2017/05/18

真の赦しをセッションで体験する

現在(2017年5月)、私が提供するセッションは、

心理セラピーというものから、(必要なときにはセラピーワークもしていますが、)

ACIMの学びへの導きとそのサポートというものになっていっております。


私自身が、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学習し実践していますので、

セッションそのものがコースの非二元論のスピリチュアリティを反映したものになるゆえ、

コースに接したことのない方でも、セッションで赦しの体験を重ねていくにつれて、

結果的に、結局はコースの学びをはじめられることになるというのが実状です。


もちろん、コース(ACIM)を学んでいる方にとっては、

赦しを体験していくことでさらにその学びを深めていくことになります。


セッションを通して、赦しを体感・体験しながら、

実践的にコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学ぶことが出来るセッション。


私(もりG)のセッションは、それが特徴だと言うことができるかと思います。


実際に、私がクライアントさんとのセッションを通して思うのは、

セッションで赦しを体感(体験)していくと、コースの理解が早いです。

コースを知らない方でも、コースに接したことがない方でも、

非二元論のスピリチュアリティを体感的に理解することが出来るということです。


セッションでは、私と一緒に赦しに心を開いていくことをしていきます。


赦しとは、本当の自己(神)から遮っている想いを意識化し取り消していくことであり、

赦しが起きるその際には、癒し、気づき、知覚の修正(解放)が起きます。

それは、古い記憶や信念や判断を手放すということであり、

それらを手放していくことで、さまざまな不平不満から解放されていくことになります。

もりGのセッションは、その赦しの実践の体験版だと云うことが出来ると思います。


もりGセッションの位置付け』の記事を参照

 http://morig2016.blog.fc2.com/blog-entry-355.html


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びは、

その教えを概念的に学んでいくことも必要ですが、

実践のなかでの体験・経験が伴ってこそ、その学び(歩み)は進んでいくといえます。

そういうところから言いますと、

コースの概念について教える教師はたくさんおられますが、

ことばを超えたもので体感的に学んでいただくという私のようなタイプは、

ほとんど稀なように思います。


もりGのセッションは、そのようなものだと理解していただけたらいいかと思います。


まずは、体験してみてください。

赦しの体験・経験が、あなたの学びを飛躍的に加速させることになるでしょう。


セッションに興味のある方は、もりGの方まで直接メールにてご連絡ください。


あなたの目覚めへの情熱に、感謝します。


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2017/04/21

放棄

私の中で心境の変化が起きています。


私は自分のセラピー能力に絶対なる自信と確信がありました。

私は、自分のセラピーで誰もを救えると思っていました。

そして、そこに使命感さえ感じていました。

でも、それってやっぱりちがうなって今は思います。

そこにはやっぱり「自分(ジブン)がしている」という想いがあったし、

もうこの世界には自分しかいないし、他人は自分の鏡だと思うのです。


ほんとうは自分がしているのではなく、神(聖霊)を通して起きているだけ。

自分はなにもしていないし、

そして、救われるべき存在とは、この自分自身だと気づくのです。


セラピーに対する自信みたいなその想いは今も変わりはないのですが、

