2018/03/02

Form vs Content (形態 vs 内容)

デイヴィッド・ホフマイスターのトーク音声『 Form versus Content: Desire Content beyond forms(形態 vs 内容:形態を超えて内容を求めよ) 』の翻訳です。


この翻訳記事は昨年の12月5日にアップしたものですが、今の私にとってとてもしっくりくるものがありまして、再度アップさせていただこうと思います。


ここでいう「形態(form)」とは、表面的なレベルで知覚しているもの(かたち)とういうふうに理解していただけると分かりやすいかと思います。

それと対比して、「内容(content)」とは、形態の奥にある実相という理解でいいと思います。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んで実践しているわたしたちにとって、かなり参考になることも述べられていますので、どうぞご覧ください。


・・・・・・・・・・・・


<Form vs Content  (形態 vs 内容)>


今夜は「形態と内容」について話したいと思います。

なぜなら、真理を経験するために心を開きハートを開くことがシンプルであることを共有することや、真理を経験するためのはっきりとしたまっすぐで直接的な道を示すことは、とても役立つことだからです。

「形態と内容」についてまずはじめに、「形態とは、自我によってでっち上げられ、引き起こされ、捏造されたものである」と言っておきます。

すべての形態(form)、厳密に言えば複数形で表される形態(forms)は、間違いが投影されたものです。

深遠である真理の中で、愛は神聖なるものであり、抽象的なものであり、光です。

形態は、歪んだ知覚の一部であり、間違いの投影であり、真理から隠れるため、光から隠れるための企てです。

形態への執着は、形態への信念であり、形態を重んじているということです。

真理に形態はありません。

ワンネスに形態はありません。

抽象に形態はありません。

神を重んじ、愛を重んじることは、複数の形態は不可能であるということを理解することです。

形態は詳細を持ちますが、真理はひとつです。

聖霊やイエスは、(わたしたちが)愛の実在への気づきを阻むものを手放すために、自我が作り上げた具体的なものを使います。

言いかえると、形態は決して重要ではありません。

形態は、実例や指針として用いられます。

言葉は形態です。

そしてそれらの形態は、聖霊によって使われます。

神からの分離という信念を取り消すために使われます。

線形的な時間への信念や、具体的な形態への信念を取り消すために使われます。


内容(Content)は愛です。

形態を知覚することは、内容への気づきを曖昧にします。

コースの中でイエスはわたしたちにこう教えています。

「形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。」(T-22.Ⅲ.6:7-8)

