2017/07/23

自と他の区別を通り越して

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最近の私は、自分の知覚が変容してきているのを感じています。

どんなふうに変わってきているのかと言いますと、

自分と他者とが分離しているという認識がますますなってきているという感じです。


とくに、セッションにおいては、それが顕著に自覚できます。

そこには自分の心と相手の心とが別々に分離したものとしてあるのではなく、

ワンネス(一体性)なる一つの心として知覚して扱っているという感覚に気づきます。


そこには、一つの心しかありません。

そこには、一つの聖霊しかいません。

そこには、一つの自我しかありません。

そこには、あなたの「○○」とか、私の「○○」というものがありません。

そこでは、あなたと私は一つです。


以前はどんなだったかというと、

私の心とあなたの心は別々のものと認識していたところがあり、

(分離したこの世界では誰もみなそれが当たり前の感覚で知覚しています)

そこには、私の内なる声(聖霊)とあなたの内側の声(聖霊)がいる、

という感じでした。


もちろん、自我(エゴ)に対する認識の仕方も同様に、

「私の自我」と「あなたの自我」があって、

それらはそれぞれの内側に別々に個々のものとしてあると思っていました。

だから、セラピストである私は、クライアントであるあなたの内側の自我にアプローチして、

あなたの自我を赦して、あなたを癒しているという感覚でいました。


そう、私の認識では、私の心(内側)とあなたの心(内側)は別のもので、

私の心の方があなた(クライアントさん)の心よりも少しばかり癒しが進んでいて、

それゆえあなたよりも癒されている私(セラピスト)が、

まだまだ癒されていないあなたの心を癒すのだ、、、

というような想いがそこにはあったように思います。


でも、今ではまったくその認識がちがいます。

あなた(クライアントさん)の心が癒されるとき、癒されているのは私の心でもあるのです。

なぜなら、あなたと私は、同じ一つの心だからです。

誰々が癒されていて誰々が癒されていない、ということはありません。

すべての兄弟たちは自分自身であり、

もっと言えば、その自分はまだまだまったくと言っていいほど癒されていないと気づきます。

その自分はもっともっとたくさんの「赦し」、すなわち「癒し」が必要だと気づくのです。


私は、自分自身には癒されていない部分はまだまだたくさんあると感じています。

そう、他者を知覚しているかぎり、分離を知覚しているということであり、

分離を知覚しなくなるまで、まだまだ「赦し、癒し」が必要なのだということです。

そして、これからがその本格的な癒しと赦しのはじまりという気もします。


癒され、赦されていくのは、この自分です。


この自分とは、神の一人子であることを忘れてしまったあなたです。


私は、その神の一人子である自分をもっともっと癒していく必要があると心から感じています。

そしてそれは、兄弟によって、兄弟と共に、なされていくのだと自覚しています。

けっして、一人で癒されることはありません。

あなたが必要なのです。

私には兄弟が必要なのです。

あなたが癒されていくならば、癒されていくのはこの私だからです。


神の子は一人です。

それが、あなたであり私です。


あなた(クライアントさん)が、私の救済者なのです。


2017/07/15

神聖な関係のもとに

ここ最近の私は、

ずっとあるテーマに沿って自分の内側と向き合う作業(ワーク)をしています。

その作業は自分がしているというよりも、それが起きているといった方が正しいです。

というのも、自分に何が起きてるのか?は、はじめは理解できないものであり、

自分の内側と向き合っていくうちに、

次第にある一つのテーマがみえてくる(つながってくる)ものだからです。


そうやって、ここに来てようやく自分でもわかってきたのは、

そのテーマとは、これから出会っていく兄弟との関係性において、

「神聖な関係」へと移行するよう、そのための準備をしているように思えます。


つまり、これまでをいうならば、

私は「特別な関係」で兄弟と関わっていたと言うことができます。


それにちなんで、今、私自身の想いは、

聖霊(ホーリースピリット)との関係性のみが重要になってきおり、

むしろ、それ以外はもう何も要らないと感じているところすらあります。


そんな私は、ますます分離のない知覚へと移行していっている感もあります。


もう、他者がいません。


どこに他者など存在するのでしょう?

自分以外のだれが存在するというのでしょう?


日常の中でそれを実践してきた成果として、

私の知覚は、一なる心だけがあるかのように知覚されつつあります。


それは、ノンデュアリティ(非二元)の実践(心の訓練)をしていくならば、

然るべき知覚だとも言えます。


そのように知覚するようになってきてわかるのが、

これまでの自分は「特別な関係」で、

他者と、この世界と関わっていたことが、よくよく理解できます。


「特別な関係」をコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、
特別な憎悪の関係、特別な愛の関係と二つに分けていますが、
同時にこの二つは全く同じものであると強調します。
そのどちらもが、「特別な関係」であり、エゴの用いる最大の魔術と言うことができます。

それは、以前私が行っていたセッションについてもそうですが、
巷のセラピー全般やスピリチュアリズム全般についても同じことが言えます。
そのすべてが「特別な関係」で成り立っているということです。


「特別な関係」から「神聖な関係」へ。


そこには他者がいません。

そこには世界がありません。

そこには一なる心があるだけです。


この知覚の変容は、

これから私が行うセッションに大きく反映されていくにちがいありません。


もう、あなたと私の間に分離はありえません。

相違も分離もなく、あなたと私は一つです。

一つの心となって、聖霊の導きに従って、

一緒に一なる心の闇(自我)を取り消していく作業(ワーク)をしていくだけです。


神聖な関係の中に奇跡は流れ込んでくる、とコースでは云っています。


神性な関係のもとに行われるセッションは、

形態(見た目)のレベルでは以前とはなんら変わらなくとも、

私にとっては以前とはまったくちがったものになるということです。


それはどのようなものなのか?


