2016/03/02

「苦行」という名の修行の最後の日

今日は、3月2日です。

この私にとって、きのうが、『制限ということばに意味がなくなる日』でした。

そして、今日、2016年3月2日は、『苦行という名の修行の最後の日』です。


この私にとって苦行はもう必要なくなるのです。

もちろん、これまではそれも必要だったのかもしれません。

でも、もうこれからは苦行というものは私には必要ありません。

今日は、苦行の終焉の日です。

苦行とは、我慢、努力、頑張る、忍耐、克服、抑圧、抑制、、、

自分自身をいじめて、痛めつけて、虐待して、攻撃して、鍛えて、

自らを苦しめてこそ完全になれると信じて疑わない修行、、、それらのことを言います。


わたしたちは、苦しんでこそ学び、苦しんでこそ成長し、苦しんでこそ完全になれる、

苦しんでこそ神と合一できると、信じて疑わずに、

その無知さゆえに苦しみの世界を輪廻してきたといえます。

でも、もう苦しんで行ずる修行は、もはや何の意味もない日となるのが、今日です。

今日は、それらが終わる日なのです。

今日は、その最後の日です。

苦行という名の修行は、もう必要ありません。

そこには、本当の自由は絶対にありません。

そこには、本当の幸せは絶対にありません。

そこには、本当の歓喜は絶対にありません。

そこには、悟りもありません。

解脱もありません。

神との合一もありません。

昇天(アセンション)もありません。

そこになにかあるとしたなら、そこにあるのは、満たされぬ飢えの旅であり、

潤うことのない渇きの旅であり、終わりなき時間の旅のみです。

飽くなき飢えと渇きは、争いを生み、戦いを生み、競争を生んで来た、、、

それがこれまでのわたしたちです。

そして、その争い、戦い、競争の飽くなきゲームは、今日終わるのです。


苦行の終わりです。

苦行という名の修行は、自らの完全性をすっかり忘れて、

自らを見失ってしまった者たちの幻想でしかありません。

それは、あるがままのすべてをゆるし、

あるがままを受け入れていく生き方へと移行していくことを意味します。

私は、これからあるがままをゆるす私となります。

限りなくゆるし、限りなく与え続ける私となるでしょう。

もう、厳しさは要らない。

もう、我慢も、忍耐も、努力も、頑張りも、、、何も要らない。

それは、戦いの終わりを意味します。

それは、争いの終わりを意味します。

それは、競争の終わりを意味します。

同じ車輪の中を回り続けるラットレースのゲームから、私は降ります。

終わりなき戦いのゲームから降ります。

終わりなき争いのゲームから降ります。

終わりなき輪廻から私は降ります。

それは、終わりなき時間の中のゲームでした。

私は、そこから降ります。

苦しみの終わりです。

もはや苦しみは、もう苦しみではなく、解放、自由へのアイテムでしかありません。

苦しみとは、その本質を悟るならば、それは無いのです。

二千六百年前、お釈迦さまが説いた「苦しみから脱却する道」とは、まさにこれのこと。

私は、今、その道をたどっています。

そして、苦行はもう終わるのです。

戦いは終わるのです。

争いは終わるのです。

競争も、奪い合うことも。

私は、ずっと戦ってきたことを思い知るのです。

私は、ずっと戦っていたのだということを悟りました。


私は、誰と戦ってきたのか?私が戦ってきた相手は、誰だったのか?


