2018/04/28

奇跡を生きる

私にとって、
「これまでの考え方」というものは、もうこの先には持っていけないと気づきます。

「これまでの考え方」とは、
自分の常識としてきた考え方、あるいは一般的に常識としている考え方のことです。

むしろ、
この先の歩みはもうそういうものが要らないのだ、ということなのだと思います。

それは、これから(いい意味で)突拍子もないことが起きていくということであり、
そういう段階へとシフトしていくその準備をしているようにも思えます。

私の中で、アライメント(調整)が起きているのがわかります。
いろいろな考え方、想念、記憶が湧き起こっては、ただひたすらそれらを眺めていっています。
心の奥にしまっていたダークネス(暗い)な部分がどんどん湧き起っては、
明るみにされていっており、それによってさまざまな気づきが起きています。

すべてはただ必要なことが起きているだけなのだと自覚します。
神の計画のもとに起きることが起きていっているだけです。

ますますサレンダー的な生き方へとシフトしていっている状態です。
それが飛躍的にシフトしていっているような今の私の状態です。

それでも私がしていくことは、聖霊と共に赦しをしていくだけなのだということです。
そして、その実践はこれからもやり続けることに変わりはないということです。

究極は、私が幸せで、楽しんでいればいいのだと。
そうあるだけでそれは延長されていくのだろうと思います。

すべてはただ唯一の目的のためであり、そこへと私は運ばれているだけなのですから。

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2018/04/04

与えられている機能の発動

自分でも不思議なのですが、
自分のしているセラピスト活動を仕事(ビジネス)としては考えなくなった今、
(もう自分ではすべてを神に明け渡して、放棄しているわけですが)
かえって、ビジネス色が出てきたようにすらうかがえます。

ブログで書く記事も、ますますその頻度が増して活発的になってきていますし、
中でも、セッション料をドネーション制(寄付制)から料金制に戻した件に関しては、
客観的にみたら、ホント、そんなふうにみえても仕方ないだろうなと思うのです。

私としては、これまでもそうだったように、
内なるガイド(導き手)に従って、赦しをしていくことに変わりはありません。

ただ、以前と比べて、さらに自分が解き放たれていってるように感じています。

それは、より深刻さがなくなってきているともいえます。
それは、より気楽さが増していっているともいえます。
確実に、平安なひとときが増しているのを感じています。

その平安はこの世の何よりも確実なものである、ということが腑に落ちていいってういます。

この時間と空間にいる間は、
この自分は、そしてこの身体は、必要なタイミングで必要な場所へと運ばれて、
そして、必要な人と出会っていくのだろうなと感じています。

そんな私は、与えられている機能が最大限に使われていくようゆるしていくことが、
この自分がしていくことであり、したいことなのだと自覚します。

たとえそれが見た目、世俗的であろうが、ビジネス的であろうが、
もはやそういうことはどうでもいいことなのだと気づくのです。

すべてはたった一つの目的のため、です。
それ以外に、私がこの世にいる意味などないのですから。
むしろ、それ以外にこの世に意味も目的もないと自覚する今日この頃です。

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【もりGプライベートセッション】

わたしたちの本質にある Joy を分かち合うことで延長していきましょう。

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2018/03/29

ネクストステップ

もう、飽きた、と感じています。

なにに飽きたのか?というと、
このまでの自分や、これまでの生活や環境も含めて、
このまで自分がしてきたやり方、考え方、生き方、なにもかもに、飽きた、と感じています。

だからといって、あれがしたい、これがしたい、ああなればいいな、こうなればいいな、
とか、今の状態が嫌だというわけではありません。

ただ、もう飽きた、と。
なにかの変化、変容、シフト、を望んでいる自分がいます。

その「飽きた」という感覚は決してネガティブな意味で感じているのではないということです。

どちらかと言えば、
「maximized(最大限に達した/満喫した)」という言葉のニュアンスに近いかと思います。

それは、この段階での経験の広がりは、広がるところまでいった、Maxまで到達した、
という感じに似ています。

そう想うと、なんだか腑に落ちます。

私が「飽きた」と感じているその感覚は、
次のフェイズ(phase)への訪れといいましょうか、
次の(変化・発展の)段階、 局面、 時期が来たことを直感的に感じ取っているのだと、
捉えていただいていいと思います。

それは、これまでとはまったく別の考え方(思考)への誘いだとも捉えられます。

ネクストステップ。
それを意識的に強く感じる今日この頃です。
 
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2018/03/25

真理は、この世界とは一切関係がない

先日、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学習をはじめて8年ほどになるという
コースの実践をし続けている方とお話をする機会がありました。
私自身にとってとても参考になったと申しましょうか、大きなヒントをいただき、
気づきがありましたので、そのことについてシェアしたいと思います。