その想いから、ついついエゴの部分の「自分がしている」という顔を出してしまいます。

でも、ほんとうはそうじゃない。

そういう想いは無いほうがいい。

むしろ、そういう想いが無い時の方が素晴らしいものがもたらされるのです。


私は、自分のセラピー能力を神に与えられた才能だと思っていました。

その能力を使ってセラピーをしていくことが、自分のこの世での役割だと思ってきました。

でも、それによってアイデンティティを築き上げているのなら、

無意味なこと以外の何ものでもないと思うのです。

なにかがちがっている、、、思い違いをしていると。

むしろ、これまではその能力を武器にして、この世界を相手に戦っていたのかもしれません。

それは、生きていくために、この自分にとっては大事なものでした。

でも、もうその必要もないと内なる聖霊が伝えてきています。

ここから先は、その武器も置いていくことを選択するときに来ていることを察するのです。


「セラピスト対クライアント」という構図の心理セラピーは、

もうこの私から終わっていくのだと思います。

それは、心理セラピストとして生きてきた私にとっては死活問題ともいえるかもしれません。


「放棄」ということばが、私の脳裏に浮かんできます。

この武器を手放していくとしたら、どうなるのだろう?という想いももちろんあります。

それでも、聖霊に導かれて神の道を歩んでいくだけです。


心理セラピストとしての武器を置いて、

心理セラピーというものを手放して、

私は、新しいかたちへと移行していくつもりです。


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2017/04/06

セラピーというものについて今想うこと

心理セラピストとしての私からみると、

人と関わること自体がセラピーのように思えます。

もっと言えば、この世界と関わること自体がセラピーなのだと思うのです。


なぜなら、自分の一部である他者によって自己は救済されていっているといえるからです。

本来は、他者などいなくて、すべては自分が自分にしていることではあるのですが、

それこそがこの世界のしくみというものであり、

わたしたちがこの世界に生きているゆえんなのだといえます。


わたしたちは、癒されるためにこの世界に生きているのであり、

癒される必要がなければ、もうこの世界を必要としなくなるでしょう。


話を戻せば、生きている人生そのものがセラピーであるからして、

あえてセラピーという形態をとる必要もなく、

もはやセラピーというものすら必要ないとさえ思うのです。


だれもが、それぞれの人生を通してそれぞれのペースで神の元(源)に帰ろうとしている、、、


そこからみるとき、この自分はいったい何をしているのだろう?とさえ思えます。

セラピーとは、いったい何をしているのだろうか?


それは、他のあらゆることに対しても同じことが言えるかもしれません。

本来必要のないものをあえて意味ありげにそこに必要性をもたらして、

それをあたかも価値あることかのようにしてきたのがこの世界であると。


本来は、もっとシンプルなのだと思います。

本来は、もっとシンプルでいいのだと思います。


そういう意味でいえば、こんなことを言っていいのかわかりませんが、

心理セラピストとしての私にとっては、もうすることがないようにも思えるのです。


もし、することがあるとするならば、

ただ心を静かにして、ただ心を穏やかに、

この世界のそのままをゆるして、

この世界のあるがままを祝福して、

内なる神の平安の中に佇んでいることだけではないだろうかと思うのです。


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2017/02/12

心理療法について

心理療法家(心理セラピスト)としての私が云うのもなんですが、


癒されているのはだれか?

救われているのはだれか?


