2018/11/12

妥協なき実践

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この私もまだまだコース学習の途上ではありますが、
私自身がコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んで個人的に感じているのは、
ケネス・ワプニック博士(FAICM/JACIM)の解説がなかったなら、
その概念を理解するのに20~30年はかかるどころか、
ひょっとしたなら、一生かかっても理解することはなかったかも、と思ったりします。

そういう意味で、ケネス・ワプニック博士の存在は、
コースを学習する者(私自身)にとってはなくてはならない存在だと思う次第なのです。

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)というものは、
概念(形而上学)の理解と実践によってその学びは深まっていくといえますが、
その概念的理解なくして日常の中で実践として適用(応用)していくことなどできないと
つくづく実感するのです。

曖昧な理解のものとでは、やっぱり、曖昧なところでの実践しかできません。
その曖昧なままの実践では当然それなりの成果を実感はするものの、
結局は、コースを学んでいるつもりでも、
学びが深まっていくならば、どんどんこの世界を幻想だとして見切っていく道でありながら、
実際は、不安や深刻さはいっこうに拭い去れていっていない、、、
ということになるわけです。

そう、かくいう私自身こそがまさにそうだったのです。
(ケネス・ワプニック博士の提唱するコース形而上学を学ぶようになるまではそうでした。)

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コースの学び始めというのは、そのわずかな意欲で十分なところはありますが、
コースの学びが進んでくると、妥協なき実践が求められるようになっていきます。

その妥協なき実践こそが、真の赦しの実践だということです。

自分のことを人間である、自分はこの肉体(身体)である、と信じたまま、
真の赦しをすることはできません。

この世界は実在している(現実/リアル)と信じたまま、
真の赦しをすることはできません。

とはいえ、この時間と空間の世界のなかに自分は居ると知覚しているわたしたちは、
そのようには思って(信じて)はいません。

そう、ふだん、わたしたちは、
「自分は人間であり、この身体であり、この世界の中で生きている」と信じています。

「この世界は実在していると思いながら、あるいは、この自分は身体であると思いながら、
 コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を実践することはできない」
 とワプニック博士は言います。

この世界を超えていくことを真に望んでいるのならば、
自我(幻想)を完全に見切っていく他に道はなく、
そのためにも自我の精神力動を完全に見極めていくために(赦しをマスターしていくために)、
コースの概念的理解(形而上学的理解)は絶対に欠かせないといえます。

それをマスターせずして、真の悟りなどあり得るのでしょうか?
それをマスターせずして、アセンデッドマスターになるなどあり得るのでしょうか?

それをマスターせずして、自我を「無(幻想)」だと完全に見切ることなくして、
自分はこの世界から自由になれる、自分はこの世界を超えてゆける、など、
まともに考えても、そんな自分(自我)は狂気でしかありません。笑

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ときに、私自身、この道を歩んでいながら、全然楽しくない、と思うときも正直あります。
なにか紛らわせてくれる楽しいことをこの世界に探しているときも、もちろんあります。
深刻になりそうなときもあります。

それでも、やっぱりそんなときこそ学んできた概念的理解(形而上学)が、
そんな想いこそが自我(のトリック)なのだと気づかせてくれるのです。

コースを学び始めた頃は、コースはとても難解にみえます。
なぜなら、それは聖霊の思考システムから書かれたものだといえるからです。
なので、テキスト、ワークブック、マニュアルに書かれてあることがわかるようになったなら、
それは、自分が聖霊の思考システムにシフトしている証であるということができます。

ただ、自我にとって、コースに書かれてあることの一部のみを都合よく受け取って
理解することも可能ですので、
もし、テキスト、ワークブック、マニュアルに書かれてある一部分しかわからなかったり、
曖昧にしかわかっていないのならば、
自分は、まだ聖霊の視点からこの世界を知覚していないことを自覚すべきです。

ちなみに、
赦しとは、こういうものであり、こうあるべきだ、と言いたいのでもありません。
赦しというものについて、その実践において、それぞれの段階とプロセスがあると思います。

ただ、コースというこの道は、自我を、幻想を、直視していくものであり、
それらを実在するものとしたまま、それらを見切ることなく、(それらを隠ぺいしたまま)、
神のもとに帰れるわけがないということです。

妥協なき実践には、そこに妥協なき根拠(バックボーン/精神的支柱)が必須だということ。

その根拠こそが、形而上学的理解なのだといえます。

それなくして、妥協なき実践など成し得ないということです。

それは、自分自身へのメッセージであり、わたしであるあなたへのメッセージです。

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