形態についての討論、概念についての討論、信念についての討論が誤りであることを、あなたは理解できることでしょう。

分離の信念は、矛盾しています。

なぜなら自我は矛盾の源だからです。

そして、自我は、複数の信念を生み出します。

この世界の中では、人々が互いに矛盾しているように見えますが、実際には、心の中の自我の信念が互いに矛盾しているのです。

ただ一つの助けとなる信念は、赦しです。

赦しは、単純に、誤りを誤りとしてみます。

赦しは、具体的な信念が不可能であるとわかります。

そして、分離の信念から発生したすべての信念は誤りです。

この世界は、多様な世界であり、時間と空間と具体性の世界です。

そう、多様性の世界なのです。

なおさら、多様性は価値あるものとされています。

しかし、真理はひとつです。

そして、愛もひとつです。

多様性は自我の投影です。

自我のレンズを通してこの世界をながめるならば、たくさんの形態を知覚することになると言えます。

しかし、そこにはただ一つの訂正があります。

赦しによる訂正は、贖罪です。

それは、シンプルに、誤りを誤りとしてみます。

神はスピリットです。

スピリットが創造するのはスピリットです。

たくさんの形態は、実際にひとつであるもの、これまで常にひとつであったもの、そして永遠にひとつであるものを隠しているようにみえます。


知覚の世界は、マーヤ(幻)の世界です。

幻想の世界です。

歪曲された世界です。

実相の中には存在しない場です。

過去は、何度も何度も線形の世界の形態として、歴史や想像の未来として形作られ繰り返されています。

自我や恐れは実在しません。

肉体や世界や時間は、ただの一瞬も存在してはいません。

わたしたちが「内容(実相)」に目覚めることは、スピリットそして神聖なる愛に目覚めるということです。


コースの道は、非常に直接的な道です。

テキストを勉強し、ワークブックを実践し、教師のためのマニュアルの指示に従うという実践的な道です。

ワークブックの中にあるように、この道は、行きつ戻りつしながら言葉を超えたところへ行く道です。

真理は、言葉の中には見い出せません。

真理は、言葉で言い表したり説明できるものではなく、経験されるものです。

直接的な真理の体験への道を開けるために、言葉は捨て去られるところへ達します。


言葉は、神学理論にとってはとても重要です。

しかし、神学理論は、直接的な体験の中へ飛ぶ踏み板にすぎません。

平安について話し、形而上学について話し、平安という言葉について話すことは、指針の中で心が眠っているということです。

指針は核心ではありません。

象徴は核心ではありません。

言葉は象徴の象徴にすぎず、実相からは二重に隔てられています。

これらの言葉は、儀式化されるものではありませんし、現実の経験の代替となるものでもありません。

言葉に捕らわれるのは、この世の罠です。

そして、断片化した知覚に捕らわれることも同じです。

言葉や断片化した知覚に専念する心は、真理への恐れから生じます。

すべてが分離する必要はどこにもありません。

この世界の意見、この世界の個人性、この世界の自律性は、分離への欲求からきています。

しかし、もしあなたが、あなたの完全な欲求であるワンネス、一体化、愛、真理、繋がりにフォーカスするならば、それ以外のものはすべて自覚から突然消えてなくなるでしょう。

完全なる愛は、恐れを追放します。


ヴェーダンタ(インド哲学)におけるヴェーダ(究極の知識)は、「Not two(二つに非ず)」といえます。

とても深い最高の教え、最高の智慧は、ワンネスの実体験の中の教えです。

コースの先生や生徒が陥る主要な間違いは、幻想の中に真理を運ぼうとすることです。

愛やワンネスに対して封印を掲げることによって、その封印の背後で満足しようとしています。

分離した財団、分離した言葉、分離した本、分離したカンファレンス、違う版の『ア・コース・イン・ミラクルズ』、それらはすべて、誤りの投影であり、愛に対する防衛であり、ワンネスに対する防衛です。

真理はシンプルです。

「同一のものが異なっていることはあり得ず、ひとつであるものには分離した部分はあり得ない。」(T-25.Ⅰ.7:7)

これが真理です。


わたしからのアドバイスは、最大限にできる限り直接的にシンプルに、コースを読み実践することです。

まるで、聖霊があなたに直接語っているかのように、コースを読んでください。

できる限り明確に率直に直接的に、聖霊に応答し返答してください。

そして、ワークブックで指示されていたり出されているお題を実践するときは、献身そして専心と共に目覚めることを期待して実践してください。

コースをただの本のように扱わないでください。

ひどい嵐の海で上へ下へと人生が流されいてるようなとき、その嵐の海とは、訓練されていない心のことです。

大いに心の訓練を要しているということです。

フォーカスすることと注意を向けることをかなり必要としています。

コースが1日に1個以上のレッスンをしないように言うときは、その指示に従ってください。

そしてコースが、訓練を転移(応用)することや、1日を通してアイデアを応用すること、その日のレッスンに例外を作らないことを求めるならば、それを行ってください。

ただそれだけを行ってください。

とにかくシンプルなままに行ってください。

様々な意見に対して無関心さ(公平無私さ)を、分離した視点に対して無関心さを育てていってください。

なぜなら、欲求は、一体化した世界をみること、赦された世界をみること、そして幸せな夢を直に体験することだからです。

そして、幸せな夢の向こうへと運ばれていきましょう。

(ただ、)幸せな夢は、なお幻想であり、想像を伴ないます。

一元化していない知覚は真理ではありません。

しかし、幸せな夢は(真理への)入り口です。

赦しという心の訓練にフォーカスしてください。

時間や空間という考えによって遅らせないでください。


自分自身にとっての一つの責任は、贖罪を受け入れることです。

唯一の責任は、贖罪を受け入れることです。

それ以外には何もありません。

線形の時間の物事に注意を費やすことによって時間を無駄にしないでください。

というのも、時間は肉体や世界と同じくニュートラルだからです。

聖霊に明け渡してください。

それらは崩壊し消滅するでしょう。

形態に意味はありません。

これはワークブックの第1番目のレッスンによって強調されています。

「この部屋の中に見えているものには、何の意味もない。」(W-pⅠ.1)

代わりに、内容に開かれましょう。

内容の実例としては以下のとおりです。

私は神が創造したままの私である。」(W-pⅠ.94 , 110 , 162)

私は霊である。」(W-pⅠ.97)


アーメン


『Form versus Content: Desire Content beyond forms』より

https://www.spreaker.com/user/davidhoffmeister/form-versus-content-desire-content-beyon


IMG_2477.jpg


コメント

非公開コメント