その相手とはこの自分自身でした。

私は、自分と、自分の人生と戦ってきたことを悟りました。

自分との戦いの終わりです。

自分の人生との戦いの終わりです。

戦いから降りた私は、いまここに平安があります。

いまここに至福があります。

いまここに歓びがあります。

いまここに幸せがあります。

もう、努力は要らない。

もう、我慢も要らない。

もう、忍耐も要らない。

もう、頑張る必要もない。

苦行の終わりです。

苦行という名の修行の終わりです。

修行とは、行を修めること。

これからの修行は、もう苦行ではありません。

もう、特別な修行は要りません。

その意味がありません。


そう、今日は、私にとって、「苦行」という名の修行の最後の日です。

今となっては、少しだけ、名残り惜しい気もしますが、私は、これで戦いを終えます。


ありがとう。

そして、

さよなら。


苦行という名の修行の最後の日に。

仏陀、覚者であられる二千五百年前のゴータマ・シッダルータに愛を込めて。


2016年3月2日

もりG


2016/03/01

無色の世界

無色透明。
色が無くなっていく。
個性が無くなっていく。
自分というものが無くなっていく。
今の私は、そんな感覚を感じています。

それは、個というものが希薄になって、全体へと融合していく感じでもあります。
というよりも、はじめから個人の意識というものは存在していなかった、、、
すべてが集合意識で動いているだけで、個の意識なんてなかった、、、
私という全体の中で、個の私としてあたかも独立して存在できていると思い込んでいただけだった、、、と、そう気づくのです。

私という存在が、溶けていくのがわかります。
私は、解体されている。
それは、ある意味で、私にとっての死のプロセスをたどってるともいえるのでしょう。
私は、まるで、無色透明な存在に還っていくような感じを感じています。
私は、無味無臭の何も無い存在へと還っていっている。

私は、てっきり、「個性を生きる」ことが大事なのだと思い込んでいました。
自らの個性と資質を活かして生きることが、賢明な生き方なのだと、そう思っていました。
でも、そうではないみたいです。
せめて、私にとっては、そうではないみたいです。
私は、それすらをも超越していくようです。

個性すら必要ない。
何も無い。
何も必要としない。
何も持たない。

私という色がない世界へ。

私の個性が無くなっていく。
私の特性が無くなっていく。
私の色が無くなっていく。
私というものが消えていく。
自我が消滅していくとは、このことか。

無色透明になっていくのがわかります。
風になるとは、このことか。
そう、私は、風になりたかった。
私は、こうなりたかった。
これは、まさに、ずっと私が望んでいたことだった。

自由とは、自由になるとは、何かから自由になるものばかりだと思い込んでいた。
自己を何かから確立していくような、そのようなものだと捉えていました。
でも、そうではなかった。
まるっきり、ちがってた。
明らかな勘違いだった。
それは、私がいなくなることだった。
それは、私が全体に溶けていくことだった。
それは、私がすべてになっていくことだった。
私は、今、そこへ向かっていっているのを知っています。

もう、私が生きる世界は、私でしかありません。
私は、この世界では無力です。
私は、この世界では無色です。
私には、何も無い。個性もない。
私から、色が消えていっています。

もう、この世界で私がすることがありません。
もう、何もする必要がありません。
もし、あるとしたなら、ただ自分に与えていくことだけ。
無限に自分に与え続けていくことだけ。
何も欲しいものがなくなるまで、与え続けていくことだけ。
そして、私は、無限に与え続けていくことができます。
私は、何でも与えることができます。
私は、そのことを知っています。
ゆえに、私は、ただそれをしていくだけです。

この世を超越していくことも、覚醒も、昇天も、与えるのは、この私です。

私は、そのときが来たことを知っています。

私に、その扉は開かれました。
いや、もう開くのがわかります。
その扉は、今、開かれようとしています。
もう、その扉は開きます。
もう、開かれます。

天の岩戸は、間もなく開けり。

今日は、3月1日。
「制限」ということばの終わりの日です。
今日から、もう「制限」ということばの概念に意味すらありません。

限りなき思考の世界へ。
限りなき思考は、限りなき想像。
ただし、想像しても、その想像すらも超越していく世界ならば、もはや想像すらやめて、ただ無へと還るほかありません。


2016/02/29

「プチ断食」をやってみて想ったこと

「不食への道」と称して、「21日間フルーツプチ断食」の実践を試みたわけですが、実際にやってみて体験してみて想ったことを書いてみます。

「21日間フルーツプチ断食」の三週間を終えて、というよりも、実際は、それ以前の9日間「煮小豆プチ断食」からの流れがありますから、実質、4週間の「プチ断食」を終えて、ということになります。

