自分が自我と一体となって投影した世界で、神は感知せず、自我のシナリオだと思っていたのですが。