どうぞ、この私と一緒に、あなたがその証人になっていただけたらと思います。


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2017/06/20

ACIM/奇跡講座/奇跡のコースと心理セラピー

これまで「赦し」というものをテーマにいくつか記事を書いてきましたが、

それは、ある程度自らの心の癒しをしてきた方には参考にはなっても、

そうではない方にとっては、わかりにくいものなのかもしれないと感じています。


そう、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)でいう赦しの実践ができるようになるには、

癒されていない心の闇の部分を抱えたままの方にとって、

自分一人で「赦しのワーク(実践)」をしていくのはなかなか難しいのではないかと思います。


コースを学ぼうとしてもにあまり気が向かない、

コースを読んでも書いてあることが理解できない、

コースを学ぼうとするとなぜか抵抗が生じる、神に抵抗している自分がいる、

コースでいうところの赦しがよくわからない、赦しの実践がうまくできない、、、など、

コースを学んでてもそのような状態になる方は、

自らの心をもっと癒していくことが必要なのだと思っていいと思います。


いわゆる「赦し」を実践していく以前に、癒しのプロセスが必要だということです。


そういう意味では、やはり

「心理療法(心理セラピー)」の重要性をあらためて感じています。


それは、自我による防衛を明るみにするプロセスにおいて非常に役立つ第一歩となり得えます。

特に、家族や他者への非常に否定的で抑圧された感情に向き合うことに関して

罪悪感や恐れを抱いていて、難しい感情を否認したり、

過去を取り繕ってしまったりする傾向のある人にとっては、とても役立つと言えます。


「あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではなく、ただ自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことだけである。真実を探し出す必要はないが、虚偽を探し出すことは確実に必要である」