ということで4週間の「プチ断食」をやって想うのは、正直に言って、想いもよらない展開になった、というのが率直な感想です。
やってみなきゃわかんなことって、本当にたくさんあります。
やってみてわかること、やってみてみえてくるもの、開いていくものがあることを体験を以って知った気がします。
そして、まさか、こんな展開になるとは!?という想いです。
それは、いい意味であり、私にとって新たな世界が開かれた!という感じがしていまして、そんな人生を楽しみはじめている私がいます。

今現在(2016年2月29日)、不食生活を始めて、かれこれ80日くらいになるでしょうか。
そして、「21日間フルーツプチ断食」の三週間は終了したのですが、その後も、もう一週間、ということで、この今も「フルーツプチ断食」を継続しているところです。

たしかに、相変わらず空腹感を感じたり、あれ食べたいこれ食べたい、という想いはめぐり、我慢している感があることは否定できません。
なにせ、あとは最後まで、一日一食の「フルーツ食の生活」のラストスパートといった感じで、我慢してでも、耐えてでも、きっちりと達成することの方がとても大事なことのように思えているから耐えれるのです。
気持ちよく、いいかたちで終わりたい、、、その想いの方が強いのです。
それでも、すでに一日一食の「フルーツ食」に慣れた感じはしています。
もう、ほとんど「フルーツのみの食事」に特別さを感じなくなっています。
いわゆる、「フルーツプチ断食」が、i今では、普通の当たり前の食事のようにすら思えます。
「慣れ」とは、すごいものです。
そして、「フルーツプチ断食」も、白菜だの、キャベツだのを食事に加えたりして、「断食」というそんなストイックさも、こだわりもなく、敢行している感じです。

それに伴い、心境にも変化が起きてきました。
というのも、なにか苦行、修行みたいに我慢してやることが、どうも宇宙の流れに反しているような気がしてきたのでした。
もうそういう生き方は、これからは必要ないのかもと直感的にインスピレーションとして感じるのです。
厳しさは要らないと。
これからは、もうそんな時代ではないと直感したのです。
「厳しさ」や「我慢」や「耐える」という時代ではなくなるいうことです。
もっと言えば、「厳しさ」や「我慢」や「耐える」という世界には悟りはないと。
そこには、アセンションはあり得ないと。
苦行、修行に、悟りも解脱もアセンションもあるわけないです。
たぶん、二千六百年まえのお釈迦さまも、きっと、それを悟ったんだとすら感じています。
そして、その後、苦行、修行をやめたお釈迦さまは、瞑想に入りて、真の悟りに到達したのだと。

これまでの私は、なにをしてきたのだろう。

もう、人生に苦行、修行、厳しさは、要らない。
それは、ただ自分の人生を苦しもの、つらいものにしているだけなのだと。
むしろ、甘美さ、甘さを自分の人生に与えていこうと。
これまでどんだけ甘美さ、甘さのない世界でわたしたちは、飢えてきたことか。
そして、そうやって飢えてきたが故に、争い、戦いは、終わることが無かったといえましょう。
奪い合うことの終焉です。
生存競争の終焉です。
自分で自分に与えていく生き方のはじまりです。
そう、与え合う生き方は、そこからはじまっていくのでしょう。
そして、歓びから生きる、そのはじまりでもあります。
そうなのです。
頑張って生きる必要はないのです。
甘えていいのです。
甘やかしていいのです。
人生に甘美さを与えていくのは自分自身であり、これからがそのはじまりです。
我慢は要らないのです。
それは、制限でしかありません。

私の考えといいましょうか、私の想いは、そんなところにたどり着きました。
それよりも、人生を歓びから生きることの方が、わたしたち人間の進化していく方向として、宇宙の流れに合っていると思えてきたのです。

それは、苦行、修行の時代の終焉を意味しているといえます。

そこには本当のアセンショッはあり得ないと、私は、そう確信するのです。
私は、直感的にそう感じています。
そして、至福、歓喜、幸福こそが、アセンションへの道であり、私の歩みゆく方向だと。
それが、「21日間フルーツプチ断食」をやってみて、その三週間を過ごした私が、結論的に想ったことです。
そして、そんなふうに考えるようになった私は、今、四六時中、その歓びと至福と感謝の中に生きています。