というのであれば、

その答えは、この私自身であると言えよう。


3次元的なところからいえば、

クライアントと施術者の両方が癒されている、救われているのだと言うことが出来るが、

非二元のスピリチュアリティからみるならば、

セラピーやヒーリングやカウンセリングにおいて、

癒されているのは、そして、救われていっているのは、

それを施している側のセラピストであり、ヒーラーであり、カウンセラー自身である。


というのも、本来はこの世界に他者など存在せず、

目の前に現われる他者は、自分の一部、あるいは自分の投影であるゆえ、

目の前のクライアントが癒されるとき、じつは、自分(の一部)が癒されているのである。


それをわかってセラピーやヒーリングやカウンセリングといった施術を施している者は、

本当に少ないと言えるだろう。

むしろ、それをわかって、そこから他者と接する者は、

存在しているだけですでにセラピストであり、ヒーラーであり、癒しを与える人なはずである。

それを職業としていようがいまいが、そんなことは一切関係ない。

なぜなら、そういう人はもはや分離した世界はかなり希薄なものになっており、

だれものなかにキリストをみているからである。


さらに踏み込んで言えば、

純粋非二元のスピリチュアリティからみるならば、

だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主である。

というのも、この二元性世界は、そのような原理になっているといえる。

われわれはお互いに関わり合いながら、

この世界から解放されていくよう、そのような仕組み(システム)になっている。

なぜなら、他者こそが、己を映す鏡であるからだ。


そもそもが、この世界がある、とか、他者がいる、というものは、

「すべては自分の投影である」というその真理を見誤っているだけのこと。

それに気づいて勘違いが修正されていくことは、もっとも自然な道理である。


そういうところから見るならば、この世界にセラピストなど要らない、

ヒーラーも要らない、他者を癒す専門家など要らないということになる。


だれもがセラピストであり、だれもがヒーラーであり、だれもが救世主である。


ようするに、

われわれは他者を通してこの世界から救われていくようになっているということ。


だれもにとって、他者は自分自身にとってキリスト(救世主)である。

そして、自分自身が本当にこの世界から自由になっていくとき、

他者がキリストにみえてくるというのはまさにその通りである。


一般的にはそのようにはみえていないし、そのことは知られてはいない。

それは、それはわたしたちが分離されているという二元性の錯覚の中で生きているからだ。


救いは、他者からやって来る。

他者は己にとってのキリスト(救世主)である。

彼は、「この世は無価値である」ことを教えてくれようとしている。


他者をそのように見はじめるならば、

その者こそが、偉大なるセラピストであり、ヒーラーであり、救世主となっていくであろう。


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2016/07/22

心の世界に携わる者として

人は、つねに自分の経験こそが真実であると信じ込んで生きています。

言い換えるなら、自分の真実とするものを経験しているのが、この世界です。


皮肉っぽく申せば、この世に生きているわたしたちは、みんなウソつきだらけです。

だれにウソをついているかといえば、自分自身に、です。

自分騙しのテクニシャン、詐欺師と言ってもいいでしょう。

あたかもそれを現実と思い込ませる天才詐欺師です。

それが、自分だということです。

だれもがそれぞれの人生の中で、それを生きています。

そして、相互に騙し合い、騙され合いながら創り上げられたのがこの世界です。

つまりは、その集団意識のまやかしに、この私もあなたも加担しているということです。

ただ、そうは言っても、

そのことに同意して、それをお互いに体験しているのがこの世界ですから、

だれの人生も否定するものではありません。

だれの生き方も非難するものでもありません。

自分自身をこの世界から足を洗う(目覚める)のも、

あるいはこの世界にどっぷりつかるのも、各々が体験したいことをしているだけです。


さて、そんなこの世に生まれ、生きているわたしたちですが、

生き方、考え方が、スピリチュアルであろうが、スピリチュアルでなかろうが、

なんだかんだ言っても、この世は、心の世界だということです。

いくら唯物主義的な見方で生きようが、

結局は、すべてをそう見ている、そう思っている、そう信じているのは、「心」です。

心が幸せなら、この世は幸せな世界です。

心が苦しいのなら、この世は苦しみの世界です。

極端にいえば、そこがどんなに地獄のような世界であろうが、

心が幸せであるならば、そこは地獄ではなくなります。

所詮、「心」を通して知覚しているこの世は、やっぱり心の世界なのです。


この世界では、自分というものはじつにちっぽけで無力な存在のように思えたりしますが、

じつのところ、すべてが心の反映であるということを見落としてはいけません。

つまりは、すべては自分の心の中に存在しているのであって、

自分の心の中が変われば、この世界が変わっていくのです。

この世界から離れることだってできるのです。

それが。目覚め、というものです。


自分が自分の見ている夢(幻想)に騙されているだけなのです。

それが、この世界なのです。


もし、あなたがそういうものを本気で望むのならば、自分の心と向き合っていくことです。

そこにしか、本当のあなたが探しているものはありませんし、

そこには、あなたが本当に求めていたものが必ずあります。

それは、あなたの本質に関わるものであり、探究するそれだけの価値はあるものです。


求めよ、さらば得られん。叩けよ、さらば開かれん。


心の世界に携わる者として、

心の世界に携わってきた者として、

私は、あなたにそれを云いたいのです。