2017/04/17

真実一路

道。

それは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われているその道のこと。


その道は、もう引き返すことのできないところに来てしまったとすら感じています。


とは言っても、引き返そうという気もさらさらありません。

なぜなら、それはこの自分自身がもっとも望んでいたことでもあるからです。


苦しみの消滅、それは、自分(自我)の消滅と云っても過言ではありません。

それは、聖霊の導きであると今ではわかります。

ここから先は、この平安と共に、

サレンダーして、全託していくこと以外に道はないと強く感じています。


一筋の道を偽りのないほんとうの心をもって、ひたすらまっすぐに。

まるでそんな気持ちです。


広大無辺なる空を、ひたすらまっすっぐに。

真実一路。


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2017/04/15

初老の今想うこと

この世界ではあらゆるものが移ろい変わっていきます。


気付けば、この私も今年の秋で50歳になります。

もう半世紀もこの地上で生きたのだなと思うとともに、

自分のこの身体にもちらほらと老いを感じはじめています。


それはこの地上で生きていくかぎりだれもが経験していくものではあるのですが、

それでも、それはだれにとってもこの人生においてのはじめての体験であり、

未知の体験でもあります。

そうなってみてはじめて気づかされることが多々あります。


この身でそれを受け入れていくとき、

老いていくとはこういうことなのか、、、と、

はじめてわかること、想うこと、感じることがあるのですね。


それは自己の原点に立ち返らせてくれます。

この人生のゆくえやあとどれくらい生きるのか?それがいつ終わるのか?は、

それはすでに決まっていることで、

そういうことは神にまかせて、

今ここに生きている私は、自分の一番大事とするものをただ生きるだけ、

という想いに立ちかえらせてくれます。


いつかはこの身体もこの地上に置いていくことになっています。

その瞬間まで、私は自分の一番大事にしているものを生きるつもりです。

それは、私が「道」と呼んでいるものです。

それは、この人生が終わるときまで続くものです。


この人生が終わるそのときまで。

そして、そのときがその旅を終えて我が家に帰りつくときなのでしょう。


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2017/03/28

モクレン

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近所を散歩していると、

木蓮(もくれん)の白い花があちらこちらで咲いているのを見かけます。


「もくれん」と言う時、

そのことばの響きから、つい私は仏教に興味があったせいで、

お釈迦さまの10大弟子の1人である目連(マハ‐モッガラーナ)の方を思い起こします。


目連(もくれん)は、弟子たちのなかで神通第一と言われた人です。

神通とは、普通では見たり、聞いたり、感じたり出来ないことを感じ取る超人的な 能力です。

現代では、それをサイキック(霊能力)と呼ぶのでしょう。


若い頃は、この私もサイキックみたいなものに憧れや特別性を見て、

その能力を求めてたりしたものです。

でも、今ではまったくそういったものに興味すらなくなってしまいました。


サイキックというものは、

解脱という道を歩むうえにおいてはどうでもいいものだと、私は感じています。

ただ、そういったものはその人にとって必要として与えられているものであり、

またその能力によって癒されることを必要としている人たちもいるのだから、

サイキックを否定するものでもないと思っています。

ただ、そういったものは解脱とはまったく関係のないものであるということです。


むしろ、目覚めて、解脱へと向かっていくと、

そういったものを必要としなくなっていくといえます。

私は今そう感じています。

そういったものにあまり魅力も憧れも特別性も感じません。


私も自分に与えられた能力というものを自覚していますが、

それを必要としている人たちがいるのであれば、

私はその機能(役割)をただ果たしていくだけなのだろうと思います。


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2017/02/20

裸の王様

今、自分に正直になってみると、

これまでの自分といえば、心のどこかで、スピリチュアルな教師のつもりで、

そこに自分の存在価値を保とうとしていた自分に気づくのです。


ことばというものは、他の誰かに向けているようで、本当は自分自身に向けられているのです。

自分自身に向かってもっと教える必要があるから、

他者を仕立てて(投影して)彼らにことばを伝えているようで、

じつは、自分自身に言い聞かせているメッセージにしかすぎません。


過去の私はそういうことをしながら、エゴを満たしていたということができます。


さらにいえば、

自分がスピリチュアルリーダーや教師っぽいことを演じることによって、

彼らをその生徒役に仕立てていたとように思います。

本当はこの自分の方が教えられていたのに、

自分が教えている立場のつもりになっていたのかと思うと、

我ながらその無智さに愕然とするとともに、滑稽に思えてしまいます。


自分は何をしていたのだろう?

どこへ向かっていたのだろう?

何の価値もないことに、何をそんなことに夢中になっていたのだろう。


もう、教師ぶるのはやめようと思います。

スピリチュアルリーダーぶるのはやめようと思います。

なんて無意味な、と思います。

彼らを、ひいては、この自分自身を、卑小にみていたということです。

なんと愚かな、と思います。


むしろ、これからはこの私自身は学び手です。生徒です。


私は、なにもわかってなかった。私は、なにも知らない。


今の私は、素直にそう思うのです。


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2017/02/17

ある一人の心理セラピストとして

過去の私と言えば、

心理セラピストとして自分がしているセッションは、

他のスピリチュアルなセラピーやヒーリングといったものと比べて、

スゴイことをしていると思っていました。

自分は特別なことをしている、、、他のセラピストがしていることとはちがう、と。


そういう想いもあって、自分の役割に使命感を持ってやっていたわけですが、

今となってはもうそんなアイデンティティなんぞ、本当に無意味だなって気づくのです。

せめて自分自身の目覚めにとっては、本当に何の価値もない、無意味だと。


もちろんセラピストとしての絶対なる自信というものは今も変わりなくありますが、

でも、そういうものと真理、つまり実相とは一切関係がないのです。

まったくの無意味です。


この今となっては、心理セラピストの自分で言うのもなんですが、

実相からみるならば、

自分のしている心理セラピーというセッションは代替品でしかないと言えます。

それは、他のどんなセラピーやヒーリング、そしてスピリチュアリズムも同じことが言えます。

そのすべてが、代替品でしかないと気づくのです。

もっと言えば、この世のすべてのものが実相の代替でしかありません。

実相以外は、すべてそうなのです。


正直、私がそのことを自分で認めてしまったら、

私のセラピストとしての人生はどうなってしまうのだろう?と思います。

もう終わってしまうのかもしれません。

でも、それでいいのかもしれません。


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