2018/09/13

肉眼の目でみるかぎり罪をみる

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肉眼の目でこの世界をみているかぎり、
「罪を見ない」ということは絶対にあり得ないのだなとあらためて気づきます。

ちなみに、肉眼の目でみる、とは、
この自分は身体(人間)だとしている、ということです。

そして、その自分は、
「この世界の夢を見ている者(主体)である」ということをすっかり忘れている、
ということです。

そこからこの世界をみるかぎり、
必ずや他者の中に罪をみることになる、ということです。

そのことが深く腑に落ちる感じがして、
まさに「なーんだ、そーなんだ」という、安堵感すら覚えます。

というのも、もういちいちだれかを裁いたりする必要もないなと思うからでs。

むしろ、裁いていたことが、滑稽にさえ思えてきます。

というのも、自分は「この世界に善良な人(罪なき人)がいる」と思っていたということです。

そんな人(罪なき人)などいないとなれば、裁くことになんの意味があるというのでしょう!?

わたしたちが「他のだれかを裁く」とき、
この世界にまともな人(罪なき人)がいると信じているから、裁くことができるのであり、
端(はな)からみんな狂ってる(まともな人なんていないのだ)とわかっていたなら、
裁くことがなんてばかばかしいと気づくものです。

ケネス・ワプニック博士は、こう言います。

「ある意味では、この世界のすべてが悪行なのです。
  この世界に何一つとして、正しいものはありません。」と。

まさに、そのように思っていたほうが、
他人に対しても、自分自身に対しても寛容になれる気がします。

イイ意味で、この世界を諦められる(手放すことができる)といいましょうか。

結局のところ、この世界のどこをみても、だれをみても、
その自分は悪人や加害者を探し出しては、裁く、ことからは逃れられないということです。

この自分は罪をみたくてこの世界をみているのですから。

自分の真のアイデンティティーを否定しているがゆえ、
つまりは、自分のことを
神の子ではない(神から分離した)、愛ではない(愛されていない)存在だとしている、
としているがゆえ、だれをみても罪があるようにみえるのは必然だということです。

その喩え話として、ケネス・ワプニック博士のビデオで、
「映写機のレンズに付着した汚れ(一点の闇、一粒の塵)」
という比喩を使って面白く表現されています。
(ビデオの本題とはズレるかもしれませんが、、、)

「肉眼の目でみるかぎりは他人の中に罪をみることになる」ということについていうと、
そのことをわきまえている、いない、では、ずいぶんちがうなと感じます。

そのことをわきまえることで、
この世界をまるごと赦すことがずいぶんとスムーズになったと感じています。

そんなことを想う今日この頃です。

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追記

「肉眼の目で見るかぎり」
ということばを、
「この世界を誤って知覚している限り」
ということばに置き換えるといいかもしれません。