2018/02/05

我が心のイエス

聖霊の導きによって、

ジーザス(イエス)のプレゼンス(存在)をより身近に感じるようになってきています。


ジーザスは、生きています。

ジーザスは、いまここに生きています。

ジーザスは、私の中に生きています。

ジーザスは、誰もの中に生き続けています。


それはキリストと呼んでもいいのかもしれませんが、この私にとって、

かつてこの地上に生きたジーザスのほうがよりシンボルとして身近に感じることが出来ます。


生きる意味を求めて、25歳の時から私の真理探究の旅がはじまりました。

これまでスピリチュアルの旅の中で私もさまざまな次元のエネルギーに触れてきましたが、

ジーザスのプレゼンス(存在)のエネルギーは、この上ない清らかさと心地良さを覚えます。


目を閉じて、今この瞬間へと入っていくとき、それはそこにあります。


安らぎ。

静寂。

安心感。

愛。


それは、なんともいいようのない居心地の良さです。

そのしっくり感は、あまりにも自然としか言いようがありません。


ジーザスのプレゼンス。

それは私をこの世のすべてから解き放ち、

目の前に見ている世界を忘れてしまうほど、今この瞬間へと誘ってくれます。


ジーザスのプレゼンス(存在)を感じるとき、もうことばはいらない。


ことばを求めることよりも、答えを求めることよりも、

ただジーザスのプレゼンスに触れていることのほうがよほど重要なのだと感じます。


もうことばも、答えを求めることもいらない。

学びすらもいらないのだと気づきます。

なにもいらない。

むしろ、このために自分はスピリチュアルの探究の名のもとに学んできたのだと気づきます。


ジーザスのプレゼンスに触れているだけでいい。


それは、ある意味祈りにちかいものがあります。

それを信仰心といってもいいと思います。

そして、本当はそれで十分なのかもしれないと私は気づきます。

信仰心とは、このようにして神のもとに還るためのものだったと気づきます。


信仰心によってこの時間と空間を超えて神のもとへと還った存在たちもいたのだと、

今ではわかる気がします。


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