その気づきとはどういうものかと言いますと、
「神は、この世界とは一切関係がない」のと同じように、
真理は、この世界とは一切関係がないのだ」とあらためて気づくのです。

というのも、これまでの私は自分の中に、これが真理だ、というものがあったせいで、
自分なりにわかったつもりになっているその(想い込んだ)真理で、
他人を、この世界の人を、兄弟を、裁いていたということに気づくのです。

スピリチュアル探究の旅における私なりの学びや体験から、
私は「真理」をわかったつもりになっていたし、
私なりの真理に対する観念があったと気づきます。

でも、その真理とは私なりの思い込んでいる真理であり、
ほんとうの(実相である)真理とは一切関係がないのだと気づくのです。
この思考で考えているこの自分(自我)が真理というものを理解できるわけがないのに、
私は真理をわかっているつもりでいたと、そしてそれをこの世界で振りかざしていたと。
それは、私なりに想っている(知っていると思い込んでいる)真理であり、
その真理も、じつは自分が作り上げたものにしかすぎないということです。

正直なところで言いますと、
スピリチュアル・ティーチャーやノンデュアリティ・ティーチャーや
ましてやコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)においてさえも、
誰とは言いませんがティーチャー(教師)みたいなことをしているある一部の人に対して、
嫌悪感といいましょうか、否定したい、裁きたい衝動にかられてしまうところがあり、
これは一体何なのだろう?という想いがずっと自分の中であったのでした。

とくに、真理の核心に近いところを教えようとするティーチャー(教師)に対しては、
見過ごすことができなくて、なかなか赦しというものができなかったのが事実です。
悟り、覚醒、目覚め、非二元、といったものについて語ろうとするある一部の教師たちに、
つい、それはちがう!と裁きたくなる自分がいたのです。

それで、自分でふと気づいたのが、
それはちがう!と裁くということは、
自分が「これが真理だ」と思っているもの(ものさし)があるからだと気づくのです。

自分はわかっていると思っているその真理こそ、
じつは、自分の想い込んでいる観念(幻想)なのだということです。

私は、その(自分の知っている)真理すら、もう要らないと気づきます。
私は、それだけは別ものとして例外をつくっていたと気づきます。
例外なくすべてを明け渡すしかないのだということです。

私は、なにもわからない。
それが、無辜になるということなのだと。

もう今では、言葉で表現される真理なんてどうだっていいのだと思える今日この頃です。

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2018/03/17

外側に見える世界の向こう側を

私自身のことで言いますと、
2016年の秋にコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学習を再開して以来、
内側へ内側へとずっと意識を向けてきたように思います。
むしろ内側へと向かうために、外側というものをあえて全面的に否定していたと気づくのです。

もちろん、外側の世界に見えるものは、何一つたりとも永続することはなく、
つまりは、はかない幻想にしかすぎず、価値に値するものなど何一つない、といえます。

ただ、ここ最近、私の中でなにかがまた反転したのです。

意識のベクトルが外側に開いたといいましょうか。
意識を外側に開くことがようやく許可されたような感じがしています。
それは、延長(拡張)のはじまりといえるのかもしれません。

これまで、私は、外側というものを全面否定して一切を無視していたと気づくのです。

そうではなく、外側に見えるモノの向こう側、つまり実相を見ていこうと。
あらゆるモノのその奥にある実相を見ていこう、と。
かたち(形態)を超えたその向こうにある実相を見ていこう、と。
そんな想いに私は変わってきたのです。

そして、それは兄弟に対する見方に対してもそうです。
兄弟を身体として見るのではなく、兄弟の自我を見るのではなく、
兄弟のその奥にある実相(神/キリスト)だけを見ていこう、というふうにです。
その実相とは、この私の内側にあるものと同じ一つのものなのですから。

私の中の何かが開いたという感覚です。

外側の向こう側にある実相を見ていこうと意図するとき、
もはやこの世界が薄いベールのようにさえ見えます。

そう、実相を内側と外側というふうに隔てているのがこの世界だと気づきます。
そして、ほんとうは内側も外側もないことがわかります。
それは、一なるものでしかありません。

この世界のベールを超えて、内側と外側が一つになる場所へ向かって。

ただそのためだけに、これからのこの私はこの時間と空間の中で生きるのだろうと、
そして、ただそれだけのためにこの身体は生かされていくのだろうと直感する今日この頃です。

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