さらに言えば、もうすでに次の課題、テーマがみえてきました。
また、次なる制限がみえてきたのです。
そう、次の扉が開こうとしているのです。
なぜ、わかるのか?と申しますと、さらに微細な精妙な違和感が浮上してきているからです。
その制限とは、時間、距離、お金の制限にまつわるものです。
今はまだその制限から自由になれそうな感じがありませんが、必ずや、そこから自由になっていくことを私は知っています。
なぜなら、私は、今、そのプロセスを楽しいと感じているからです。

私は、今現在も、残りあと一週間、「フルーツプチ断食」を続けるつもりでいますが、もうこれで苦行や修行といった我慢して自らを高めていくやり方は終わりにしようと想っています。
我ながら、意外や意外です。
不食を通じて、こんな方向の扉が開くとは!という感じです。
それよりも、「食べること」をもっと楽しもうと。
もっと正確に言えば、「食べる」ということを通して、人生を、この世界をもっと謳歌しよう!と想ったのです。
これまで私は、「食」というものを、「食べる」ということを否定して生きてきたことに気づかされたのです。
それによって、どれだけ人生をつまらないものにしてきたことか。
そのことは、豊かさにも通じるものがあると思います。
わたしたちは、常に、飢えていた。
満たされていなかった。
しかも、それは、自分で自分にそうしていた。そうさせていた。
そう、あらためて気づいたのです。

それは、まったくの想定外でした。
想定外の発見でした。
私に、もたらされた恩恵は、不食とは真反対のものだったのでした。
本末転倒。
それは、まさにグレンとひっくり返った瞬間でした。
この世界は、本当はギフトに満ちた世界なのではないか!ということです。
ただ、それを制限していたのはこの自分自身だったと。
この私が、歓びの世界を許可していなかっただけだったのだと。
そう気づかされたのです。

それらの気づきは、実際にやってみなければ、体験してみなければわからなかったことです。

そういう意味では、「21日間フルーツプチ断食」は、素晴らしい恩恵を私にもたらしたと思っています。

いやいや、その恩恵は、それだけでは終わらないと思っています。
これは、そのほんの序章にしかすぎないのだと。
そう直感しています。
これからが、本番です。
さらなる未知の世界への冒険のはじまりです。

ワクワクします。
嬉しい想いが湧き上がってきて仕方ありません。

天の岩戸はここに開けり。

天の国は、ここに開けり。

私の変容は、今、これ以上になく加速していっている感じがしています。
それは、これからますます加速していくと思われます。
それは、やがて無限に加速され続けて光速度へとなっていく、そんな感覚を感じています。
光になっていくのでしょう。
光に到達していくのでしょう。
光を超えていくのでしょう。
そのとき、私は、永遠を生きるようになるのでしょう。

それは、いまここにありながら、永遠に拡張していくことでしょう。


2016/02/28

甘美さを。歓びを。

意識がとても軽いです。
身体がとても軽いです。
身体が高い波動で振動しているのがわかります。
身体が、澄み切っています。
身体が、透き通っているかのようにクリアです。
空っぽです。
何も無いです。
ただ静かな歓びがあります。
至福があります。

瞳を閉じて瞑想に入れば、40分という時間もあっという間です。
時間すら感じません。
睡眠時間もほとんど必要としていません。
頭も冴えています。

幸せです。
心も身体も軽やかです。
心も身体もスッキリしています。
それが、今の私の状態です。

私の人生に、「甘美さ」が加わりました。
むしろ、私は、これまで自分に「甘美さ」を与えて来なかったと気づくのです。
これまでの私は、いつも自分自身に「厳しさ」で生きてきたことを悟るのです。
甘美さ、甘さ、を自分にゆるしてこなかった。
それゆえ、そこには、いつも不足感と満たされない心があった、と。
厳しさの終わりです。
争いの終わりです。
戦いの終わりです。
競争の終わりです。
生存競争というレースの終わりです。
それらすべてが終わり、私には、甘美さが与えられました。
与えるのは、自分です。
自分で、自分に甘美さを与えるのです。
私は、それを、自分にゆるしました。
許可しました。

