2017/10/12

聖霊に解釈してもらうことについて 1/2

フランシスさんのショー『To Say It or To Mean It 』からの抜粋翻訳です。


「聖霊に解釈してもらう」ことについての質疑応答の部分を2回に分けて翻訳シェアします。


わたしたちが自分と思っている自分と、神に創造されたままのわたしとの間には大きなギャップがあり、そこに接点はありません。幻想と真理が同居しないのと同じです。

そして、形而上学を理解したからといって、いっきに神の抽象世界へと還れるわけではありません。

たとえ、啓示や一瞥という体験があったとしても、そこで赦しが完了するわけでもありません。

この世界を知覚している限り、すべてを赦す必要があるということをわたしたちは知らねばなりません。

今いる自分から、この世界を知覚しているところから、そして、今知覚している具体的な世界を「教室」にして神の抽象世界へと還るのです。

ですから、夢と実相の間の隔たりに橋を架けてくれている聖霊が、わたしたちには必要なのです。

聖霊が架ける橋を渡って還るしかありません。(参照:W-pII.7)


質問者は「聖霊の解釈はいらない」と言っていますが、フランシスさんは、わたしたちは聖霊に解釈してもらうことによって真理へ橋渡しをしてもらう必要がある、と言っています。それを、踏台(stepping stone)という言葉を使って表現しています。


興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。



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<聖霊に解釈してもらうことについて >


質問者:(※質問内容は短くまとめています。)

聖霊に解釈してもらうことについての質問です。

「解釈」という言葉の意味からすると、様々なものの見方のうちのある一つの見方、というふうに捉えられます。

となると、聖霊の解釈が真理ではないことも大いにあることになります。

わたしはただ真理を欲しているだけであって、ある一つの違った見方を提示してほしいわけではありません。

聖霊による解釈とはいったい何を意味しているのですか?


フランシスさん:

ワークブックのレッスンに「私は神の平安を望む」(W-pI.185)というのがあります。

このレッスンは以下のように始まります。

「この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。もしあなたが、ほんの一瞬でもそれを本気で言うことができるなら、もはやいつどこにいても、どんな形においても、あなたに哀しみはありえない。」(W-pI.185.1.1-3)

これはおおむね、「私は神の平安を望む」という言葉を本気で言うならば、誰しも癒しは必要なく、純粋な願いとともにこの言葉を心から言うことによって癒されている、ということを言っています。

本当は何を言っているのかというと、これはある意味、「私は神の平安を望む」と言いつつも、ただ神の平安を、あらゆるところですべての状況ですべてのシナリオですべての時間と空間の中で平安を経験していないのなら、実際のところ「私は神の平安を望んでいません」と言っていることを意味します。


わたしは、ここ(「私は神の平安を望んではいない」というところ)から始めることこそが役に立つと思っています。

なぜならそれが、コースが、「これが真理である」と究極の真理を言っていない所以であり、だからこそ、あなたの心は、正しい概念や正しい言葉をしみこませることができるのです。

「苦しみはない」「この世は幻想である」「愛のみがある」などの言葉は、その時々にあなたに思い出させるために出てきます。

言葉としては、時に二元的な言い回しをしています。それは、心が今あるところで、まだ信念を持っている心と符合するように、そのような表現となっています。

だけれども、最終的にそこはあなたが止まるところではなく、(二元的な表現は)道の途中での踏台でしかありません。

あなた自身を踏台に明け渡しきった後には、その踏台はもうあなたにとって必要ではなくなり、そのことについて考えることすらなくなります。

究極の心の状態を達成するところまで進んでいくだけです。


コースはとても実践的です。

なぜなら、コースは、「打つ手はない」とか「出口はない」とか「ただ何もせず待つしかない」とか「これは究極の真理だ」などと言わないからです。

実際に、コースは、「これは真実です。しかし、私(イエス)はあなたが理解できないことを知っています。あなたがやってみようとしなくてもそれでもOKです。ただここから始めましょう。あなたがいるところから始めましょう。」と言っています。


この時点で、スピリチュアルなサークルの中において、たくさんの言葉、たくさんの文章、絶対普遍の真理についてあらゆる言い回しで話すのを、わたしたちは耳にします。

それによって、わたしたちは段階を踏むことに対して忍耐強くいれなくなり始めています。

心はまだ「神の平安だけがわたしのゴールです」と十分本気で言う準備は出来ておらず、そのような体験も十分にしていないことが、提示されている段階に忍耐強くいれないようにしています。

実際にそれを飛び越えて、「自分は究極のゴールを知っている、なぜなら、真理について聞いているし、心に描くこともできるし、概念もよく知っている」と言いたくなります。

そして、「真理に到達したい」と欲して、自分はまだそこには至っていないということを強化し続けています。

「真理に到達したい」と欲して、欠乏感を保持し続けていますし、欠乏感を強化しています。

そのかわりに、忍耐強く次のように言うべきです。

「聖霊は、今自分がいるところにやって来て、(そこで)自分に答えを与えてくれたり、解決を与えてくれたり、この心が理解して受け入れることができる明らかな何かを与えてくれるだけでなく、聖霊は、心がそれを受け取れているかを確かめてもくれます。」と。

これが聖霊の仕事なのです。

もし心が、具体的なものだけしか理解しておらず、「時間と空間の中でいかにして人生を生きるか」だけしか知らないとしたなら、そして、もし聖霊が抽象的な世界しかわからないとしたなら、聖霊にどんな使い道があるというのでしょう。

もしそうだとしたなら、(わたしたちは聖霊と)どこで出会うというのでしょう。

聖霊が来てくれるというのは、良い知らせです。

聖霊は、心が理解できるレベルで話してくれます。

そして、見逃していないか確かめてくれます。

もしわたしたちが心を開いて受け入れるならば、明らかにあなたの目の前にあるものを見逃していないかを確かめてくれます。


次回(後半)につづく


ーYouTube『To Say It or To Mean It 』よりー


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