ー奇跡講座テキスト第16章よりー


コースの学びをもっと深めていきたい方や、

自分はもっと自らの心を癒していく必要があると感じている方や、

自分の心の闇の部分にメスを入れるのは一人ではなかなか難しいと感じている方は、

心理療法(心理セラピー)の力を借りてでも自分の内側と向き合っていかれることを、

そして自らの心の癒しのプロセスを進めていかれることを、どうぞお薦めします。


参考記事:癒しのプロセスの必要性について


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2017/06/19

癒しのプロセスの必要性について

今回は、癒しのプロセスの必要性について、

ひいては「心理療法(心理セラピー)」の必要性について書いてみたいと思います。



わたしたちは、心のどこかで自分は癒されたいと感じています。

というのも、心のどこかで本当の自分(真の自己)を覚えていて、

その自分に戻りたいという衝動によって、

そこからスピリチュアルの探究の旅がはじまるといえます。


わたしたちは、そのためにこの世界に生れてきたと言っても過言ではありません。


なぜなら、すでに癒されているならば、この世界を必要としないし、

すでに真の自己のままであるならば、この世界にこうして人間として生まれてきてはいません。


そのようにしてはじまったスピリチュアルな探究の旅は、

さまざまなスピリチュアリティの学びを経由しながら、

そのプロセスにおいて少しづつ自らの心を癒していくことになります。

それは時間の世界の中(つまり二元性世界の中)で起きていくことですが、

やがて心が癒されていくと、二元性という時間の世界を超えたスピリチュアリティへと、

真の自己へ向かう道へと、そのスピリチュアルの探求の旅は誘われていくことになります。


その行き着く先が、非二元、一元論のスピリチュアリティであり、

またそれは、スピリチュアルの探究の旅における最終段階だといえます。

そして、そういう位置づけで云うとするならば、

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、そういうものだと云うことができます。


いわゆる、コースは、自らの心の癒しを完了させる最終段階のものだということです。


さて、コースに取り組むにおいては、

「自分の中には、真の自己を求める自分とそれに抵抗する自分(自我)の両方の心がある」

ということを自覚しておくことは大事なことだといえます。

自分の中の癒されていない心の部分は自我と同一化しており、

その癒されていない心によって、真の自己へ向かうことに対する抵抗が起きるということです。

コースを学ぶということは、その自我と向き合っていくことになるので、

自我はあらゆる手を尽くしてそれに抵抗しようとするのです。


そう、コースの学習に気が進まなかったり、途中でくじけたり、

コースから離れてまた戻って来たり、あるいは、コースからまったく離れてしまったり、、、

ということがあるのは、そういうことだと言うことができると思います。


そして、そういうことが起きるということは、

つまりは、心の癒し(のプロセス)をもっと必要としているということです。

そういう場合、癒されていない心の部分にもっと焦点を当てて、

癒しのプロセスを踏んでいく必要があると言うことができます。

そういう意味でも、コースの学びや赦しの実践をしていく上で、

心理セラピー(心理療法)による心の癒しは有益であり、

また、ときには、そういう心理セラピーを必要とする場合もあるということです。


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の第一人者のケネス・ワプニック心理学博士も、

彼の著書の中でこのように述べています。


たとえば、ある人が、子供のときに非常に苛酷な虐待に苦しんだがために、すべての記憶が抑圧されてしまい、そうした記憶にアクセスして訂正するということが不可能になっているとします。そうした場合には、その人が昔の虐待について思い出せるようにする治療的介入が、しばしば非常に助けになります。これが行われなければ、犠牲という想念を「保護する」ことになる恐れの想念に力が与えられてしまい、その力が実際に分離と苦痛という自我の思考体系を維持するために行使され続けます。・・・

ですから、一人ひとりが自らの恐れの想念にアクセスできるようにし、それによりイエスの赦しの眼差しー裁くことのない心眼(ヴィジョン)ーを通して、そうした想念を直視できるようにするような介入が、助けになります。だからこそイエスは「精神療法ーその目的、プロセス、実践」の小冊子をヘレンに口述したのです。精神療法は明らかに自我による分離の夢の中で起こることですが、聖霊により新たな方向性を与えられれば、夢を取り消すという聖霊の神聖な目的のために働くものになります。

ー『赦しのカリキュラム』(ケネス・ワプニック/グロリア・ワプニック著)よりー


私も自分自身のことを振り返ってみて、真理探求のプロセスにおいて、

そのときそのときのスピリチュアリティを経て、

さまざまなセラピーを受けながら自らの心の癒しをしてきたように思います。

ときには、あるセラピーの中で、抑圧してきた感情の解放が起きるとともに、

これまでこれほど泣いたことがあっただろうかと思うほど大号泣したこともありました。

今想えば、そういう経験が私の癒しのプロセスとして必要だったのだと思います。


「赦し」以前に、心を癒していくことも重要なのだと感じています。

心を癒していくプロセスも必要なのだということです。

だからこそ、あらためて「心理療法(心理セラピー)」の重要性を謳う次第なのです。

なぜなら、そういうものを必要としている人がたくさんいると思われるからです。


ですから、自分はもっと自らの心を癒していく必要があると感じている方は、

心理セラピーを利用されることを私からもお薦めします。


心の癒しが進んでいくと、赦し(の実践)がもっと容易くできるようになっていきます。


真の自己への障害が掘り起こされ、取り除かれ、

神の愛の中であなたと出会い、一緒に歓ぶことができることを望んでいます。

みなさまをわが家へと導く神に、感謝します。


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2017/05/30

特別性というものについて

特別性とか、個性とか、

そういったものはほんとうに要らないのだなって思います。


それは、この世界の考え方とはまるで真逆のようにさえ思えます。

むしろ、この世界で生きていくには大事なものじゃないかと。


ただ、コース(ACIM/奇跡講座)の学びにおいては、

特別性や個性といったものは個の存在として自分で自分を騙しているのであり、

その「自分」という仮面(エゴ)を取り消していく作業をしていく必要があると説きます。


特別性と一つであるもの(真理)とは、相反するということです。


私自身、自分の心の中をよくよく観察していると、

自分のしていることは価値があるとか、

自分は特別なことをしているという想いがあることに気づきます。


とくに、癒し、セラピーといった心のことやスピリチュアルなことに関しては、

自分のしていることは他とはちがう、、、

という自負と言いましょうか、そんな想いがあったりするのですが、

その想いはなんの意味もない、ましてや、そんな特別性は要らないと気づくのです。


正直言いまして、

自分のセラピストとしての技能や技量に絶対なる自信を持っていた私にとって、

そのことを受け入れることに多少なりとも抵抗があったことは否めません。

やっぱり、順位をつけて優位に立ちたがる自分がいました。


ちなみに、コース(ACIM/奇跡講座)では、「幻想に順位はない」と述べています。


この世ではあらゆるすべてに序列があるようにみえますが、

それらすべてがどれもこれも同じ幻想でしかないということです。


つまりは、この世界でしていることにおいては、

どれが価値があるとか、価値がないとか、

どっちが優れているとか、劣っているとか、

どれがホンモノだとかニセモノだとか、

どれが正しくてどれが間違っているとか、

そういうことはほんとうはどうでもいいようなことであって、

そのどれもが幻想であることにはなんら変わりはない、ということです。


それは、私がしていることもそうだということであり、

私は、そのことを受け入れるほかありません。


かたちのレベルの世界で言えば、

どんなことをしていようが本当にどうだっていのだと思います。

ゴロゴロ寝て過ごしていようが、

勤勉で尊敬されるような仕事をしていようが、

この世界でしていることはどれもこれも序列はない、ということです。


ただそんな私が言えることは、

特別性、個性というものを手放して無防備になっていくとき、

聖霊にゆだねる、聖霊と共にただある、

というものがもっともっと身近になってきているということです。


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<福岡県うきは市にて>