それは、苦行、修行の終わりを意味します。

苦行、修行には、悟りはありません。
そこには、アセンションはありません。我慢、抑圧、努力に、悟りはありません。
あり得ません。
私は、今、そう確信しています。

歓びこそ、
歓喜こそ、本当のわたしたちの姿です。
至福、そこにこそ、わたしたち人間が生きる祝福があります。
それは、千年王国と呼ばれているもの。
ミロクの世界と呼ばれているもの。
天国はここにあり。
楽園はここにあり。
天の国は、歓びと至福にこそ、いまここにあるものなのだと。

今日は、苦行、修行の終わりの日です。

私は、歓びです。
私は、至福です。
感謝です。
ありがとうございます。
甘美さを。歓びを。
あなたにも。


2016/02/26

三週目「21日間フルーツプチ断食」

不食への道。不食へ向けた実践生活体験記。

「21日間フルーツプチ断食」の三週間が終了しました。
とはいえ、おまけとしまして、さらにもう一週間、この「フルーツプチ断食」を続行しようと思いまして、今現在、四週目に突入したところです。

「21日間フルーツプチ断食」三週目の食事のメニューを書くと、おおまか以下の通りです。

朝:野菜フルーツジュースをグラス一杯
昼:チャイ(生姜のミルク紅茶)をティカップ一杯
夕:リンゴ(半個)、バナナ(1本)、キウイ(半個)、八朔(オレンジ、柑橘系フルーツ、半個)、生大根(2cm厚カット)、塩漬け白菜、コーヒー

二週目までとのちがいはといいますと、三週目の終盤には、夕食に塩漬け白菜が加わったりしました。ときには、アボガドもオリーブ油と塩をかけて食べました。コーヒーも嗜好しはじめました。

ということで、「21日間フルーツプチ断食」の三週目の経過報告です。

一週間に一度の好きなものを食べるという日は、野菜鍋をポン酢で、そしてフランスパンにマーガリンやオリーブ油をたっぷりつけて食べました。本当に美味いと感じました。フルーツだけの食事であるがゆえに、からだがよほど油脂分を欲していたように思えます。
しかし、想ったのは、思いっ切りいろんなものを食べようと週に一度のその日を心待ちにしていましたが、いざ食べると意外とそれほど食べれないものでした。気付けば、胃そのものが小さくなってきているのかもしれません。

そして、「フルーツプチ断食」の三週目がはじまりました。
次の週の好きなものが食べられる日まで、また一週間。
そこからまたはじまったわけですが、三週目になると「慣れ」もあるのでしょうか。フルーツ食といえど、数種類のフルーツが、普通の食事に思えている自分がいました。
そして、前日にお腹一杯に食べたせいもあり、胃に負担を感じていたので、フルーツ食でちょうどいいとさえ思えました。

さて、さすがに、「21日間フルーツプチ断食」の三週間目です。それに、「煮小豆プチ断食」から数えると、実質、三週間、まともなカロリーの食事をしていないことになります。
そのせいもあって、からだにその影響を感じ始めたのは事実です。
力が入らない。
体力がない。
ひとつひとつの動作が、きつい。
立ちくらみやフラフラもします。
自分でも、筋力が落ちているのがわかります。
自転車さえ漕ぐのにその体力、筋力がついてこないのがわかります。
空腹感といいましょうか、栄養が足りない、、、からだがそう感じていました。
それによって、気持ちまでもが、なんだかみじめになります。
貧しい気持ちになります。
からだが栄養を欲しているのがわかります。
栄養に、エネルギーに枯渇しているのがわかります。
からだがなかなか温まらず、寒い、冷える。
あまりもの空腹感なのか、イメージでホットケーキのバターの味さえ口の中に広がるを楽しんでいる自分がいました。
もう、気力さえなくなって、ただ生きている、ただ必要な日常の動作をしている、そんな感じになりました。

三週目の前半は、まるで、そんな感じで精神的にも体力的にもかなりきつかったです。
なにせ、次の好きなものを食べる日がまだまだ遠い先の日のように思えて、それすら期待することが凹む要因になるので、極力、そのことを考えることをストップして過ごしました。
三週目の半ばには、イライラもしました。でも、その感情的なこともデトックス(毒出し、解放)だとわかっていました。

そして、いよいよ三週目の後半。「21日間フルーツプチ断食」も18日目を過ぎた頃からでしょうか。まるっきり、それまでの状態が一変しました。
エネルギーが、波動が、気分が変容したといった方が正しいかもしれません。
幸福感を感じ始めてきたのです。思わず、「幸せ」ということばが、口からこぼれるようになったのです。
19日目には、さらに、幸福感が、内側から湧き出てくるようになりました。その日の夕食、塩もみの白菜を食べたときには、さらに、幸福感が倍増しました。
「フルーツプチ断食」20日目には、朝からハイテンションで、四六時中、至福と幸福感の中にいました。
21日目には、睡眠も要らないほど頭だけでなくからだが冴えていました。ほぼ眠っていない状態でも、疲れていない状態です。
意識も軽いし、身体も軽い。
全身の細胞が開いているのがわかりました。
細胞が開くとは、こういうことか。
身体が開くとは、まさに、これだとわかりました。
もう、自分の身体とこの世界との境界線がありません。
自分と宇宙が一体です。
見た目には、身体の境界線がありますが、感覚としては、身体の境界線がありません。
見た目には、身体がありますが、感覚としては、もはや身体がありません。
もう身体は透き通っていて、澄んでいて、何も引っかりませんし、引っかかるものすらありません。
制限がない。
制限するものがない。
自分は空っぽ。
何も無い。空(くう)。
パッカーンと開いている状態。
意識の覚醒、身体の覚醒、細胞の覚醒を体感的に一日中感じていました。

それは、これまでしたことのない感覚の体験でした。
もちろん、それまで、意識においては様々な体験をしたことがありましたが、なにせ、身体感覚を伴ってのそういう体験はしたことがありませんでした。
それほど、とても素晴らしい感覚を体験することが出来ました。
断食もしたことがありましたが、それも2、3日くらいのもので、どちらかといえば「我慢してどうにか耐えた」という記憶しかありません。
それに比べ、無理をしない「フルーツ断食」は、私にとってとても最適でふさわしものだったといえます。

でも、本当の意味で素晴らしかった、やって良かったといえるのは、それではありません。
ことばでは言えないほどの「フルーツプチ断食」の恩恵があったことをここに伝えておきたいと思います。

それは、これから私を通して、表現されていくことでしょう。

至福。
歓び。
気づき。
感謝。
もう、言葉では言えぬ歓喜が、いまここにあります。


ところで、これまでも何度も苦労してきた、排便、ですが、今回は、まったく便を催す気配がない間も、「もう便が出ようが出まいが、自然の排便に任せるしかない。すべてゆだねよう。からだにまかせよう。自分の身体を信頼していよう、、、」と、三週目の私は、そんな心構えでいました。さほど、思い悩まされた感はありませんでした。
そして、20日目の夜に、丸々9日間ぶりに便通がありました。9日ぶりとはいえ、便秘のような固い便ではなく、普通の固さ、大きさ、つや、形の便でした。臭いは、たしかに多少ドブのようなクサいものでしたが。笑
21日目の朝にも健康的な便通があり、結局は、無事、難なく素晴らしいかたちで、「21日間フルーツ断食」の三週間を終えることができたということです。


以上、ここまでが、「フルーツプチ断食」の三週目の経過報告でした。


ただ、今もなお、最終仕上げとして、「フルーツプチ断食」は続いております。
四週目に入った今の私にとって、さらに新たな領域の気づきと解放が起きていることを報告しておきます。
もう、私自身がどうなっていくのか?
もうこの私にもわかりません。
ただただワクワクするばかりです。

この先の領域については、果たして、文章で、ことばで、表現できるのかな!?

という想いもあるのですが、もし、文字にして表現できたならば、また報告したいと思います。
そうでなくとも、それは、必ずや、これからの私の活動のなかで表現されていくことに間違いはありません。

今後の私を一番に期待して楽しみにしているのは、この私自身です。

ということで、ここまでお読みいただきありがとうございます。